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香柏だより

福岡市東区の香椎バプテスト教会です。
聖書の言葉には、ひとを生かす力があります。
礼拝では手話通訳もあります。

違法からの解放

2014年11月16日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ書7・1~6/ローマ書連講(17)

キリストの救いとは、主イエスの死と復活を象徴するバプテスマを通して、キリストと結ばれ、罪に対して死ぬことにより、罪から解放(赦免)されることである(6・1~14)と言ったパウロは、そのことを奴隷制の比喩を用いて、〝以前は罪の奴隷であったあなたがたは、今は義の奴隷・神の奴隷となり、永遠のいのちに与っている〟(6・15~23)と、述べました。そして、ここ7・1~6で結婚制度の比喩を用いて、キリスト者は律法から解放されている、と説きます。

パウロは「あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるから、罪はあなたがたを支配することはない」(6・14)と言い、「律法の下にある」とは、〝罪に支配され、肉に従って生きること〟であり、「恵みの下にある」とは、〝罪と律法から解放され、(御霊に従って)生きること〟である、と述べました(6章)。パウロは律法が罪であることを否定し、聖なることを主張しています(照7・7、12)。しかし、神の心を示す律法が罪に支配され、律法に従うことによって自らを救うことができると信じさせるなら、それは律法の弱み・罪である。律法が罪の力を打ち破られ、人々を神と人間に対し正しい道に進ませるなら、それは律法の目的に適った強みである。問題なのは律法が働きかける人間である(照3・20、8・3)とパウロは言っているのです。かつては律法という主人に仕え、自分の義を誇っていた罪から解放(赦免)され、キリストにある神の恵みの福音を信じ、今は主(人)キリストの僕(奴隷)となったパウロ(照ピリピ3・5~11)が、律法からの解放を、妻と夫との関係から説明していきます。

「律法」(定冠詞なし/ユダヤ教律法・(ローマの)法律)は〝夫のある女は、夫が生きている間は、夫に結ばれている〟と定めています。そのことは、〝人が律法に従うのは、その人の生きている期間〟 だけであることを意味します。ですから、夫が生きている間に、他の男と一緒になれば姦通の女と呼ばれますが、夫が死ねば、律法から解放されたので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。この婚姻に関する(一夫一婦制/重婚の禁止)一般的な真理を知っている人々に、パウロは、キリストを信じる人(教会)を妻に、律法を夫に例え、死が結婚の絆を断つように、キリストと共に罪に対して死んだキリスト者は、もはや律法から解放されている、と言っているのです。

〝それは、あなたがたが、罪と死しか結実しなかった前夫・律法(アダム)の絆を断たれ、新しい人・キリストと結ばれ、神のために義の実を結ぶようになるためです〟(照ガラテヤ2・19~20)。かつて 〝肉にあったとき〟、即ち私たちが感覚的な欲求充足を人生の目的としていたとき、律法によって罪深い欲情が喚起され、死に至る実を結びました。しかし、私たちを拘束していた律法から解放され、今や、キリストの恵みの下にある私たちは、律法の外的規則に服従するという文字に従う古い生き方ではなく、御霊の内からの促しに従う新しい生き方において、神に仕えているのです(照8・9、エレミヤ31・31~34)。




義の奴隷

2014年11月02日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ6・15~23/聖餐礼拝/ローマ書連講(16)

6・1~14でパウロは 〝キリスト・イエスの死と葬り、復活を表わすバプテスマに与った私たちは、罪に対しては死んだ者、神に対して生きている者である、と弁えなさい〟 と言い、〝体を不義の器とせず、義の器として神に献げよ〟 と教えました。それは、「あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にあるからです」と、私たちはもはや罪の支配から解放されているからです、と述べました。

これに対し「それならどうなのですか。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯そう、ということになるのでしょうか」との再度の誤解を想定し、パウロは今度も「絶対にそんなことはありません」と強く否定します(15/6・1)。そしてここ6・15~23では、奴隷の例を用いて、あなたがたは以前は罪の奴隷であったが、今は罪から解放された義の奴隷として清潔に進み、永遠のいのちに到るのです、と語ります(照Ⅰコリント7・22/ヨハネ8・34)。
奴隷は生殺与奪の権を主人に握られた、主人の物的財産でした。ローマは戦いに勝つたびに奴隷人口が増えました。奴隷制度についてよく知っていたローマのキリスト者たち(考16・14、15の名前/コリントの奴隷人口 / ピレモン書/「奴隷」9回)に、ローマ市民権を持つキリストの奴隷パウロは、〝あなたがたが罪に死に、罪から解放されたということは、以前の主人・罪の支配は終ったこと、また、あなたがたは新しい主人・義・神の奴隷となったことである。あなたがたが奴隷となって何ものかに服従すれば、あなたがたはそのものの奴隷・所有物となるのです。あなたがたが以前慣れ親しんでいた生き方、また再びそれに憧れて生きるなら、即ち罪が命じ強いる全ての悪を行なうなら、主人である罪は奴隷に死の賃金を支払うのです。しかし、今やあなたがたは罪に従う奴隷ではなく、神に対する従順の奴隷とされました。あなたがたは罪から解放されて、義の奴隷となったのです。こうして今は「恵みの下」にあり、義に至る従順の奴隷とされた私たちは、強制されてではなく、自発的に喜んで神に奉仕するのです。この義の奴隷・神の奴隷に、主人である神は賃金を払うだけでなく、さらに優れた「永遠のいのち」を無償の贈り物としてお与えくださるのです〟(16~23)。

キリスト・イエスにつくバプテスマにおいて、罪に対して(6・6~7)、また律法に対して(7・4、6)、キリストが死んでくださったことを信じ告白し、罪という主人の支配から解放され、今は罪が命じることにもNO! という力を与えられ、神に仕える者とされた私たちです。このことをしっかりと考え(6・11)、また被造物として決して自律的ではなく、当然、神にはなれなく、何かに縋ってしか生きていけないことを素直に認めて、新しい主人、私たちの救い主なる十字架の神に信頼し従い、感謝し、喜び礼拝し、仕えてまいりましょう。




キリストと共に

2014年10月26日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ6・1~14/ローマ書連講(15)

〝律法が入ってきたのは、罪が増し加わるためでした。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました〟(5・20)というパウロの福音は、善よりもむしろ悪を行なうことを促しているのではと誤解した人々は 〝それでは、さらに恵みが増し加わるように、どうして罪を犯し続けないのか〟 と言うかもしれない。そのような無律法主義的反問に対し、パウロは「絶対にそんなことはない」と強く否定します(1~2/照ローマ3・8)。そして、6章から7章にかけて罪と恵みと律法について論じていきます。

このようなまだ福音を理解していない人々に対し、パウロは罪の恐ろしさと神の慈愛について訓戒する(照2・4)のではなく、〝罪に対して死んだ私たちが、どうしてなお罪のうちに生き続けられるのでしょうか〟 と逆に質問します。罪を犯し続けるなら、その人は死んだとは言えない、とパウロは言うのです。そしてパウロは「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たち」に成ったことを、「あなたがたは知らないのか」と言い、バプテスマに関し説明します(3~11)。バプテスマのヨハネは「罪が赦されるための悔い改めのバプテスマ」を説き、行ないました(マルコ1・4)。初代教会は悔い改めと信仰告白に基づいて、志願者を水に浸す形でバプテスマを施しました(照 使徒2・37~42、8・26~39/原語(バプティゾー)は 〝水に投げ込む・沈める〟 ことを意味する)。パウロは前章(5章)において、ひとりの人の罪のゆえに、神と人との関係が破壊され、全人類に死が広がったこと、その罪を克服するためにキリストの死が必要であったことを述べました。この所(6章)においてパウロは、罪の赦しを得させるキリスト教のバプテスマは、人間の罪の赦し・義・救いのためのキリストの贖いの死と分かち難く結びついていることを示します。

私たちはキリスト・イエスにつく(直訳は、の中へ)バプテスマによって、私たちの古い人間・罪の体はキリストと共に十字架につけられ、滅び死に、キリストと共に葬られました(ギリシア正教会のバプテスマプールは墓の形)。キリストにつくバプテスマを受けた私たちの罪の値・罰金は既にキリストが支払ってくださり、最早、私たちは罪の責任を問われないのです。死んだ者は罪から解放(赦免)されているのです。

水に沈むとき、キリストと共に死ぬことを表わすバプテスマは、水から上るとき、キリストの復活に与ることを象徴します。そこでパウロはバプテスマを受けた私たちに、復活のキリストが神に対して生きておられるように、私たちもキリスト・イエスにあって(内なる肉・古い人間のゆえになお罪を犯すが)罪に対しては死んだ者であり、(アダムから継承した罪のひどい隷属状態から解放され)神に対して生きている者であると思いなさい、と言います(8~11/照Ⅱテモテ2・8)。

そしてパウロは「ですから、あなたがたの体を罪・情欲に支配させず、死者の中から生かされた者として、義の器として神に献げ、新しい歩みをしなさい」と勧めます。「なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるからです」(12~14/13・14、ガラテヤ3・27/アウガスチヌス)。恵みは律法にはできなかった罪の支配を砕くのです。




アダムとキリスト

2014年10月19日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ5・12~21/ローマ書連講(14)

本所においてパウロは、アダムとキリストを対比し(照「アダムは来るべき方のひな型」14)〝最初の人(アダム)によって罪が世に入り、罪によって死が入り、死はすべての人に及びました。しかし、最後の人キリスト(照Ⅰコリント15・45)における神の恵みは多くの人に満ち溢れるのです。第一の人アダムによって有罪判決が下りましたが、第二の人キリストによって無罪判決が下りました。一人の人(アダム)の不従順によって、すべての人が罪人とされましたが、一人の人キリストの従順によって、多くの人が義人とされる〟 ことを、5・1~11の帰結として(「そういうわけで」)述べていきます。

原人間アダムの 〝神のようになろう〟 とする罪こそ原罪です(創世記3・5/原福音 照 同3・15)。この罪は「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」(創世記2・17)との神自らが直接にアダムに与えた命令・言葉に背くものでした。こうして全人類の連帯の頭であり、代表であるアダムにおいて 〝すべての人が罪を犯したのです。(その結果)すべての人は死ぬ存在となったのです〟 (12/照3・23)。この現実は 〝律法がなければ、罪は認められない(にもかかわらず)、しかし、死は(律法不在の)アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配した〟 ことからも証明されます(13)。この時パウロは、律法を持たず、知らず、神の創造の命令に不従順に生きている異邦人世界も死に価することを考えていたのでしょう(照1・18~32)。

ひとりの人アダムの堕落により全人類に広がり、支配した罪と死と混乱の中から、ひとりの人イエス・キリストは私たちを救出してくださいます。アダムの堕落が多くの人に破滅をもたらしたとしても、それにましてイエス・キリストにある神の恵みの賜物(無償の義)は、なおさら多くの人々に満ち溢れるのです。裁きの場合は一つの違反によって有罪とされましたが、恵みの場合は多くの違反が無罪(義)とされます。一人の罪によって死が支配するようになったとすれば、神の恵みと義の賜物を豊かに受けている人々は、イエス・キリストにある永遠のいのちをもって支配するのです(13~17)。

こういうわけで、一人の不従順によってすべての人が有罪とされ、罪人とされたのと同様に、一人の従順・義の行為(十字架の死)によって、すべての人が義とされ、永遠のいのちを与えられ、正しい者とされます。また人間に罪を自覚させ、贖い主なしではどうすることもできないことを自覚させるための律法は、モーセ以前には存在せず、キリストをもって終ったのです(照3・20、7・7、ガラテヤ3・19、24)。違反を示すために入り込んできた律法により、結果的に罪が増し加わり、死が支配したように、キリストの従順による満ち溢れる恵み(照ピリピ2・8)は、罪とその結果である死を克服し、人を義とすることによって支配し、私たちの主イエス・キリストによって永遠のいのちに導くのです(18~21)。




神との平和

2014年10月12日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ5・1~11/伝道礼拝/ローマ書連講(13)

堕落したアダム以後、人間は偶像礼拝という罪を犯し続け、神に反逆してきた。その人間に対し、人間をその欲望のまゝに引き渡すことによって、神の怒りが天から啓示された(1・18~32)。神の怒りの下にある人間に対する「神の裁きは、私の福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことを裁かれる日に行なわれます」(2・16)。その裁きの規準は、私たちの贖いのために、またなだめの供え物として、十字架に血を流された御子キリストの御業です。即ち「神ご自身が義であり、またイエスを信じる者を義とお認めになる神の義」です(照3・21~26)。律法を守り行なえない人間を、滅びから救うという一方的な恵みの道をアブラハムに約束された神は、イエス・キリストにおいてその約束を完成されたのです(3・31~4・22)。

このことは現在の「私たちのためにも書き記されたのです」。即ち 〝神が主イエスを私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために復活させられたことを信じる私たちも義と認められるのです〟(4・23~25)。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」(1)。

かつて「まだ私たちが弱かったとき、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが定められた時に(照ガラテヤ4・4)、不信心な私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明示されました(6~8/照ヨハネ3・16、Ⅰヨハネ4・9~10)。〝それで、私たちは今すでにキリストの血によって義とされたのですから、このキリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです〟(9/Ⅰテサロニケ5・9)。私たちは、キリストの福音のゆえに、将来の裁きを恐れる必要はないのです。

かつて神を認めず、神に敵対していた私たちの身代りとして、神は御子を十字架に付け、また御子をその血によるなだめの供え物とすることによって、怒りと敵意を取り除かれたのです。こうして御子の死という神の善意と主導により神と和解をさせていただいた今、私たちが御子のいのちによって救われるのはなおさらのことです(10/コロサイ1・20~22、Ⅱコリント5・18~21、Ⅰテモテ2・4)。

こうしてただ恵みによって、信仰によって義と認められ、神と和解させていただき、今、神との平和を持つという恵みの場・状態に導き入れられ、立っている私たちは、主イエス・キリストによって神を信頼し、大いに喜び、神の栄光のために創造された者として、その栄光に与る希望をもって喜んでいます(1~2、11)。たとえ私たちの状態が、苦難に満ちた現実に直面したとしても、「望みえないときに、望みを抱いて信じた」(4・18)アブラハムの信仰の子として、また聖霊によって神の愛を注がれている者として、キリスト・イエスにある神の愛に信頼し、苦難、忍耐、練達、希望に生きましょう。この希望は失望に終ることはありません(3~5)。




約束は信仰によって

2014年10月05日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ4・13~25/聖餐礼拝/ローマ書連講(12)

創世記3~11章には、神の言葉・約束を信ぜず堕落した人間が自らを神とし、罪悪を重ねたことが記されています。この罪深い人間をご自身に対する信頼へと呼び戻すために、神はアブラハムを召し、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」と約束されました(創世記12・3)。その時より十年ほど後のある夜、主は彼を天幕の外に連れ出し、満天の星空を見上げさせ「あなたの子孫はこのようになる」と仰言いました。この時、「死んだも同様のアブラハム」は「主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」のでした(創世記15・5)。このことは彼が割礼を受ける(創世記17・5)よりも、試練を受ける(創世記22・17)よりも前のことでした。こうしてアブラハムは信仰における私たちの父となったのです(照4・1~12)。

それゆえ、信仰の父アブラハムとその子孫が世界の相続人となるという約束は、律法(照ガラテヤ3・17)や律法による義とは何の関係もなく、信仰により、恵みによることです(13、16)。もし相続が律法を守ることによるなら、人は律法を守ることができないので、約束は無効になり、廃止されたことになってしまいます。そして律法はそれを守らない人に罰を科すのです(15/照5・13)。

ただ恵みにより、信仰によって、世界の相続人となるという約束は、ユダヤ人であれ異邦人であれ、私たちすべての者の父アブラハムの信仰、即ち、死者を生かし、無から有を生ぜしめる神への信仰に倣う者もこの約束に確実に与るのです。即ち 〝アブラハムは望みえないときに、なお望みを抱いて信じ、「あなたの子孫はあのようになる」と言われていたとおり、多くの民族の父となったのです〟(18)。アブラハムはおよそ百歳になって、自分の体が衰え、死んだも同然であること、そして妻サラの体も子を宿せない、死んだも同然であることを認め知りながらも、その信仰は弱りませんでした。彼は不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、むしろ信仰によって強められ、奇蹟を行なう神に信頼し、神は約束したことを実現させることができると確信しました。それゆえ、それが彼の義とみなされたのです(19~2219/照 創世記17・17、同18・11~12、同21・1~6)。

「彼の義とみなされた」との言葉は、ただアブラハムのためだけではなく、私たちのためにも書き記されたのです(23)。即ち、死んだも同然のアブラハムとサラから、一方的な神の恵みをアブラハムが信頼することにより、ひとり息子イサクが与えられ、そして多くの子孫が造られたように、神に抗(あらが)い、偶像礼拝をする死んだも同然の罪人なる私たちを、ただ恵みによりイエス・キリストを信じる信仰によって義とし、新しく創造し、神の子どもとしてくださるのです(ガラテヤ6・15、Ⅱコリント5・17)。「すなわち、私たちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され(「引き渡され」照イザヤ53・6、12 LXX、Ⅰコリント11・23、ローマ8・32、ガラテヤ2・20、エペソ5・2)、私たちを義とするために復活させられたのです」(24、25)。

さあ、イエス・キリストの十字架と復活の福音に堅く信頼し、感謝しつつ「私たちの罪のために死に渡された」イエス・キリストを記念する主の晩餐に与りましょう。




アブラハムは神を信じた

2014年09月14日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ4・1~12/敬老主日伝道礼拝/ローマ書連講(11)

3章においてパウロは 〝今や、律法とは別に、旧約聖書に証言されたように、神の義が示された。それは律法の行ないによらず、ただイエス・キリストを信じる信仰による義である〟 と論じました。そして4章において彼は 〝信仰による義認〟 を裏付ける聖書的な根拠を示します。

「それでは」とパウロは「肉による私たち(ユダヤ人)の先祖アブラハムの場合は、どうでしょうか」(1)と、旧約聖書中の最高の義人とされ、またユダヤ教の拠り所であった「神の友、アブラハム」(イザヤ41・8)を取り上げます。それはパウロに反対するユダヤ教の人々は、創世記26・5 ― アブラハムの子イサクに、神は〝アブラハムへの誓いのとおり、わたしはあなたの子孫を空の星のように増し加え、地のすべての国々は、あなたの子孫によって祝福される。これはアブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めと命令と掟と教えを守ったからである〟と言われました ― に依拠して、アブラハムとその子孫への祝福はアブラハムのこの 〝律法の義〟 に対する報酬と考えていたからです。

そこでパウロは「聖書は何と言っていますか」とユダヤ教聖典(旧約聖書)を取り上げ 〝「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」(創世記15・6)とあります〟 と指摘します。このことはアブラハムが主の召しを受け、カランを出立し、約束の地カナンに住んで10年ほど過ぎた頃のことでした。未だ子どものないアブラハムは恐れていました。ある夜、主はその彼を外に連れ出し、「天を見上げよ。星を数えられるなら、数えてみよ」と仰せられ「あなたの子孫はこのようになる」と言われました。この時「死んだも同様のアブラハム」(ヘブル11・12)は「主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」のです。アブラハムは試練を受ける(考 創世記22章/照Ⅰマカベア2・52)よりも、割礼を受ける(創世記17・10、照ガラテヤ3・17~18)よりも前に、神により義と認められたのです。ですから「もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、誇ることができます。しかし、神の前では誇れません」(2)。働く者への報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものとみなされます。しかし、何の働き(善い行ない)のない者でも、不信心な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が神により義とみなされるのです。それはただ神の恵み、神の祝福によることです(4~5/照5・6)。この恵みをダビデは 〝不法を赦され、罪を覆われ、主が罪を認めない人は幸いである(祝福されている)〟 (7~8/詩篇32・1~2)と歌っています。

こうしてアブラハムは死んだも同然の状態の中で、また割礼を受けていない時に、ただ神(の言葉・約束)を信じました。それが彼の義とみなされました。それはアブラハムが良い行ないのない、不信心な者をも、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められるすべての者の父となり、私たちがこの信仰の父アブラハムの信仰の足跡に従って歩む者となるためです。〝ただ恵みにより、ただ信仰により、ただ神に栄光あれ〟



行いによらず、信仰によって

2014年09月07日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ3・27~31/聖餐礼拝/ローマ書連講(10)

3・21~31はローマ書の核心部分と言われ、人は信仰によって義とされることが述べられています。前回 8/17はその前半部(3・21~27)から 〝しかし、今や、神の義が〟 と題し、神が義であられ、私たち罪人も義とされる新しい時(「今や/今の時」)が到来したこと、それは旧約(聖書)に証言されてきたように、御子キリストが十字架に磔になり、血を流すことによって、神の代理人として、神の赦しの恵みを人に与え、他方人の代理人として、人の罪の結果としての裁きを、その身に引き受けられたことによることをお話しいたしました。きょうはその後半部から「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、(ただ)信仰による」(28)ということを教えられたいと願います。

生粋のヘブル人、律法については落度のない者と自負していたパウロが「それでは私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでにとり除かれました」(27)と言います。ユダヤ人は「律法を持つことに安んじ、神を誇っていました」(2・17)。律法を行なう功績により、自分を義人だとするその誇りは最終的に、完全に除外されました。〝それはどういう原理によってですか?〟。人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、今やイエス・キリストを信じる信仰を通して与えられる神の恵みによるからです(28)。律法を持つことに安んじ、それを守り行なえると自任し、義人であると誇っていたユダヤ人に、〝律法に定められたことを行なうだけでは、人間は誰一人神の前に義とされない。律法によっては、罪の意識が生じるだけだ〟(20)と言ったパウロは、ここでは積極的、肯定的に 〝人が神の前に義とされるのは、ただ信仰にのみによる〟 と論じます。律法の行ないによらず、恵みにより信仰によって人を義とするこの神は、当然ユダヤ人の神であり、異邦人の神でもあります。この唯一の神が御子キリストを、世に遣わし、十字架に付け、割礼のある者も、割礼のない者をも、信仰によって義と認め、罪を赦してくださるのです(29~30)。

ここでパウロは 〝それではお前はモーセ律法を破棄するのか〟 とのユダヤ人の反対者を想定し 〝決してそうではない。かえって律法を確立することになる〟 と答えます(31)。「律法を確立する」とは、律法の深遠な根本・原則を堅持する、律法を真実に実効化する ― 即ち信仰によって、律法への服従が促進される ― ということです。この姿こそ、律法の行ないによらず、ただ信仰によって義とされた私たちキリスト者に〝律法や預言者を破棄するためにではなく、成就するために来られた〟 (マタイ5・17)主キリストが求めておられることです(→照マタイ5・20/考ガラテヤ5・6「愛によって働く信仰」)。

「律法の行いによらず、ただ信仰によって」神の前に義と認められることにより、律法を成就し、律法を確立することを、次章においてパウロはアブラハムの例を通して説明いたします。




しかし、今や、神の義が

2014年08月17日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ3・21~26/ローマ書連講(9)

前回(3・9~20/照1・18~2・29)、パウロは旧約聖書・律法を引用して、ユダヤ人も異邦人も、すべての人には罪があること、それゆえ神の裁きの下にあることを指摘しました。そして「生粋のヘブル人で、律法についてはパリサイ人、律法による義についてなら非難されるところのない者」(照ピリピ3・4~6)と自負し得たパウロは、(自分を俎上に載せ)「律法を行なうことによっては、誰一人神の前に義とされない。律法によっては、罪の意識が生じるだけである」(20)と述べ、「すべての人は罪を犯したので、神の栄光を受けられなくなっている/欠いている/失っている」(23〉と断じます。人は皆、堕落において神の像を失い、神の愛顧を失い、神に離反しているのです。

「しかし、今や、律法とは関わりなく、しかも律法と預言者によって証言されて(照1・2、4章、9・25他)、神の義が示されました」。神の前に人を救う新しい道が開かれたのです。それは 〝行ないによる義認〟 ではなく、「イエス・キリストを信じる信仰により、信じる者すべてに与えられる神の義です」。〝罪を犯して神の栄光を受けられなくなっているすべての人〟 を「ただキリスト・イエスによる贖いのゆえに、神の恵みにより無償で義とされるために、神はこのキリストを立て、その血によって(レビ17・11)、信じる人のためのなだめの供え物(ヒラステーリオン)/「贖いのふた(ヒラステーリオン)」(レビ16・15~16)として公けに示されました」(照ガラテヤ3・1)。罪なき御子キリストは十字架の上に、その体を裂き、血を流しつつ、ご自分を十字架に磔にした人々のため「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか、わからないのです」(ルカ23・34)と祈られました。また 〝すでに成就した恵みの大祭司として来られたキリストは、人間の手で造られたのではない、即ちこの世に属さない、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通って(照ヨハネ2・19~22)、雄山羊と子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度まことの聖所にお入りになり、永遠の贖いを成し遂げられたのです〟(ヘブル9・11~12)。このようにキリスト・イエスこそ贖いの場であり、そこにおいて神が義となり、人は義とされ、神と人間とのあるべき(正しい)関係が回復されるのです。神はあらゆる不信仰と不義の中にある人間を、「神の忍耐をもって」その欲望のまゝに任せることにより、その怒りを啓示し、「罪を見逃して来られました」(照1・18以下)。「それは、今の時にご自分の義を現わすためであり、またイエスを信じる者を義とされるためです」。義なる神は人間の不信仰と不義に対する怒りを「贖罪の場所(ヒラステーリオン)」である十字架上のキリストの上に、余すところなく注がれたのです。この十字架上のキリストにおいて、神ご自身が正しい方であり、またイエスを信じる者を義とされる方であることが明らかに示されているのです。こうして、今や、律法とは関わりなく、人を救う神の義が明らかに示されました。それは、ただキリスト・イエスの贖いの業を通して、神の恵みにより、信じるすべての人に与えられる信仰による義です。そこには何の差別(ユダヤ人と異邦人、人種、男女、貧富等々)もありません。




すべての人には罪がある

2014年08月03日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ3・9~20聖餐式/ローマ書連講(8)

前段(3・1~8)で、ユダヤ人の優れた所・利点(神に選ばれた民として律法を持ち、割礼というしるしを受けている)を語ったパウロは、「では、どうなのでしょう。私たち(ユダヤ人)は他の者(異邦人)に優っているのでしょうか。決してそうではありません」(9)と記します。パウロはユダヤ人の優れた点を否定しているのではありません。選ばれた民と言えども神への責任においては、その特権を持たない異邦人よりも優れているのではないのです。1・18~2・29において、パウロは異邦人もユダヤも等しく罪を犯しており、神の怒りの下にあることを宣言いたしました。〝ユダヤ人もギリシア人も、すべての人は罪の下にある、と前に指摘したとおりです〟(9)。それ故パウロは、私たちユダヤ人が異邦人に優っていることは全くない、と断言するのです。

そして 〝すべての人には罪がある〟 ことを旧約聖書の言葉を引用して示します(10~18)。15~17(イザヤ59・7~8)以外は、全て詩篇からの引用です。所謂律法=モーセ五書からの引用はありません。それ故ここでの「律法」は旧約聖書全体を指しています。そして 〝律法の言うところは、先ず何よりも律法の下にある人たち、即ちユダヤ人に向けて語られている〟 とパウロは論じているのです。こうしてパウロは聖書から、異邦人もユダヤ人も、全ての人が有罪であるという罪の普遍的なことを宣言します。「それは、すべての人の口が封じられて、全世界・全人類が神の裁きに服するようになるためです」。

律法・旧約聖書は、神の御旨に適しく生きるように与えられたものです。しかし、(ユダヤ)人は 〝盗むなと説きながら、自分は盗むのです。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのです〟(2・21、22/照マタイ5・28)。容貌や背丈といった外観を見る人間の見方とは真逆に、心を、内面をご覧になる主なる神(照Ⅰサムエル16・7)の御前に、誰が律法を完全に守っていると言えるでしょうか。誰ひとり義人はいないのです。全ての人は罪を犯しているのです。「なぜなら、律法を行なうことによっては、誰ひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、罪の意識が生じるだけです」(20/詩篇143・2)。このことは「生粋のヘブル人で、律法についてはパリサイ人、律法による義についてなら非難されるところのない者」(照ピリピ3・4~6)であったパウロにとり一大事であったことでしょう。このことをパウロは7章で詳述します。他にも5・20、ガラテヤ2・16、3・11で同じように語ります。ここにこそ 〝パウロの福音〟 の鍵があるからでしょう。こうして律法はすべての人には罪があると断罪します。しかし、そのうちに神の義が啓示された福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力であり、義人は信仰によって生きる、と高らかに宣言します(1・16~17)。




神は真実な方である

2014年07月27日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ3・1~8/ローマ書連講(7)

パウロはここで彼の議論に割り込んできて反論する人々を仮定して語ります。〝「割礼も律法を守ればこそ意味があり、また、体に割礼を受けていなくとも律法の要求を行なうなら、割礼を受けている者と見なされる。外見上ではなく内面的なユダヤ人であること、体の割礼ではなく心の割礼こそが重要である」とするパウロの主張(2・25~29)が真実だとすれば、ユダヤ人であること、特に体に割礼を受けていることに何かの価値・益があるのか〟 との疑問を仮定します(1)。それに対しパウロは全く予期に反するように「あらゆる面から見て、大いにある」と答えます。そしてユダヤ人の優れた点の第一は「彼らに神の言葉(ロギア/約束・契約の言葉・聖書・律法)が委ねられた」ことと述べます(2/照9・4~5)。創世記3~11章は神に対する人類(ルカ3・23~38)の反逆が記されています。その人類の中から、神はアブラハムを選び、契約を結び、彼により全ての民族は祝福されると約束されました(創世記12・1~3)。時が移り、神はアブラハムの子孫、イスラエル=ユダヤ人を奴隷の地エジプトから脱出させ、シナイ山に於いて契約を結ばれました(律法・十戒/照 出エジプト19・3~8)。しかし、ユダヤ人は契約に不誠実でした。そのため彼らは他民族の祝福の源となるどころか、神を侮る不信仰な彼らのゆえに、神の名は異邦人の間で汚されたのでした(2・23~24)。

〝では彼らの不信仰は神の真実を無に帰するのでしょうか。絶対にそんなことはありません。いかにユダヤ人・人間が裏切り、信頼できないことがわかったとしても、神はユダヤ人に、また彼らを通して異邦人にもたらされた御自身の約束に真実であられます。神の真実は人間の側の誠実に依拠しないからです。たとえ全ての人間が神に対して不誠実であったとしても、神は御自身の契約、イエス・キリストによって成就したアブラハムへのお言葉に誠実であり続けられます〟(3~4)。

〝私の不誠実が神の真実を、私の不義が神の義を確立するなら、怒りを下す神は正しくない方なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。人間はみな偽り者、不誠実で信頼できない者であっても、神は真実な、御自身の約束に忠実な方であるべきです〟 。ですから人間は自分の罪の言い逃れはできないのです。神の義は私たちの不誠実・罪にも拘らず、神が御自身の約束に真実であり続けられることによって実現するのです。

御自身の契約・言葉に対する神のこの真実・誠実は、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリスト」(マタイ1・1)によって最終的に更新され、成就されました。反逆と不信仰を続けた人類とユダヤ人に対して、御自身の旧い契約にどこまでも誠実であり続けた神は、イエス・キリストにおいて新しい契約を全人類と結ばれます。それが信じる全ての人に救いを得させる神の力、即ちイエス・キリストの福音です。この福音のうちに、神の真実・神の義が・私たちの救いが明らかに示されているのです。これこそが「パウロの福音」です。





ユダヤ人と律法

2014年07月06日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ2・17~29/聖餐礼拝/ローマ書連講(6)

パウロはここでユダヤ人(この名称は先祖ユダ 〝ほめたたえる〟 に由来/照 創世記29・35)について記す。それは神がユダヤ人を愛し、ご自身の特選の民とされたのは、彼らがすべての人間に対して神(の御意志)を示すためであった(照 申命記7・6~8/考Ⅰペテロ2・9)。そのために彼らは神の律法を授かった。しかし、このことを誤解したユダヤ人は間違った選民思想に陥っていった。

この問題を取り上げて、パウロはユダヤ人に、あなたは自らユダヤ人と称し、律法を授かったと神を誇り、安んじ、律法により御心を知り、なすべきことを弁えているからと、闇の中にいる人の光、無知な者の教師であると自負している(17~19)。しかし、どうして自分自身を正視しないのか。盗むなと説きながら、自らは盗むのか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのか。偶像を忌み嫌いながら、神殿のものを盗んだことはないのか。あなたは律法を知っているが、それを守っているのかと、ユダヤ人の言葉と行為、うわべと現実の間の対照・矛盾を指摘します。そして、律法を持つことを誇りとするあなたの律法への不従順のゆえに、あなたを選び、律法を与えた神ご自身を侮り、その結果、神御自身が神を知らない異邦人の間で汚されている、と指弾します(20~24)。さらにユダヤ人の間違いを割礼(照 創世記17・9~14)に関して示します。体の割礼も律法を守ればこそ意味があるが、律法を破るなら、ユダヤ人のあなたも異邦人と変わらない。逆に体の割礼を受けていない異邦人が、律法の要求することを行なうなら、律法を持っているあなたと同じではないか。そして、体の割礼は受けていなくとも律法を行なう異邦人が、体の割礼を受けながら律法に背いているあなたを裁くことにならないだろうか。あなたが律法を持ち、それに精通し、また正式に体の割礼を受けていたとしても、律法を守り行なわなければ、それは何の役にも立たない。即ち、救いは血筋や体の割礼という外見上の事柄にはよらない(25~27)。「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではない。・・・外見上の割礼が割礼ではない。・・・真のユダヤ人とするのは内面的なものであり、・・・真の割礼は御霊によって心に施されるものである(照 申命記10・16、エレミヤ4・4)」(28~29)。

神に選ばれながら、ユダヤ人は「神から誉れを受ける」真のユダヤ人になることに失敗しました。それは彼らが、神に選ばれるという特権は責任を伴うこと、即ち自分が受けた神の恵みを、その恵みに基づいて、人生において具体的に生きるという責任を放棄したからです(考マタイ18・23~35/ローマ書の構成―教えと生活)。私たちはイエス・キリストの生と十字架の死と復活によって、罪を赦され、義とされ、霊のイスラエル・真のユダヤ人とされました(照ガラテヤ6・12~16/考マタイ5・20))。そのことを忘れず、感謝しつつ、主の招いてくださった食卓に着きましょう。そして恵みに応える現実の信仰生活をいたしましょう(照エペソ2・8~10)。




公正な裁き

2014年06月29日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ2・1~16/ローマ書連講(5)

神の怒りは、人間がその欲することをなすに任せる(引き渡す/1・24、26、28)という仕方で表わされた。その結果、人間は偶像礼拝へと走り、性的放縦に耽り、自己中心的生き方をさえ是とするようになった(1・18~32)。そのときパウロは 〝こうした罪は自分とは関係ない〟 と思い上がった人(代表ユダヤ人)を想定し、 〝ですから、すべて他人を裁く人よ・・・そうすることによって、自分自身を罪に定めているのです。裁くあなたが同じことをしているからです・・・〟 と言います。(照ルカ18・9~14/ヨハネ8・1~11)。さらにそのようなことを行なう人と、人を裁くことを常習的に行なっている人とに下される神の裁きは公正であると言明し、〝自分は神の裁きの圏外にあると思っているのですか〟 と戒め、神の慈愛と忍耐と寛容を軽んじず、悔い改めるように促します(2~4)。そして 〝悔い改めに導く神の慈愛を軽視し、頑な心を悔い改めようとしないことは、神の正しい裁きの現われる御怒りの日に、自分のために神の怒りを蓄えているのです〟(5)と警告します。

当時ギリシア・ローマ世界の中で、ユダヤ人社会は異邦人社会に比べたら道徳的水準が高かったことが知られています。特にローマに住むユダヤ人は他人=隣人を裁く傾向が強かったかもしれません(考 皇帝の生活/クラウディウス帝によるローマからの追放?49年、使徒18・2)。

その御怒りの日、神は各々の行ないに応じて報いをお与えになります(6)。7~10節、12~16節でパウロは 〝信仰のみによる義〟 と真向うから対立する 〝行ないによる義〟 を語っているのではありません。パウロはここで非キリスト教徒について考えており、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、律法を行なう者、良心の命令に従って正しく生きる者は、正しいと認められるが、罪を犯した者は裁かれる、と述べているのです。パウロはこの後に、人はみな律法、良心に示されている神の正しい要求を満たすことはできないことを明言します(照3・10、23/6・23)。換言すると、パウロは 〝行ないによる義〟 という広く一般に妥当する教えを肯定したうえで、その神の秩序が人間の罪・弱さのゆえに崩壊したこと、そして、この神の秩序を回復するために、神の力・奇蹟=キリストの十字架と復活の福音が要求されたこと、そのキリストの福音を信じる者は、ただその信仰のみによって義とされ、救われること、そして神の力たる恵みの福音によって救われたキリスト者は、その信仰に続く神が備えてくださる 〝行い〟 によっても義とされ、報いを与えられる、と言っているのです(照エペソ2・1~10/考アブラハムの義 ローマ4・1~5とヤコブ2・20~24)。そして「私の福音によれば、神の裁きは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れた罪を裁かれる日に行なわれます」(16)とパウロは記します。「隠れた所で見ておられる神」(マタイ6・4)は、人間の隠れたこと=罪を公正に裁かれるのです。隠れたことを見ることのできない人間は正しい審きはできません。だから「裁いてはならない」のです。裁くことは自らを神とし、主であられる神を忘れ、自らが神に裁かれることを見失わせるのです(照マタイ7・1~5/14・10~13)。

神の義と神の怒りが表裏一体となって啓示されている神の力なる福音(1・16~18)によって、神の裁きが行なわれることを知り、「ただ福音にふさわしく生活し」ていきたいと願います(照ピリピ1・27)。




人類の罪

2014年06月22日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ1・18~32/ローマ書連講(4)

〝福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。なぜなら、福音には、神の義が啓示されているからです〟(16~17) と語ったパウロは 〝不義を行なって真理を阻んでいる人々のあらゆる不信仰と不義に対する神の怒りが、天から啓示されている〟(18)と言い、3・20まで罪と裁きについて記します。その初めのきょうの部分を 〝異教世界/異邦人の罪〟 2・1以後を 〝ユダヤ人の罪〟 と区分けする人もありますが、説教題は 〝人間の罪〟 としました。

邪悪により真理を妨げている人間のあらゆる不信仰と不義が、神の怒りを引き起こすのは、人間のあらゆる邪悪が不信仰、即ち 〝神を認めないこと〟 或いは 〝偶像礼拝〟 から生じるからです。唯一の創造主なる神を認めず、被造物を神とすることは、十戒の第一戒に違反する不信仰であり、それに対して神の怒りは現わされるのです。なぜなら、神について知り得る事柄は、神が人間に明らかにされているからです。神の目に見えない本性、即ち、神の永遠の力と神性は、天地の創造の時から、被造物を通して明らかに認められるからです。従って、人間には弁解の余地はないのです(自然啓示/照 詩篇19・1~4)。なぜなら、このように人間は神を知っていながら、神に栄光を帰さず、感謝もせず、自分では知恵があると言いながら、愚か者となり、栄光の不滅の神の代わりに、人間や動物の形をした偶像を礼拝しているからです(19~23)。

「こういうわけで、神は人間を恥ずべき情欲に引き渡された(任せられた)のです」(24、26、28)。これが不信仰と不義の人間、偶像礼拝とそれに伴う不道徳な生き方を是認する人間に対する神の怒り・裁き・罰です(24~32)。神の像に創造されながら、創造の秩序を無視し、自ら神のようになろうとして堕落した人間。真理を偽りに替え、造り主の代りに造られた物を拝み、自然な用を捨てて、恥ずべきことを行なう人間を、神は滅ぼされませんでした。そして、神は人間をそのままに、人間がしたいようにすることを許容し、任せられました。こうして神は人間を自由に引き渡すことにより、人間の罪、即ち、不信仰と不義への怒り・罰とされているのです。これが啓示された神の怒りです。

神の像に造られながら、堕落した人間に、神は自然啓示と共に特別啓示(聖書とキリスト)を与えられました。良心と律法(十戒)は、神の思い・秩序、正邪について教えます。聖霊は細き声をもってそれと共に働きかけられます。その時、私たちは神の前に立つ自分の姿を見、恐れ戦きます。その時、気付き、知りましょう。私が滅び失せなかったのは、神の恵み・憐みによることを(哀歌3・22)。私が罪の中にありながら、滅ぼされなかったのは、私を自由に引き渡された神の寛容さのゆえであることを。そして 〝主は、誰一人滅びることなく、すべての人が悔い改めるようにと、私たちに対して忍耐しておられること〟(Ⅱペテロ3・9)を。それゆえに私たちは 〝神の慈愛と忍耐と寛容を軽んじてはならない〟(ローマ2・3)のです。




福音の力

2014年06月15日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ1・16~17/ローマ書連講(3)

挨拶と感謝、そしてローマ訪問の希望の序文(1・1~15)のあと、ローマ人への手紙の本文第一部 〝信仰のみによる救い・義=パウロの福音〟 について記すに当って、パウロは「私は福音を恥とはしません。福音は、ユダヤ人をはじめキリシア人にも、信じるすべての人にとって、救いをもたらす神の力だからです。福音には神の義が啓示されていて、その義は信仰を通して与えられ、信仰に向かわせるのです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」と、前節(15)と関連して、福音による義・救いの輪郭を予め描き掲げます(1・16~17/14~23節、別紙別訳参照)。

十字架につけられたキリスト(の福音)は、ユダヤ人にとっては躓き、異邦人[ギリシア人](ローマ人)にとっては愚かであることを、キリキアのタルソの出身で、熱心なパリサイ人であったパウロは誰よりもよく知っていました。同時にキリスト(の福音)は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、召された者にとっては、神の力、神の知恵であることも、ダマスコ途上で救われ、恵みの福音の使徒とされたパウロは体験的に知っていました(照Ⅰコリント1・23~24)。そのパウロが、大帝国の首都「ローマにいる神に愛され、召されたすべての聖徒たちへ」「私は福音を恥としません」と書きます。それは、福音が人間のあらゆる相異(人種・文化・背景等)を越えて、信じるすべての人に救いを得させる神の力だからです。人間の求めによらず、神の働きによるキリストの福音に現わされた超自然的な神の力は、信仰を通してユダヤ人でもギリシア人でも、あらゆる人にその恩恵、即ち人間の罪、死、審判からの救出をもたらすのです(照5・9~10、Ⅰテサロニケ5・9)。なぜ信じる者のみが、すべて救われるのか。〝なぜなら、福音に神の義が現わされ、その義・救いは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるからです。「正しい人は信仰によって生きる」(ハバクク2・4「信仰」(新改、新共)、「真実」(脚注)、「誠実」(フランシスコ会)。「堅固さ」「忠誠」を意味する。ここでは神とその言葉=福音を「堅く信じること」)と書いてあるからです(照ガラテヤ3・11、ヘブル10・38)〟。〝しかし、今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証された、神の義が示されました。それがイエス・キリストを信じる信仰による神の義です。それはキリスト・イエスの血による贖いのゆえに、価なしに、ただ恵みにより、罪人を義と認め、ご自身の義を現わされた神・キリストへの信仰によるのです〟(照3・21~26)〟 。この信仰についてパウロは 〝私たちの罪のために死に渡されたイエスと、私たちを義とするためにイエスを死者の中から復活させた神を、心で信じ、口で告白する信仰である〟 と語っています(照4・24~25、10・9~10)。

パウロが伝えたイエス・キリストの十字架と復活の福音を堅く信じ、告白し、義とされ、救いに与る者とされ、落ち着いた平安な信仰の歩みをいたしましょう。