かやのなか

あれやこれやと考える

21世紀でもデモをやる

2015-09-02 21:57:25 | 日々のこと
安保反対の大規模なデモがどこそこであったらしいと聞いた。
また、左京のあたりを歩いていたらたまたま小規模のデモをみた。

それで、ひょっとしたら怒られる話かもしれないけど、安保云々はおいといて、なんで手段がデモなんだろうと疑問がわく。
え? ああ、今もまだデモなんだ。そう・・・なんか古くない? みたいな。
だってデモ=昭和のイメージが強い。
手にはiPadなんかもって、カシャカシャて写真とって、華麗なタッチパットさばきでツイッターにアップして、でも足元では地道な練り歩き。プラカードも、たぶんイラレやフォトショでめちゃデザインして、いいプリンタで刷って、でも足元は練り歩き。デモ。デモ・・・。

21世紀の最新鋭の文明の利器をこれでもかと使いながら、なんで20世紀の「デモ」という表現手段で〆るんだろう。
なんかもっと新しいやつないんだろうか。21世紀らしいもの。
ドラえもんの漫画で、仮に22世紀のセワシのお母さんが「きょうは春闘なのよ!」とか言ってあの未来の世界でプラカード掲げてデモしてたら、恐らくそのシーンはギャグとして描かれているはずだし読む側もギャグとして読むと思う。
だけど、いまは現実がそうなってる。

そもそもデモっていつから日本でやってんだ?と思って調べた。

(以下Wikipedia「デモ活動」より、項目「日本でのデモ」)
日本にデモンストレーションという言葉が紹介されたのは20世紀の初めだとされ、示威行為と訳された(現在も「集団示威運動」の語が法令に存在する)。それ以前には百姓一揆のようなデモと暴動がセットになった行動もあり、打ちこわしでは襲撃しても略奪まではしないなど、独自の掟がある暴動まで存在した。

なるほどそういえば一揆というものがあった。うーん一揆とデモって割と似てるよな。そこで「デモ」「一揆」でぐぐったら、やっぱり研究してる人がいたようで、
「一揆の原理 日本中世の一揆から現代のSNSまで」呉座勇一(2012年、洋泉社)ISBN 4800300193
という本がひっかかった。

中世の本だ。中世は面白いですよ。
教科書ではわりとテキトーな現実味のない書きかたをされている時代だけど研究者の間では着々と見直しを進める動きがあるようで、そういった意味でも中世は興味深くていいですよ。
ただ、この本を現時点で私はまだ読んでないので、そこはすみません。あまり細かい話ができない。
でも松岡先生がこの本を解説してた。興味のある方は、ぜひ以下のリンクから書評をお読みください。
松岡正剛の千夜千冊1532夜


確かにツイッターで「一致団結」し「心を一つに」して行政に噛み付いき、やたら炎上させる21世紀のネット民と中世の農民の思考回路はとても一致していて、どちらも「政治の根本からの革命は目指さず目先の現実的な利益の回収を追求する」という点でまるで民衆がタイムスリップしてきたみたいに同じですね。
いまの時点で乱暴に一言でまとめると、『21世紀は、中世』かもしれない。

しかし本当の中世と21世紀では「同心」する人々の目的が違う。
でも今日は考察しきれないのでまたこんど。