イザヤ44:1~6/I兄
イスラエル民族を神が創造し、歴史的に導いてきた神が、「今、聞け」と呼びかける言葉をイザヤが記録しています。神は、無から有を創り、神の霊と祝福をこれから注ぐことを宣言しています。バビロン捕囚の憂き目に遭っていたイスラエルは、いつかまた芽生え、「主のもの」との名を受けてよみがえるというのです。
冒頭の「今、聞け」にある「いま」という語ひとつだけ今朝は追究します。「いま」とは何でしょう。常識では「過去・現在・未来」と区切りますが、「いま」とは実は非常に幅の広い言葉です。「いま」は日常用語として、過去も未来も含むことがあります。計算的時間とは異なる、心理的な捉え方をしているようです。
さて「いま」どうすればよいでしょう。過去を悔やみ、未来を案ずるばかりです。人の知恵では、「いま」を精一杯生きることを究極とするのがせいぜいです(考・神道の中今)。
不完全ですが太陽と地球との喩えでイメージしてみることにします。太陽は永遠に存在する神だとします。地球は人です。その周りを公転しています。この運動で時間が生まれます。地球は、時間の中で始まり、終わる定めにあります。この地球の顔は太陽に背を向けて公転していますが、このままでは終わりは闇です。太陽は地球を回転させるよう呼びかけます。もし地球の顔が太陽の方を向けば、永遠の光と結び包まれます。
聖書では六百以上もの節に「いま」という語がありますが、そのとき二種類のギリシア語が使い分けられています。クロノスという語は、計測される「時間」を表します。クロノスによる「いま」は、過去や未来と区別されて切り取られるような現在に過ぎません。他方カイロスという語(照コリントⅡ六2)は特別な「時刻(機会)」を表します。アダム(創世記三22)以来、人はクロノスの時に閉じ込められていましたが、福音の時代、人はカイロスをもつことが許されるようになりました(照ヘブル三7-8,三15,四7)。
次に「今の時代」というイエスの言葉に注目します。永遠の神にとり、過去に消える「いま」はなく、未来の不定な「いま」もありません。神は時間の制約を受けません。人にとっての過去・現在・未来はすべて神には永遠無限の「いま」です。だから「初め」であり「終わり」なのです。ところが神は永遠を一旦捨てて、有限な人間の時間の中に介入してきました。キリストの十字架です。自分の闇と罪を知り十字架からの呼びかけに応えれば、光の中を歩み始めることになります。人は依然としてクロノスに縛られていますが、「いま」十字架を通して神と出会うそのカイロスにて、神の永遠の「いま」に復活するのです。
今日のイザヤ書をもう一度その眼差しで読みましょう。制約的時間の中に私は創られました。かつては乾いた罪の中にありましたが、神の霊が注がれました。命の水に潤う恵みを与えられ、「私は主のもの」と告白します。神の名が与えられ、古い自分が十字架に釘づけられた傷痕を遺しつつ、時間がもたらすあらゆる苦悩を超えた、永遠の「いま」を体験します。旧約聖書の成就した「すでに」とこれから新約聖書が成就する「まだ」との間を歩むための、カイロスとしての「いま」は、まさに「いま」、誰にでも備えられています。

イスラエル民族を神が創造し、歴史的に導いてきた神が、「今、聞け」と呼びかける言葉をイザヤが記録しています。神は、無から有を創り、神の霊と祝福をこれから注ぐことを宣言しています。バビロン捕囚の憂き目に遭っていたイスラエルは、いつかまた芽生え、「主のもの」との名を受けてよみがえるというのです。
冒頭の「今、聞け」にある「いま」という語ひとつだけ今朝は追究します。「いま」とは何でしょう。常識では「過去・現在・未来」と区切りますが、「いま」とは実は非常に幅の広い言葉です。「いま」は日常用語として、過去も未来も含むことがあります。計算的時間とは異なる、心理的な捉え方をしているようです。
さて「いま」どうすればよいでしょう。過去を悔やみ、未来を案ずるばかりです。人の知恵では、「いま」を精一杯生きることを究極とするのがせいぜいです(考・神道の中今)。
不完全ですが太陽と地球との喩えでイメージしてみることにします。太陽は永遠に存在する神だとします。地球は人です。その周りを公転しています。この運動で時間が生まれます。地球は、時間の中で始まり、終わる定めにあります。この地球の顔は太陽に背を向けて公転していますが、このままでは終わりは闇です。太陽は地球を回転させるよう呼びかけます。もし地球の顔が太陽の方を向けば、永遠の光と結び包まれます。
聖書では六百以上もの節に「いま」という語がありますが、そのとき二種類のギリシア語が使い分けられています。クロノスという語は、計測される「時間」を表します。クロノスによる「いま」は、過去や未来と区別されて切り取られるような現在に過ぎません。他方カイロスという語(照コリントⅡ六2)は特別な「時刻(機会)」を表します。アダム(創世記三22)以来、人はクロノスの時に閉じ込められていましたが、福音の時代、人はカイロスをもつことが許されるようになりました(照ヘブル三7-8,三15,四7)。
次に「今の時代」というイエスの言葉に注目します。永遠の神にとり、過去に消える「いま」はなく、未来の不定な「いま」もありません。神は時間の制約を受けません。人にとっての過去・現在・未来はすべて神には永遠無限の「いま」です。だから「初め」であり「終わり」なのです。ところが神は永遠を一旦捨てて、有限な人間の時間の中に介入してきました。キリストの十字架です。自分の闇と罪を知り十字架からの呼びかけに応えれば、光の中を歩み始めることになります。人は依然としてクロノスに縛られていますが、「いま」十字架を通して神と出会うそのカイロスにて、神の永遠の「いま」に復活するのです。
今日のイザヤ書をもう一度その眼差しで読みましょう。制約的時間の中に私は創られました。かつては乾いた罪の中にありましたが、神の霊が注がれました。命の水に潤う恵みを与えられ、「私は主のもの」と告白します。神の名が与えられ、古い自分が十字架に釘づけられた傷痕を遺しつつ、時間がもたらすあらゆる苦悩を超えた、永遠の「いま」を体験します。旧約聖書の成就した「すでに」とこれから新約聖書が成就する「まだ」との間を歩むための、カイロスとしての「いま」は、まさに「いま」、誰にでも備えられています。
