戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

小栗上野介の処刑の裏事情 2

2005年05月14日 | 管理人の勝手な独り言
小栗上野介忠順の処刑の直後、彼の罪状をつげる高札が建てられた。「小栗上野介 右の者朝廷に対してたてまつり大逆企て候明白につき 天誅をこうむらしめし者なり 東山道鎮撫総督府試使員」

小栗上野介忠順の罪状の高札を建てた東山道総督府の監軍大音龍太郎は閏四月十六日、権田村に来て、名主佐藤勘兵衛を呼び出し、「小栗上野介に対し、総督府の命令による弔意金である。墓を建立して供養せよ」と二十五両を渡す。

先日、新政府を逆らう大逆人として処刑しておきながら、すぐに弔えというのは合点がいかない。
小栗野介夫人道子の妹ハツの息子で義理の甥にあたる法学博士 蜷川新はこのときの東山道総督府の動きを非難している。

「然れども金二十五両を以って、国家功臣父子と良民六名を殺戮せる一大過罪は到底償うべくあらず。総督岩倉、参謀板垣、及び伊地知等はこの弔意金を贈れるのみにては、共にその重大責任は逃れない」手厳しく非難している。

さらに、「後年自由と叫べる板垣と、当時暴虐を好む板垣とは、別人の観あるも奇怪至極也」
と板垣退助までもバッサリと断罪している。蜷川新でなくともまこと奇怪至極である。