前回は礼拝を指導する「祭司としての牧師」がテーマだったが、今回は礼拝の中心である説教のために準備する「聖書解釈者としての牧師」である。
説教は聖書をテキストにしてするので、説教するためにはまず聖書解釈が絶対必要になる。本からの引用。「牧師は、教会全体のために聖書テキストに耳を傾け、代々の聖徒たちの歴史を受け継いできた全教会における聖書理解のあかりの下で聖書を解釈する。、、、、現代という文脈の中で聖書を読むことが、私たち牧師にとって、特別な意味をもったチャレンジであることは明らかである。」
キリスト教には2000年の歴史がある。その中で偉大な聖書学者、神学者、牧師や伝道者が出てきた。現代に生きる牧師は彼らの著書から大いに学んで聖書解釈をすることができる。これは本当に幸いなことだ。聖書の言葉は変わらない普遍的なものなので、解釈も基本的には変わらない。ただ、現代の文脈の中(または日本・それぞれの地域社会という文脈の中)で読んで、適用していく必要がある。これはチャレンジである。
「聖書は、断じて原始的で粗雑なコミュニケーションの手段といったものではなく、むしろ言葉を通して変革を生み出す、洗練され機知に富んだ書物である。、、、、聖書の説教者にとって主たるチャレンジは、聖書の話を、この世の一般的な話に「翻訳」するのが、容易ではないという点にある。ジョージ・リンドベックによれば、私たち説教者が聖書を説いて教える時、私たちは現実というものに対する「複雑な書き改めの作業」に携わるのである。その作業とは、私たちが今そこに存在し、肯定し、また受け入れている現実に対して、「聖書を聖書以外のカテゴリーに移し込むのではなく、むしろ聖書的な枠組みの内部における現実」としてそれを位置づける作業であって、「言うなれば、世界がテキストを取り込むのではなく、むしろテキストこそが世界を取り込む」ような作業のことである。私の同僚であるリチャード・リシャーによれば、神学校における説教教育の大半は、説教者がテキストから一歩身を引き、テキストに対して距離を取り、冷静で、客観的で、感情を抑えた姿勢をとるように指導し、まるで聖書が解剖すべき死体でもあるかのように接することを教えているという。リシャーに言わせると、アフリカ系アメリカ人の教会では、牧師はテキストの中に入り込み、テキストと密着し、その中を歩き回り、テキストの中に描かれた何らかの役割を自ら引き受けてみせるという。牧師は、説教において、教会をテキストの中へ歩み入らせ、テキストに密着させ、そして普通私たちが「現実的だ」とみなしているものよりも更に現実的なものとしてテキストが描き出す現実の世界へ人々を導くのである。、、、、ジャン・カルヴァンは、聖書を読むことを眼鏡をかけることになぞらえた。すなわち、聖書はそれなしには見い出せなかったはずのものを、私たちに見えるようにしてくれるのである。」
聖書の世界と現代の世界には2000年以上の年月がある、またイスラエルと日本という文化の違いがあるのは事実である。聖書解釈を通してまず正しく聖書そのものを解釈し、その後で年月と文化の距離を埋めて縮め、最後に説教を通して聖書を解き明かしつつ21世紀の日本に生きる自分たちと教会に適用し現実的なものにしていく。これが聖書解釈者・説教者としての牧師の仕事である。
「牧師に課せられた聖書解釈という義務は、牧師にとって、大胆な牧会を行なう上での源泉となる。日々の聖書朗読とその解釈を通して、牧師が第一義的に自らを、「会衆に仕える存在」としてではなく、「御言葉に仕える者」として自覚するように強いられることが、真の意味での牧会的な自由を牧師に与えることになる。」