ローマ書7・1~6/ローマ書連講(17)
キリストの救いとは、主イエスの死と復活を象徴するバプテスマを通して、キリストと結ばれ、罪に対して死ぬことにより、罪から解放(赦免)されることである(6・1~14)と言ったパウロは、そのことを奴隷制の比喩を用いて、〝以前は罪の奴隷であったあなたがたは、今は義の奴隷・神の奴隷となり、永遠のいのちに与っている〟(6・15~23)と、述べました。そして、ここ7・1~6で結婚制度の比喩を用いて、キリスト者は律法から解放されている、と説きます。
パウロは「あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるから、罪はあなたがたを支配することはない」(6・14)と言い、「律法の下にある」とは、〝罪に支配され、肉に従って生きること〟であり、「恵みの下にある」とは、〝罪と律法から解放され、(御霊に従って)生きること〟である、と述べました(6章)。パウロは律法が罪であることを否定し、聖なることを主張しています(照7・7、12)。しかし、神の心を示す律法が罪に支配され、律法に従うことによって自らを救うことができると信じさせるなら、それは律法の弱み・罪である。律法が罪の力を打ち破られ、人々を神と人間に対し正しい道に進ませるなら、それは律法の目的に適った強みである。問題なのは律法が働きかける人間である(照3・20、8・3)とパウロは言っているのです。かつては律法という主人に仕え、自分の義を誇っていた罪から解放(赦免)され、キリストにある神の恵みの福音を信じ、今は主(人)キリストの僕(奴隷)となったパウロ(照ピリピ3・5~11)が、律法からの解放を、妻と夫との関係から説明していきます。
「律法」(定冠詞なし/ユダヤ教律法・(ローマの)法律)は〝夫のある女は、夫が生きている間は、夫に結ばれている〟と定めています。そのことは、〝人が律法に従うのは、その人の生きている期間〟 だけであることを意味します。ですから、夫が生きている間に、他の男と一緒になれば姦通の女と呼ばれますが、夫が死ねば、律法から解放されたので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。この婚姻に関する(一夫一婦制/重婚の禁止)一般的な真理を知っている人々に、パウロは、キリストを信じる人(教会)を妻に、律法を夫に例え、死が結婚の絆を断つように、キリストと共に罪に対して死んだキリスト者は、もはや律法から解放されている、と言っているのです。
〝それは、あなたがたが、罪と死しか結実しなかった前夫・律法(アダム)の絆を断たれ、新しい人・キリストと結ばれ、神のために義の実を結ぶようになるためです〟(照ガラテヤ2・19~20)。かつて 〝肉にあったとき〟、即ち私たちが感覚的な欲求充足を人生の目的としていたとき、律法によって罪深い欲情が喚起され、死に至る実を結びました。しかし、私たちを拘束していた律法から解放され、今や、キリストの恵みの下にある私たちは、律法の外的規則に服従するという文字に従う古い生き方ではなく、御霊の内からの促しに従う新しい生き方において、神に仕えているのです(照8・9、エレミヤ31・31~34)。

キリストの救いとは、主イエスの死と復活を象徴するバプテスマを通して、キリストと結ばれ、罪に対して死ぬことにより、罪から解放(赦免)されることである(6・1~14)と言ったパウロは、そのことを奴隷制の比喩を用いて、〝以前は罪の奴隷であったあなたがたは、今は義の奴隷・神の奴隷となり、永遠のいのちに与っている〟(6・15~23)と、述べました。そして、ここ7・1~6で結婚制度の比喩を用いて、キリスト者は律法から解放されている、と説きます。
パウロは「あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるから、罪はあなたがたを支配することはない」(6・14)と言い、「律法の下にある」とは、〝罪に支配され、肉に従って生きること〟であり、「恵みの下にある」とは、〝罪と律法から解放され、(御霊に従って)生きること〟である、と述べました(6章)。パウロは律法が罪であることを否定し、聖なることを主張しています(照7・7、12)。しかし、神の心を示す律法が罪に支配され、律法に従うことによって自らを救うことができると信じさせるなら、それは律法の弱み・罪である。律法が罪の力を打ち破られ、人々を神と人間に対し正しい道に進ませるなら、それは律法の目的に適った強みである。問題なのは律法が働きかける人間である(照3・20、8・3)とパウロは言っているのです。かつては律法という主人に仕え、自分の義を誇っていた罪から解放(赦免)され、キリストにある神の恵みの福音を信じ、今は主(人)キリストの僕(奴隷)となったパウロ(照ピリピ3・5~11)が、律法からの解放を、妻と夫との関係から説明していきます。
「律法」(定冠詞なし/ユダヤ教律法・(ローマの)法律)は〝夫のある女は、夫が生きている間は、夫に結ばれている〟と定めています。そのことは、〝人が律法に従うのは、その人の生きている期間〟 だけであることを意味します。ですから、夫が生きている間に、他の男と一緒になれば姦通の女と呼ばれますが、夫が死ねば、律法から解放されたので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。この婚姻に関する(一夫一婦制/重婚の禁止)一般的な真理を知っている人々に、パウロは、キリストを信じる人(教会)を妻に、律法を夫に例え、死が結婚の絆を断つように、キリストと共に罪に対して死んだキリスト者は、もはや律法から解放されている、と言っているのです。
〝それは、あなたがたが、罪と死しか結実しなかった前夫・律法(アダム)の絆を断たれ、新しい人・キリストと結ばれ、神のために義の実を結ぶようになるためです〟(照ガラテヤ2・19~20)。かつて 〝肉にあったとき〟、即ち私たちが感覚的な欲求充足を人生の目的としていたとき、律法によって罪深い欲情が喚起され、死に至る実を結びました。しかし、私たちを拘束していた律法から解放され、今や、キリストの恵みの下にある私たちは、律法の外的規則に服従するという文字に従う古い生き方ではなく、御霊の内からの促しに従う新しい生き方において、神に仕えているのです(照8・9、エレミヤ31・31~34)。
