戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

板垣退助に嘆願した藤堂藩士  板垣退助こぼれ話

2005年05月02日 | 板垣退助こぼれ話
日光に迫る板垣退助ら迅衝隊は、大鳥圭介らがいると思われる日光東照宮にその砲門を向ける。
板垣退助は、日光の松並木の参道に大砲四門を据え、歩兵・砲兵を散開させる。
このとき、板垣退助は「この緑濃い荘厳な日光を砲火にさらして灰燼に帰するのか」と感傷を覚えたという。
しかし、未だ抵抗し続ける大鳥圭介らをこのまま放ておけない、板垣退助は発砲を命じようとしたそのときに、総督府下参謀・藤堂藩士の吉村長兵衛が
進み出た。吉村長兵衛は板垣退助にたよりすがった、「砲撃はしばらくお待ちください。お願い申し上げます。どうかお待ちください」
驚いた板垣退助はひれ伏した吉村長兵衛の顔を上げて、その嘆願を聞く。
「我らはただ今、朝敵討伐のため、決死の覚悟で賊軍を攻撃しております。しかし、この日光東照宮は我ら藤堂藩の藩祖藤堂高虎が心血
を注いで建築の指揮をとったものです。藤堂藩士として、どうしても撃破するにしのびません」と必死に嘆願する。
吉村の青ざめた顔を見て、板垣退助は「よろしい。貴藩には貴藩の事情もごぞろう。砲撃はしばらく中止致す」
板垣退助は、吉村の肩を叩きにっこり笑ったという。
これで、日光東照宮が荘厳な建築美が今日まで残ることとなる。

慶応四年五月二日 板垣退助日誌

2005年05月02日 | 板垣退助日誌
大軍監谷干城は江戸に着く。


土佐藩の迅衝隊の片岡健吉と佐賀藩の島団右衛門の会談により、それらの兵士たちが下総古河の代官山内源七郎を襲撃する。
襲撃メンバーには佐賀藩島団右衛門率いる土佐藩士たちである。片岡健吉は襲撃には当初反対していたが、山内代官が米雑穀を会津側へ流れている
という探索結果を知らされて、三原兎弥太と日比虎作の二隊を派遣させる。