風箱の徒然ブログ

旅の思い出話から、木工、日常の徒然を気ままに

出発

2008-12-14 10:56:00 | 1996~97原付日本一周沖縄編
1997年5月15日

5ヶ月振りである。
長かった八重山での生活。
AUさんと逢わせてくれた波照間島。
僕に生きる事の楽しさを教えてくれたジュンさんや西表の加藤さんなどの個性あふれる人達。

色んな思い出を作ってくれた八重山の島々に感謝。

朝の5:30頃目覚めた。
米原キャンプ場ともお別れだ。

僕は人や土地から別れる時には、なるべく
「さようなら」
は使いたくないと思っている。
「それじゃ、またね。」
の方が、好きだから。

しかし、今日は「さようなら」という言葉が頭に響いていた。

さようなら、って言うのは、僕の中では、もうここには二度と来ない、その人とは二度と会わない、という決別的な意味を持っている。

本当はそんなに重い意味の言葉ではないのかもしれないが・・・

自分はいつの間にか、この言葉にそういう意味を与えていた。

ではなぜ、今、自分の頭の中で「さようなら」と響いているのか?
滞在期間が長かったから?
過去の消極的過ぎた自分に対して?


さて、パッキングは昨夜すでに終えていたから、6:15頃出発する事にした。
辺りはまだ薄暗い。
皆がまだ眠っているキャンプ場の中で、エンジンをかける。
7号棟に行き、テントの外からZ君にあいさつした。
テントの中から眠そうな声で
「K君本当に行っちゃうんだ。気をつけてね。」
と言ってくれた。

米原を出た。

於茂登トンネルをくぐり、通い慣れた道を走る。
辺りの風景を見まわした。
特に何も考えてはいなかった。

6:50分頃には港に着いた。

良い船だと評判が高く、あこがれていた有村海運の「飛龍」に乗れるのだ。
とてもきれいな船だ。

ターミナルにはキャンプ場で知り合った、豊橋のセロー乗りの「ヤシガニ博士」がいた。
キャンプ場にいる時に彼が獲ったヤシガニ。


彼とのんびり雑談しながら待っていた。
そろそろかな、と言う事で船の搬入口までバイクを走らせた。

そうしたら、米原で一晩話した2人の女の子チャリダーがいた。
彼女達とは、自分が与那国に行く前日の夜にOKB君とちょこっと話しただけだったが、向こうは自分の事を覚えていてくれて、手を上げてあいさつしてくれた。

竹富島、そして八重山脱出の決意

2008-12-13 21:18:00 | 1996~97原付日本一周沖縄編
1997年5月14日

竹富島に行った。
往復券を買った。1100円。
船は30分毎に出る。出航すると10~15分程で着いてしまう。

港に着くと、やたら観光の車が客を待っていて、これを見たら意地でも歩いてやろうと思い、一人ズンズンと歩き出した。

今日も天気は良く、10分も歩くとたちまち汗が吹き出てきた。
サンエーで買った1.5リットルのコーラがみるみる減っていく。

竹富島集落
コンクリートで出来た展望台からの眺め。
白い道、サンゴの岩を積み上げた塀、赤い瓦屋根に漆喰。
いわゆる「沖縄らしい景色」というやつです。


星の砂があるというカイジ浜に行ったが、砂は見つからず。
地図に「ンブフル」という変わった地名がある。
なんでも、水牛の鳴き声が「ンブフル」と言っていたのが、そのまま地名になったのだとか。
日陰で休む水牛


ハイビスカス


浜から東桟橋まで砂浜伝いに猛烈に汗をかきながら歩いた。
「ビー玉」と呼ばれるガラスの浮きや貝などなどを拾いながら歩いた。
とにかく暑かった。

コーラはすでに飲み尽くし、ビジターセンターで空きビンに補充した水はコーラ臭かった。

どの島にも言えるが、浜に打ち上げられる漂流物がとにかく多い。
「ビー玉」はガラス製のもあるが、もっとも多いのはプラスチック製のやつだ。
そしてペットボトルがものすごく多い。
台湾や韓国から流れてきたのだろう。
漢字だらけの物や、ハングル文字の物もあった。

14:15発の船に乗り、竹富の1日観光を終える。
明日のフェリーの切符を買い、八重山を「脱出」する準備を整えた。

まだ、行った事のなかった、伊野田キャンプ場と、バンナ公園も見た。

米原キャンプ場に戻り、片付けを始めた。
サボさんもここを出て、西表の加藤さんの所に行くらしかった。

普通は、暗くなったらテントを張るのに、今回は逆だ。
なんだか妙な気分だった。

Z君のいる7号棟へクマさんと行った。
「K君本当に行っちゃうの?」
と何度も聞かれた。

その夜、Z君とクマさんと自分の3人で将来の夢を語り合った。

クマさんは、みんなの心に残る絵を描きたいと言う事と、童話を創りたいという事だった。

Z君は、10年、20年後に再びこの3人でどこかで会いたいと言う事。
そして、オリンピックに自転車で出場したいと言う事。
それから幸せな家庭を作りたいという事。

僕は、100年後、さらにその後に、ああ、こんなオルガンを作った人がいたんだ、と言うオルガン作りになりたいと言う事。
自分の好きな飛行機を自由に操って、世界の空を飛んでみたいと言う事。

何だか、現時離れした夢だが・・・

チビチビと、水で薄めた泡盛を飲んで、夜は更けていった。
テントは畳んでしまったから、唐人墓(とうじんばか)の東屋か、ターミナルにでも行こうかと思ったが、西表へ出発したサボさんの残したブルーシートのフライの下で野宿することにした。

クマさんと自分の2人で、キャンプ場の売店のテーブルに腰掛けて、恋話などした。
自分が波照間でAUさんを好きになった時のように、日増しに好きになっていく様子、好きな女性が目の前にいると、ドキドキしたりする気持ちは同じようで、とても親近感が湧いた。
深夜まで話して、その後眠る。


与那国を出る

2008-12-12 22:28:00 | 1996~97原付日本一周沖縄編
1997年5月12日

もうちょっと与那国に居たかったが、仕方無い。
祖納に福山海運の事務所はあるが、出港日は港でも切符を買う事ができる。
原付+人で5200円。

朝10:00出航。
晴れた空の下の海は、いっそう青が鮮やかに見えた。
そこへ飛び魚が、海面をヒラリと飛んでいた。
いつ見ても面白い。

「ゲロ船」は、揺れもほとんど気にならず、行きと同じMXの旅人さんとバイクの話をして過ごし、15:10頃、ほぼ定刻通りに石垣島に着いた。
そして、自分は米原キャンプ場に帰った。

サボさんは、島に住む知り合いの為に、木で家型のポストを製作していたが、それも完成していた。

自分は2号棟にテントを張った。

クマさんは、まるで何かに取り憑かれたように、激しいタッチでクレヨン画を描いていた。
シマ(泡盛のこと)を飲み、音楽をガンガン聴いて、自分のテンションを高めて描く姿は圧巻だ。


与那国探訪 2

2008-12-10 17:10:00 | 1996~97原付日本一周沖縄編
祖納を見渡せるティンダバナを離れ、東崎に向かう。
展望台に行ったら、遠方に西表島がうっすらと見えた。
展望台にある地図。
与那国はこんな姿なのか。


海がきれいだった。
深い蒼だった。
とても良い天気だ。

フェリーで、カメラマンの女の子が、
「私がいれば絶対晴れるから。」
と言っていたのを思い出す。

与那国の景観を楽しむ。
軍艦岩


立神岩(たちかみいわ)


宇良部岳に行く。
頂上近くまでは急勾配だったが、車で行く事ができる。
頂上へは、階段を少し上るとすぐに着く。
そこからは、久部良岳と祖納の町が見渡せた。
ヨナグニサンという超大型の蛾がいるらしいが、自分は見なかった。

祖納の町まで戻り、「サンアイ」というお土産屋に寄って、少しばかりお買い物。
店の名前はおそらく、15世紀に与那国を治めていた女酋長「サンアイ・イソバ」から取っていると思われる。
最西端証明書というのがあって、400円で手書きの名前入りで発行してくれる。


さらに近くのスーパーに寄って、食糧調達。
与那国の泡盛、「どなん」が売っている。
3合瓶でアルコール度数30度が500円。
45度以上になると瓶がわらで包んである。
45度が1150円、60度は2400円だった。
嵩張るし、飲めないから買わなかった。

この後、空港に行き、16:05着のYS-11を撮ろうと思い待機する。
ほぼ予定通りに飛行機は来て、写真に撮った。
国内線では全て退役してしまったので、貴重な写真だ。


この後ダンヌ浜に再び言ってみたら、怪しい(?)波動をぷんぷんさせた軽のバンが止まっていた。
タイヤは丸坊主状態。
家財道具を一式、車にギッチリ積んで旅をしている人だった。

話してみたら、北海道の人で、髪はボウボウ、けっこう年もいっているようだ。
このスタイルで旅を2年近くやっているらしい。
ここ2ヶ月与那国で釣りにハマッて、島をなかなか出れないらしかった。
大物が釣れるらしい。

車の寝床は、上下わずか30cmもない隙間。
「圧迫感は感じないのですか?」
と聞いたら、
「慣れてしまえば何でもないよ。」
と平然と答えていた。

日も暮れてきたので、テントに戻った。
こうしてたった2日の与那国探訪は終わる。
最後の夜はジャガイモを煮て食べた。
風が強くてテントがバタバタしてうるさかった。

与那国探訪 1

2008-12-09 11:53:00 | 1996~97原付日本一周沖縄編
与那国島に到着し、船で話していた2人と別れる。
噂に聞いていた、カレー屋「ユキさんち」へ行ってみたが、閉まっていた。

腹が減っていたので、港の近くの売店で、アイスとパンを買って食べた。

与那国のテントポイントの比川に向かう。
防波堤の向こうは砂浜になっている。
砂浜でたそがれていたら、防波堤の上に人がいた。

「こんにちはー。」

と言ったら、向こうも返してきた。
話を聞いてみると、長く与那国に住んでいるらしかった。
群馬の人だった。

テントを張れる場所を教えてくれた。


その場所に行ったら、2張りほどすでにテントがあった。
自分もテントを張り、まだ明るかったので、最西端の碑に行った。
んで、恒例の記念撮影。


このすぐ近くにある展望台で、夕焼けを待っていたが、あまりきれいに焼けなかったので帰る事にした。

比川に戻る途中に、南牧場がある。
ここには天然の馬がいて、「与那国馬」と呼ばれている。
宮崎の都井岬にいる岬馬に似て比較的小さかった。
けっこうな数がいて、のんびりと草を食んでいた。


比川に戻り、シャワーがあるので、浴びようかなと思ったが、蚊が多過ぎてダメだった。

夕食はソーメン。
ところが水を切るザルがないから、チョロチョロと水を流そうとしたらソーメンごと流れてしまい、ムダにしてしまった。

ああ、貴重な食糧がぁ~~!ase

これ以来ザルがキャンプアイテムに加わった。

さすが最西端の島だ。
とても蒸し暑い夜だった。
蚊が多いから外で涼むわけにもいかず、テントの中で、マットの上にバスタオルを敷き、パンツ一丁でウチワを扇ぎながら暑さをしのぐ。
シュラフは出さず、コートをかぶせるだけで十分だ。


1997年5月11日
島一周観光。
昨夜の暑さであまり眠れなかった。
のんびりと朝を過ごし、11:00頃出発。
まず、久部良バリ(クブラバリ)へ。

琉球王朝時代、人頭税という不当に高い税率を背負わされていた人々は、人口制限と言う名目で、妊婦をこの断層の割れ目から飛び越えさせ、成功した者のみ生存を許したとされる場所らしい。

伝説に近い話しなので、実際の所はどうなのか分からない。
しかし、けっこうな幅がある。
自分も飛び越えてみろと言われたらひるむ。
深いから、落ちたらケガでは済まないよこれ。
妊婦さんが、飛び越えに成功したとしても、ショックで流産する事だってあったでしょう。


複雑な思いでそこを去り、それから、ダンヌ浜、トグル浜と見る。
その後祖納(そない)の町に入った。

久部良より大きい集落のようだった。
切り立った崖があり、坂道を上るとティンダバナという天然の展望台があった。




さらにその上は牧場になっていて、かなり古いコンクリート製の立ち見台のようなものがあった。
そこから祖納の町が一望できる。


立ち見台の前には柵も無く、真下は崖なので、けっこう足がすくむ。


ここで写真を撮っていたら、フェリーで一緒に話していたカメラマンの女の子が歩いてきた。

「着いた・・・すごい所だ・・・」

とつぶやくように言った。
軽く会話をし、ここで昼食をとるという彼女と別れて自分は東崎へ向かう。