牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

2月23日(土) 「牧師 その神学と実践③」 ウィリアム・ウィリモン著

2013-02-23 07:39:52 | 日記

 前回は礼拝を指導する「祭司としての牧師」がテーマだったが、今回は礼拝の中心である説教のために準備する「聖書解釈者としての牧師」である。

 説教は聖書をテキストにしてするので、説教するためにはまず聖書解釈が絶対必要になる。本からの引用。「牧師は、教会全体のために聖書テキストに耳を傾け、代々の聖徒たちの歴史を受け継いできた全教会における聖書理解のあかりの下で聖書を解釈する。、、、、現代という文脈の中で聖書を読むことが、私たち牧師にとって、特別な意味をもったチャレンジであることは明らかである。」

 キリスト教には2000年の歴史がある。その中で偉大な聖書学者、神学者、牧師や伝道者が出てきた。現代に生きる牧師は彼らの著書から大いに学んで聖書解釈をすることができる。これは本当に幸いなことだ。聖書の言葉は変わらない普遍的なものなので、解釈も基本的には変わらない。ただ、現代の文脈の中(または日本・それぞれの地域社会という文脈の中)で読んで、適用していく必要がある。これはチャレンジである。


 「聖書は、断じて原始的で粗雑なコミュニケーションの手段といったものではなく、むしろ言葉を通して変革を生み出す、洗練され機知に富んだ書物である。、、、、聖書の説教者にとって主たるチャレンジは、聖書の話を、この世の一般的な話に「翻訳」するのが、容易ではないという点にある。ジョージ・リンドベックによれば、私たち説教者が聖書を説いて教える時、私たちは現実というものに対する「複雑な書き改めの作業」に携わるのである。その作業とは、私たちが今そこに存在し、肯定し、また受け入れている現実に対して、「聖書を聖書以外のカテゴリーに移し込むのではなく、むしろ聖書的な枠組みの内部における現実」としてそれを位置づける作業であって、「言うなれば、世界がテキストを取り込むのではなく、むしろテキストこそが世界を取り込む」ような作業のことである。私の同僚であるリチャード・リシャーによれば、神学校における説教教育の大半は、説教者がテキストから一歩身を引き、テキストに対して距離を取り、冷静で、客観的で、感情を抑えた姿勢をとるように指導し、まるで聖書が解剖すべき死体でもあるかのように接することを教えているという。リシャーに言わせると、アフリカ系アメリカ人の教会では、牧師はテキストの中に入り込み、テキストと密着し、その中を歩き回り、テキストの中に描かれた何らかの役割を自ら引き受けてみせるという。牧師は、説教において、教会をテキストの中へ歩み入らせ、テキストに密着させ、そして普通私たちが「現実的だ」とみなしているものよりも更に現実的なものとしてテキストが描き出す現実の世界へ人々を導くのである。、、、、ジャン・カルヴァンは、聖書を読むことを眼鏡をかけることになぞらえた。すなわち、聖書はそれなしには見い出せなかったはずのものを、私たちに見えるようにしてくれるのである。」

 聖書の世界と現代の世界には2000年以上の年月がある、またイスラエルと日本という文化の違いがあるのは事実である。聖書解釈を通してまず正しく聖書そのものを解釈し、その後で年月と文化の距離を埋めて縮め、最後に説教を通して聖書を解き明かしつつ21世紀の日本に生きる自分たちと教会に適用し現実的なものにしていく。これが聖書解釈者・説教者としての牧師の仕事である。

 「牧師に課せられた聖書解釈という義務は、牧師にとって、大胆な牧会を行なう上での源泉となる。日々の聖書朗読とその解釈を通して、牧師が第一義的に自らを、「会衆に仕える存在」としてではなく、「御言葉に仕える者」として自覚するように強いられることが、真の意味での牧会的な自由を牧師に与えることになる。」

2月22日(金) 「三国志 一 桃園の巻」 吉川英治著  新潮文庫

2013-02-22 08:19:30 | 日記
 
 昨年12月に横山光輝氏が書いた漫画『三国志』(全60巻)を図書館で見つけて、年末年始で一気に読んだ。読んだのは高校生の時以来であった。横山氏は吉川英治氏の「三国志」に強く影響を受けたようだ。2月はじめに新刊として文庫版(1、2巻。3巻以降はこれから)が出版されたのを知って、買ってきて読んだ。漫画以上に楽しく読めている。これが作家の力だと思う。もちろん三国志という原本が素晴らしいということはあると思うが。

 さて「三国志」が扱っている時代は、後漢末頃(西暦168年頃からの288年頃までの治乱の120年間)。場所は中国である。一巻「桃園の巻」は、貧しいが高貴な血を引く劉備が、虐げられている人々を救い出すという共通の大志を持っている張飛&関羽と出会い、桃園で義兄弟の契を結び、理想を実行へと移し、立ち上がっていく姿が描かれている。

 この三人の元に兵が集まってくる。軍規を作って兵を統率し、お金の管理という意味で経営が必要であることに彼らは気づく。。三人は戦いがうまくいかなくなると、良く話し合って作戦を立て直す。リーダーである劉備の心の迷いも描かれている。戦いで良い働きをしても、正式な官軍ではなく義勇軍ということで冷たく扱われる。役人たちの堕落ぶりも描かれている。劉備と関羽は我慢するのだが、張飛は我慢できず堕落した輩を打ち叩く。今の日本も残念ながらそうである。良い役人もいると思うが、大半は国民のことを考えず、自分の利益しか考えていないのではないか。日本にも本当に国と国民のことを考えたリーダーが必要である。

 「三国志」には友情(人間関係)があり、リーダーシップがあり、経営がある。壮大な物語を通して、楽しみつつ、多くのことを学ぶことができる。やはり古典はスゴイ。二月に入って数冊日本の現代小説を読んだが、「三国志」とはスケールと内容が違う。日本の現代小説には読みやすくとっつきやすいという利点はあるのだが。

 読んだのは、誉田哲也著の警察小説「ブルーマーダー」、首藤瓜於著の推理小説「脳男」、湊かなえ著の家族サスペンス小説「夜行観覧車」、有川浩著の小説「海の底」。「ブルーマーダー」と「脳男」は楽しむことができなかった。夜行観覧車は普通かな。「告白」と「贖罪」の方が物語の内容に迫力があったような気がする。有川氏は以前に読んだ「塩の街」が面白かったので「海の底」を読んだ。この本は、巨大化したエビの大群が横須賀を襲撃するという面白い設定。それに対応する警察や自衛隊が描かれ、特に潜水艦の中に取り残された若者たちの人間模様が描かれている。この四冊の中では「海の底」が一番楽しむことができた。

 
 さて「三国志」だが一巻の最後で解説者が、著者の吉川氏は「篇外余録」にこのように書いている、と次の文章を紹介している。「劇的には、劉備、張飛、関羽の桃園義盟を以て、三国志の序幕は開かれたものと見られるが、真の三国志的意義と興味とは、何と言っても、曹操の出現からであり、曹操がその、主動的役割を持っている。しかしこの曹操の全盛期を分水嶺として、ひとたび紙中に孔明の姿が現れると、彼の存在もたちまちにして、その主役的王座を、ふいに襄陽郊外から出て来たこの布衣の一青年に譲らざるを得なくなっている。一口に言えば、三国志は曹操に始まって孔明に終わる二大英傑の成敗争奪の跡を叙したものというのもさしつかえない。」
 

 この文章を参考にして二巻以降を読んでいきたい。漫画を読んでいるので大まかな内容はわかっているのだが、楽しみだ。

2月21日(木) 「牧師 その神学と実践②」 ウィリアム・ウィリモン著

2013-02-21 08:35:25 | 日記

 最初は「祭司としての牧師」の項目である。すなわち礼拝の指導である。教会にとっての生命線はやはり何と言っても毎週日曜日の礼拝である。著者は教会の主日礼拝について描写された教会最初期(紀元90年頃)の『殉教者ユスティノスの第一弁明』を取り上げ、ここに見られる教会の主日礼拝における基本的パターンとして8点をあげている。

 1.教会が集まる   教会は「エクレシア」すなわち「この世から呼び出された者たち」の集まりである。
 2.教会は(書き記されたもの、すなわち教会を呼び出し、形作り、批判する聖書に出会うことによって想起する
 3.教会はまず最初に聞き、その後に語った   聖書は、礼拝のある時点において、司式者によって読み上げられ、現在化され、状況に適応され、解説される。そのようにして、教会は読むことから語ることへ、聞くことから解釈することへと進んでいく。
 4.教会は祈る   教会はキリストと世界のために神にとりなしの祈りを捧げる。教会が聖書と説教から聞くことのすべては、教会は祈りによって神に向かって応答的に語る方向へと向かわせる。
 5.教会は献げる
 6.教会は感謝する
 7.教会は神の賜物を(人々に)配る = 聖餐式
 8.教会はこの世へと散らされていく

 
 本からの引用。「ユスティノスの礼拝のパターンは、牧師の祭司的な奉仕のわざについてどのようなことを告げているのだろう。」 著者は礼拝の8パターンと呼応する形で牧師の働きを書いている。
 1.牧師とは、キリストの名において、人々を外部の社会的なしがらみからこの特定のグループの構成員として呼び出し、会衆を集めることによって、教会を導く存在である。
 2.教会とは、聖書が詳しく語るように、イエス・キリストにおける神の物語の周囲に集められた共同体である。牧師は、一週間ごとにその物語を教会に提示し、洗礼によってその人生をこの物語に結びつけるように招かれた人々に対して「聖書を説き明かす」ために、最も中心的な責任を担っている。
 3.聖書は説明され、宣べ伝えられ、解釈される。御言葉の周りに集い、御言葉に聞くことは、すべてに先行する出来事であり、それは教会のその他の奉仕の働きを準備する行為となる。
 4.教会の働きと礼拝のすべては、読み上げられ、聞かれ、宣べ伝えられる御言葉に対する応答とみなすことができる。祈りは、教会が神に対して行なう語りかけであり、会衆に対する語りかけではない。
 5.奉献において教会がその贈り物(献金など)を神に献げる時、教会は、教会の祈りを特徴づけるものとほとんど同じ行為に関わることになる。
 6.教会は、感謝の祈りの中で、神の力あるわざを回顧することによって、神を想起する。
 7.教会はイエスの名による食事を共にする。
 8.教会は共に集い、読み上げられる御言葉を聞き、自らと世界のために神に祈りを捧げ、そしてイエスと共なる食事を分かち合うことによって強められた後、今やこの世へと散らされていく。

 本からの引用。「教会が集い、聞き、祈り、養われるのは、その場に永遠に留まり続けるためではない。イエスは私たちに対して、「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイの福音書28章19節)と命じられた。疑いもなく、「使徒の働き」はそのほとんどの場面で「教会が集まること」よりも「教会が散らされること」により大きな関心を寄せている。、、、、牧師は教会を養い育て、それによって教会は会衆の限界を克服し、教会は言葉と行動によって神の御言葉をこの世に告げる。牧師の祭司的な働きとは、牧師の第一義的な義務が会衆に対するものであり、会衆をこの世における奉仕のために働く聖徒として整えることであるという事実を示すものであるが、牧師はただその領域でのみ働けば良いというわけではない。牧師もまたすべてのキリスト者と同様、証言する者、伝道者、宣教者、そして使徒としてこの世にあって働き、この世界を神の定められた創造の原点へと立ち返らせるために、喜びつつ働くのである。もちろん教会とこの世界が二つに分割されるようなことがあってはならない。、、、、、牧師の祭司的な働きとは、教会が全世界に出て行って実践する宣教の働きの必然的なリハーサルのことである。」

 教会にとって礼拝は非常に重要である。しかし、礼拝はゴールでない。伝道と宣教がゴールである。礼拝がない伝道と宣教であるなら、燃え尽きるか、行く方向を間違えるであろう。伝道と宣教のない礼拝であるなら自己満足で終わるであろう。礼拝と伝道は教会の二つの柱である。牧師の中心的な働きの一つが、神に礼拝を捧げる祭司としての役割である。

2月20日(水) 「牧師 その神学と実践」 ウィリアム・ウィリモン著  新教出版社

2013-02-20 08:03:04 | 日記

 著者は長年の牧会と神学校教育の経験から本書を書いている。まず序文でこのように述べている。

 「牧師という職務は神が教会に与えられた賜物である。、、、、私たちはまず牧師のなすべき事柄を理解する手がかりとして、牧師とは何者なのかを探求することから始めたい。、、、、どの世代においても、教会は「牧師は何のために存在するか」を問わねばならない。過去における牧師という職務のアイデンティティの危機を考察した文章において、リチャード・ニーバーは以下のように記している。『キリスト教史の中のいかなる時期であれ、牧師職に関する一定の知的な概念が存在していた時代には、常にその職務について少なくとも以下の四点が、それぞれに省察され認識されていた。すなわち、その職務の第一義的な課題とそのすべての機能の第一義的な目的は何か。牧師職への召命とはどのようなものか、牧師の権威の源泉は何か、そして牧師は誰のために奉仕するのかという四点である。』 本書はニーバーのこうした基準のそれぞれを取り上げ、それに応答しようとするものである。、、、私たちは牧師という職務に関する省察を、「使徒の働き」(聖書)との関わりのもとで進めていきたいと思う。」

 著者は最初に、キリスト者の牧師職の探求にあたって拠り所となる諸前提として四点あげている。

 1.牧師という職務は神のわざである   牧師職とは、一つの人間の家族を形作り、それを永遠なるものに達するまで養い育てようとする神の決意の一側面である。
 2.牧師という職務は教会のわざである  牧師職は「上から」の形で、すなわち聖霊を通して私たちを呼び出す神の行為という形で生じる。それにも関わらず、マッテヤの選出(使徒の働き1章)という物語は、この職務がまた「下から」の形においても、すなわち教会を通して働く神の召命としても生じることをはっきりと示している。ジャン・カルヴァンが述べたように、召命を行われるは神ご自身であるが、しかし教会もまたキリストの名によるリーダーシップの存在を要求するのだ。
 3.牧師であることは、独自の方法で、教会に、すなわちキリストにある信仰共同体に、結びつくことである   召命は聖職者にとって第一義的な問題であるとはいえ、聖職者にはまた専門的知識も要求される。
 4.牧師という職務は困難なわざである  牧師という職務は、広い範囲に及ぶ様々の高度な技術を要求する。 


 そして(牧師の)任職について教会教父のヒッポリュトスの『使徒伝承』を取り上げて、8点あげている。
 1.任職はキリストと教会の行為である    神は私たちに(イエス・キリストの)福音を与え、次に教会を与え、更にその次に教会のリーダーを与えてくださる。こうした論理的順序は重要である。なぜなら牧師とは、教会が福音の与え手である神によりよく奉仕できるようにするために、教会に奉仕する存在だからである。
 2.任職はキリストと教会に対する奉仕のために行われる   牧師の果たすべき目的とは、「聖徒たちを整えること」、すなわち全教会を養い育てることであり、それによって教会全体が「奉仕の働き」を担うことができるようにすることである(エペソ人への手紙4:11、12)。
 3.任職は恵みに満ちた聖霊の賜物として「上から」生じる
 4.任職はリーダーシップに対する教会の必要とそれを形成する知恵により「下から」生じる   すべての任職の儀式は、こうした聖職者の二重の召命を明示するために、様々な努力を重ねてきた。神が召命する。そして教会はその召命を承認し、審査し、保証する。
 5.任職は祭司たちのための祭司として奉仕する人間を形成する   プロテスタントの宗教改革では、洗礼を受けたすべての人々を、キリストの祭司職へ立ち返らせることが求められた(ルターの万人祭司性)。
 6.任職とは、会衆の模範として奉仕する人々を選び出し、すべてのことを誤りなきものとすることである   牧師には、その最初の日から、模範的なキリスト者であることが期待されている。
 7.任職は「集団的性格」に関わるわざである
 8.任職は按手と祈りを通して有効となる


2月19日(火) 「マネジメント 基本と原則④」 ピーター・ドラッカー著

2013-02-19 09:14:07 | 日記

 本書のパート1は「マネジメントの使命」で、パート2は「マネジメントの方法」であった。パート3は「マネジメントの戦略」である。

 著者はまずトップマネジメントについて書いている。トップマネジメントの役割は多元的であるとして、以下の6点をあげている。
 1.トップマネジメントには、事業の目的を考えるという役割がある。すなわち、「我々の事業は何か。何であるべきか」を考えなければならない。この役割から、目標の設定、戦略計画の作成、明日のための意思決定という役割が派生する。
 2.基準を設定する役割、すなわち組織全体の規範を定める役割がある。
 3.組織を作り上げ、それを維持する役割がある。
 4.トップの座にある者だけの仕事として渉外の役割がある。
 5.行事や夕食会への出席など数知れない儀礼的な役割がある。
 6.重大な聞きに際しては、自ら出動するという役割、著しく悪化した問題に取り組むという役割がある。

 本からの引用。「トップマネジメントに課される役割は、各種の能力、更には各種の性格を必要とする。少なくとも四種類の性格が必要である。「考える人」「行動する人」「人間的な人」「表に立つ人」である。」


 次にトップマネジメントの構造について書いている。本からの引用。「トップマネジメントとは、一人ではなくチームによる仕事である。トップマネジメントの役割が要求する様々な体質を一人で合わせ持つことは不可能である。しかも、一人でこなしきれない量の仕事がある。健全な企業では、組織図における肩書きに如何に関わらず、トップマネジメントの役割はほとんど常にチームで遂行している。」

 「トップマネジメントの組織構造もまた、仕事の分析からスタートしなければならない。しかる後に、それらの仕事を特定の人間に割り当てなければならない。その者が直接かつ全面的に責任を負わなければならない。」

 
 教会にもマネジメントは必要である。教会が存在する目的は何か。「神を愛し自分を愛するように隣人を愛することであり、全世界に出ていき福音を伝えることである。」 目的ははっきりとしている。トップマネジメントして私が実際にしていく課題は、目標の設定であり、戦略計画の作成であり、明日のための意思決定であり、チームを作り上げることであり、組織を作り上げることであり、組織全体の規範を定めることである。神を愛するとは礼拝である。毎週の礼拝をどのように捧げていくか。隣人を愛するとは、家族と神の家族である教会に集ってくる人々を愛することであり、愛の共同体を建て上げることである。また地域社会に気を配ることである。機能する組織としてどのようなルールを定めるか。どのように地域社会と接点を作っていくか。全世界に福音を伝えるとは、自分たちの地域を越えた人々にも働きかけていくことである。目の前にいる人たちと遠くにいる人たちの両方を覚えることである。どのような方法で福音を伝えていくか。
 そしてそのことに献身した人たちをチームとしてまとめ、更に良い働きができるように教え訓練することである。今するべきことは、コアのメンバーを一つのチームとすることである、と思う。すなわち共に祈り、話し合うことを通して、ビジョンを共有し、どのようにしたら目的を達成し効果的な良い働きができるかを一緒に考える時であると思う。そのためには著者が言うように更に自分が「考える人」にならなければならないだろう。


 著者は最後に組織構造について述べている。組織が守るべき5つの原則は以下の通りである。
 1.組織は透明でなければならない。誰もが組織の構造を知り、理解できなければならない。
 2.組織には最終的な意思決定者がいなければならない。
 3.権限には責任が伴わなければならない。
 4.誰にとっても上司は一人でなければならない。
 5.階層の数は少なくしなければならない。情報理論が教えるように、情報の中継点は雑音を倍加しメッセージを半減させる。従って、組織構造は可能な限りフラットにしなければならない。

 最後にこのように書いている。「今日の社会、経済、コミュニティの中心は、技術でも、情報でも、生産性でもないということである。それは、成果をあげるための社会的機関としての組織である。この組織に成果をあげさせるための道具、機能、機関がマネジメントである。」

ドラッカーはこの本で、「成果を上げよ」と教えてくれている。現代社会は、組織社会であり、知識社会である。知識を自分が属する組織に流し、その組織を通して結果を出すことが大切である。そのためのマネジメントであり、トップマネジメント(リーダーシップ)である。