ひみつの独り言

kimura君おっかけおばさんの本音

映画の続き、というか、補足

2009-06-10 10:31:34 | Weblog
あの連続殺人犯はイエスの受難における実際の肉の痛みを感じ、味わい、表現しようとして殺人を重ね、自らそれを体験することで自分のアートを完成させようとした。
そのためには誰か自分に手を下す人間が必要で、それにクラインが一番理解できる人間と選ばれたんだと思う。
シタオは他人の痛みを自らに引き受けて人々を癒す特別な能力をもっている人間として描かれているが、板に磔にされた映像でもわかるようにキリストを表していることは明らか。
手に楔を打ち込まれるときの言葉は正に、イエスが磔にあった場面を想起させます。が、言葉がちょっと、違うと思うのですよ。
FATHERと呼びかけるところは同じ。
これはFATHER IN HEAVENしかないと思うけれど、実際の父に向って
言った言葉と深読みすることもできないことはない。
彼は、世界的な資本家であり、世界を牛耳っている。
それに対してシタオは無一文で、その犠牲者とも言うべき虐げられた人々に
肉体をもって奉仕している。
救済に身を捧げている。
彼が父に呼びかけるとしたら、自分が対比的に彼のコンペンセーションである姿を
表したいと思ったのかもしれない。
ま、普通は父なる神でいいと思うのだけど・・。
その後、ス・ドンポを許すと言ったのですよね?
そこがちょっと引っ掛かりました。
イエスは父なる神に向って、彼らをお許しくださいと言ったと思うのですが・・。
イエス自ら許す?
神、イエス(神の子)、聖霊は三位一体と言われるけれど、あの時点では
イエスはまだ人間だった。
彼は人類の罪をあがなうために神から選ばれた人。
その人間が自分が許すなどという言葉を使ったかな?
でも、人間だったから、そういう言葉を発したのかもしれない。
生身の人間として、自分の弱さと闘っていた。
実際、怖いともいい、痛みを吐露したし。
痛みも恐怖もすべて現実のものだったのだということ。
その苦しみを監督は訴えたかったんだと思います。
イエス、シタオの苦しみは生半可なものじゃない。
例の殺人鬼の言わんとすることは、監督自身が言わんとすること。
彼は殺人という手段に訴えたが、監督は映画という手段を取った。
今、正に文明社会に安住する人々は、原始的な肉の痛みを忘れている。
すべてがボタンひとつで行われ、現実の痛みを感じないで過ごしている。
でも、実際、戦争や飢餓の現場では、傷つき苦しんでいる人たちが存在している。
しかも、どんどん拡大し、文明社会をも脅かしている。
その人たちの苦しみ、そして、イエスがその苦しみを通して我々人類を
救ってくれたことをもう一度、思い起こし、ひしと感じる(同化する)ことによって、現実に目覚め、悔い改めるときが来ているのではないかを監督は訴えているように思います。
本当に、この映画はバベルと同じスタッフが参加しているそうですが、
どちらの映画も訴えることは同じですね。
今、私たちが置かれている世界の現実。
神の怒りを買ってもおかしくない状況ですよね。
ひとりひとりが自分を反省して、より良い世界を作り上げるために一歩を踏み出さなければならないのかもしれません。
ただ、座して救いの神を求めるだけじゃ、??
シタオは神になれるのでしょうか?

それにしても、苦痛に訴えることでしかひとは動かないのでしょうか?
十字架に架けられたイエスをシンポルにするキリスト教らしいですよね。
痛みを忘れない。
痛みを記念して、痛みを悔い改めのバネにする。
日本人には理解できないところがありますね~。
十字架の意味などあまり気にしないかもしれないけれど。