>身体感覚にいちばん近い言葉がオノマトペで、既存の言語みたいに定義がはっきりしているわけではないので相手に感じてもらうしかない。>つまり受けての感性に依存する部分が大きい。
そうですね。相手の忖度 (推察) に依存していますね。忖度は、聞き手の勝手な解釈ですから、話し手には責任がありませんね。
>近代は何かを固定して、前進しようとしていた。
文章は、考えを固定しますね。考えの体系は、学問になりますね。
>組織の在り方もトップが明快なビジョンを持ち、それを一方通行で所員に伝える。
考えは個人個人でその内容が違っている。トップを定めれば、その内容は所員に対して明確になる。
>だから、自分が言葉で伝えた以上の面白い答えが出てくることはないし、トップもそれを期待していない。
その通りですね。責任の所在も明らかになりますね。
>近代化する社会では、それが最も生産性がよかったからだ。
理詰めの世界ですね。言語の世界の長所ですね。
>しかし、時代は大きく変わっている。>創造性が必要とはすでに広く言われているが、1人の人間の脳から生み出されるものには限界がある。
天才には、限りがあるということですかね。
>建築家の隈研吾氏が所員とのやりとりで意識していることで以下のように言っている。
‘以心伝心・不立文字’ のようなものですかね。
> >僕のやり方というのは、所員に対して唆味なメッセージを投げて、それに対して所員が僕が思っていた以上の、あるいはそれから微妙にずれた答えを出してくることを期待しているんですね。>「なんでこんな答えが返ってくるんだよ」って(笑)、期待していたものとまったく違うじゃないかっていうことが多い。>全然違っていて使い物にならないというのが5パーセントかもしれないけれど、5パーセントぐらいすごく面白い答えが返ってくることがあるわけです。>「あっ、こういう手もあったな」って。>「そうかこういうふうに解釈するお前のズレ方は面白い」と(笑)。>そしてその5パーセントのある種の誤読みたいなものを利用して次のステップに進んでいく。>1段階階段を上るのにその誤読を使うわけです。>1段階ずつ、やり取りの中で階段を上っていかないと面白くなくて、これが所長からの一方的なやり方だと階段を下がるだけという感じになってしまう。>僕はやっばり階段を上っていきたいし、自分でもワクワクしたい。所員とのやり取りで意外な答えが出てくるところが驚きであるしワクワクする。>それが設計のいちばんの醍醐味だと思っている。>そういう醍醐味を味わうために、ある種曖昧性を保ったままの、前・言語としてのオノマトぺを多用するわけです。<
そうでしょうね。芸術 (音楽・絵画・造形美術など) は、非言語の作品ですからね。
>言葉には定義するとか明確化するという役割がありますが、オノマトペというのは、定義せず明確化しようという意思もない。
意思は未来時制の文章になる。だから、意味がある。オノマトペ (onomatopoeia: 擬声音 ) は、ばらばらな単語である。だから、意味がない。
>一種の体験的レベルで発せられる、動物的な音声であり、書き言葉だけど、話し言葉やイメージのような、そんな身体的な言葉。
日本人の言葉は、書いても文章にならないことが多い。ばらばらな単語のままで存在する。歌詠みのようなものか。全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。
>そういう意味で、相手の潜在思念にうったえかける、相手の創意工夫を引き出す、といった時にはオノマトペは可能性のように思います。
そうですね。‘小鳥のさえずり、せせらぎの音’ といったようなものですね。非言語の材料は芸術作品になりますね。
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