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香柏だより

福岡市東区の香椎バプテスト教会です。
聖書の言葉には、ひとを生かす力があります。
礼拝では手話通訳もあります。

いばる心とけなす心

2016年05月22日 | CS (教会学校)
イエスさまのお話は福音書に記録されていますが、
その目的がはっきり書かれてあることは案外珍しく、
ここでは、
自分を正しいと自分で決め、
他人を見下している人たちに対して話した、

と書かれています。

二人の人を想像してください。

一人は、パリサイ人といって、
きまりを立派に守って生活している人です。
生活に余裕がある人であったとも思われます。
この人が、神殿で胸を張ってお祈りをしました。
「私はちゃんと神様のきまりを守っています。
 横にいる人のようにそれの守れない人でないので、
 感謝します」

その横にいたのは、取税人といいました。
仕事の関係で、神様のきまりどおりに生活できません。
ユダヤ人の仲間からお金をごまかし取るような仕事で、
ユダヤ人からは嫌われ、悪人と呼ばれていました。
この人も祈りました。うつむいたままでした。
「私には罪があります。
 神さま、私をゆるしてください」





イエスさまは、
神さまが「あなたのほうがいい」と言ってくださったのは、
この取税人のほうだった、と説明しました。
自分で自分を偉いと自慢する人を、神は悪く思う。
自分はだめだと小さくしている人を、神は大切にしてくださる。

ひとにバカにされると、悔しく思うでしょう。
自分はダメだと辛く思うときがあるでしょう。
けれども、そこで相手にやり返したり、
ざまあみろと攻撃したりするのを、ちょっと待ってみましょう。
ひとの前で恥をかかされたとしても、
神さまは見ています。
神さまは、弱い私たちのことを、ちゃんと分かってくださいます。

そして、このことから、
神さまの救いというものについて、
もっと深く、広く、考えてみるとよいでしょう。
聖書の大切なメッセージが、
伝わってくるように思えるからです。

今日の教会学校・教会のはじまり

2016年05月15日 | CS (教会学校)
「ペンテコステ」ということばは、
初めて聞く人が多いことでしょう。

イエスさまの復活のときから50日目、
ユダヤのお祭りがあるために、
多くの人がエルサレムに集まってきているときでした。

使徒の働きという書の中に、こう書かれてあります。

  五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
  すると突然、天から、
  激しい風が吹いてくるような響きが起こり、
  彼らのいた家全体に響き渡った。
  また、炎のような分かれた舌が現われて、
  ひとりひとりの上にとどまった。
  すると、みなが聖霊に満たされ、
  御霊が話させてくださるとおりに、
  他国のことばで話しだした。

不思議な書き方がしてあります。
実際、どんなふうだったか、
映像がないので分かりませんが、
ただならぬことが起こったことが伝わります。

実はこれは、神さまからの大きな作用でした。
復活のイエスさまに出会っても、
まだびくびくしていた弟子たちでしたが、
この事件によって、大きく変わったのです。





他国のことばがどんなふうであったか、よく分かりません。
ただ、あちこちから来ていて人々が、
自分の地方の言葉だ、と驚いたというのです。

きっと、イエスさまが救ってくださる、というニュースが、
すべての国の人に伝わっていくことが始まったのでしょう。

ここに、教会が始まりました。
ここから出て行って、
神さまのすばらしいニュースを伝えよう、と
新たな歩みが始まった、記念すべき日なのでした。

これまでいやなことがあったり、
自分に自信がもてなかったりした人も、
神さまからの見えない力がきたときから、
生き生きとした新しいスタートをすることができます。
それを神さまに、求めてみませんか。

今日の教会学校・真珠より大切

2016年05月08日 | CS (教会学校)
有能な妻を見いだすのは誰か。
真珠よりはるかに貴い妻を。

男の人が主人公で、
良い女性を妻に迎えるお話です。

ただし、これは「箴言(しんげん)」といって、
物語ではなく、知恵の言葉を集めた本の一部です。
ことわざや知恵の集まり、とでも考えましょうか。

そのころ、というよりつい最近までですが、
女性は夫を助ける役割を果たすのが
幸せだと考えられていました。
しかし、決して陰でなよなよとしていたのではなく、
家の中をしっかり支えるのはその女性の仕事でもありました。

女性がしっかりしている家庭は強いと思います。
皆さんのお家はどうですか。
お母さんでなくても、おばあさんでも、だれでも。





今日は、母の日。
すてきな母親は、優しいひとであると同時に、
きっと、強い人でもあるのでしょう。

見かけの美しさに情熱をもやす女性は多いのですが、
中身というか、心や笑顔、能力など
そういった見えない部分にあるもののほうが、
ほんとうはその人の価値を示すものだと思うのです。

神をたたえる女性の良さが、ここには並べられています。
が、それを抜きにしても、
すばらしい女性の姿がここに描かれているように見えます。
聖書の、そんな知恵を、今朝、
ともに味わってみたいと思います。

こどもの日と昇天日

2016年05月05日 | CS (教会学校)
今日はこどもの日。

子どもたちと一口に言っても、さまざま。
どの子どもをも同じに思ってはいけません。
何でもめぐまれて
贅沢があたりまえと思う子もいれば、
貧困と呼ばれる生活を強いられる子もいます。
王様のように育った子もいれば、
心を閉ざしたり居場所をなくしたりという子も。

どの子にも同じように、
というわけにはなかなかゆきません。
だから神はやはりすごいと思います。
それぞれの人に、
それぞれの仕方で近づいてくださるのですから。

子どものための、
小さな冊子があります。
「らみい」というのは、
たぶん「小羊(Lamb)」からきていると思いますが、
マンガやイラストをふんだんに入れて、
子どもたちが気軽に手に取りやすいように配慮された、
キリスト教の小さな雑誌です。

毎月、
教会ではこれを用意しています。
子どもたちにぜひ読んでほしいと思うし、
きっと読みたくなると思うんですね。
おとなも、つい見入ってしまいます。

数冊は準備しているので、
たぶんプレゼントできると思います。
もし足りなくなったら、また仕入れます。
5月号と、4月号も少し在庫があります。
お早めにどうぞ。





たまたまこどもの日と重なりましたが、
実は今日は、「昇天日」。
復活から40日目に
イエスが天に昇ったとする記事に由来します。
使徒の働きの初めにのみ40日という記述があり、
これを根拠としていることになります。

教会暦にあってもあまり意識されませんが、
マルコ・ルカ・使徒の働きと、
その記事を眺めてみませんか。

今日の教会学校・味方になってくれる

2016年05月01日 | CS (教会学校)

  罪に定めようとするのはだれですか。
  死んでくださった方、いや、よみがえられた方である
  キリスト・イエスが、神の右の座に着き、
  私たちのためにとりなしていてくださるのです。

今日読みたい聖書のことばがこれです。
ことばがむずかしいですね。

覚えてほしいことばがあります。
それは「とりなし」という言葉です。

けんかをしている二人の間に入って、
けんかをしないようにと
仲直りをさせてくれる人がいたら、
とりなしをした、ということになります。

けんかでなくてもかまいません。
仲良くなれない二人をつなぐ、ということです。





イエスさまは、それをしてくださっているのです。
私たちと、神さまとの間にはいって。

え、あなたと神さまとは、けんかなんかしてないって?
けんかではないかもしれませんが、
あなたは、自分が神さまにさからっているままでは、
神さまと仲良くしていることにはならないのですよ。

さからってなんかいないって?
さあ、どうでしょう。
問題は、それに気づいているか、いないか、というところです。
人間は、誰ひとりとして、
神さまにさからっていない人なんか、いないのですから。

十字架というのは、
この「とりなし」のために必要だった、
実にむごい、イエスさまの犠牲でした。

神さまの前ではどうにも悪い者であった私たちのために、
イエスさまが身代わりになって罰を受けて、
私たちの味方をしてくださったのです。

あなたの心に、
ぐっと神さまが近づいてくださることを感じる日でありますように。

今日の教会学校・ザアカイさん

2016年04月24日 | CS (教会学校)
知っている子どもたちにとり、
ザアカイさんと聞けば、思わずにやりとするでしょう。
背が低かったと聞かされているし、
人に嫌われていたけれども、
イエスさまに見出されていい人になった、という感じでしょうか。

新約聖書の中でも、
ストーリーとして分かりやすく、
また今の私たちが聞いても何かを感じやすいものです。

ザアカイは、取税人でした。
これは、ユダヤ人ではあっても、
ユダヤ人を支配しているローマの手下のようなもので、
ユダヤ人仲間から
ちょっとお金をごまかして取り上げているようなところがあり、
そのためかなり裕福にしていたと思われます。

だから、ユダヤ人からすれば、けしからん奴です。
ザアカイさんも、金持ちだったと書かれています。

ただ、このザアカイ、
イエスさまが通りかかったと聞いて、やってくるんです。
ぜひ見たいものだ、と。
そのときの心の中は説明されていません。
皆さん、想像してみてください。




四年前に礼拝でスクリーンに映し出された
このザアカイさんが登った木のイラストです

ところが群衆で見えないものだから、
木に登ります。
するとイエスさまはそのようすを見て、
「ザアカイ、降りてきなさい」と声をかけるのです。
「今日、あなたの家に泊まることに決めたよ」と。
名前まで知っている? それに、家に来る?
ザアカイはびっくりして降りてきました。

これに感激して、
これまでユダヤ人仲間から巻き上げてきたお金を
貧しい人たちのために使ってもらうようにする、
そしてごまかした分は4倍も弁償する、と言いました。

イエスさまはこれを聞いて、
ザアカイも、イスラエルの大切な一人であり、
神に救われるのだ、もう嫌われることなどないのだ、と言いました。
イエスさまが、
このように、ひとりぼっちで、誰からも相手にされないような人を
さがしだして、救うのが自分の仕事なのだ、と言って、
この場面が終わります。

ザアカイさんが、
自分に似ているかもしれない、と思った人はいませんか。

がんばったパウロさん

2016年04月17日 | CS (教会学校)
パウロさんという人の名前、
聞いたこと、ありますか。

パウロさんというのは、
イエスさまのことを世界中に伝えるために、
大きな働きをした人です。

それまでは、イエスさまを信じる人を、
いじめまくっていたパウロさんでしたが、
復活したイエスさまとの出会いによって、
人生がすっかり変わります。

もっていたお金も地位も全部捨てて、
そして何度命を落としそうになったか知れないような目にあいながらも、
神さまに動かされて、
イエスさまのお話を語り続けました。

また、手紙をたくさん書きました。
そのうちのいくつかが残っていて、
いま「聖書」として私たちも読むことができます。

たしかにパウロさんが書いたのですが、
これは神さまが
パウロさんに書かせたとしか思えないものとして認められ、
神さまのことばだとして
私たちが読んでいることになります。





今日の場面では、パウロさんが、
地方の教会の人々を集めて話をする場面です。
いまから、また危険なところに向かわなければなりません。
しかし、神さまのためのことですから、大丈夫です、
そして命を惜しいとは思いません、と力強く語るのです。

皆さんも、いやなこと、逃げ出したいようなことが
あるのではないでしょうか。
けれども、勇気をもって立ち向かえることを、
パウロさんは教えてくれます。
イエスさまがいっしょにいてくださるから、大丈夫なのです。
教会に来て、元気をもらって帰ることができますように。

らみい

2016年04月15日 | CS (教会学校)
教会学校あるいは日曜学校という名前が広まっています。
それはそれでよいのですが、最近は、
子どもの「礼拝」という捉え方がなされ始めました。

子どもに分かりやすいことばで語られる福音。
それを、キリスト教会が二千年間守ってきた
「礼拝」という形でともに受けとめていく。

聖書本文そのものは
子どもによっては難しく、配慮も必要でしょう。
でも、イエスさまのことを好きになれるような、
そんなアプローチは望ましいと思われます。

そうした教材がいろいろ開発されていますが、
なかなか毎週続けて教会に来づらい子どもも多く、
学びのカリキュラムがとぎれとぎれとなり、
興味や効果が薄れてしまう懸念もあるでしょう。

子どものための楽しい小冊子があります。
「らみい」といいます。小羊を表しますが、
小学生にたいへん好評なキャラクターや説明となっており、
もちろん大人が読んでもにこやかに読め、
また内容の深い理解もできるものとなっています。
よく考えられています。





香椎バプテスト教会でも
以前からこれは取り寄せていましたが、
この4月からは、
いわゆるテキストや教案誌というものをなくしたため、
この「らみい」をもっと
使いたいと思っています。

きょうだいだと、
おうちで一冊ずつ持ってもらうことになりますが、
さしあげようと思っています。
たとえ毎週教会に来ることができなくても、
楽しい読み物で、聖書や神さまに近づけると思います。
そして、また教会に来るときに、
この「らみい」を持ってきてください。
マンガやクイズもどうぞお楽しみに。

今日の教会学校・ノアの箱舟

2016年04月10日 | CS (教会学校)
昔むかし、大昔のことです。
神さまが人間をつくり、
人間は悪いことをおぼえ、
心の奥に悪いことを考えたりしたりする心をもちながらも、
神さまに守られて生きて、ふえていきました。

ところが、どうにも人間たちのやることが
どんどん悪くなるばかりなのを見て、
神さまは、これではだめだとあきらめました。
この人間たちを一度リセットしてしまおう、と。

ただ、ノアという人は、
神さまが大好きで、神さまに従うおじいさんでした。
それで神さまは、ノアと、
その家族だけは助けようと思いました。

ノアよ、と神さまは呼びかけました。
もうすぐこの世界に、大洪水を起こす。
おまえは家族と動物を乗せるための、
大きな箱舟をつくりなさい。





ノアは、山の中で舟を造り始めました。
まわりの人間たちは、ばかにして笑いました。
でもノアは、神さまの命令なので
黙々と造り続けました。

そして完成したとき、
家族7人と、動物たちを少しずつ乗せました。
最後にドアが閉められたとき、
大雨が降ってきました。

人々は波にもまれて消えました。
なかなか水が引きませんでしたが、
ノアはハトを飛ばしたとき、
陸地が現れたことを知りました。
このために、ハトは平和を呼ぶものと考えられました。

新しい地に降りたったノアに、
神さまは虹を見せました。
この虹があるかぎり、
もう洪水で人をほろぼすことはしない、と言って。

でも、今の世の中、
ノアの時代のように、
悪くなっていっていると思いませんか。

あなたの心の中の悪を、
イエスさまにきよめていただいたら、
乗るための箱舟を、
神さまが用意していてくださっているそうです。

進級式

2016年04月05日 | CS (教会学校)
教会学校の子どもたちと、
ともに礼拝に出席することもある、おとなたち。
月に一度は、一緒に礼拝を最後まで過ごす時があり、
また、それぞれの礼拝においても、
説教前までは同席していましたから、
子どもたちの姿を見ないわけではないはずです。

けれども、実際に
教会学校で何がどうなされているか、
ご存じないというのが、当然ではありました。

そこで
新学年になる四月の最初、
礼拝のおわりの報告時ではありますが、
子どもたちを前に出て祝福するひとときといたしました。

子どもたちにとっても、
おとなの方々の前で挨拶するというのは、
ひとつのけじめとなるでしょう。





ささやかですが、
文房具をプレゼント。
この日出席できなかった子どもたちも、
何度か来た子どもたちには、
家族の方を通じて持ち帰って戴きました。
教会とのつながりの、ひとつの証しとして。

教会学校とは言っても、
実は「子どもの礼拝」です。
決して、勉強ではありません。
子どもにとっては「学校」のつもりでもかまいません。
しかし、教師の側は、
確実に「礼拝」の司式であるという姿勢で、
主日の朝の時間を組み立てています。

子どもたちは成長します。
おとなの方々もまた、
きっと成長すると思っています。

教案誌「成長」は
この四月から使わなくなりますが、
キリストとともに歩む道において、
ともに成長させて戴きましょう。

今日の教会学校・イエスさまの新しい約束

2016年04月03日 | CS (教会学校)
子どもの皆さん、進級おめでとう。
教会学校でも、4月から
新しい学年となります。

今日から新シリーズが始まります。
三階の礼拝と同じ聖書を読むことにします。

最初は、コリント人への手紙第一11:23~26です。

教会で、
パンとぶどうの飲み物が
礼拝の終わりのほうで配られていることがあります。
うらやましく思った人がいるかもしれませんね。

あれは、イエスさまがしていたことです。
十字架にかかる直前、
その夕食の席で、
イエスさまが弟子たちに直接教えたことだったのです。

パンは、イエスさまのからだを表すのだそうです。
食べることで、
イエスさまを心の中に迎えなさい。

ぶどうの飲み物は、
イエスさまの血を表します。
人には罪があり、悪い心があるので
悪いことについては罰を受けなければなりません。
けれども、イエスさまがその罰をひとりで背負って、
あなたの代わりに十字架で血を流してなくなりました。

この出来事を決して忘れることがないように、
これからずっと教会では
繰り返して行いなさい、とおっしゃったのです。





昔、神さまはイスラエルの人々に、
きまりを守りよい子でいるようにと教えましたが、
なかなかよい子でいられませんでした。
どうしても、悪いことをしてしまうのです。
また、ほかの仲間を悪い子だといじめているのに、
自分はよい子だと思い込んでいるのは
もっとも悪いことでした。

イエスさまの十字架を
自分の身代わりなのだと信じた人については、
神さまの国に住まわせてあげよう。

神さまは、新しい約束を、
この十字架とともに、
人間と、そしてあなたと、
結び直されたのです。

今日の教会学校・イエスの復活

2016年03月27日 | CS (教会学校)
イースターの朝です。
おとなの礼拝でも
「イエスの復活」と題してメッセージがとりつがれます。
子どもたちも、この礼拝に参加します。

ここでは、少し分かりやすい形で
簡単に、復活の時のことを
ご紹介することにしましょう。





そう言えば、
死んでもよみがえる、みたいなことを言っていたな。
ユダヤの指導者たちは、
イエスさまの言葉を思い出して、こんなことを考えました。
弟子たちがイエスの遺体を盗み出して、
ほら、よみがえった、などと言い始めたらうるさいぞ。

そこで、番兵をつけて墓を見守らせました。
金曜日の夕刻までに
イエスさまのからだは、
岩穴に安置され、岩で蓋をされました。
簡単には動かせない大きな岩です。

日曜日の朝、まだ夜が明けないうちから
イエスさまを慕う女の人たちがやってきました。
すると、地震が起こり、天使が現れて岩を動かしました。
番兵たちは腰を抜かしました。
天使は女の人たちに、主は復活したと言い、
弟子たちに、先にガリラヤに行かれることを伝えよ、と告げました。

女の人たちが走っていくと、
そこにイエスさまが姿を見せました。

今日の朝は、
このイエスさまのよみがえりを思う朝です。
不思議な出来事ですが、
決して「おはなし」ではないことを、
教会の皆さんは知っています。
皆さんは、どう感じましたか。


●なお、来週からは、
 おとなの人たちと同じ聖書を読んでいく、
 新しい教会学校のカリキュラムが始まります。
 また、4月3日は、進級式があります。
 新しい学年や学校に進む皆さんのために
 教会の皆さんがお祈りをします。
 そして、ささやかですがプレゼントをします。
 これまで教会に来たことのある皆さんをお待ちしています。

イースターのはがき

2016年03月23日 | CS (教会学校)
子どもたちに、
イースターのはがきを送りました。
もう届いているのではないかしら。

27日のイースター礼拝と、
4月3日の進級式の案内を書いて、
可愛いシールも貼っておきました。

そして、肝腎のはがきが、これ。





ライフセンター福岡には、
こうしたはがきや便箋などが
豊富に揃っています。

たくさんありすぎて
どれにしようか迷いましたが、
卵がいちばん子どもになじみがあるかなぁ、
と思いました。

プレゼントも用意しています。
春休み、
そして進級のこの時季、
また教会に来てくださいね。

イエスの十字架

2016年03月20日 | CS (教会学校)
キリスト教会には、
たいてい十字架が掲げられています。
いったい、十字架とは何でしょうか。
何の意味があって、それを大切にするのでしょう。

それは、人類史上最悪とも言われる、
むごい死刑台でした。
よほどの悪人や、反逆した者でなければ、
つけられることがなかったといいます。





ローマの役人であるピラトは、
ついにイエスさまを
ユダヤ人たちの言うとおり、
死刑にすることを認めてしまいました。

イエスさまは、
自分がつけられる大きな木のくいを背負って、
刑場まで歩かされました。
そうとうな鞭打ちを受けたそのからだで。
そして、手足に釘を打たれて、
その木にかけられてしまいました。

人々は、罵声を浴びせます。
「自分で自分を救ってみろ」
「そこから降りたら、信じてやるぞ」

イエスさまは文句を言いません。
この刑は、長い時間、
ものすごい苦痛を与えるものでした。
イエスさまは、しかし比較的短い時間で、
引きを引き取りました。

そのとき、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けたり、
地震が起こったりした、と聖書は記しています。
また、死刑を担当したローマの百人隊長は、
「この人はほんとうに神の子だった」と口にしました。

先生は、こう気づいたとき、救われたと思いました。
それは、
先生自身が犯した罪による罰を、
この十字架のイエスさまが全部代わりに負ってくださった、
そう分かったときです。

今日の教会学校・裁判

2016年03月13日 | CS (教会学校)
今日は合同礼拝です。
でも、大切なところですから、
ここでのお話はしっかり聞いてくださいね。

裁判とは、罪を犯したかどうか、調べるところです。
イエスさまは、裁判を受けました。
ユダヤ人たちが、
イエスさまは悪いことをした、とうったえたのです。

福音書の記録には少しあいまいさがありますが、
弟子たちがそのとき逃げていたので
ある程度は仕方がありません。

マタイの福音書では、
大祭司カヤパのところで、
ユダヤ人としての裁判を受けたとあります。
しかし、証人がイエスさまの悪を説明しても、
イエスさまは何もおっしゃいませんでした。

ただ、イエスさまが自分を神のように言ったことで、
カヤパは死刑だと言いました。
イエスさまは、人々につばを吐かれ、なぐられました。





しかし、ユダヤ人の裁判では、
ほんとうに死刑にすることができませんでした。
ローマ帝国に支配されていましたから、
ローマの裁判を受けないと、死刑ができないのです。

ローマから、ピラトという役人が来ていました。
ピラトには、事情がもうひとつよく分かりません。
ピラトには、イエスさまは死刑にするほどではない、と
思えました。

けれども、取り囲んでいたユダヤ人たちは、
イエスを死刑にしろと叫び続けました。
ピラトは、その声に負けました。