牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

1月19日(日) 「説教」 フレッド・クラドック著  教文館

2014-01-19 07:40:07 | 日記

 本書の副題は、「いかに備え、どう語るか」である。すなわち説教の準備の仕方と説教の語り方の本だ。著者は現代アメリカを代表する説教学者・新約学者である。著者がはじめにで、教科書として用いられることを目指したと書いている。

 本の構成としては、第一部が概観、第二部が語るべきものを手に入れる(いかに備えに該当する部分)、第三部がメッセージを説教の形にする(どう語るかに該当する部分)となっている。著者は副題のつけ方を見ても明らかなように、語るべきメッセージを獲得するために学び備えることと、そのメッセージを説教として形作ることとは別の作業であることを主張している。

 第一部の概観の中で一番印象に残ったのは、神学と説教の関係について述べている部分だった。神学は説教に対し、つまらないことを捨てて重要な主題を扱うように促す、と著者は書いている。何が重要であるかを知るためには神学の学びが不可欠になってくる。結局のところ(健全な)神学がないと、自分勝手に(聖書の)重要な部分を決めてしまうということになり、結果として正しい聖書解釈と説教にならなくなってしまうだろう。

 

 第二部では、説教の準備について述べられるが、まず学びの生活について書かれている。この学びというのは、毎週の説教のための学びではなく、生涯学習の学びである。本からの引用。「学びに費やされる時間は、決して日々の務めから逃げ出すことではなく、むしろ日々の務めに入っていくことである。学びの時間は、牧師であるその人と、彼が言葉と行為によって人々に与える影響に、直接直ちに関わる。牧師の人格の形成、また信仰の形成は、その多くが学びの中においてなされるのである。、、、、勉強というものを真正面から見て、それが何であるかを言って見よう。勉強とは仕事である。しばしばきつい仕事である。そして問題の解決や、教会員からの相談事、次の日曜日の説教というようなことのためには、今すぐ役に立つものではない。勉強の動機は、深いところにある泉によって養われなければならない。何故なら、わたしたちがしなければならないことが、したいことに姿を変えることはないからである。」

 学びが仕事であり、それもきつい仕事であるというのは、その通りだと思う。難しい神学書、特に古典の場合は、全神経を集中させなければ理解できない、全神経を集中させても理解できない場合がしばしばある。

 著者は学びについて他にもいろいろな提言をしている。傑出した質の高い神学の本を読むこと(二十年に一冊の本)、偉大な文学作品を読むことなど。

 このように語り手(説教者)について書いたあと、聞き手を解釈すること、テキスト(聖書)を解釈すること、テキストと聞き手の間を解釈すること、すなわち聖書解釈(釈義)が続く。第一部の概観でも述べていたが、聖書解釈をする上で著者はテキスト(聖書)を主題別に解釈する道が一番良いと書いている。また神学的に解釈すると共に牧会的に解釈することの大切さも強調している。

 ここまでで特に神学を学び続けることの大切さを学んだが、肝心の毎週の説教の準備についてはあまり多くを学ぶことはできなかった、というのが正直な感想である。著者が自分で書いているように教科書的な叙述であることを期待していたが、著者はもっと根源的な部分について書いていると思う。これはこれで良いと思うが、想像していた本と違った。本書は説教についての具体的な本というよりも本質的な本であるといえる。