牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

1月20日(月) 「説教 ②」 フレッド・クラドック著

2014-01-20 07:29:56 | 日記

 昨日の続きで、第三部からの引用。「わたしたちはすでに、解釈という作業が説教するという目的に対してなしうる貢献は、単純かつ確信に満ちた言葉でメッセージを語りうるようになるということであるという結論に達している。それができるということは、その学びが適切であったという明確な証拠であり、今度は説教そのものに向かう段階に進むことが許されるということである。そのような単純かつ確信に満ちた言葉が、説教の主題であり、語るべき内容であり、説教全体を貫く基本的な考えなのである。」

 著者は一つの主題によって説教を統一していくことの大切さを書いている。そしてこのようにも述べている。「あることを言う、ということは、その他のことを言わない、と決めることである。それはすなわち、次の日曜日に、たくさんのすばらしいキリスト教的なことが語られないまま終わる、という結果を受け入れることである。」

 一番ダメな説教は、多くのテーマを入れすぎて焦点が定まらず、ダラダラと語る説教である。でも説教者は気を付けないと、いろいろなことを会衆に伝えたいと思って、余計なことを説教の中に入れてしまいやすいものである。


 そしてテーマは説教を形にすることに移っていく。本からの引用。「すべての作業の最終目標は説教を書くことだ、と考えるとしたら、それは間違いだろう。そうではないのである。目標は説教することである。書くことはそれに仕えるもののひとつである。その目標に対して、それ以上のものでもなく、それ以下のものでもない。、、、、この過程の中でなされるすべての書くことは、たとい完全原稿に仕上げるまでそれを続ける道を選んだとしても、語ることに仕える、ということに向かってなされることであり、その中でなされることである。最終的に得られるものは、日曜日の説教の原稿を手に入れようと心を砕いて得られるものとは、驚くほど違っている。」

 この指摘は大事だと思う。海外の説教者は基本的に話すのが上手である(もちろんそうでない人もいるが)。逆に日本の説教者は話すのがあまり上手ではない。その理由のひとつは、著者が指摘している通りで、説教の準備のゴールを原稿を書くことにしてしまっているせいであろう。原稿を書くことに熱心になりすぎて、語ることそのものがおろそかになる。特に説教原稿を会衆に配る説教者はそうである。説教とは語ることであり、書くことではない。説教とは読むものではなく、聴くものである。これが私の考えである。私も説教原稿を書くが、説教原稿を書くことと説教を語ることを全く別の作業と考えている。


 著者は「説教を語る」という最後の項目でこのように書いている。「説教者は説教壇に立つ時に、その時経験することについての、いくつかの基本的な確信によって強められて、そこに立つのである。そのうちの第一のものであって同時に最も重要なものは、自分のメッセージは聞き手を変える力を持っているという確信である。」

 これが説教の核心であろう。すなわち説教者が語るべきものを本当に持っているかどうかである。ただ日曜日ごとに説教することが教会と会衆に期待されているから語るのだとしたら、その説教者が語るべき説教を持っているかどうかは疑問である。そこが聖書講演と説教の一番の違いである。ある意味聖書講演は楽である。ただ聖書について説明すればよいだけであるから。説教はそうはいかない。その場、その時、その会衆に神が語りたいメッセージを説教者がキャッチし、会衆に語らなければならない。これには祈りが必要になる。また聖霊の働きが不可欠である。そしてそのために間違ったことを語り説明しないために聖書の学びが大事になってくる。本当の説教を語ろうと思うと、説教の準備にはものすごい時間がかかることになる。また相当のエネルギーが必要になってくる。

 私は牧師の仕事は多くあるが、説教が牧師の一番の仕事であると考えている。だから牧師は説教にいのちをかけなければならない。これが私の信念である。そのために説教について学ぶのである。残念ながら日本では「聖書」を学び説教をする牧師は多いが、「説教」について本気で学んでいる牧師はそれほど多くはないのではないだろうか。この点を指摘しているのが著者である。だから著者は副題に「いかに備え、どう語るか」とつけ、聖書の学びと説教を語ることを 「、」をつけて明確に分けている。すなわち、聖書を学ぶ段階では説教の半分が終わったに過ぎないのである。