昭和史をさかのぼって大正史へ。
大正13(1924)年に、日米間の大問題となった、排日移民法問
題がどうもよく分からないので、「ちょっと」勉強してみた。
『昭和天皇独白録』にも、「大東亜戦争の遠因」として
この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦后の平和条約の内容に伏在してい
る。・・・・・・黄白の差別感は依然残存し加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨
させるに十分なものである。・・・・・・かかる国民的憤慨を背景として一度、軍
が立ち上った時に、之を抑えることは容易な業ではない。
と取り上げられている。
大正時代に、日米間の大問題となった「加州移民拒否」(「排日
移民法」)とは何だったのだろう。
米国カリフォルニア州では、1848年カリフォルニア・ゴールドラ
ッシュ、19世紀後半の米国大陸横断鉄道建設(の労働者需要)等
により中国人移民が増加する。
これにより、アイルランド系移民等米国人労働者と軋轢が生じた
ため、1882年、「中国人排斥法」が実施される。
その後、中国人にかわって、日本人移民が台頭する。
19世紀末、米国によるハワイ併合により、ハワイから米国本土へ
移住する日本人が増加した。
日本人は低賃金でも真面目によく働く一方、日系人だけでまとま
り、低賃金で組合に加入しない、地域に溶け込まないなどの問題
があった。
1906年、サンフランシスコで、日本人学童隔離問題が発生する。
1908年、日米紳士協定(日本側の移民自主規制。林外相-オブラ
イエン駐日大使間):日本人移民は毎年500人に制限。
一方、日本の「写真結婚」による人口増も問題となる。
1911年、カリフォルニア州議会に[第1次]排日土地法案が提出
される。日本政府の要請により、タフト大統領が同法案を阻止。
1913年、同法案が再び提出され、民主党ウィルソン大統領は阻止
できず。
しかし、日本人移民は積極的に荒れ地を開墾、農家として繁栄す
る。これがまた現地農家との軋轢を生んだ。
1920年、カリフォルニア州で第2次排日土地法(正式名称は1920
年外国人土地法)が成立。
1924年、ジョンソン=リード法(「アジア人排除法」=「排日移
民法」→こちら)
これによって、日清・日露戦争、第一次世界大戦で戦勝国となり、
一等国となった(と思っていた?)、日本(当時の日本人)のプ
ライドを傷つけられる。
日本では大きな反米感情の高まりをみせ、全国的に抗議デモ、抗
議集会が開催され、親中国・[大]アジア主義の台頭につながっ
た。
--と整理できるのかしらん。
東京朝日新聞は次のとおり報道している。
米国議会の排日移民法案ほど、横暴を極めたものは無い、これをして立法的罪
悪と言わずんば、何を爾か呼び得るものがあろう。(4/18付朝刊)
そして、日本の主要新聞社15社は、朝刊の紙上に「排日案に対す
る共同宣言」を一斉に掲載。
これは「今回アメリカ合衆国の上下両院を通過した排日案の不正
不義なる次第は極めて明白である」ために、「われ等は此重大な
る法案に対する米国民の正義の戦ひが如何なる効果を奏するかを
熱心に注視する」と書いた。
(筒井清忠編『大正史講義』第20講「排日移民法抗議運動」[渡邉公太])
「願わくば われ太平洋の架け橋とならん」の言葉で有名な親米
家新渡戸稲造ですら、今後は米国を訪問しないと宣言せざるをえ
なかったという。
(筒井清忠『戦前日本のポピュリズム』)
あらためて、排日移民法問題は、1921/22年のワシントン会議に
よる日米協調体制に打撃を与え、明治期の「脱亜入欧」(欧化主
義)からアジア主義(&国粋主義)台頭へのきっかけとなった。
今から97年前のこと。そんな「時代」だったんですね~。
『昭和天皇独白録』
<参考図書>
左から
筒井清忠編『大正史講義』「第20講排日移民法抗議運動」
筒井清忠『戦前日本のポピュリズム』「第2章大正期の大衆運動」
五百旗頭真編『日米関係史』「第4章ワシントン体制」
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東京オリンピック最終日(8/8)
〇男子マラソン:大迫、頭脳的作戦で6位入賞(9年ぶり?)。
お疲れ様!!
優勝はキプチョゲ。スタコラサッサと一人旅。強かった~。
9.1km付近の先頭集団
35km過ぎ(1時間49分):大迫、8位から二人抜いて6位に。
中村、服部は最初から調子がよくなかったが、よくぞ完走!!
こちらもお疲れ様~!
〇17日間の東京オリンピック2020が閉幕。
オリンピックは、スポーツの祭典であり、平和の祭典だ。
スポーツも芸術も平和あってのもの。
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