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香柏だより

福岡市東区の香椎バプテスト教会です。
聖書の言葉には、ひとを生かす力があります。
礼拝では手話通訳もあります。

いま

2015年02月15日 | 奨励要旨
イザヤ44:1~6/I兄

イスラエル民族を神が創造し、歴史的に導いてきた神が、「今、聞け」と呼びかける言葉をイザヤが記録しています。神は、無から有を創り、神の霊と祝福をこれから注ぐことを宣言しています。バビロン捕囚の憂き目に遭っていたイスラエルは、いつかまた芽生え、「主のもの」との名を受けてよみがえるというのです。

冒頭の「今、聞け」にある「いま」という語ひとつだけ今朝は追究します。「いま」とは何でしょう。常識では「過去・現在・未来」と区切りますが、「いま」とは実は非常に幅の広い言葉です。「いま」は日常用語として、過去も未来も含むことがあります。計算的時間とは異なる、心理的な捉え方をしているようです。

さて「いま」どうすればよいでしょう。過去を悔やみ、未来を案ずるばかりです。人の知恵では、「いま」を精一杯生きることを究極とするのがせいぜいです(考・神道の中今)。

不完全ですが太陽と地球との喩えでイメージしてみることにします。太陽は永遠に存在する神だとします。地球は人です。その周りを公転しています。この運動で時間が生まれます。地球は、時間の中で始まり、終わる定めにあります。この地球の顔は太陽に背を向けて公転していますが、このままでは終わりは闇です。太陽は地球を回転させるよう呼びかけます。もし地球の顔が太陽の方を向けば、永遠の光と結び包まれます。

聖書では六百以上もの節に「いま」という語がありますが、そのとき二種類のギリシア語が使い分けられています。クロノスという語は、計測される「時間」を表します。クロノスによる「いま」は、過去や未来と区別されて切り取られるような現在に過ぎません。他方カイロスという語(照コリントⅡ六2)は特別な「時刻(機会)」を表します。アダム(創世記三22)以来、人はクロノスの時に閉じ込められていましたが、福音の時代、人はカイロスをもつことが許されるようになりました(照ヘブル三7-8,三15,四7)。

次に「今の時代」というイエスの言葉に注目します。永遠の神にとり、過去に消える「いま」はなく、未来の不定な「いま」もありません。神は時間の制約を受けません。人にとっての過去・現在・未来はすべて神には永遠無限の「いま」です。だから「初め」であり「終わり」なのです。ところが神は永遠を一旦捨てて、有限な人間の時間の中に介入してきました。キリストの十字架です。自分の闇と罪を知り十字架からの呼びかけに応えれば、光の中を歩み始めることになります。人は依然としてクロノスに縛られていますが、「いま」十字架を通して神と出会うそのカイロスにて、神の永遠の「いま」に復活するのです。

今日のイザヤ書をもう一度その眼差しで読みましょう。制約的時間の中に私は創られました。かつては乾いた罪の中にありましたが、神の霊が注がれました。命の水に潤う恵みを与えられ、「私は主のもの」と告白します。神の名が与えられ、古い自分が十字架に釘づけられた傷痕を遺しつつ、時間がもたらすあらゆる苦悩を超えた、永遠の「いま」を体験します。旧約聖書の成就した「すでに」とこれから新約聖書が成就する「まだ」との間を歩むための、カイロスとしての「いま」は、まさに「いま」、誰にでも備えられています。




神の痛み

2014年08月24日 | 奨励要旨
エレミヤ31章20節/高田神学生

神はどのようなお方か。この問いはイエス様を信じる人は必ず持つのではないか。「神は愛です」(第一ヨハネ4・9)。その「神の愛」について考えてみるとき、旧約の預言の成就としての主イエスの姿がある(イザヤ53・4◯5)。主イエスは、私たちのそむきの罪・咎のために刺し通され、砕かれた。それは主イエス御自身にとっても苦しみであった(マルコ15・34)。父なる神は一体、どのようなお気持ちでひとり子を十字架に送られたのか。

エレミヤは、「涙の預言者」とも言われる。彼は、王や指導者層だけではなく同胞からも、預言の内容に無関心なばかりか敵対され、そういった中で神の恐ろしい裁きを受けなければならないことを悟った。それでもなお、彼は預言しなければならなかった。祖国の滅亡・人々の苦しみについて、常に彼は悲しみと苦しみをもって歩んだ。

本日の聖書箇所は、30・1から始まる、新たな預言である。この預言は、31・31にある「その日」へと向かっている。エフライムの歎いているのを、主は聞かれる。「エフライム」とはイスラエルのこと(出エジプト4・22)。エフライムは神様にとって初子であり、長子である(エレミヤ31・9)。エフライムは神様にとって特別な存在である。だからこそ、神様はエレミヤを召し、預言を行わせた。その結果、どうであったか。神様は自問自答されたのではないか(エレミヤ31・20)。そこには神様の激情、怒りにも似た感情が込められているようにも感じられる。エフライムのことを語るたびに、いつも必ずエフライムのことを思い出される。エフライムのことを常に心に留めておかれ、関心を払っていらっしゃる。「それゆえ」エフライムは神様にとって、大事な子であり喜びの子であった。しかしその子はどのような子であったか。エフライムのためにはらわたがわななき、あわれまずにはいられなかった。エフライムは、神様にとって、そのような子であった。日本語で「はらわた」と訳されている語は、幾つかの箇所で挙げられ、エゼキエル書では「腹」、子宮という意味や第二歴代誌では内臓という訳がされる。

ところで「はらわた」という日本語は、私たちがあまり日常的に用いる言葉ではない。国語辞書からは、心の奥底や、根本精神という意味でとらえることもできよう。英語だと「heart」となり、心臓や胸と訳すこともできよう。加えて本文では、ヘブル語で「ラーヘム」という動詞が用いられている。これは「とどろく」(イザヤ17・12)・「痛み苦しむ」(エレミヤ4・19)・「騒がしい」(イザヤ22・2)と訳される。そのことを勘案すると「心を痛める」といった意味であろうか。神様は、エフライムを愛しておられた。しかしそのエフライムは、神様に逆らい通しであった。本文から、神様にとって大事な子であるからこそ、神様はエフライムに激情を感じずにはいられないということがわかる。その激情は、怒りであるかも知れない。しかしそれ以上に、愛するが故の痛みであり苦しみがあったのではなかったか。「はらわた」という語の用例では「はらわたが煮えくりかえる」というのがある。これは、腹が立って我慢できないことを言う。また、「はらわたがちぎれる」というのがある。悲しくて我慢ができないことを言う。「はらわたを絞る」では、堪えきれないほどの悲痛な思いに襲われることを言う。似た意味で、「断腸」というのがある。これらの表現には、私たちが真剣に求めていることや案じていることが切実であればあるほど、事態が悪化していくのを眼前にすれば、そこに堪えきえない悲しみ、苦しみが読み取れる。それは身体的に、鋭い痛みを伴ったのではないか。

神様のエフライムに対する想いは、それほどまで切実であられた。しかしエフライムは逆らい続けた。人間ならば、親子の縁を切ることもある。神様はそのようにはなさらなかった。むしろ、御自身に立ち返ることをお求めになられ、預言者を遣わして何度も、悔い改めをお求めになった。そして旧約の預言の成就として、私たちの主イエス・キリストをこの世に遣わされ、十字架の贖いによって私たちを立ち返らされた。エフライムをご覧になった神様の痛みは、ひとり子イエス・キリストを十字架に渡される時、どのようであったか。また主イエス・キリストは、私たちの罪をも負われ、嘲りを一身に受けて十字架にお架かりになった時、どのようであったか。私たちの無惨な現実に、「はらわたをわななかせる」までに思いをもっておられたお方がいらっしゃる。私たちに一方的に救いをお与えになったお方が、どのような痛みをもって私たちを招かれたのか。神様が私たち一人をどのように愛されているか。そのことを覚えて、更にそれぞれの歩みを歩めて行きたい。




外套――夏のキセキ――

2014年08月10日 | 奨励要旨
列王記第二 二1~15/伝道礼拝/I兄

古代の衣服文化における外套を模索するわけではありません。暑い夏ですが、この礼拝を通じて、私たちの着る外套について考えるひとときを過ごしましょう。

エリヤは紀元前九世紀ごろ、北イスラエルで活躍した大預言者です。その外套でヨルダン川の水を打つと水が分かれたという奇蹟が今日の場面です。旧約聖書の中で「外套」と訳されうる語は三つ。①出エ三22・一二34・申命二二3 ②ヨシ九5、13・王上一一29~30③王上一九章・ゼカ一三4。新約聖書も三つ。①テモ下四13 ②ヘブ一12③福音書(後述)。

農作業中のエリシャに、かつてエリヤは外套を掛け、従者としました。その後間もなく、このエリヤの昇天の場面になります。エリヤはエリシャを連れてギルガルから出て行きます。エリヤはエリシャにここにとどまれと命じますが、エリシャは離れないと答え、ベテルに向かいます。同様にまたエリコに行き、三度目にはヨルダン川へと向かうことになります。エリヤが外套で水を打つと、水が分かれて二人は歩いて東側に渡ることができました。突然火の車と火の馬が現れ、エリヤは天に消えます。遺された外套をエリシャは拾い、エリヤのように川の水を打つと水は分かれ、西へ戻りました。エリシャも奇蹟を行ったのです。

水が分かれる奇蹟とくれば、出エジプト記の出来事が有名です。出エジプトのときモーセにより葦の海が分かれた(出エ一四)のが第一の奇蹟。次にヨシュアが民を率いて約束の地に入るとき、ヨルダン川の水が分かれた(ヨシ三)のが第二の奇蹟。このときヨシュアが記念の石を立てたギルガルから来たエリヤが外套で水を打ち、ヨルダン川の水を分けたのが第三の奇蹟。そしてエリヤが昇天し、受け継いだ外套でエリシャが第四の奇蹟を行います。奴隷状態から自由を得た出エジプトは、信仰の歩みからすると「救い(義認)」にあたります。しかし信仰生活は次に、ヨルダン川を渡ることに象徴される「聖化」という勝利の段階を経験していきます。聖書を説き明かすには神との「出会い」の経験が不可欠です。

ヨルダン川でバプテスマを受けたイエスの名は「神は救い」という意味をもちますが、それはヘブライ語のヨシュアのことでした。そしてエリシャにもまた「神は救い」の意味があります。エリシャは起こした奇蹟の数の点で随一の預言者です。恐らく赤かった火の車と火の馬とをエリシャがたしかに目撃してエリヤの賜物を受け継いだことと、イエスの赤い血を目撃して救われた私たちの姿とを重ね合わせてみましょう。

新約聖書の福音書で登場する「外套」(マタ二七27以下・新共同訳)は、イエスが着せられたものです。酷い十字架刑を前に、緋色の外套で王様だとからかわれました。このイエスとの「出会い」を経験したならば、神によって人は「救い」に入れられます。

エリシャはエリヤの後継者として、外套を受けました。教会も後継者を必要とします。二人を見守っていた預言者仲間は、エリシャがエリヤの霊を受けたことを認めました。他方、クリスチャン一人一人もキリストなる外套を着て(ロマ一三14)、キリスト者として見られます。キリストという礼服(マタ二二12)を受けたのです。これは絶大な奇蹟です。越えられないヨルダン川はありません。キリストの外套で水を打ち、約束の地に続く道を見せる奇蹟を、神は準備しています。夏の奇蹟は、もう起こり始めています。それが見えますように。




奴隷

2014年06月01日 | 奨励要旨
ペテロの手紙Ⅰ二16/出エジプト記二一2~6/I兄

 自由を悪の口実として用いず、神の奴隷として用いよ。結論はこれに尽きます。ペテロ書だけでなくパウロも語っています(ローマ六20~23)。罪の奴隷であった時は義について自由であったがそれは死に至る。今は神の奴隷となり永遠のいのちへ至る。「奴隷」とは、なにものかの所有物として支配されている状態またはその人を指します(参考・奴隷制度)。その対極にあるのが「自由」です (参考・ドゥロス号) 。

 新約聖書の中に「奴隷」と訳された語は百回以上登場しますが、日本語訳の多くは「しもべ」と表しています。類語の「召使い」の意味の語は、後に「執事」を表すようになりました。教会の執事は「仕える者」です。

 奴隷により経済が成立していたローマ帝国において、奴隷は解放される可能性もありました。「自由」の語は「解放」と同じです。「自由」はギリシア文明以来民主制に関わる社会的概念でしたが、独裁や放蕩に流れ落ちる危険性が懸念されていました。中世のキリスト教神学では人間の自由意志が問われました。ルネサンス期以降、経済の発展と活動の拡大、個人の確立と共に、自由が重視されるようになり、カントは「自由」を根拠づけようとしました。それは理論的に証明はできないが実践的に認められるとし、「選択の自由」「意志の自由」、さらに根本的に「理性の自律の自由」が大切であると告げ、近代思想の基盤となりました。

 その近代を超えた現代、私たちは本当に自由でしょうか。逆に拘束され、奴隷のような感覚で世の労に苛まれていることがないでしょうか。また、自分の「選択」や「意志」が自由だと思い込んでいながら、その実なにものかに操られ支配され動かされている、ということがないか考えましょう。悪魔の誘惑は荒野のイエスにだけ起こるのではありません。すり替えられてなお気づいていない可能性があります。いつしか富に、あるいはまた正義にさえ、支配されていやしないでしょうか(照・ルカ一六13・ヤコブ三8・ローマ六20)。

 出エジプト記二一章の、奴隷を七年目に自由にする律法はユニークです。これが同胞の奴隷である点、十戒を授けた直後の規定である点にも注目しましょう(照・サムエルⅠ八17)。自由にされる七年目、妻子と共にいたいゆえ主人の許に奴隷としてとどまりたいと願い出る場合、戸口で耳を錐で刺されることで、主人にいつまでも仕えることになるといいます。奴隷の印をつけられて、その主人のものとなるのです。有名な「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する」(『キリスト者の自由』ルター)を味わいましょう。同時にキリストの姿を思い起こしましょう(照・ピリピ二6~7・コリントⅠ七22)。

 奴隷(しもべ)として歩んだイエスは、すべての王となりました。このイエスを信じる者は、罪から解放され自由にされました。右の頬を打たれたら左の頬を向けよ、などというイエスの言葉は奴隷道徳だとの批判もありましたが、ただの忍耐と違い、自らそれを選ぶのは真の自由です(照・詩四〇6・ガラテヤ五1・ヨハネ八34+32)。イエスの自由の歩みとして、福音書を再び読みたいものです。偽りの自由と真理の自由、そして罪の奴隷と神の奴隷、これらの違いを体験してこそ、キリスト者は恵みを知っていると言えるでしょう。




そしてわたしについてきなさい

2014年03月23日 | 奨励要旨
ルカの福音書9章23~27節/T神学生

与えられる使命に向かって歩むこと。これは神学校で学ぶものや、牧会者だけにあることだろうか。

弟子の12人を旅に送り出し、5000人の給食、ペテロの信仰告白、ご自身の死の予告。その後、23節からの展開が与えられる。9章23節~27節の特徴として挙げられるのは、まず23節で「だれでもわたしについて来たいと思うなら」という呼びかけがある。4節では23節を受けての「自分のいのちを救おうと思う者」と「イエスのために自分のいのちを失う者」の対比がある。25節では、24節の呼びかけに応答しない者を指して言っている。26節では、イエスとイエスのことばとを恥と思う者に対して、イエスも恥とすると明言する。27節では、そういったことがあっても「しかし」、とイエスは真実を告げられる。どうして27節で真実が告げられるのか。ここで「神の国」とは、何を指しているのか。

23節の並行記事は、マルコ8章34節とマタイ16章24節がある。どちらも「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」である。この三つの記事に特徴的なのは、ペテロの信仰告白があること。イエスが何者であるのか、を明らかに告白している。そしてルカにのみ、「日々」という語がついている。日常をあらわしているのだろう(参照:ルカ11:3;16:19)。次に「十字架を負う」は、ルカ23:26ではクレネ人シモンが十字架を負わせられている。一方マタイ27:32では、むりやり背負わせるとある。ルカ23:41の罪人が言うように、自分のしたことの報いとして理解される。十字架を負うということは、自分のしたことを負って受ける刑罰のことである。しかしイエスは、罪に定められることがないにも拘らず、十字架を負わせられた。イエスの負われる十字架は、「みなの者」には明らかにされていない。

24節では、自分のいのちを救おうと思う者と、イエスのためにいのちを失うものとが述べられる。並行記事を確認してみよう。マルコ8:35「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」イエス様と福音が同列であるとされている。イエス様のためにいのちを失うということは、福音のためにいのちを失うことでもあり、自分のいのちを救うとは、福音によっていのちを救うということ(参照:マタイ10:39;マタイ16:25)。このようにイエスのために、福音のためにいのちを失うということは、自分のいのちをものとし、いのちを見いだす。失ったのに自分のものとする、見いだす。それは一体どういったことか。25節、この人とは、あらゆる人のことを指している。26節では、イエスとイエスのことばとを恥と思う人たちに対して、述べられる。(参照:ルカ8:38;マルコ8:38;;ルカ12:8;9)

27節、神の国を見るまでは、決して死を味わわないというお約束を下さる一方で、それは全員ではないという厳しさが並存している。イエス様がこうお語りになっている時、イエス様がこの後、十字架におつきになるということを知っていた者はいたか。並行記事では、ペテロはイエス様をいさめようとして、逆にイエス様に叱り飛ばされている。「神の国」とはどういう意味か。神の権威にある支配という意で、解釈する。それは、これから後のイエスの復活とペンテコステの出来事にある証拠で明確となる。それでは、彼らは「神の国」を、それまで見ることがないのか。既にイエス様は、ご自身をおあらわしになっている。私たちはイエスが十字架にお架かりになり、福音が完成しているところから、物事を見ている。イエスはご自身の負う十字架を日々、負っておられた。何の罪咎のない方が、十字架を負われた。その十字架は一体誰が負うべきであったか。イエスの救いのみわざが成し遂げられた今、明らかではないか。私たちは世にあって、様々な苦しみにあう。どのような立場にあっても同様である。私たちは十字架を負って下さったその方の歩みを日々覚え直して、歩む。




不安と平安

2014年02月09日 | 奨励要旨
ヨハネ14・26~27/合同伝道礼拝/K兄

自分が持っているものが時代遅れなのではないか、という不安を操ることで、企業は新製品をどんどん売りさばいてきました。しかし、不安によって他人を縛ることも、他人に縛られることも、聖書的な生き方として聖書は語っていません。聖書が、人を行動へとうながす方法は、不安を操るという方法とは異なり、愛による支配を語っています。愛は、人を不安によって支配したり、拘束することができません。「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです」(1ヨハネ4・18) 

それでは、平安とはどのようなものを言うのでしょうか。それは、幼子が親に頼って得ているところの、そのような平安だというのです。人が生まれて初めて味わう不安は母親がいなくなってしまう不安です。聖書にこんな御言葉があります。『まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように御前におります。』(詩篇131・2)ダビデは、私の状況は厳しい、環境は厳しい、落ち込む、辛いことばかりだ。けれど、お母さんに抱えられている幼子のように、私は、神様から安らぎを得ます、と言っています。イエス様が与える安らぎは、乳飲み子が、お母さんの腕の中でしっかり抱かれて守られているというそのような平安です。

次に、イエス様は、真理からやって来る平安と言われました。『イエスは彼に言った。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません』(14・6)。弟子の一人(トマス)がイエス様に尋ねました。これから何が起こるのですか。わたしの未来はどうなるのですか。イエス様は、あなたは人生の指針、糧、拠り所が分かっていないけれども、私は、あなたにそれを提供します。私が人生の生きる道です、そして真理ですと言われました。私たちは、真理に逆らっては何もすることも出来ず、真理のためなら何でもできるのです。(Ⅱコリント13・8)もしあなたが、キリストは真理であると、確信を持って、本当の真理を持っていたら、あなたの心に安らぎがやって来ると言われました。

それから又、罪の許しから来る平安があります。実は、14章で、イエス様は弟子たちに、安らぎの秘訣を語る前に「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。」(13・10)と言われました。イエス様は、あなたが信じる前、信じた時、それから、信じた後、永遠まで、あなたの罪を許されたのです。ですから、私達は全身きよいのです。これを聖書では「義認」と言います。義と認められた、ということです。本当は義人ではなく罪人だけど、義人と認められたと、これを「恵み」と言うのです。

又、イエス様は、真理の御霊によって来ると言われます(14・17)。御霊の働きは ガラテヤ5・22、23 を見ますと『御霊の実は、愛、喜び、平安』と書いてあります。ですから、変わらない、色あせない安らぎは、御霊の助けによるのです。

このようにイエス様は、ヨハネ14章を通して、安らぎは、このようにして来るのだと約束して下さったのです。そして、これがキリストの十字架の身代わりの死による愛を知っている者の生き方であり、人生を切り開く動機づけなのです。




いのちのことば

2013年11月17日 | 奨励要旨
ヨハネの福音書6・59~71/I兄

言葉に対する関心の強さを感じます(ことばおじさん梅津正樹氏)。言葉はコミュニケーションのため、また思考のために使われます。ただし同じ言葉でも解釈は多様で、時にパラドックスも生じます。ことばで書かれた聖書に今朝も心を傾けましょう。

五千人にパンを施したことで期待されたイエスは、自らを「いのちのパン」と称しました。ユダヤ人たちは「ひどいことばだ」と背を向けます。しかしイエスは霊と肉とを対比させ、イエスが「話したことばは、霊であり、またいのちです」と告げました。

この意味を悟らない人々がいます。それが「信じない者」です。必ずしもユダ一人ではありません。たとえそこにイエスを見ていても、聖書について多くの知識をもっていたとしても、イエスに出会い永遠のいのちを得ているとは限らないのです。十二弟子が「あなたがたも離れたいと思う」のか尋ねられたとき、ペテロが答えます。イエスのほかについていくべき人はいない、あなたは「永遠のいのちのことば」「神の聖者」だと告げます。

聖書には他に「いのちのことば」と訳されている箇所が三つあります(ピリピ2・16/使徒5・20、7・38)が、それぞれの「ことば」のギリシア語が異なります。「いのちのことば社」の名の由来であるピリピ書だけが単数形の「ロゴス」です。これは「初めに、ことばがあった」(ヨハネ1・1)の時と同じです。ロゴスは理性や根拠を意味する語で、ヨハネはおそらく旧約聖書の「知恵」になぞらえてこのギリシア語を選び、イエスを表しています。そしてこれが新たな律法・愛の福音だと考えています。しかし、ペテロがここで告白した「永遠のいのちのことば」のときは(使徒5・20と同じく)「レーマ」の複数形(レーマタ)が使われています。「語られた言葉・内容」をイメージさせる語です。

皮肉なようですが、イエスから離れた人々が発した「ひどいことばだ」はロゴスでした。ペテロはまだイエスをロゴスと呼んでおらず、「神の聖者」と言ったその語も、聖書では、悪霊や汚れた霊がイエスに向けて言うときの言葉と同じです。もっともらしい言葉、口先だけの空しい美辞麗句はいりません。聖書やキリストの言葉を聞き知っている、知識がある、というだけであってはならないのです。

まだこのときペテロはキリストに「出会う」経験をしていなかったのではないでしょうか。真に相手の権威を知り、それにより自分が変わる体験をする、そういう「出会い」がこれから必要でした。語られたレーマタを通して、ロゴスと出会ったとき、ペテロはイエスに従い行くことができました。聖書や福音について理屈でよく分からないことがあったとしても、キリストに出会い、キリストに従うこと、キリストから離れないことが大切です。

すると次に他の人々にもこの出会いを経験してほしくて、福音を知らせるために世に遣わされて行くことになります。いのちなるイエスの話したことば(レーマタ)もやはりいのちのことば」です。あと一人でもロゴスなるイエスとの出会いができるように、と必死の叫びをすることが、私たちに求められています。ことばによってことばと出会い、ことばを叫ぶよう、私たちは祈られているのです。




イノチノモチ

2013年08月04日 | 奨励要旨
ヨハネの福音書6・32~35/T神学生

陪餐に与る者は、回ってくるパンとぶどう液を受け取り、それを牧師の読む聖書箇所を静かに聞き、その後に味わう。一見すると、ただのパンのかけらとほんの少し入ったぶどうジュースと見られるかもしれない。しかしそのパンのかけらとぶどう液には、深い意味がある。

本日の説教題は、日本伝道が本格的に始まる前のヨハネの福音書翻訳から取った。K.ギュッラフというドイツ生まれの中国宣教師の方が、日本宣教の思いを暖め、日本人漂流漁民3人から日本語を学んで翻訳したものである。その中で、ヨハネの福音書6章35節の「生命のパン」を「イノチノモチ」と訳している。

「イノチノモチ」、これが「生命のパン」を必ずしも正しくあらわしているとは言えないが、当時の日本において「パン」という食べ物が理解できない中で、様々な思い巡らしの中で与えられた訳語であろう。そして私たち日本人にとっての「イノチノモチ」すなわち「生命のパン」について、自分たちのこととたぐり寄せながら見ていきたい。

 6章には、ガリラヤ湖での5,000人の給食がある。その後、弟子を先に舟に乗せ、湖の上を歩かれて、共に舟で目的地にいらっしゃる。到着後、イエス様を捜してきた群衆と対話が行われる。本日の説教箇所はここからとなる、この対話を通して群衆の中のユダヤ人たちは議論しあい、弟子たちのうちの多くの者が「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」と言って離れてしまい、12弟子たちのみが残される。しかも残された弟子たちの中にも、悪魔に心を売った者がいるということが述べられる。つまり、イエス様がおっしゃる「わたしがいのちのパンです」という意味を理解し、それに与ることが求められる。

6章の1◯58節までを概観するように見ていく。大勢の人がイエス様に従っていき人々にパンを与えるには、とピリポにおっしゃる。ピリポは200デナリのパンでも足りない、という。(1デナリが1日分の賃金で(参照マタイ20:2)、香油が300デナリ(参照ヨハネ12:5))少年が大麦のパンを5つと小さい魚を2匹、持っていた。大麦は貧しい人々の共通した食べ物であった。主は、誰もが食べる日の糧として、そのパンを受け取られた。イエス様がお与えになったパンは、実際に人々の満足を満たした。その結果、人々は王として連れて行こうとし、イエス様はそれを避けて山に退かれ、湖の向こう岸のカペナウムに渡られる。

追いかけて来た群衆は、イエス様を見つけ、物理的なもしくは物質的な利益を与えて下さったことにおいて、イエス様を捜す。イエス様は27節で、なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」とおっしゃる。イエス様がわたしたちにお与えになるものは、神様が公式に認証してくださっている。彼らは、旧約聖書のマナの記事を取り上げて(参照:詩編78:23;24;105:40,出エジプト16:4;15,ネへミア9:15)、イエス様を信じるためのしるしを求める。それに対してイエス様は、神様がモーセを通して与えられたパンと、ご自身を通して与えられるパンとは質的に異なることを示される。イエス様がお与えになる「パン」は、まこととおっしゃる。そのパンは、神のパンですと。人々は、「いつもそのパンを与えてくれるように」と言う。彼らは、目に見える、食することのできる、「神のパン」があるものと思った。イエス様は「わたしがいのちのパンです」とおっしゃる。主は、人々の霊的に深い熱望を満たし、人々を養うということをおっしゃる。その意味において、彼を信じる者は空腹にならない。しかも、信じる者の霊的な熱望は、神を知ることによって、満たされる、とおっしゃる。またご自身のところに来る者を決して捨てない、ともおっしゃる。そして、イエス様を信じることによって終わりの日によみがえらされることをおっしゃる。

更にご自身の肉を食べ、ご自身の血を飲むことを求められる。ご自身の肉を食べるとは、イエス様を信頼すること、信じることという霊的な意味がある。血とは、イエス様がこの後、人間の罪を負って十字架にかかり、贖いの死を遂げる際に流された血を意味し、そのことを受け入れることである。これらを「食べる・飲む」ということを通して「味わう」ということ、聖餐式に「与る」ということの意義をもう一度振り返り、確認して、本朝の導きを頂いていることに感謝を覚え、聖餐式に向かいたい。





あなたは人の子を信じますか

2013年07月28日 | 奨励要旨
ヨハネ9・35~37/T神学生

イエス・キリストにある者として相応しいものなのか。それはキリスト者であれば、おそらく誰もがそう考えることがあるのではないか。「自分には神様と向き合う資格がない。自分は汚れているから。」と。私たちは、どうして神様を求めるのだろうか。それぞれが生きてきた中で、どうしても神様を認めざるを得ないことが与えられたからであろう。盲目であったその人はどうであったのだろうか。

9章は、1章まるごと、生まれつきの盲人とイエス様との対話、場面展開となっている。イエス様のなされたわざから、彼が様々な展開を辿り、そしてまたイエス様にお会いする。時間にしてみればおそらく1日か数日、しかし彼は人生の激変を経験する。この1日か数日は、もしかすると私たちの人生そのものではないか。

1節でイエス様は道の途中で、生まれつきの盲人を見られる。イエス様は彼を見られ、そしてここから、全てが始まる。2節では、弟子たちが盲目に生まれついたことに、誰かの罪によることかと問いている。当時においては、現代の想像以上に厳しかったのではなかろうか。(参照Ex20:5;Num14:18;Deu5:9)外見から判断できる盲目の人。それについて主は「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」とおっしゃる。

「神のわざがこの人に現れるため」このためにイエス様は彼に目をとめられる。彼はイエス様の指示に従って行動し、そして、見えるようになる。彼は「見られる」という立場から「見る」という立場に逆転する。彼を見ていた人々は、彼の目が開かれた時、その事実から全く変えられた彼の姿を見る。人々は混乱し、その中で当人が「私がその人です」と言う。彼だけが、その身におこったことを理解する。

主は、この奇跡を安息日に起こされ、ユダヤ人に安息日の要求が切り替わったこともお示しになられる。(参照:ヨハネ5:17;マタイ12:8)。イエス様はユダヤ人に、ご自身が安息日の規定を解釈する権威を持っていることを、認めるよう求めた。そこで律法に厳格なパリサイ人にあっても、この奇跡をどのように解釈したらよいのか紛糾する。意見が分かれて収拾がつかなくなる。そこで彼に質問する。これまで彼に行われてきた事実関係でなく、彼自身が主をどのように思っているのかと。彼は「あの方は預言者です。」と答える。自分の身に起こったことはただ事ではないと、彼のみが理解し得た。

ユダヤ人たちは、彼の両親を質す。両親は、彼が生まれつきの盲人であったことを証明し、保身とも取れるが自分のことは自分で話すと息子を突き放す。彼は目が開けられ、見えるようになった結果、様々な人々に証しし、その結果パリサイ人のところまで連れて来られ、身内のものから見捨てられる。ここでパリサイ人は、17節で彼が証ししたことの否定・転向を求めた。彼は自分の知っていることだけを告げる。そして、自らの意志を持って見ているということを、実感をもって言う。自分に身に起こったことを、ただ述べる。そして彼はパリサイ人を怒らせてしまう。しかしそのことで、彼は理解する。モーセの弟子を自認する人々でありながら、私の目をお開けになったお方のことを理解し得ないと。(参照:詩編34:15;同66:18;同145:19)。更に彼から確信に満ちた言葉が出る。32節。(参照:ヨハネ3:2)私たちはイエス様によって変えられ、そのことに確信をもって向き合うことが求められる。しかし彼は、直ちに共同体から追放される。

イエス様はそのことをお聞きになると、生まれ育った環境から放り出された彼を、見つけ出される。今まさに、彼が求め続けていたお方がそこにいる。まことなるお方とお会いした時、人はどうするか。彼はイエスを拝した。(参照:ヨハネ4:20-24)。まことなる御神にお会いして、礼拝できる喜びに至った。神と向かい合うこと。私たちが信仰を告白するお方は、このようなお方なのである。





私の敵

2013年06月09日 | 奨励要旨
詩篇41・1~13/ヨハネの福音書13・18/CS合同伝道礼拝/I兄

聖書は、神がその思いを、人の手を用いて記したものと私たちは信じていますが、中には詩篇のように、人間から神への祈りや思いが強いものもあります。詩篇41篇を今、三つの点からとらえてみましょう。まず、この詩篇は、「病気の人の慰め」となります(詩41・3)。人に見放された絶望の中でも、神は見放していないという望みとして受け止めたいものです。

次に、「裏切った敵」に注目します。この詩はダビデの作とされています。ダビデは神に祝福され、イスラエルの栄光を築いた王として、後の人々にも慕われました。しかし、ダビデ自身は聖人君子ではありませんでした。過ちをたくさん犯し、子育てにも失敗しました。部下にも裏切られ、そのときのことがこの詩に描かれている、と見られています。
 その裏切りの箇所(9)は、新約聖書に引用されています(ヨハ13・18)。イエスを裏切ったユダのことが、この詩と重ねられています。ただし、ユダだけが悪いのではありません。「裏切ります」(ヨハ13・21)は、イエスが「引き渡される」とあるのと同じ語です。
 
詩篇の作者は、「私の敵」(5)に呪われても、「私の敵」(11)は勝利を収めないことを確信していました。あなたにとって、「敵」は誰ですか。子どもたちのヒーローには、様々な敵がいます。はっきりした敵がいるからヒーローが活躍できます。芥川龍之介は『桃太郎』で、桃太郎を鬼ヶ島の平和を荒らす敵として描きました。争いは互いに相手を敵とします。

詩人は、病気の自分を呪う「敵」に、「仕返し」(10)を願っています。敵に災いあれと祈ります。旧約聖書の時代、それはよくあることだとしても、これを新約聖書の背景で読むと、私たちは違和感を覚えます。「汝らの仇を愛し、汝らを責むる者のために祈れ」「人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ」(マタ5・44、39/文語)とどう調和するでしょうか。いや、詩人も自ら仕返しをするとは言っていません。「復讐するは我にあり」(ロマ12・19/文語)です。それでも、仕返しを願うことにはためらいを覚えて然るべきです。

イエスは、先の赦しの教えの直後に、「さらば汝らの天の父の全きが如く、汝らも全かれ」(マタ5・48)と結んでいます。人間に可能とは思えません。詩篇41篇には、この後まるで「私は正しい」と言っているような言葉が続きます(11~12)。これは本当にダビデその人なのでしょうか。これに相応しい人は、審きのためにいずれ再び来る、キリストのほかにいないのではないでしょうか。人の祈りであるような詩篇も、神の言葉として聖書に掲載されているからには、イエスの視点や立場がそこに描かれていることがありうるのです。

最後に、「本当の敵」について考えます。「私の敵」の「私」は、いつの間にかイエスの姿と重なって見えてきました。すると、この「敵」はイエスの敵です。イエスの敵とは誰でしょう。それは「わたし」です。イエスは、十字架の上から見つめています。「敵を愛せ」と言ったその本人です。イエスだけが、その言葉を完遂することができます。敵と自覚する者だけを、キリストは赦すべき敵だと認めます。罪に苦しむ病は、完全に癒されるのです。




かわりたい

2013年02月10日 | 奨励要旨
ルカの福音書一八・三五~四三/I兄
 
イエスという名は「神は救い」を意味し、地上で教えを伝えて旅した中で、多くの人に「癒し」を施しています。重複記事を含めて、福音書には六十近い癒しの記事が載せられています。誰も近寄らないような病気の人に触れたというだけでも、イエスの愛が伝わります。今日は、やがてエルサレムに入り十字架につけられますが、そのほぼ最後の癒しの記事です。
 
古い歴史のあるエリコの町に近づいた時のことでした。盲人が道端で物乞いをしています。イエスを迎える騒ぎの中で、彼は「ダビデの子のイエスさま、私をあわれんでください」と叫びます。周りに制されてもますます叫ぶその声がイエスに届きました(参考・チマッティ神父のオペレッタ『エリコの盲人』)。
 すでに信じた方も、かつてこの盲人のように、必死でイエスに救いを求めて叫んでいたのではないでしょうか。しかし、クリスチャンとなってしまうことへのためらいがある場合もあります。今の自分から変わりたいという気持ちはあっても、変わってしまう生活への恐れや不安を抱くことがあるのです。
 
視覚障害者(ディディムス・塙保己一・ミルトン/参考・石川倉次・小西信八・好本督・鈴木彪平)が当時辛かったのは、見えないこともさることながら、社会的な差別の故でもあった可能性があります。見えないのは罪のせい、神罰であるとして冷遇された時代(マルコ10・46「バルテマイ」/ヨハネ9章)。また、障害者は作られることもありました。
 
イエスはこの盲人に「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねます。盲人は、「(再び)目が見えるようになること」だと答えました。見えるようになったら、これまでの生計が危うくなりかねません。それでも変わりたいのかどうか、生活の一変の覚悟ができているかどうか、イエスはテストしたのかもしれません。
 
偶像を拝む民は盲目と見なされます(イザヤ42・18~20)。群衆から見れば、この騒ぐ盲人は迷惑でした。イエスのお通りには邪魔だ、黙らせよう、と考えることは、今でもありそうなことです。しかしイエスは、その群衆を盲人に仕えさせます。常識人で正義に属すると自称する群衆をルカは批判しています。
 
キリスト教そのものは、現代社会で必ずしも悪い危険なものだとは見なされていませんが、これを敢えて信仰しようとする人は多くはありません。これまでの生き方を棄てて変わることへのためらいが少なからずあるように見えます(ヨハネ3・3/参考・創世記12・1と22章)。しかし、イエスはあなたが本当は何をしてほしいと思っているのか問いかけ、心のドアをノックしています(黙示録3・20)。イエスを迎え入れるならば、すでにあなたに代わって十字架ですべての罪や悪や恐れを処分したイエスが、あなたを平安のうちに変えてくださることでしょう。自分で自分を変えようとすることには限界がありますが、神は十字架の救いですっかり癒してくださるのです。




愛がなければ

2012年08月19日 | 奨励要旨
Ⅰコリント13:4~7/T神学生

先日、Ⅰコリント12章4~27節と31節から、「私たちの教会」という内容でご奉仕を致しました。コリントは、多くの問題のあった教会で、そのために使徒パウロは手紙で戒め、励まし、みことばを解き明かしました。本日は更に、パウロがコリントの教会に書き送った主イエス様にあるものの素晴らしさを、共に分かち合いたいと感じます。

Ⅰコリント12章全体では、目にみえること目に見えないこと、多くある教会内での働きも、御霊のとりなしを受けて教会に仕えるのであれば、同様に尊いと述べられます。様々な器が優劣なく、教会おいて用いられるとき、教会の内部がイエス様にあって調和し、互いにいたわり合うことができます。そして互いの苦しみも喜びも分かち合うようになります。更に31節では聖霊に満たされたパウロから、よりすぐれた賜物を熱心に求めることが勧められ、さらにまさる道を示すと述べられています。では、この「よりすぐれた賜物・さらにまさる道」とは何でしょうか。13章ではどんな優れた賜物であって、どんな優れた知識や信仰であっても、決定的に欠けてはならないことを示しています。それが「愛」です。「愛」は「耐える」ということが一つの性質です。

イエス様のおっしゃった「愛」をマタイの福音書5章で確認します。44節では「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」とあり、45節で、「それでこそ」天におられるあなたがたの父の子どもに「なれる」のです、とされます。46節では、自分を愛してくれる者以外にも、愛をもって接することの必要性が説かれます。そして48節に「天の父が完全なように、完全でありなさい」とあります。Ⅰコリント13章8節では「愛は決して絶えることがありません。」とされ、13節では「愛」が完全なものとして現れたということが示されています。

このようにイエス様は旧約の教え――律法――から、「愛」を解き明かされました。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と。ローマ書13章8節では、「他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。」また10節には「愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」とあります。

イエス様は非常な苦しみを負って十字架にかけられ、耐えられたことを、私たちは知っています。イエス様は、私たちの負いきれぬ罪のために、苦しみに耐えてくださって、十字架にかかられました。それは私たちに与えられた、イエス様の「愛」です。エペソ人への手紙2章では、イエス様は十字架にかかられるということを通して、私たちへの模範として示されました。その「愛」は、寛容であり、親切で、人をねたまず、自慢せず、高慢にならず、礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばず、真理を喜び、すべてをがまんしすべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ、ということです。自分の罪深さと悔い改めへ導かれ、イエス様を信じることがゆるされたということを、思い返しましょう。

私たちはそれぞれの与えられた器を用いて、教会に仕えます。そしてそれぞれが同様に尊いのです。それらが優劣なく、教会おいて用いられるとき、教会の内部が主イエスにあって調和し、互いにいたわり合うことができます。そして互いの苦しみも喜びも分かち合うようになります。その原理は、「愛」です。この「愛」がなければ、どんなに素晴らしい働きであっても、何の値うちもありません。私たちはキリスト者として「愛がなければ」何の値うちもありません。教会で「愛がなければ」ならないのと同様に、家庭でも学校でも会社でも地域でも「愛がなければ」なりません。コロサイ人への手紙2章2節にこうあります。「それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。」




2012年06月24日 | 奨励要旨
ホセア11・1~4 ローマ8・35~39/I兄

2011年は「絆」という言葉に包まれました。東日本大震災で被災した方々の心を結びつけ勇気づける言葉となればと願います。その本来の意味は、動物をつなぎとめる紐であり、また不自由な束縛のことです。「つながり」を作るつもりで「絆を結ぼう」と言うとすれば、今「無縁社会」というように人間関係がばらばらになっているせいかもしれません。
 
二十世紀、東北にはすぐれた宣教師がいました(タマシン・アレン『みちのくの道の先』)。東北のウェブサイトから「復興の狼煙」が上がっています。困難には助けが与えられ、また助けを求める声があります。私たちは東北に向かって、軽率に「頑張れ」とは言えません。そもそも「頑張る」は頑な・我を張る・自分の力を通すことにつながります。
 
パウロも伝道にあたり、幾多の困難に出会いました。優等生に見えるパウロもまた人間、苦難の連続(コリ二11・23~30)に、信仰を棄てようとすら悩んだのではないか、と推測します。しかし、結局どんな事態も、どんな被造物も、パウロをキリストから引き離すことはありませんでした。パウロはキリストにより、勝って余りある境地にいると言います。
 
私たちも信じたら万事ハッピーになるとは限りません。憂鬱になることもあります。クリスチャンは二重国籍に悩む存在です。この世の国と、神の国と。この神の国の市民権が十字架のキリストを通して与えられ、神の養子となりました。私たちは、キリストに留まれば実を結ぶとの約束を受けます(ヨハ15・5、16)。しかし理想と違う自分の姿を見ると落ち込みもします。地上の国籍をも有しているからです。この二つの国をつなぐものは十字架です。
 
ホセアは、親としての神が養子なるイスラエルを導いた歴史を語りました。イスラエルは偶像に誘われますが、神はそれでも人々を愛し、傷をも癒します。これを神は「人間の綱・愛のきずな」で導いたと言います。「人間」の語は「アダム」。アダムは「いのちの木」(創3・22)に手を出して楽園を出ますが、キリストは「ぶどうの木」(ヨハ15・5)につながっていれば豊かな実りがあることを約束しています。
 
教会もまた、この愛の絆で結ばれた共同体です(例・YMCAのヨハ17・21)。教会には様々な人がいます。弱い人もいます。悩む人がいます。表だって発言できない人の思いを感じ取る心の耳をもつ教会でありたいと願います。絶望を真底知るパウロも(コリ二12・8)、自力でなんとかしようともがいた後、キリストが自分を握りしめ離さないことを知るのです。
 
イエス・キリストの傷口が絆となって、神と人とをつなぎます。人は十字架を通して神とつながり、また、兄弟姉妹ともつながります。その絆を私たちが強めようとする必要などありません。頑張らなくてよいのです。神が離さないからです。聖書の最初・創世記でノアに見せた虹が、契約のしるし(創9・13)として神と人とをつなぎました。聖書の最後・黙示録では、聖徒たちの祈りが香の煙として神に届いていました(黙8・4)。まさに復興の狼煙でした。聖書全体は、最初から最後まで、神の引く切れない絆で私たちを導いています。




最後まで耐え忍ぶ――震災・仏教・イエスの教え

2011年10月09日 | 奨励要旨
マタイ福音書24:4~3

「仁和寺に、隆曉法印といふ人、かくしつゝ、かずしらず死ぬることをかなしみて、その首の見ゆるごとに、額に阿字を書きて、縁をむすばしむるわざをなむせられける。その人數を知らむとて、四五兩月がほどかぞへたりければ、京の中、一條より南、九條より北、京極より西、朱雀より東、道のほとりにある頭、すべて四萬二千三百あまりなむありける」(「方丈記」鴨長明・岩波文庫) 
 
震災のあと、しばらくして東京の若い看護師さんが、岩手の沿岸部に支援に行く文章(ブログ)を読み、「方丈記」の一節が想起されました。空路仙台に入りますが、仙台あたりから記述が変わって行きます。被災地では、自衛隊員が、亡くなった方が見つかった場所に赤い旗を立てていたそうで、それが無数にあると書かれていました。
 
被災者がまずしたのは、死者の鎮魂でしょう。日本人が死者の鎮魂をどの宗教でするかといえば仏教でしょう。
 
仏教は、もともと古代国家によってもたらされた外来宗教です。その後、土俗宗教や神道に混交しつつ、民族主義的になったりして次第に平安中期から次第に大衆に浸透しています。日本仏教の特徴を言うならば、①仏教自体がインドに起きた古代宗教であるために、空想的記述と土俗宗教と深遠な哲学の混淆です。②日本化する段階でかなり土俗化と思想の単純化が起きています。禅宗は論理を否定し、浄土宗は「念仏は非行、非善」といいます。③中国を経由する段階で、供養や葬送儀礼は、かなり儒教の影響を受けています。仏壇、お彼岸の墓参り、位牌、お盆など儒教のものです。④特に日本では、家の先祖の供養という面が強いといえます。浄土真宗の教えは、誓願を立て浄土を起こした阿弥陀仏に一切を帰依し救いを求めるという極めて一神教的な救済宗教ですが、被災地の僧侶がしていることや話していることは、死者の供養であり、避難民の多くが守るものは、先祖の墓であり、持ち出したものは位牌でした。「阿弥陀仏に一切を委ねなさい(南無阿弥陀仏)」と話している僧侶は、報道では見かけませんでした。信仰感情として、教義の根本的な意味が薄れているようです。
 
三月一一日の津波の映像は衝撃的でした。後程、チャイコフスキーの交響曲6番、第4楽章「悲愴」を聴いて、津波の映像と「悲愴」の音楽が重なります。この高名な作曲家には何かしらの哀しみが旋律から感じられます。震災による津波で家を流され、家の基礎だけが残りそれを見つめている少女がいました。家族は八人、祖母を亡くしたと話していました。罹災直後の極度の緊張感と張り詰めた高揚感、そして次第に生活が仮の落ち着きを取り戻していく中で多くの被災者、ご遺族が、深い悲しみ、喪失感に捉えられているでしょう。共にいてあげることが大切だと思います。死者を思いつつ生きていかねばなりません。
 
マタイ伝24章でイエス様はこう言っておられます。戦争、飢饉、地震が起きるが、偽預言者や憎悪、憎しみ、扇動に気を付け「最後まで耐え忍ぶものは救われます。」(24:13)どのような時に再臨が起きるかは私たちにはわかりません。分かるのは、私たちが、日々の日常を耐え忍び、平易な繰り返しに耐えつつ生きていかなければならないことです。
 
地震も津波も、台風も豪雨も地滑りも怖いものであるとつくづく今年は教えられましたが、また、怖いのは欲望、猜疑心という人の心ではないでしょうか。人を勇気づけ生きる力を与えるのも人間ですが。
 
 一年前、地球の裏側で三三名の鉱夫が地底に取り残されたとき、その間、何をしていたでしょう。死への恐怖が遠のくと、次に来たのは激しい欲望と衝突でした。それを抑えたのは一日二回の礼拝でした。彼らは、リーダーはいましたが、人ではなく、神様に帰依することで心の平安を取り戻したのでした。
 
 今年の印象に残る字は「絆」だそうです。動物を繋ぎとめる綱という意味だそうですが、家族、地域を結び付ける絆が私たちに生きる力を与えます。そして「幻を見ない民は滅びる」という言葉もあります。夢、幻を見るからこそ私たちは生きていけます。英語で言うならvisionです。
 
 パウロはこう言っています。「キリストは、多くの人の罪を負うために一度、ご自身の血を捧げられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々を救うために来られるのです。」(ヘブル書9:28)パウロは、「兄弟愛をもち、旅人をもてなし、牢にいる人をも思いやり、結婚(生活)を尊び、金銭を愛する生活をしてはいけない」と言っています。(ヘブル書13:1~5) 
 
ともに信仰に歩んでいきましょう。(S兄)




取り消すことはできない

2011年04月10日 | 奨励要旨
士師記11章29~40節・コロサイ2章13~14節/伝道礼拝/I兄

 エフタが娘を人身御供のようにしたことは、現代倫理からは承服しがたいかもしれません。しかし、サムエル記とヘブル書におけるエフタの評価は、英雄であり、決して非難の口調ではありません。神の言葉たる聖書が、エフタを悪く言ってはいないのです。

 エフタは家を追われ、ごろつきの頭となりました。時に、アモン人がイスラエルの民に言いがかりをつけてきました。まだ王がおらず民族統一がなされていなかったイスラエルは対抗できず、エフタが腕を買われてリーダーに抜擢されました。エフタはアモン人に対して理知的に、その理不尽な要求を退けますが、聞き入れられず、戦闘が始まります。強いアモン人との決死の戦いを覚悟して、エフタは、神が勝利をくださった時、自宅で自分を最初に出迎えた者を全焼のいけにえとして捧げます、と誓いを立てました。神との取引も異例ならば、偶像を拝む異邦人のように人をいけにえにするような口ぶりが奇異に見えてなりません。

 エフタは勝利します。そして凱旋すると、自分のひとり娘が家から飛び出して出迎えました。エフタは天を仰ぎ、娘は二ヶ月の猶予を申し出るものの、父が神に対して口を開いたのだからそのとおりにすべきだと言います。聖書は、イスラエルがこの娘のことを年に四日間悲しむしきたりとなったことに触れています。

 エフタは、神への誓いを取り消しませんでした。主に誓ったものは取り消せないと自覚していました。現代人なら、誓いも約束も平気で取り消し、もみ消し、ごまかすかもしれません。嘘も方便とし、水(見ず)に流す文化では、口にする言葉は限りなく軽く扱われます。いえ、コルバン(マルコ7・11)にあるようにユダヤ人も例外ではありませんでした。

 イエスは、誓うなとさえ教えました(マタイ5・34)。しかし、ヘブル語で誓いはその行為をも含み伴うものでした。エフタにとり娘が最初に家から出てくるのは想定外でしたが、口にした以上、取り消すことはやはりできないのでした。エフタは言葉を守ったのです。

 コロサイ書で、異邦人キリスト者に向けて、罪の中に死んでいた者が、罪の債務証書を無効にしたと記されています。この「無効にした」は味わい深い語です。普通、証書の修正は二重線や×印で取り消すのですが、この語は、インクが残らないように完全に拭い消すこと、または白く塗りつぶしてしまうことを指しています。私たちは、自分の罪を自分勝手に許し、水に流そうとすることがありますが、そんなことでは消えません。キリストのいけにえによって初めて、それが可能になるのです。また、逆に自分の罪に思い悩み、そこから立ち上がれない人に対して、キリストは寄り添い、癒しを与えます。それが聖書の福音です。

 誓いの真実の姿は神との契約です。聖書の旧約・新約の「約」は契約を示します。エフタですら、その契約を取り消すことがなかったのだとしたら、まして神は、契約を偽ったり、取り消したりするお方ではありません。神は真実です。年に四日間でなく、日々十字架の救いを覚えて生かされていく者でありたいと願います。