牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

1月22日(水) 「権威なき者のごとく ②」 フレッド・クラドック著

2014-01-22 09:43:17 | 日記

 本書の後半部分からの引用。「もしも説教者が準備していれば、その準備の跡がはっきりと現れる場所のひとつは、メッセージに統一がもたらされるという点である。」

 これは簡単なようで難しい。はじめから主題説教にすればある程度簡単であるといえるかもしれないが、聖書のある箇所からの講解説教であるならば容易ではない。そこには多くのもの(テーマ)が含まれているから。その一つの主題と会衆の関心を結びつけることが大切である。また説教者がその主題から導き出した結論を会衆が自分でもその結論に導かれる必要がある。その結論が説教者と全く同じである必要はないと思うが、といってもある程度は同じである必要はある。なぜなら聖書の言葉がその箇所で伝えたいメッセージは基本的に一つであると信じるからだ。そこに共に至るように会衆と共に歩む説教が現代には求められている、というのが著者の主張だと思う。

 ただ前回も書いたが、そこに危険性があるのも事実だと感じる。これは文学の世界でも同じことがいえると思う。昔は著者が伝えたいことを読者が読み取ることが読書の目的だったのではないだろうか。しかし現代は著者が伝えたいことがあるとしても、読者が自由にその本から好きなことを読み取ることが許されているのではないだろうか。特に文学の場合は読者が不特定多数なので、その分大変であるといえるのかしれない。おそらく現代の小説家は出版した段階で読者に完全に判断(本の解釈)をゆだねているのではないだろうか。


 「それゆえ、終点から始めるとよい。紙の一番下には、結論の文章が記されることになるだろう。そこでこう問うのである。どのような道筋を通って、私たちはこの場所にたどり着くべきだろうか。、、、説教の悲劇、あまりにも多く陥ってしまう悲劇は、牧師がある事柄についての結論を得ると、その結論を告げ、勧め、説明し、繰り返すことにあるのである。会衆にその機会を与えるなら、会衆はその結論に自分で到達し、それを自分たちのものとするようになるはずである。そして、それこそが実りをもたらすのである。」

 著者はそのための参考として短編を読むことを勧めている。説教には文学的な要素が必要であるということだろう。私も基本的に賛成である。文学などから言葉について学び、伝え方について説教者は大いに学ぶべきだと思う。そのような意味で本書を通して学べたことは良かった。

 しかし、本書だけを読むと、説教というものが人間の行為である、という印象を持ってしまう。説教の本で聖霊についての言及がない本を私は個人的にあまり信用できない。聖霊の働きよりも人間の技巧や技術に重きをおくようになってしまうのではないだろうか。結局、そのような説教論は人間的であり、説教の一番重要な要素を見落としてしまっているからである。そのような説教は人間の頭(理性)に届くかもしれないが、人間の心(霊性)に届かないだろう。聖書の言葉は、霊感された神の言葉である。だから説教を語る時に、聖霊の働きは不可欠である。だが私は聖霊だけを強調して聖書や神学の学びを軽んじる傾向に対しては反対している。素晴らしい説教とは、いつでも聖書と聖霊のバランスが取れているものだと私は確信している。