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香柏だより

福岡市東区の香椎バプテスト教会です。
聖書の言葉には、ひとを生かす力があります。
礼拝では手話通訳もあります。

真珠よりもはるかに尊い

2016年05月08日 | 説教要旨 (伝道師)
箴言31:10~31/伝道礼拝

この10~31節に込められた「しっかりした妻」に、素晴らしい家庭が具体的に示されている。箴言の意味は、知恵の格言といったらよいだろう。その知恵は、神さまの思いを簡潔な格言やことわざとされ、それが詩文の形で表されている。

書いた人物はイスラエル二代目の王、ソロモンと言われている。ソロモンの夢に、神さまが現れる(Ⅰ列王3:3)。ソロモン王は知恵のある王として、全世界から面会を求める人々が多くあった(Ⅰ列王10:24)。この箴言が意図しているのは、読む者に、神のことばである聖書を勧め、理解し、体得する助けになることを教えている。

「しっかりした妻」は、「真珠よりもはるかに尊い」値うちがあると言われている。この妻は夫にとってどのような存在であるのか。夫は妻を信頼する。それは彼女が「収益」に欠けることがなく、良いことのみをするということにある。羊毛や亜麻を手に入れると、喜んで自分の手で仕上げるのだから、彼女は素材の良さを見抜く確かな目と仕立てる腕を持っている。14節、商人の舟のように、彼女は自分の周囲の物だけに満足せず、遠方からも様々な食糧を集める。彼女は夜明け前に起きて、自ら家族の食事を整える。しもべたちにするべき用件を指示する。彼女は、畑をよく調べる。畑を手に入れると、自らぶどう畑を作る。力一杯ぶどう畑や様々な商売で働く。自ら、生地を織り上げる。働いて得る果実の味に満足し、寸暇を惜しんで働いている。彼女は、身内の者だけに目を配っていない。悩んでいる・貧しい者に手を差し出し、差し伸べる。それぞれに必要な助けの手を尽くす。一方で彼女は、家の者のために万全の準備を備える。

妻の働きは、夫の名声を高める。25節に「ほほえみながら後の日を待つ」とある。彼女は今だけでなく、将来のことをも考えている(詩篇78篇)。彼女は、「主を恐れる」ということを家族に教え、後の日の「収益」を期待している。それはまた夫の期待するところであり。彼女はそのことをよく心得ていた。

この「しっかりした妻」は誰を指しているのか。夫は彼女を信頼している。夫はこの妻の働きによって、栄光を受けている。イエス様は無学な人々を招いて、弟子とされた。サマリヤの女を導き(ヨハネ4章)、姦淫の女を赦し(8章)盲目の人の目を開け(9章)られた。「良い牧者」として、羊のために命をかけられる(10章)。十字架に架かられる前に、弟子たちの足を洗って拭かれ(13章)、「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。」とご自身にとどまって多くの実を結ぶようにと勧められる(ヨハネ15章)。そして「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(ヨハネ15:8)とおっしゃる。ご自身につながって実を結び、収入がよいことを喜ばれる。こうして、イエス様は私たちに、ご自身を救い主として信じることによって、神様につながり、生きていくことを求めておられる。そして後の世代の者、これから生まれてくる子らもそのことを知り、彼らがまたその子らにまた語り告げ、彼らが神に信頼し、神のみわざを忘れず、「主を恐れ」、その仰せを守っていくことを求めておられる。私たちは、イエス様から教えられ、養われ、守られ、生きる模範を示されているのである。




自分の走るべき行程

2016年04月17日 | 説教要旨 (伝道師)
使徒の働き20・18~24

パウロの自己理解 (ピリピ3:5-6)」、その熱心さ(二テモテ4:7-8)、本日の聖書箇所からも、自分の務めを自覚し、熱心に取り組んでいたことがわかる。パウロは、信仰の旅路を、競技にたとえているようだ(一コリント9:24-27)。すると信仰の旅路というのは、アスリートのように自分自身に厳しく節制していくことが求められるのだろうか。本日は「自分の走るべき行程」について、ひととき考えてみたい。

本日の箇所は、パウロが3回目の伝道旅行からエルサレムへ戻る途中のところである。パウロは、ひとりのマケドニア人の幻を見て、マケドニアそしてギリシアまで足を伸ばすことにした(16:9)。第二次伝道旅行の時に、パウロはアジアに足を踏み入れた。パウロはそこでユダヤ人の会堂、つまり律法の教えを聴く所に入り、イエス様を伝えた(17:2~3)その結果、幾人かはパウロの言うことを受け入れた。しかしねたみにかられた、ユダヤ人の妨害を受ける。20章3節においても、「ユダヤ人の陰謀」があったと述べられ、絶えず危険と隣り合わせであったパウロの伝道が窺える。

パウロは教会の長老たちを呼ぶ。教会のはたらきに責任のある者たちを集めて、自分の奉仕の仕方を語る。謙遜とは、神の前にへりくだる(エペソ4:2・一ペテロ5:5)ということである。謙遜は、涙を伴うものだった。パウロの流す涙はキリストを信じる者に対しての思いに満ちている(31節)。パウロは、あふれんばかりの愛のゆえに、コリントの人々へ向けて手紙を書く。神の前にへりくだる謙遜さとあふれんばかりの愛にある涙とで、教会に仕え、神さまに仕えたということを言っている(二コリント2:4)。パウロはいかに教会に仕えたか。イエス様を信じる者に対してと、イエス様を知らぬ、受け入れようとしていない者に対して、パウロは謙遜の限りを尽くし、涙をもって、数々の試錬に見舞われながら、神様に仕えてきたということを言っている。

そして今の心境を述べる。パウロの行いたいことではなく、パウロの心が何者かによって縛られているかのように、御霊がパウロをとらえて離さないように、パウロはエルサレムに上って行く。非常に厳しい展開が、パウロを待っている(21:4・21:11)。人生は最後まで、その人に与えられた人生の歩みを、生涯を送ることを、神さまは求められる。私たちそれぞれが神の恵みの福音にあずかった者としての自覚を、日々新たにさせられながらの歩みが大切である。「神に対する悔い改め」と「主イエスに対する信仰」とを生涯かけて完成へと歩みを進めていく。それは競技者のようにたゆまぬ努力や節制が求められもする。しかし、その原動力は、自分の罪を認めさせられ、「神に対する悔い改め」を求めるようになり、主イエスが十字架にご自身を架けられて罪を贖われたという喜びに満たされていることにある。これこそが、パウロを全力で走らせる原動力であり、使命であった。彼がいのちをかけて、神様から託されたこととして全力を注いだことであった。神様は私たちそれぞれを神の恵みの福音に導き入れてくださった。そしてそれぞれに神の恵みの福音をあかしする任務を与えられる。生涯をかけて、歩む歩調や進む速度はたとえ異なっても、それぞれに与えられた信仰の旅路を、一心に歩んで行こう。




大洪水

2016年04月10日 | 説教要旨 (伝道師)
創世記7・1~24/伝道礼拝

ノアはアダムの子孫である。人間は、神さまの命令を守ることができずその結果、一生をのろわれた土地で、苦しんで食を得なければならない存在となった。そして一生の最後には土に帰ることとなった(創世記3:17◯19)。5章の系図の背後に、のろわれた土地で苦しんで、食を得ていたことを思わされる。「ノア」という名の意味は「慰める」という言葉と関わりがある。そこでノアは、「慰める」という意味に名付けられて人生を送る(創5:29)。

6章では地上に人がふえ始めたことが記されている。神様は人を良いものとして、神様ご自身のかたちとして創造された。しかし人は勝手気ままで、神様をおそれることはなかった。人の悪の増大、いつも悪いことだけに傾く人の心、これは創造者が地上に人を造ったことを、残念に思われるほどひどいものであった。心を痛めながら神様が考えられたことは、何であったか。神様は、地上に創造された人をすべて滅ぼしてしまおうとされた。「しかし、ノアは、主の心にかなっていた」。神様の目にあって、ノアは見出されるという恵みに与かった。ノアが「正しい人」「全き人」であるというのは、「神とともに歩んだ」ということに尽きる。神様はノアに語りかけられる。神様が今の世をどのように見ておられるかということ、そして箱舟を作るようにと命じられる。次に、地上に大洪水を起こすことを明言され、ノアと契約を結ぶとおっしゃる。大洪水の前と後とで、新たな世界を用意しようとされている。新たな世界は、神様とノアとによって、始められようとしている。

7章においても神様はノアに語りかけられる。これは大洪水を起こされる7日前のことである。ノアは神様から命じられた通りに箱舟を作り、生き物たちを乗せた。箱舟に入った生き物たちは、ノアが最後に入り、神様がその戸を閉められた。それから箱舟にいたノアとその家族、生き物たちは地上に出る。神様は、地上のすべての肉なるものとの間に契約を結ばれ、もう大洪水を起こすことはないとされた(創9:11)。人の悪の増大、いつも悪いことだけに傾く人の心、これは創造者が地上に人を造ったことを、残念に思われるほどであった。しかしノアとその家族に、大洪水後の地上を委ねるようとなさった。その大洪水を乗り切ったのは、箱舟であった。箱舟は大洪水を越え、新しい世界へノアと家族たち、そして生き物たちを運んだ。

新約聖書の光で照らす時、この大洪水の出来事は、私たちに何を教えてくれるだろうか。ノアが神さまからの警告、すなわち大洪水が起こることをまだ見ていなけれども受け止めて、救いのために箱舟を作ったことが述べられる。その信仰が彼と家族とを救ったと教えてくれる(ヘブル11:7)。神様が箱舟を作られていた間、神様は忍耐して待っておられた。そして8人の人々が箱舟の中で、水を通って救われた(一ペテロ3:20)。悪に傾く心がある人は、ノアとその家族8人を除いてすべて滅ぼされたが、悪に傾く心がある人はいなくなったか。神様は、人の心が初めから悪であるのだから、もう大洪水を起こすようなことはしないと、誓っておられる(創8:21)。

それでは神様は、人は悪であるとあきらめて、放置なさったであろうか。それでもご自身のもとに招こうとなさる(イザヤ54:7◯10)。しかし神様は、悪のあるままで、人をご自身のもとに招くことはなさらなかった。神様と私たちとの間には、大洪水のような水が隔てているのだ。この隔てを乗り越える手段は、私たちにはない。では、私たちはどのようにして神様の近くに、新しい世界へと歩めるのだろうか。私たちの罪を負って十字架に架かられたイエス様(一ペテロ3:18)。この方が私たちを大洪水から、新たな生へと導いてくださる箱舟のようなお方なのである。この方の他に、私たちは新しい世界へ入る手立てはない。




まむしのすえたち

2016年03月13日 | 説教要旨 (伝道師)
マタイ12・30~37/伝道礼拝

イエス様が「まむしのすえたち」とおっしゃる前に、バプテスマのヨハネが同じ呼びかけを言っている(3:7-9)。イエス様は彼らに何度も厳しい指摘をしておられる(23章)。パリサイ人がどういったことを言い、そしてイエス様は何を問題となさったのだろうか。本日はこのことを見ていき、私たちに振り返ってみたい。

30節、集めるとは何を集めるのか(照13:30・22:10)。イエス様はご自身の民を集めようとなさっている。31・32節、イエス様はパリサイ人が御霊の力によってあらわれた奇跡を、悪霊のものとして罵ったことを問題とされる。彼らは神様に従う者と自覚しておりながら、律法を都合の良いように解釈し、従うことを求めた。そして旧約聖書が預言していた救い主が、いまここにいらっしゃるのに、その方を受け入れようとせずむしろ悪霊呼ばわりした。これがどのような結果をもたらすのか。33節、「木のよしあしはその実によって知られる」とある。木の良し悪しが判明すると、良い木を残して悪い木は切り倒されて火に投げ込まれる(7:17-18)。

「まむしのすえたち」と言われる。バプテスマのヨハネが悔い改めよと告げ知らせ、イエス様も厳しい言葉を投げかけられる。これらはパリサイ人よ、自分の姿をよく見よ。自分で評価しているほど、神の前にあなたがたは正しくはない、ということであろう。根本的な問題は、「心に満ちていることを口が話すのです。」35節、何が良いと悪いとを分けているのか。良い人は「良い倉」、悪い人は「悪い倉」からそれぞれ物を取り出す。ルカの福音書6:45にも同じ記述がある。そこでは大勢の民衆に向けて話されている。パリサイ人にも大勢の群衆に対しても、イエス様は心のうちにあることを問題とされている。36節、さばきの日はいつなのか、それはわからない。しかしその日に明らかとされるのは、正しいか罪があるか、ということ。何をもってそのように判断されるのか、「あなたのことば」である。あなたのことばは、心に満ちていることにある。心のうちが問題とされている。イエス様は「まむしのすえども」と言われたパリサイ人に対して、厳しく言われている。それならば私たちはいつも、良い倉から良い物を取り出すように、ことばを守っているだろうか。イエス様はパリサイ人に限らず、人の心がその人を汚すことを教えられる(15:17-19)。私たちは自分を正しい者ですと、神様の前に堂々と言えない。

イエス様はパリサイ人をどう思われていただろうか。イエス様は、公の生涯でご自身の使命をご存知であった (16:21)。イエス様はパリサイ人に何度も厳しく対応なさった。それは彼らが、ユダヤ人の中で指導的立場にあったからこそ、彼らの間違いを改めさせようとなさった。「パリサイ人」にも個々の応答がある(マルコ12:28・ヨハネ3章・ピリピ3:5-6)。イエス様は、アブラハムの子孫に対して、熱心にあきらめずに悔い改めを求められた。そしてご自身が十字架にお架かりになられることで、神様の救いのご計画を成就なさった。それはアブラハムの子孫だけでなく、さらにご自身の名を求める者を招くためである。私たちはこのようなイエス様の招きにどのように応えているだろうか。心のうちの良い倉から良い物を取り出すように、応えているであろうか(ヨハネ15:4-5)。




すばらしい値打ちの真珠

2016年02月28日 | 説教要旨 (伝道師)
マタイ13・44~50/伝道礼拝

本日はほんとうに大切なものを見つけた時、私たちはどうしたらよいのか、そして神様は価値を認められたものにどうなさるのか、について見ていきたい。

「天の御国は」のたとえは、「家の主人」(24節) 「パン種のようなもの」(33節)「畑に隠された宝」(44節)、そして「良い真珠を捜している商人」(45節)「海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網」(47節)とされる。マタイの福音書全体では、その他にも18章・20章・22章・25章で教えられている。

バプテスマのヨハネが「天の御国は近づいた」と前触れし(3:2)、さらにイエス様が宣教を開始なさって、天の御国について具体的に述べ始められる。それでは「天の御国」は何であろうか。13章では、人にたとえられたり物にたとえられている。その人の行動に込められている真意、物が自然に変化することや機能に注目されている。44節「天の御国は畑に隠された宝」とある。宝は隠されており、それは捜し求める(箴言2:3~5)。価値があると知っているからこそ、喜びに満ちて手立てを尽くして、手に入れようとする。私たちは思いもかけぬところで、隠された宝に出会う(イザヤ45:15)。

まず「良い真珠を捜している商人」にたとえられる。商人の品物の目利きは確かである。良い真珠を求めている。模造品や偽物ではない。「すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者」は商人か、それともまた別の人だろうか。別の人ならば、畑の中に隠された宝を見つけた人と同じように読めよう。一方商人とすると、いかにその商人が真珠の値うちを認め、買おうとしているか。47節では、良いものと悪いものとをすわり込んで、一つ一つ選り分ける。悪い者がどのように取り扱われるか、についても記述されている。天の御国は、良いものをじっくりと選びわけたい、という思いがある。言い換えれば神様がそのようにお考えである。

天の御国は、人にとって「畑に隠された宝」であり、神様にとっては良いものを様々な手立てをもって捜して、正しい者を集めるところということになるだろう。そこで私たちはこういうのではないか「私は良い真珠でもないし、正しい者ではない」と。しかし値うちを認めて良い真珠であるとされるのは、私たちではなく、神様である(イザヤ43:4a)。

神様はこの真珠を行って、持ち物を全部売り払ってまでして、買い求められようとする(ヨハネ3:16・17)。イエス様は、ご自身が十字架にお架かりになられることをもって、私たちの罪を贖われた。それは私たちがイエス様を信じることによって、神様に受け入れられるようにしてくださるためである。イエス様は一匹の羊をも捜し求められる(マタイ18:12・13)。

天の父なる神様は、一人一人を愛され、すばらしい値うちのある真珠としてお求めになられる。それはもっとも大切になさっていることを差し出しても、求めようとしておられる。私たちは「隠された宝」を求め続ける中で、そのことに気づかされるだろう。

神様は隠れたところにおられたとしても、私たちの造り主である神様は、私たちのことをご存知であられ、私たちを求めておられるのである。




平和の君

2016年01月31日 | 説教要旨 (伝道師)
イザヤ9・1~7/伝道礼拝

イザヤは、ユダ王国の預言者であった。イスラエルの王国は2つに分裂し、軍事的に力の強い国々の中で揺さぶり続けられていた。軍事力や他国との駆け引き、そして他の神々を祀り、どんどん神様から離れていった。預言者は、神のことばを託され、命がけで神のことばを王やイスラエルの人々に伝える。

神様のことばに従わないこと、本日の9章の背景には、ユダ王国が周辺国の軍事行動に対して、神様よりも霊媒や口寄せといった者を用いていることが、厳しく問われている(照イザヤ8:19)。もとは一つであった北王国とユダ王国は、互いに争う関係となった。アハズは強国アッシリアに救援を求め、アッシリアは北王国の領土を攻撃する。イザヤの預言からおよそ700年後、ゼブルンとナフタリの地はガリラヤと呼ばれ、イエス様が宣教をなさった場所となる。「やみの中を歩んでいた民」「死の陰の地に住んでいた者たち」に光があった。神がこの世に光をもたらされ(照創世記1:3)、死と対比する生である光を与えられる(照ヨハネ1:4)。やみ、死は、誰しも避けて通りたい。しかし、誰しも避けることができない。そして生物的な死も恐ろしいが、心のやみ、魂が死んだようになっていることは、とても苦しいことである。人とは何者なのか。神様が人を、ご自身のかたちとして創造された。人間である以上、罪による死の呪縛から逃れられない(照ローマ5:12)。そこに「光」が与えられた。

「あなた」と「彼」とある。あなたとは、神様である(照士師記7:15-25)。彼の「重荷のくびき」「肩のむち」「しいたげる者の杖」を粉々に砕いたとある。これによって喜びと楽しみがある。みどりご、男の子が生まれることが告げられる。それは私たちのために生まれる、私たちに与えられる、とある。神様が、やみの中を歩んでいた民に、死の陰の地に住んでいた者たちのために、与えようとなさる。そのみどりごに対し、主権はその肩にあるとされる。この主権は、人間が与える物でも造り出したものでもない。そのみどりごの名として4つが記され、神様がご性質をもってこのみどりごを送ろうとしている。「不思議な助言者」とある。私たちは、罪の性質を負っている。そのような者に、神様ご自身が「不思議な助言者」を備えられる。

イザヤは今から2700年ほど前の、ユダヤの人々に語った。そしてイザヤの預言が更に明確となったのが、イエス様のご誕生である。神様はその誕生の700 年前に、イザヤを通して明らかになさった。そしてイザヤの預言はそれで終わったのか。そうではなく、今も実行されつつある(照イザヤ9:7)。

ではこの方は、神様がお与えになられた主権をもって、事を行われただろうか。イエス様のお姿は、叫ぶことも不満の声もあげず、力でもって何かを変えようとはなさらなかった(照イザヤ書42:1)。そればかりか、神様の僕として歩まれた(照イザヤ53章)。

「彼の重荷のくびき」「肩のむち」「彼をしいたげる者の杖」は、私たちがイエス様に負わせている(照イザヤ53:10)。このひとりごが、何のためにいらっしゃったか。私の罪を負い、背きのための罪をとりなしてくださった(照ローマ10:9)。この救いにこそ私たちの平安がある。




神の国とその義とを

2016年01月10日 | 説教要旨 (伝道師)
マタイ6・25~34/伝道礼拝

本日の箇所は、イエス様が説教なさっている一部である。5章から始まるこの説教は、「山上の説教」と言われる。大勢の群衆、そして弟子たちに対して山上の説教が行われた。「天の御国」が何度も語られている。

25節、「だから」と始まる。前の文を受けている。それは「ふたりの主人に仕えることはできない」すなわち神様と富の両方に仕えることはできないことを指している。どうして「だから」なのか。6章で中心に言われているのは、神様に向かい合うことにより、外面でなく心を見られている、ということである。イエス様は空腹を覚える身で、悪魔の試みを受けられた。いのちとからだの必要、そして人間が富ミ栄華ミに弱いこともご存知である。人間の必要は容易に欲望となり、気がつけば人は「富」に仕えることとなる(照マタイ4章)。

イエス様は何度も、「心配するな」と言われる。それらがいのちを少しでも延ばすのか、からだを装うのか、と問いかけられる。いのちの起源は、どこにあるのか。自分で延ばすことのできるのか。からだに身に着けるものは、神が、造られたものに備えておられるのではないか。それは、心配するならば本質的なことに心を向けることを教えられている。

「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」このみことばは、キリスト者の証しでもよく用いられる。それは「何を食べるか」「何を飲むか」「何を着るか」ということだけでない。「それがみなあなたがたに必要であること」を、神様に求めた時に思い至る。では、イエス様を信じておらずとも必要が満たされているならば、人はどうなのであろうか。人はたとえ物質的に満たされていようとも、霊的には自分を造られた神様から覚えられていない、貧しいものである。神様の前にあっては、何も持っていない、むしろ自らの罪にあって莫大な負債を抱えている。地上で権威を持つ存在を恐れるよりも、「たましいもからだもともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を」(照マタイ10・28)恐れなければならない。そしてイエス・キリストは神様の命を受け、十字架にお架かりになることによって、私たちの底知れぬ罪を、ただ一度で贖われ、私たちの莫大な負債を帳消しにしてくださった。この方が、私たちの必要を知ってくださり、「主の祈り」を教えてくださっている(照マタイ6・9~14)。

どうして「神の国とその義」がまず第一なのか。このことが、私たちのいのちとからだにとって不可欠であり、これを第一とすることによって、何が私たちの必要を満たしてくださるのかが、明確になる。「だから」私たちの生活が、このことを第一としていくならば、振り返ってみると、「そうすれば、それに加えて」確かに必要なことは満たされていた、ということに気づく。私たちの生活は物質的に恵まれている。それはそれぞれの置かれたところで、必死に生活を送っている結果であろう。しかしその一方で、日々の生活の必要以上の欲望に気づこうとせず、更に多くの物事を追い求めている。第一とすることが「神の国とその義」であるなら、私たちはその日その日にあって、十分に労苦に直面する。そのような日々を、聖書を手にして祈りもって歩むこと。イエス・キリストを救い主として受け入れて歩むこと。そのことを通して私たちは、「神の国とその義」が、実は私たちの身近にあること(照ルカ17・21)を知るのである。




私たちとともにおられる神

2015年12月13日 | 説教要旨 (伝道師)
マタイ1・1~25/アドヴェント第三主日/伝道礼拝

マタイの福音書の冒頭「アブラハムの子孫」「ダビデの子孫」とある。神様は、この子孫から、「イエス・キリスト」を起こされる。マタイでは、アブラハムからはじまり、ルカではイエス様からアダムへ遡る(ルカ3:38)。ルカはイエス様が神の子としてこの世にお生まれになった、ということを強調する(照 Ⅰコリント15:45)。

マタイに視点を移すと、幾つかの気になる記述に出くわす。3節、ユダは意図した訳ではなかったが、子どもの嫁と関係を持ってしまい、その結果子どもが生まれる(創世記38章)。5節、ルツはモアブ人という、イスラエルから見ると異邦の民であった(ルツ4:12)。血統として、純粋なユダヤ人ではなかった。6節、ダビデ王は、信仰者として、国家を統率するリーダーとしても、ずば抜けた人物であった。そのような偉大な王であっても、ここに罪を犯したという現実が、明確に示されている(Ⅱサムエル11章・照 詩篇51)。

この系図には、わざわざ人間としての失敗や異民族の流入や隠してしまいたい事実が書き込まれている。しかし神様は、そのことを示しつつもその系図を用いて、イエス様をこの世に送られる。神様のご計画は変わることなく、ダビデの系図から、王を起こされる(照 詩篇132:11・エレミヤ23:5)。

しかし相当の長い期間があって、イエス様がお生まれになった。神様がご計画になられることは、私たちの理解を超えたところにある。神様のご計画は、私たちの理解を超えて実現される(照 伝道者3:1)。神様は系図に示されているように、時を備えられた。この世は、系図にあるように人間の生活にある苦しみや悩み、悲しみや罪の現実がある。マタイの福音書に描かれる系図は、人間の苦しみや悩み、悲しみや罪の現実においてイエス様がお生まれになられる、ということを示している。

18節からイエス様のお生まれになる記述がなされる。神様のご計画は、ヨセフとマリヤが結婚するところで、聖霊がマリヤにはたらきかけてお生まれになられるという展開を取られる。神様はこの時を選ばれておられた。ダビデ王の位に着くとされる方は、イスラエル王国の王ということだけでなく、ご自分の民をその罪から救われる方とされる。そして23節の預言は、イザヤ書7:14にある。また同8:8・10に「神は私たちとともにおられる」という預言がなされている。

イエス様はこのように、人間の苦しみや悩み、悲しみや罪の現実においてお生まれになられる。そしてイエス様は、「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」であり、「神は私たちとともにおられる」ということを最後まで示されるのである(マタイ28:20)。これから私たちに、このような方が世にお生まれになるのである。




まことのぶどうの木・わたしにとどまっていなさい

2015年11月01日 | 説教要旨 (伝道師)
ヨハネ15・1~8

箱舟によって救われたノアは、ぶどう畑を作り始める(照創世記9・20)。ぶどうを産する土地は、肥沃な土地とされる。荒野のイスラエルの民に示された約束の地 (照申命記8・8)にも、ぶどうがある。そして神様は、イスラエルの民をぶどうの木に例えられるほどに愛された (照詩篇80・8~9)。

神様はぶどう畑を丹精込めて整備され、そこに良いぶどうを植えられた(照イザヤ書5・1)。神様はご自身の民、イスラエルを愛され、「甘いぶどうのなる」ことを求められた。しかしイスラエルの民は、神様の求めておられるような実りに至らなかった。ぶどうは、中東の地域で古来より愛されている食物の一つである。そして神様はそのように人々に愛される植物を通して、ご自身の民に向き合ってこられた。ところがイスラエルはその愛に応えることができず、良いぶどうが質の悪い雑種のぶどうに変わった(照エレミヤ2・21)。それに対して、イエス様は、ご自身を「まことのぶどうの木」とおっしゃるのである。

この箇所は最後の晩餐での、イエス様からお弟子たちに対する説教の一部である。農夫は実を結ばせるために、枝を剪定し、手入れを行う。実を結ぶ枝であることは、イエス様が、神様が、お求めになられている(照15・16)。神様が選ばれた枝にあっては、実を結ばない要素は取り除かれる。実を結んでいるとしても、更なる収穫を期待されて、刈り込みがなされる。「あなたがた」と言われる。イエス様を救い主として受け入れている者に「もうきよい」と言われる。既に、イスカリオテのユダは闇に消えて行き、イエス様はこれから起こることを告げられ、かわるがわる質問するお弟子に、応えられる。イエス様は、全てをご存知であられた。ご自身のことばによって歩む者に「もうきよいのだ」とおっしゃる。「わたしにとどまる」、イエス様にとどまっていれば実を結ぶが、そうでなければ実を結ばない。このぶどうの木と枝との関係は語の順から、私たちがイエス様にとどまっているならば、イエス様もとどまっていてくださる、のだ。「実を結ぶ」の「実」は、神様の視点から求められる「実」であろう。その「実」を結ぶために、イエス様にとどまっているということが、何よりも必要とされる。人が、枝としてイエス様という、まことのぶどうの木にとどまり続けるならば、神様の視点によって多くの実を結ぶ。イエス様にとどまっていない枝は、投げ捨てられて枯れるとあり、イエス様は枯れた枝となるのではなく、ご自身にとどまり、生きた枝、神様に喜ばれる多くの実を結ぶことを求めておいでである。

「イエス様にとどまる」ということ、それは「イエス様のことばにとどまる」ということでもある。私たちの欲しいものとは、一体何か。「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」(照8・31)。私たちは、この真理を知りたいと願うのではないか。それではこの真理とは何か。ピラトはイエス様にいった。「真理とは何ですか。」(照18・37~38)イエス様にとどまるということ、このことを通して、私たちは「自由」にされる。イエス様にとどまることによって、私たちは真理を求め、「自由」になることができる。それはまた一方において、多くの実を結ぶこととなり、イエス様の弟子となることでもある。そしてイエス様にとどまっていることは、神様が栄光をお受けになるのである。




主は私の

2015年10月18日 | 説教要旨 (伝道師)
詩篇23・1~6/伝道礼拝

ダビデはイスラエルの王であり、詩篇に多く採用されている歌い手でもある。詩篇は基本的に、神様に向けられた祈りと賛美である。このダビデは、最初は羊飼いであった(照:一サムエル16章~)。ダビデはこの詩篇において、自分を羊としてとらえ、そして主は自分の羊飼いであるとしている。この詩篇が読まれた背景は、イスラエルの自然の中の羊飼いである。羊飼いは危険を伴っても羊を外敵から守り、注意深く配慮し、食を満たして飢えや渇きのないように心がけている。

イスラエルの地理と気候は、季節によっても地域によってもまったく異なる。羊は必ず何かの守りがなければ、導きがなければ、生きていけない。ダビデは、羊のことをよく知っていた。羊のために心を砕いて、世話をしていた。その彼が、神様を羊飼いであるとし、自分はその方の羊であるという。3節、羊は自分勝手に、道をそれて行く。そうした迷える羊を、主ご自身が、ご自身の道に導かれる。4節、ダビデは実際に、「死」を何度か意識したであろう。死の陰の谷を一人で歩んでいたとしても、主が私とともにおられること、主は私の羊飼いであられ、必ずそばにいてくださっている。そこに彼の信頼がある。むちと杖は、羊を正しい道へ導くために必要である。羊は羊飼いが導いてくださった一つ一つのことから、慰めを得、常にともにいてくださることを理解する。5節、神様は、エジプトから導き出された民に、荒野の中でも食事を備えてくださる(照:出エジプト16:12ほか)。困難や危険に直面していても、必要を満たしてくださる。ダビデは、実際に頭に油を注がれた(照:一サムエル16:13)。特別にその者に恵みを注がれた。彼は自分を器に例えると、あふれているという。6節、彼は、いつまでも主から離れずに歩むことに喜びを得ている。

ダビデは大変優れた王であった。しかしその王であっても、自分を羊飼いとしてでなく、羊としている。一方私たちは、羊飼いとして来られた方を知っている。イエス様は、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われる(照:マタイ9:36・マルコ6:34)。迷った一匹を捜しに出かけ、この一匹を喜ばれる(照:マタイ18:12~13・ルカ15:4~7)。自分の羊をその名で呼んで連れ出される(照:ヨハネ10:3)。ご自身の羊のためにいのちを捨てる(照:ヨハネ10:11)。ご自身の所有とされる羊のことをよく知っておられる(照:ヨハネ10:14)。

このようにイエス様は羊飼いとして、羊のためにいのちを捨てられ、私たちの罪を贖われ、永遠のいのちを与えてくださる(照:ヨハネ10:28)。聖書を通して神様が私たちに語りかけているのは、私たち一人ひとりが羊であり、羊飼いである神様の存在を受け入れて歩むことである。そのことを受け入れ、ぜひイエス様が私の救い主であり、導き手であることにあって、歩みをすすめたい。





心をお調べになる神

2015年09月13日 | 説教要旨 (伝道師)
テサロニケ第一2:1~5/敬老主日伝道礼拝

神様は、イエス様の十字架を信じる者とどのように向き合ってくださるのか、神様と向き合うということはどういうことなのだろうか。そして、イエス様の福音を信じる者にとって、その心を調べられるということはどういうことなのだろうか。

テサロニケ人への手紙第一は、コリントの滞在期間に書かれたものであろう(照Ⅰコリント18:11)。そこでの滞在は約18ヶ月にも及び、執筆はおそらく50か51年頃であろう。

テサロニケでは、異邦人の回心者の数が多かった(照Ⅰテサロニケ1:9)。パウロは、三つの安息日にわたる会堂での証しと伝道活動を用いた。その結果、多くの異邦人がイエス様を信じることに導かれ、新しい教会が形成された。しかしその後、パウロが伝道をした時にも見られたように、ユダヤ人たちによる迫害が始まった。またパウロが、テサロニケで伝道していた時の行動に誤りがあったとして、パウロの伝道の動機が問題にされるようになった。

2章1節で、パウロは「あなたがたのところに行ったことは、むだではありませんでした」とする。2節では、パウロの宣教は、ピリピで困難に見舞われたことが推察される。しかし常に厳しい困難の中にありながらも、パウロは「大胆に」神の福音を語った。「大胆に」は、福音宣教において、何度も用いられる。(照使徒9:27;18)イエス様に基づいてパウロは「大胆」にみことばを説き明かした。そしてテサロニケでも同様であった。(照:使徒17:3)

3節で「私たちの勧め」という。この語は「慰め」とも「励まし」とも訳され(照Ⅱコリント1:3;使徒9:31)、新共同訳聖書では、本文を「私たちの宣教」と訳す。ここで「私たちの勧め」とは、神様のご性質、聖霊のお働きと密接に関わるのであろう。迷い、不純、だましごと、ということから、「私たちの勧め」が出たことではない。むしろこの「勧め」は、私たちが困難や苦痛に見舞われても、神様からの「慰め」「励まし」「勧め」また宣教である。

4節「認められる」と「お調べになる」は、原文では同じ語である。他の聖書箇所では人が主語として用いられ、意味は「見分ける」「試す」「知る」「認める」「吟味する」「承認する」「確かめる」「調べる」等である。一方本文の主語は、神様である。神に認められるとは、どういうことか。詩篇66:10では、神様が調べられるということは、銀を精錬するように練るということがわかる。すなわち金属を精錬するかのように、私たちの心を調べられる神様は、私たちに調べるに価すると思われて、私たちの心をお調べになる。私たちは「神に認められて、福音をゆだねられた」者であること、福音をゆだねるに価すると認められるからこそ、心を調べられもする。心を調べられるからこそ、私たちは神様に福音を委ねられるに価するものとして取り扱われていることを知る。

5節にこれまで、「へつらい」「むさぼり」といったことがないこと、すなわち自分の内面においてもそうしたことが全くないことが言われる。神様が証人としていてくださるとされる。

人を欺くことは、様々な手段を講じれば可能である。しかし心の内をご覧になられる方の前にあっては、どんな手段も無意味である。パウロは、回心した後から生涯かけて、心をお調べになる神との対話を通して、そのお方に喜ばれることを目指し続けたのではないか。この心は、一体どのようにしてそうなったのか。イエス様の血、すなわち十字架の贖いによって、その贖いを受け入れることがゆるされたことによって、私たちの心は変えられた(照ヘブル10:22)。私たちが何かを守ったことや行ったことで、心の内に何らかの変化があったのではない。

御霊なる神様のお働きを受けて回心に至った。そうした者だからこそ、福音をゆだねるに価するものとされ、また同時にゆだねられた者の心が練られる。心をお調べになる方へ応答した歩みを、続けて行きたいと願わされて歩もう。




一度のささげ物

2015年08月16日 | 説教要旨 (伝道師)
ヘブル 10・8~14/伝道礼拝

昨日の「終戦記念日」のように、戦争のことを覚えることが多くある。夥しい生命が失われていることを覚える中で、イエス様は一体何を、どのようになされたのかを見てみたい。

先の5-7節で述べられているいけにえについて述べられる。神様が求めておられること、それは旧約律法のいけにえではなかった。詩篇40篇7・8節で「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。わが神。私はみこころを行うことを喜びとします、あなたの教えは私の心のうちにあります」イエス様を通して、神様の救いのご計画があることが述べられる。

10節の「みこころ」は、先の詩篇箇所の引用からも、神様が旧約の時代から、すでにご計画を備えておいでであることがわかる。時が満ち、イエス様を世にくだらされた。イエス様は私たちと同じように、肉体を持たれた。生命を持たれた。イエス様は人間と同じような所にまで、くだって来られました。それは神のみこころを行うためである。このみこころに従い、ご自身のからだを、すなわち肉体だけでなく自己自身を完全に、一度献げられた。旧約はこの時を望み、そして時至って、一度で完結した。その後、神様に献げることに、付け加えられも繰り返されもしなかった。Ⅰペテロ3:18でははっきりと、「悪い人々の身代わりとなった」としている。ヘブル10章12節で「罪のために」という言葉があり、14節で「聖なるものとされる人々」とある。イエス様がご自身をお献げになったことは、「悪い人々の身代わり」として、「聖なるもの」とするためにある、ということがわかる。それは私たちのためである。ご自身をただ一度だけ、お献げになった。次に祭司の働きが述べられ、神殿において、同じいけにえを繰り返し献げている状況が言われる。イエス様はイエス様がメルキゼデクの位に等しい祭司としてこられ、完全な幕屋を通って来られる(参照:7:17/9:11・12)。イエス様が「罪のために一つの永遠のいけにえをささげ」た。ささげられたいけにえは、イエス様でなければならなかった。ご自身を完全に、一度献げられた。献げた後、イエス様は神様の右の座に着かれる。「右の座に着く」には、イエス様が王として、全世界を統べ治められる方としていらっしゃること、そして救い主として私たちをとりなしてくださることを意味する(参照1:3 8:1/ 12:2)。

「敵がご自分の足台となるのを待っておられる」では、神様の権威の元に全てが従わせられる時を、待たれている。イエス様は既に、私たちのために救いを完成なさっている。

「一つのささげ物」と「永遠に全うされた」は、イエス様が十字架に架けられたことは、旧約律法の行いで言えばご自身を一度献げられ、そのことはその時だけで終わったのではなく、完全な献げ物であったため、永遠に全うしたということである。それは、私たちの罪を負われ、十字架にお架かりになり、神様のみこころを成し遂げられたということである。

私たちの罪の贖いのために、イエス様は「犠牲」となられた。それは神様がご計画になられていたことであった。原罪は、人間が神様との関係を修復することはできぬばかりか、イスラエルの歴史を見ると、更に罪の実態はより深く、重くなっていった。旧約聖書に描かれる様々な人間の罪の実態は、現代においても本質的に変わりない。私たちの生活は、様々な思いのある「尊い犠牲」の上に成り立っているのかもしれない。しかし一方で、今なお人間の罪の現実は、私たちの身近にも、また今の瞬間にも、地球上のどこかである。私たちは何度も繰り返されてささげられる犠牲に目を、こころを奪われることなく、ただ一度、完全なかたちでご自身をお献げになられ、神のみこころを成し遂げられたお方を思い続け、また歩みを続けたい。




すべての人に悔改めを

2015年07月12日 | 説教要旨 (伝道師)
使徒の働き17:22-31/伝道礼拝

パウロは「ユダヤ人の会堂」を目指し、ユダヤ人に対して福音を語ろうとしていた。ところが、そこで信じる者が起こされると同時に、パウロに対する反発と危害を加える人々が行く所々で、出てきました。その結果、パウロはアテネに行くこととなる。彼が巻き込まれた暴動や危険な目をも用いられて、アテネの地に足を踏み入れる。パウロはここでも、会堂では、ユダヤ人や神を敬う人たちと論じていた。その一方で彼は、広場では毎日そこに居合わせた人たちと論じた。本日の聖書箇所は、パウロが広場でそこに居合わせた人たちに論じた内容であろう。アテネの人々はパウロを、これまで聞いたことのない異教の神を熱心に説く、一種の宗教の行商人のように感じていたのかも知れない。パウロは、アレオパゴスという公の場で、その教えについて説明を求められる。

パウロは「私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ている」と言っている。これは宗教心があつくとも、果たしてその拝んでいるものは一体何ですか、迷信的な恐れに陥っていませんか、というような問いかけではなかったか。続けて「あなたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう」と、パウロは、神の本質について公然と無知であることを認めて拝んでいるそれは何か、私はそれをこれからお教えしましょう、としている。

まず神が、この世界とその中にあるすべてのものをお造りになったということ。手でこしらえた宮に住まない。また神は、人の手によって仕えられる必要がない。それは何故か。神はすべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方である。つまり人が神を造り出したのではなく、神が、すべての人に、いのちと息と万物とを与えられたのだ(創世記2:7)。ひとりの人からすなわちアダムから、人類が始まったと。そこから展開し、今日に至る物語りは、「神を求めさせるため」「探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともある」に至る。ユダヤの人々に与えられた旧約の記述は今や、あなたがたアテネの人々にあっても、確かに神は、わたくしたちひとりひとりから遠く離れておられないとされる。それは、私たちひとりひとりは、造り主である神によってつくられたのであるから、神は遠く離れておられない。むしろ私たちは神の中に生き、動き、存在しているのだという。

29節では、「私たちは、神の子孫なのである」とする。人間は神のかたちに、神の姿に似せて造られた。するとすべての人は、神の被造物として、神に対して当然の尊敬を払う必要があろう。だからこそ、人が作るもので神を象り、それを拝むのでは神に対して尊敬を払うことにはならないこととなる。パウロはこのことに憤り、彼らに知らせたいと思わされたのだろう。そしてそのことを言うために、パウロは実に慎重に、かつ相手の立場を尊重しつつ説教を進める。こうした「無知」を、神は見過ごされてきた。あなたがたが『知られない神に』と刻まれた祭壇で拝んでいること、それは神について知らなかったのであった。だからそれを神は、見過ごしておられた。しかし今はどこででもすべての人に悔い改めを命じておられる。すなわち神は、あなたがたを含めて、どこででもすべての人をご自身のもとに招くために、悔い改めを求めておいでである。31節の「神がお立てになったひとりの人」は、26節の「ひとりの人」とは異なる。この方こそ、イエス様である。そのイエス様が、ご自身の義をもって「さばく」とされる。テサロニケ人への手紙第一1章10節では、いつの日かこの世界に、神様のご計画になっているさばきがあり、その場にイエス様がいらっしゃる、ということを示している。またガラテヤ人への手紙2章16節では、人はイエス様を信じることにより神から義とされ、信仰によって救いの保証を得る。これは神様が決められたさばきの日にあって、イエス様が救いの保証をしてくださると同時に、行いによってイエス様を信じることでないという、神様からの一方的な恵みが、イエス様を信じる者に与えられていることを表す。イエス様は、私たちの罪を負われ、死なれ、よみがえられた。死に打ち勝たれたということを、私たちに示された。このお方を信じることが求められているのである。このお方こそ、拝む対象なのである、とパウロは言うのである。




どの国の人であっても

2015年06月07日 | 説教要旨 (伝道師)
使徒の働き10・24~36/伝道礼拝/田伝道師

使徒の働き10章は、使徒の働きの半分のところに位置する。10章の内容は11章で更に展開し、それ以降の物語に発展する。カイザリヤはヨッパから、およそ20キロ北上したところにある。海辺の町で、ローマ総督の本部がある。ローマ軍は、当時の世界で圧倒的な軍事・経済力を持っていたが、彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこむ人であった。また彼は、ユダヤ教徒ではなかったが、ユダヤの人々の信じる神を恐れかしこむ人であった。全家族とともに、神を恐れかしこんだ生活をしていた。彼はいつも祈り、ユダヤ人に多くの施しをしていた。それらは彼の自己満足のためのことではなく、「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています」と記される。そのような彼に御使いが現れると、その内容を部下たちに説明して聞かせ、使徒ペテロのところへ派遣する。一方コルネリオの使いたちがペテロの近くまで来た頃、食事前に少し夢うつつとなったペテロは、幻を見る。

ペテロが来る時コルネリオは、親族・親しい友人を呼び集めていた。何よりも彼は一個人として、神の存在を意識して恐れていた。そして恐れるべき存在がいらっしゃるのだということを伝えていた。彼がペテロを迎えた時に「ひれ伏して拝んだ」。彼はコルネリオを起こし、ことばをかわしながら家に入っていく。ペテロも神を恐れ、神の前に同等であるとした。コルネリオもペテロもそれぞれ別のところで、一方は御使いが来て語られ、もう一方は夢見心地で幻を見てと、自分の意志とは関係のないところで、何かに導かれていることを感じたであろう。

ペテロは、コルネリオが述べたことを聞き、すべてのことが神様の主導のもとに行われたと理解する。「これで私は、はっきりわかりました」の「はっきりわかりました」というところは、「アレッセイア」ということばが用いられている。真実や真理・事実という意味があり、神様の意志を、はっきり理解しましたという意味である。神様の意志とは何か。「神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられる」である。神様は、人の顔を見て判断されない、分け隔てされない、ユダヤ人だけを特別に扱われない。「どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人」であるならば、神様は「どの国の人であっても」ユダヤ人と同様に受け入れてくださる。「神を恐れかしこみ、正義を行う人」というところが重要な点であろう。

コルネリオは神を恐れ、祈り、多くの施しをする。そして自分だけでなく家族や仕事の関係者、知人や友人にまで、影響を及ぼす。コルネリオの敬虔な姿勢。その彼の根幹は何であったか。コルネリオから私たちが学ぶことは、「神を恐れること」である。そうであれば、どの国のひとであっても神に受け入れられる。そして神に受け入れられるということは、福音に触れて、聖霊によって理解させられてバプテスマを受けることである。コルネリオの物語を通して、神様が私たちに伝えてくださるのは、このことなのである。