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香柏だより

福岡市東区の香椎バプテスト教会です。
聖書の言葉には、ひとを生かす力があります。
礼拝では手話通訳もあります。

唯一の神に、イエス・キリストによって

2015年12月27日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ16・25~27/年末主日礼拝/ローマ書連講(46・最終回)

パウロが〝ローマにいる、神に愛され、召されたすべての聖徒たち〟(1・7)に宛てた16章に及ぶ「ローマ人への手紙」は、本頌栄をもって結ばれます。〝頌栄とは三位一体の神に栄光を帰する賛美の祈りです〟(岩波キリスト教辞典)。先週クリスマス主日礼拝において、一般には人知を超えた威力を持つ隠れた存在を神として畏怖するけれども、私たちは万物の創造主にして「御座を高く置き、低きに下って天と地を御覧になる」神キリストを、ハレルヤ! と称えました(「低きに下る神・キリスト」詩篇113篇他 12/20)。ここでパウロは「知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでもありますように。アーメン」と頌め歌います。

私たちが「低く下った神」ナザレ人イエスを「あなたは生ける神の御子キリストです」と信じ、告白できたのは天地の唯一の創造主なる御父と聖霊によるのです」(照マタイ16・16/Ⅰコリント12・3)。また主イエスは「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10・30)と言われ、「わたしを見た者は父を見たのです」(同14・9)と仰言いました。私たちが見えざる唯一の神を畏敬し、信仰することができたのは、イエス・キリストにおいて神を見、神に祈ることが許されているからです(照ヨハネ14・13)。このことをパウロは「『光が闇の中から輝き出よ』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです」(Ⅱコリント4・6)と高らかに歌っています。

この頌めたたえられるべき神は、〝世々にわたって長い間隠されていたが、今や、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書物を通して、信仰の従順に導くために、わたしの福音、即ちイエス・キリストについての宣教によって、すべての異邦人に知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを強め、堅く立たせることができるお方です〟(25~26)。この「私の福音」こそは「ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。人を救うのは神の義であり、それはひとえに信仰を通して与えられることが福音に啓示されています。『義人は信仰によって生きる』と書いてある通りです」(1・16~17)とある本書の中心主題です。このように私(パウロ)の福音・イエス・キリストの福音宣教という説得力ある堅固な、確かな教えによって、内的な確認、確証を与えることによって、神はあなたがたを力づけ、堅く立たせてくださるのです。

代々にわたって隠され、旧約聖書に預言されていた奥義・福音が、イエス・キリストの宣教によって、あらゆる国の人々に知られるようになりました(照Ⅰペテロ1・10~12)。パウロにとり、いえ全ての人にとり、キリストとその福音なしには救いも、信仰も、神を讃美し、礼拝することもあり得ないのです。ですから私たちは、【1】神の律法において自分が罪人であり、神の裁きの下にあることを知り、【2】 キリストに目を向け、そこに圧倒的な憐れみと極みまでも愛してくださる父なる神を見、そして【3】キリストはその贖いによって、私が再び神を怒らせることのないようにしてくださったことを心に留め、新しく創造された者として、神のみこころに喜び従い、三位一体の聖書の神に栄光を帰しつつ生きて参りたいと願い祈ります。




あなたがたが学んだ教え――最後の勧告

2015年11月29日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ16・17~24/アドヴェント第一主日/ローマ書連講(45)

待降節(アドヴェント)第一週主日の礼拝を捧げます。(ラ)アドヴェントゥスは、古代に皇帝など支配者が征服した町に入るときに行った儀式。入城式(考キリストのエルサレム入城)。ヘブル書記者は「神は、昔(旧約の時代)、預言者たちを通して・・・・・・語られましたが、この終りの時(新約の時代)には、御子によって語られました」(同1・1)と記します。キリストの降誕は「終わりの時代」の始まりであり、再(降)臨はその終わりのときです。アドヴェントを迎え、私たちは初臨の主イエスを記念しつつ、再臨のキリストを待望するのです。

パウロは〝ローマにいる神に愛され、召されたすべての聖徒たち(1・7)への手紙〟の筆を置く前に〝兄弟たち、あなたがたの学んだ教えに背いて、分裂とつまずきを引き起こす人たちを警戒し、彼らから遠ざかりなさい。そして、善にはさとく、悪には疎くありなさい〟と最後の勧告をいたします。

教会は常に〝分裂とつまずきを引き起こす人々〟の攻撃に曝されます。それは「あなたがたが学んだ教え」即ち「聖徒に一度伝えられた信仰」(ユダ書3節/宣教50周年記念礼拝説教)、霊感された聖書、十字架と復活のキリストの福音に「背いて、分裂とつまずきを引き起こす人たち」がいるからです。このような人たちは、僕として主キリストに奉仕せず、自分の腹・欲望を神として、それに仕えるのです。このような人たちの特徴は「なめらかな言葉とへつらいの言葉」です。「なめらかな/うまい/美しい言葉と媚へつらいの/甘い言葉」、即ち〝美辞と甘言〟でキリストに仕えるふりをしながら、教会に分裂を引き起こし「純朴な(混ぜ物のない、清い)人たち」の心を惑わせ、つまずかせ、自分の欲のため、勢力を張ろうとすることです。パウロはこういう人たちを警戒し、遠ざかるように勧め、全教会に聞こえている人々の信仰の従順を喜びつつ、「善にはさとく、悪には疎くあってほしい」(照12・9)と願います。

「平和の神は、速やかにサタンをあなたがたの足の下で踏み砕かれます」。分裂が不和を生み、純朴な人々を躓かせることを憎まれる「平和の神」が、私たちの足の下でそうした肉の行いを謀る人々・サタンに勝利してくださり、教会に、あなたに、平和と一致を賜わるのです。またこの聖句は「わたしはお前(蛇・サタン)と女(エバ)との間に、お前の子孫と女の子孫の間に敵意を置く。彼はお前の頭を踏み砕き、お前は彼のかかとに咬みつく」(創世記3・15/原福音)を思い起こさせます。この預言は、神の定めの時が来、神がご自分の御子を、女(エバ)の子孫(全人類・人間)として、女から生まれさせ、イエス・キリストが、十字架に死に、復活することにより、律法の下に罪に死んでいる私たちを贖い、神の子としてくださることによって成就しました(照ガラテヤ4・4~5/来聖日12/6アドヴェント主日聖餐礼拝)。しかし、私たちが罪と死から完全に解放され、御国を相続するのは、キリストが再び来り給う(アドヴェント)ときです。その日を待ち望みつつ、この年のクリスマスを迎え、祝いましょう。




個人的な挨拶

2015年11月22日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ16・1~16/ローマ書連講(44)

パウロはアドリア海・コリント湾のレカイオン港からローマに行くフィベに本書簡を託すに際し、エーゲ海・サロニコス湾の港町ケンクレア(照 使徒18・18)にある教会の執事(奉仕者/仕える者 照Ⅱコリント3・6、Ⅰテモテ3・8~13)である彼女をローマの教会に紹介します。そして〝聖徒に適しい仕方で、主にあって歓迎し、あなたがたの助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげてください〟と依頼します(照12・13、Ⅰテモテ3・2)。〝なぜならこの人は多くの人々を援助し、また私自身の恩人でもあるからです〟(照ピリピ教会 ルデア 使徒16・14~15、40/〝パウロの足跡を訪ねて〟p37)と述べます。

知友への挨拶(「よろしく」15回)は「キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラ」から始まります。小アジア・ポント州生まれのユダヤ人で、天幕造りのアクラと妻プリスキラは、紀元49年にクラウデオ帝(41~54年在位)が発布したユダヤ人のローマ追放令によりコリントに来、そこで第二次伝道旅行でコリントに来た(紀元50年1月 フィネガン)ばかりのパウロと出会い、共に福音のために働くようになります。その後二人(プリスキラとアクラ)はパウロと共にエペソに渡航し、自宅を教会として福音を伝え(照 使徒18・1~4、18~21(Ⅰコリント16・19)26~19・1)、クラウデオ帝の死後ローマに戻り、この手紙を書いている今、そこでまた家を教会とし(5/57年頃)、さらにこの後再びアジア(多分エペソ)に行き、伝道しています(Ⅱテモテ4・19、65年前後)。命懸けでパウロの命を守ってくれた(使徒19章/Ⅰコリント15・32)この二人に、パウロだけでなく、異邦人の全ての教会も感謝していること、また彼らの家に集まる人々(教会)によろしくと記します(3~5)。

次いで〝アジアでキリストに献げられた初穂エパネト(5)、あなたがたのために非常に労苦したマリア(6)、ユダヤ人で、私(パウロ)よりも先にキリストを信じる者となり、私(パウロ)と一緒に投獄されたことのあるアンドロニコとユニアス(7)、主にあって愛するアムプリアト(8)、キリストにある共労者ウルバノ、愛するスタキス(9)、キリストにあって練達したアペレ、アリストブロ家の人々(10)、同国人ヘロデオン、ナルキソの家の主にある人たち(11)、主にあって労しているツルパナとツルポサ、主にあって非常に労苦した愛するペルシス(12)、主にあって選ばれた人ルポス(照マルコ15・21、マルコ伝)と彼と私の母(13)、アスンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマスおよび一緒にいる兄弟たち(14)フィロロゴとユリア、ネレオとその姉妹、オルンパおよび一緒にいる全ての聖徒たち(15)によろしく〟と挨拶します。この人々の名前はローマ教会には聖地出身とディアスポラのユダヤ人、異邦人(ギリシア名 ラテン名)、また上流階層や多くの奴隷、或いは解放自由民がいたことを示しています(照Ⅰコリント1・26)。またここには多くの女性の名前が挙げられています。そうした様々な人々によって構成されているローマ教会の人々に、パウロは〝聖なる口づけをもって、互いに挨拶を交わしなさい〟と勧め〝キリストのすべての教会があなたがたによろしく〟と言っています、と伝えます(16)。神と人類の和解をもたらすキリストの福音により救われたユダヤ人とギリシア人、強い者と弱い者が組み合わされて建てられるのがキリストの教会です。




これからの伝道旅行計画

2015年11月15日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ15・22~33/ローマ書連講(43)

紀元47年から57年の10年間、キリストの御名がまだ知られていない所で伝道し、エルサレムからイルリコ州まで福音を隈なく満たし、今や東地中海地方(ガラテヤ、マケドニア、アカヤ、アジア)には働くべき場所がなくなったパウロは、これからの伝道旅行の計画を語ります。

パウロは何年も前から、西方におけるローマ最古の属州イスパニアへ宣教に行く途中、ぜひローマに立ち寄りたいと切望していました。しかし、「こういうわけで」、即ち第一次から第三次にわたる伝道のために幾度となく妨げられて行くことができませんでした(考Ⅱコリント11・22~28)。しかし今や、その妨げは終り、イスパニアへの道が見え始めました。そこでパウロはその途中ローマの信徒たちに会い、しばらくの間でも共にいる喜び・信仰の交わりを味わい、心を満たされてから、イスパニアへ旅立たせてもらいたい、との希望を記します(22~24/照 使徒19・21)。

しかし今は、まだ行けません。それはマケドニア州とアカヤ州の(異邦人)キリスト者たちは、エルサレムの貧しい聖徒たちのために拠金をすることにし、喜んで寄附しました。そこでパウロはこの募金の成果を確実にエルサレム教会に手渡すというユダヤ人と異邦人を仲介する祭司としての奉仕のためにエルサレムに行かなければならないからです。エルサレム教会への拠金(物質的なもの)は、エルサレム教会から広がった福音(霊的なもの)を、パウロが十年間にわたり伝えた異邦人教会が結んだ果実であることを示す両教会を結ぶ信仰の証しです。異邦人教会はエルサレム教会からの霊的なものに与ったのですから、喜んで、自発的に物質的なものでエルサレム教会に仕えるのは当然であり、義務である、とパウロは言います(25~27)。

そしてローマの兄弟たちに、パウロのために共に力を尽くして祈るよう(照コロサイ4・12、創世記32・24~29)、主イエスと聖霊の愛によって切に求めます。その祈りの願いは ①〝私がユダヤにいる不信仰な者たちから救われ、②エルサレムに対する私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるように、③こうして神の御心により喜びのうちにあなたがたの所に行き、共に憩うことができるように〟でした。①エルサレム教会の不信仰な人々は、パウロの異邦人宣教に対し宗教的裏切者と敵意を抱き、パウロの回心者に対し割礼を要求しました(照ガラテヤ書)。そのような不信仰の輩から守られるようにと。②エルサレム教会への異邦人教会の拠金が拒絶される危険がありました。神は人類を祝福するためにイスラエルを選ばれました(照 創世記12・1~3他)。ユダヤ人として生まれたキリストは、全人類を神と和解させ、ユダヤ人と異邦人の壁を除き、両者から成る神の教会を建てられました。教会は民族や人種、強い者と弱い者等々の様々な相異(ちがい)を超えてキリストにあって互いに受け入れあい一つとされ、共々に神をあがめるのです(照15・7~13/ガラテヤ3・28)。パウロが異邦人教会のエルサレム教会の貧しい人々への贈物に努めきたのは(照 使徒11・30、12・25)、そして今、異邦人教会の献げ物がエルサレム教会に受け入れられることを願うのは、「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力」である福音によって救われたすべての人々(キリスト者/教会)が一致して、神の栄光を現わすことを切に願うからです。




神の福音・キリストの福音

2015年11月08日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ15・14~21/聖餐礼拝/ローマ書連講(42)

ローマ人への手紙の本論を書き終えたパウロは、あとがきとして、パウロの使徒としての使命(本箇所)、今後の計画(15・22~33)、個人的挨拶(16・1~16)、最後の勧告(16・17~24)を書き、そして頌栄をさゝげて(16・25~27)ペンを置きます。

ローマ教会の創設者でもなく、ローマに行ったこともないパウロは、「ローマにいるすべての神に愛され、召された聖徒たちへ」(1・7)本書簡を書くに至った動機について丁寧に認めます。原文では14節文頭に「この私は確信しています」とあり、パウロは、ローマの信徒たちは善意に溢れ、すべての知恵に満たされ、互いに訓戒することができると本当に確信している、と強く言います。神により、そのように確信させられている「この私(パウロ)は、あなたがたに今一度思い起こしてもらうために、所々かなり大胆に書きました」と言います(14~15/照4・11~14、8・1~10、11・17~24他)。〝それは、私が神から恵みをいたゞき、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音をもって祭司の役を務めているからです(照ガラテヤ1・15~16)。それは、汚れた者とされていた異邦人(照 使徒10章、同15・8~9)が、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物となるためです〟(16/12・1~3)。

〝ですから、私は神の福音のためのこの務めを、キリスト・イエスにあって誇りに思っています。キリストが私の言葉や行いを通して、徴と奇跡の力、また御霊の力によって、異邦人を信仰による従順へ導くために成し遂げられたこと(照1・5)以外は、私は話そうとは思いません。こうして私は、エルサレムからイルリコ州に至るまで、キリストの福音を隈なく伝えました〟(17~19)。パウロは使徒としての福音宣教が成功したことを記しますが、それはひと重にキリストと聖霊が、パウロの言葉と行いを通して達成されたことであります、と己を誇らず、主に栄光を帰します。

〝このようにキリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えようと、私は熱心に努めてきました。それは他人の築いた土台の上に建てることのないためです〟(20/照Ⅰコリント3・10)。こうしてパウロは、罪に落ちた人類を救おうとの神の福音(照 創世記3・15)、マリアより、律法の下に生まれ(照ガラテヤ4・4~5)、エルサレム・ゴルゴタにて十字架に死ぬことによって、滅びるしかない私たち罪人を贖い、義とし、救ってくださる神の子キリストの福音を、地中海東部地域全体に遍く伝えました。今はもうこの地方には働くべき場所がなくなったパウロは、未だキリストの福音の伝えられていない地中海西部地方イスパニア宣教をめざします。そしてその途中、ローマ訪問を計画します(15・22~24)。

聖餐式・パウロはローマの信徒たちに、彼らがすでに知っている「神の福音・キリストの福音(パウロの福音 照2・16、16・25、Ⅰコリント15・1~5)を「今一度思い起してもらうため/記憶を新たにしてもらうため」この手紙を書きました。主キリストは、渡される夜、パンと杯をもって、十字架のキリスト=福音を忘れることのないように、新たに想い起こすように主の晩餐を定め、守り行うように命じておられます。これから主が備え、招いてくださる主の晩餐に与りましょう。




望みの神

2015年10月25日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ15・7~13/宗教改革記念日週主日/ローマ書連講(41)

14章から教会における強い者と弱い者との恵みと信仰による一致を、日や飲食という日常生活に関して記してきたパウロは、ローマ書の本論(罪、律法、義、恵み、イスラエル、信仰生活等の諸問題)を本箇所(15・7~13)でもって終ります。

前段(15・1~6)において〝キリスト者は同じ思いを抱き、心を合わせ声をそろえて、主イエス・キリストの父である神をほめ称えること〟(5~6)を勧めたパウロは〝ですから、キリストが神の栄光のためにあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい〟(7)と命じます。それはキリストが、ご自身の十字架によってユダヤ人と異邦人、強い者と弱い者、諸々の相違の壁を打ちこわし、神との平和、そしてキリスト者・教会の一致をもたらされたからです(照エペソ2・11~22)。〝キリストは仕えられるためではなく、仕えるために来られました〟(照マルコ10・45、ルカ22・27)。ですからパウロは言います。キリストはユダヤ人に対して、神がその先祖アブラハムと交わされた約束を成就し、神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられました(8 照 創世記12・1~3、同17・1~14、ガラテヤ4・4~5)。また、このアブラハムに対する契約による憐れみのゆえに、御子キリストは異邦人が神をたゝえるようになるために人となられ、十字架の死までも仕えられたのです(9/詩篇18・49、Ⅱサムエル22・50)。また「異邦人よ、主の民と共に喜べ」(10 申命記32・43)、さらにまた「すべての異邦人よ、主をほめよ。諸々の国民よ、主をたゝえよ」(11 詩篇117・1)と全世界が神を頌めたゝえることが、旧約聖書の預言のとおり、エッサイの切り株から立ち上がるひこばえである(12、イザヤ11・10)御子キリストが律法の下に人となり、全人類の救いのために仕える者となられたことによって実現したのです。それゆえ「異邦人はこの方に望みをかける」のです。罪の下に閉じ込められ、滅びるしかない全人類を救うために、神は御子キリストを世に遣わし、十字架に付けることによって、神との平和をもたらし、神を喜ぶキリスト者としてくださり、ご自身の体である教会に受け入れてくださいました(照ローマ5・1~10、エペソ2・13)。「この望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みに満ち溢れさせてくださいますように」(13)と、パウロは祝祷を持ってローマ人への手紙の本論を締め括ります。

この世界にあって、罪深い私たちが寂寥と憂愁そして絶望の淵に落ち込まずに、希望をもって生きられるのは、この「望みの神」が在すからです。エッサイの切り株から生え出た若枝であるイエス・キリストが私たち望みのなかった罪人の所に人となってきてくださったからです。この「望みの神」が聖なる光の世界から、罪の闇のこの世に来てくださったからです。そして望みなき暗き深淵に落ちていく私たちを、力と愛に満ち〝かぎりなく、やさしく、その両手をもって支えてくださる者〟(リルケ「秋」)がいるからです。この「望みの神」キリストが来られるのを待ち望みつつ、一か月後アドヴェントを迎え、二か月後クリスマスを祝いましょう。




自分よりも隣人のことを

2015年10月04日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ15・1~6/ローマ書連講(40)

12章以降で全領域における主権者なる神の恵みにより救われたキリスト者の社会や教会での生き方について論述してきたパウロは、14~15章で日や食物という極めて日常的な、些細と思われる問題を通して、強い者と弱い者が共存する教会の一致のため、キリスト者は恵みによる自由を配慮をもって行使すること、キリストの僕として、その模範に倣い、愛をもって行動するよう勧めています。

前に「あなたがた(強い人)は信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを裁いてはなりません」(14・1)と言ったパウロは、ここで自分を信仰の強い人の中に数え、「私たち強い者は、強くない人たちの弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」(1、共)と明言します。独善的な自己主張によって兄弟を裁くこと(14・1~12)や、愛の責任を放棄し、自分の権利を強調して、兄弟を躓かせること(14・13~23)による教会の一致の危機に対し、信仰の強い人は自己を主張し、自分のために生き、自己満足に陥ることなく、弱い人の弱さを担い(照イザヤ53・4)、互いに隣人を喜ばせ、互いに徳を建て上げるべきです、と勧めます。

パウロはあらゆる禁忌や禁止から解放されていました。同時に彼は信仰の弱い人たちの弱さを担うことに配慮しました(照ガラテヤ2・11~14、使徒15・12、Ⅰコリント8・4~13/同9・19~23→同10・23~33特に29節)。そのパウロはここで「キリストでさえ、ご自分を喜ばせることはなさいませんでした」とキリストの模範を想起させます。キリストはご自分の権利を主張されず、他の人々の利益を優先されました(照ピリピ2・5~8)。キリストは強い者なのに、私たちのために弱くなられました。他の人のためのキリストの自己規制は、強い者が信仰における自由を行使する道を示しています。即ちキリスト者の自由は、他者・弱い人の利益のために制限されるべきものなのです。「かえって『あなたを謗る者たちの謗りは、わたしの上に降りかかった』と書かれているとおりです」(詩篇69・9/ダビデは〝神への嘲りが彼自身に降りかかったと歌ったが、引用はイエスは人間の神に対する謗りに耐えられた〟ことを言う/照ローマ11・9~10、使徒1・20、ヨハネ2・17)。こう記すことによってパウロは(旧約)聖書の事柄はすべて私たちを教え導き、聖書が与える忍耐(不屈の精神)と励まし(慰め)によって、私たちが希望(考15・13/聖書と聖霊)を持ち続けるためである、と言います。私たちは神・聖霊によって聖書を読み、み言葉に励まされながら、キリストご自身の忍耐と励ましの例に倣って、キリストに在る希望に生きるのです。私たちの〝忍耐、励まし、希望〟の源である聖書の神をパウロは「忍耐と励ましの神」と呼び、「神があなたがたにキリスト・イエス(考エペソ2・11~22)にふさわしく、互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、私たちの主イエス・キリストの神であり父である方をほめたたえさせてくださいますように」と祈ります(照ピリピ2・1~6、エペソ2・11~22/強い人と弱い人、ユダヤ人と異邦人)。




つまずかせないように

2015年09月27日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ14・13~23/ローマ書連講(39)

前回(8/23「裁いてはならない」14・1~12)〝私たちキリストの僕(しもべ)のあり方は「裁いてはなりません。裁かれないためです」(マタイ7・1)との主のお言葉を聞き続け、キリスト者の実際生活の諸問題に関して独善的、排他的になることなく、寛容の心を持ち、他者の良心と確信を尊重し、主に在る一致を保つこと〟(説教要旨)であることを学びました。

今日の箇所でパウロは「ですから信仰の強い人も弱い人も、互いに裁き合わないように。むしろ兄弟にとり、躓きとなるもの、妨げとなるものを置かないように決心し(自分を裁き)なさい、とキリストの十字架の贖いにより、罪を赦され、律法から解放された私たち〝キリスト者はすべての者に奉仕する僕〟(ルター)として、弱い兄弟のために配慮し、愛に従って行動しなさい」と前段に続き初代教会を揺り動かした飲食問題を通して、教え勧めます。

旧約において、イスラエルが自分たちを贖い、召し出してくださった神に対し、選ばれた民として適しく応答する一つの方法は食物規定を遵守することでした(照 申命記14章)。ところが「イエスはすべての食物を清いとされた」(マルコ7・19)。とはいえ、キリスト者が食物に関し自由に生きることはとても難しいことであります。

ユダヤ人キリスト者のペテロは、幻のうちに旧約の食物規定は律法を完成されたキリストにより、もはや適用されないことを告げる天からの声「神が清めたものを、清くないと言ってはならない」を三度も聞きながら、その意味を理解しかねました(照 使徒10・9~19/36年頃)。それから十年程後、アンテオケ教会にエルサレム教会の割礼派の人々が来ると、ペテロは異邦人との食事を止めました。この本心を偽った行動にバルナバまでも引き込まれました(照ガラテヤ2・11~13/46年頃)。エルサレム会議では、異邦人もユダヤ人同様、教会の交わりに入れられるが、異邦人キリスト者はユダヤ人キリスト者の嫌悪する食物を食べないことと結婚規定に従うよう求められています(照 使徒15・20~21、29/48年頃)。コリント教会では偶像に献げられた後、市場で売られている肉を食することが問題となりました(照Ⅰコリント8章)。

パウロは主イエスに在って、それ自体で汚れているものは何一つないことを知り、確信しています(14)。しかし、食物のことでその信仰をひけらかし、ふりかざして、キリストがその人のために死なれたあなたの兄弟の気持ちを傷つけ、苦痛を与え、滅ぼすなら、あなたはもはや愛に従って行動してはいません(照13・8~10)。キリストにより律法から解放されたあなたにとって善いこと(例 偶像に献げた肉を食べない)が、他者を損ねることは信仰の目標ではありません(17、照ガラテヤ5・13~15)。すべての食べ物は清いのですから、食物のことで神の御業を破壊してはなりません。信仰による義と神との平和、聖霊による喜びをもってキリストに仕える人こそ、神に喜ばれ、人々に信頼されるのです。あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で自分の信仰として保ちなさい。自分が善いとすることに疑いを感じない人は幸いです(15~23)。




裁いてはならない

2015年08月23日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ14・1~12/ローマ書連講(38)

ルターがキリスト者とは何であり、どのように生きるべきかを書いた「キリスト者の自由」は〝キリスト者は何ものにも従属しない自由な主人であり、同時に、すべてのものに従属し仕える僕であること〟即ち〝キリスト者の生は信仰のみによって満たされる故に律法の行いから自由であると同時に、信仰から自ずとあふれ出る愛の行いへも自由であること〟を教えている(岩波キリスト教辞典)。このことをパウロは「私は誰に対しても自由ですが・・・・・・ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。・・・・・・弱い人々には弱い者になりました・・・・・・すべての人にすべての者となりました・・・・・・私はすべてのことを福音のためにしています」(Ⅰコリント9・19~23)と述べています。

あらゆる禁制や禁忌から完全に解放された自由なキリスト者パウロが、ここで「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れ(迎え入れ)なさい。その考えを裁いては(批判しては)いけません」と〝食べ物〟と〝日の守り方〟の問題を取り上げ、警告します。それはパウロがこうした日常の些細な事柄によって教会の一致が妨げられ、分裂の恐れがあることを知っていたからでしょう。

異教の神々に供えられた肉でも何でも食べてよいと信じている人は、偶像に供えられた肉を避けて、また他の理由から野菜しか食べない信仰の弱い人を軽蔑し、見下してはなりません。逆に菜食主義者は肉を食べる人は信仰上の誤りを犯していると侮ってはいけません。なぜなら「神がその人をも受け入れられたからです。神ご自身がその家族として受け入れた人、即ち、他人(神・キリスト)の僕を裁くあなたはいったい何者なのか。僕が立つも倒れるも、生き残るも退けられるも、その主人(神・キリスト)との関係次第です。主は、その人を立たせることがおできになるからです(照Ⅰコリント10・14~32)。また、ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、どの日も同じだと考える人もいます(照コロサイ2・16~17)。

こうした問題については自らの確信に基づいて行うべきです。即ち「主のために」「神に感謝して」行うことです。なぜなら神の御子キリストは死んだ人にも生きている人にも主となるためにこそ、十字架に死に、そして復活されたからです。キリスト者は誰もがこの主キリストによって生かされた僕です。それ故、私たちは生きるにしても、死ぬにしても、主のものです。ですから主の僕・あなたの兄弟を裁き、蔑んではならないのです(照14・15)。終りの日、私たちは死者と生者の主キリストの裁きの座に立ち、善であれ悪であれ、その肉体にあって行った行為に応じて報いを受けることになります(Ⅱコリント5・10)。私たちは「裁いてはなりません。裁かれないためです」(マタイ7・1)との主のお言葉を聞き続け、キリスト者の実際生活の諸問題に関して独善的、排他的になることなく、寛容の心を持ち、他者の良心と確信を尊重し、主に在る一致を保つ教会でありたいと祈り願います。




夜明け

2015年08月02日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ13・11~14/聖餐式/ローマ書連講(37)

神の憐れみによって救われ、恵みの中に生かされている日常生活 ― 教会/12・3~13、社会/12・14~21、国家/13・1~7、隣人/13・8~10 ― について記してきたパウロは、ここ(13・11~14)で、将来が現在の生に及ぼす影響について書いています。

前段(13・8~10)で「他の人を愛する人は、律法を完全に実行しているのです」と、隣人愛こそ律法が目ざす結果であると述べたパウロは、11節で「しかも/更に(共)、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています」と言います。この時(カイロス)は〝決まった時期、季節〟の意で、聖書では〝終りの時/再臨〟を意味します。そしてこの世・この時代を夜に、再臨の時を夜明けに喩えて〝あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています・・・・・・夜は更け、日は近づきました。今や私たちが最初に信じるようになった時よりも、救いは近づいているからです。ですから私たちは闇の業を脱ぎ捨てて、光の武具を身につけましょう。酒宴で大騒ぎをし、酔いつぶれたり、淫らな行いに耽り、身を持ち崩したり、争ったり、妬んだりすることなく、日中歩くように、慎み深く、品位をもって歩こうではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を叶えさせようと、心を用いてはなりません〟と言います(11~14/照Ⅰテサロニケ5・1~11、Ⅱペテロ3・8~9/ガラテヤ3・27、コロサイ3・9~10)。

イエス・キリストの十字架の死による贖いと復活による再生の約束、私たちの救いの完成はキリスト再臨の時に成就するのです。私たちキリスト者は〝終りの日に現わされるように用意されている救い、即ち、私たちの体の贖われることを、切に待ち望んでいるのです〟(照Ⅰペテロ1・5、ローマ8・23)。もし、私たちに対する神の恵みによる救いの完成を見失うなら、人は自分の力によって、即ち自分で律法の要求を満たし、自分の救い・義を打ち立てなければならなくなります。しかし、人は自分の力で自分の救いを完成することはできません。そのことをパウロは繰り返し述べてきました。

神の憐れみにより、罪を赦され、救われている私たちキリスト者は、神が被造物を贖ってくださるという救いの完成の時が来ることを確信し、未だ夜明け前の現在の生を、心の中で呻きつつ、しかし、希望をもって生きていくのです。それが〝この世に倣わず、むしろ心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善であり、神に喜ばれ、完全なことであるかを弁える〟(12・2)生き方、「イエス・キリストを身にまとった」生き方です。

アウガスティヌスは隣家から聞こえてきた子どもの歌声〝取って読め、取って読め(Tolle, lege トレ・レゲ)〟に促されるようにして、ローマ書13・13~14を読み、回心に導かれました。後日、以前の放蕩仲間に出会った彼は〝私はキリストをまとっている〟と言って、その場から逃走したと言われています。






隣人愛――律法の完成

2015年07月26日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ13・8~10/ローマ書連講(36)

前の箇所(13・1~7)で、パウロは「人はみな、上に立つ権威に従うべきです」と記し、キリスト者は国に対する義務を負っており、法を執行する行政や人に敬意を払い、法律に従い、課された税を納め、国を支える良き国民として生きるべきことを教えました。きょうの所(13・8~9)でパウロは、神の恵みにより救われた私たちと「他の人/隣人」との関わりについて教えています。それは「あなたの隣り人をあなた自身のように愛せよ」ということです。

カエサルとローマの法律の下に、キリストの僕として伝道したパウロは、神の摂理の中に、念願の帝国の都ローマに到りました(照ローマ15・23他/使徒25・11、28・16)。しかし、皇帝ネロの時代に殉教したと伝えられています(照Ⅱテモテ4・6~8、パウロ行伝/考ペテロ、ペテロ行伝)。「上に立つ権威」が〝至上の権威の下に生きる〟パウロを殺害したのです。こうしてパウロは「主の足跡に従う」生涯を全うしたのでした。

そのパウロがキリストの恵みの下で生きるキリスト者にとり最も基本的な要件は愛であることを記していきます。「互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません」(「借りがある」とは「負債がある」から「義務がある」をも意味する)。パウロは誰に対する負債も未返済のまゝにしておいてはならない。ただ一つの例外は愛の負債だけであると言い、「互いに愛し合う」キリスト者の借り=義務について教えます。旧約律法の目的であり、完成者である主キリスト(照ローマ10・4)は、かつて律法学者の質問に対し、隣人との関わりにおいて最も重要な戒めは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」であると答えられました(照マルコ12・28~31)。ここでパウロは十戒後半部(出エジプト記20章、申命記5章)を記し、〝そのほかのどんな戒めがあっても「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という言葉(レビ記19・18)に要約されます〟と明言します。

「他の人を愛する(アガパオー)人は、律法を完全に実行しているのです」・・・「愛(アガペー)は隣人に害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うするものです/愛は律法を実行する」のです(照ローマ2・13)。愛は律法が目ざす結果をつくり出すのです。愛である神は独子キリストを世に遣わされた。御子は私たち罪人を極みまで愛し、十字架にその命を捨てられました。ここに愛が示されているのです(照ヨハネ3・16、同13・1、Ⅰヨハネ4・9~10)。かつては神の敵であった私たちは、愛の神の御子の死によって和解させられ、今、神との平和を持っています(照ローマ5・1~11/考マタイ5・43~48)。愛の神は私たち罪人に悪を行わず、害せず、愛の主キリストは律法を完全に成就し、私たちに罪の赦しと救いという益をもたらしてくださいました。そのイエス・キリストが「あなたの隣人とは誰ですか」と問いかけ、「あなたも行って同じようにしなさい」と仰言っているのです(照ルカ10・25~37)。





権威の下に生きる

2015年07月19日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ13・1~7/ローマ書連講(35)/バプテスマ式

神の憐れみによる救いを受けたキリスト者(1~11章)の恵みに応える新しい生活について記す(12~15章)に当り、〝教会で、社会で〟(12章)の生活を述べたパウロは、ここ13・1~7で、〝キリスト者と国家〟について「人はみな、上に立つ権威に従うべきです」(1)と語り始めます。

ここは古くより多くの論議を呼んできました。かつてナチ・ドイツはここを、キリスト者は、上に立つ権威が正統と考えるどんな政策も、それを支持する義務を負っていると読ませました(考 日本の翼賛政治体制下では?/60年安保のとき/戦後70年の今)。聖書の、パウロの真意はどこにあるのでしょうか。

先にパウロは(ローマの)キリスト者に〝できれば、自分に関する限り、すべての人と平和に暮らしなさい〟(12・18)。また、さらに〝愛する人たち。自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが復讐する』と、主は言われる〟(12・19)と記し、悪に対して善を行うように(12・21)と教えました。この新しい生き方はキリスト者に〝悪事を働いた者は無罪放免となり、刑罰を免れるのか。その不正は最後の審判のとき糺されるのか〟との疑問を抱かせるかもしれません。そこでパウロは〝そうではない。権威(国・法律等)が存在するのは、地上に神の正義・秩序をもたらすためである。それゆえ人は権威によらずに勝手に処罰を行ってはならない〟と言います。そして、その根拠として「神によらない権威はなく、存在している権威はすべて神によって立てられたものだからです」(1)と記します。

ここでパウロは、本性が堕落した人間にとっては、国法・神の秩序が必要であり、キリストにより律法から解放されたキリスト者が、国家や法という権威を無視することのないように、またキリスト者の自由は国家の法からの自由を意味するものではないことを教えているのです(考 クラウディウス帝のローマからのユダヤ人追放令 49年 /照 使徒18・2)。

私たちが生きる世界が混沌に陥ることなく、秩序ある社会であるために、神の秩序・正義の代理者・僕として、地上の権威は立てられているのです。そのことは統治する者・権威は神の委任に応える責任があることも示唆しています。このことはさらに、上に立つ権威への服従は、キリスト者の責務であるが、それは神・キリストへの服従というより広い枠組みの中で行われるべきことであることをも意味しています(考 日本国憲法―良心の自由・信教の自由/ニューハンプシャー信仰告白)。

私たちの責務は信仰の良心に従い、善を行なうことです。それが原因で権威と対立、罰せられたとしても「キリストの足跡に従う」べきです(照Ⅰペテロ2・19~23)。ローマの平和(パックス・ロマーナ)の時代、ローマの法律の下に伝道したパウロ(照 使徒16・35~40、同18・12~17)は、ここで至高の権威者なる神に対する義務と、国家権威者カエサルに対する義務は、相互に排除しない、との主イエスの言葉(照マルコ12・13~17)と同じ内容を教えているのです。




新しい生活――社会で

2015年07月05日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ12・9~21/聖餐礼拝/ローマ書連講(34)

1~11章で、すべての人を憐れみ、救うために、すべての人を神に背き、敵対する不従順のうちに閉じ込められた神の深遠な奥義・救いの計画を語ってきたパウロは、12~15章で、その神の憐れみ・愛・恵みによって救われた私たちはどのように生きていくのか、というキリスト者の新しい生活について語り、それはこの神の「憐れみ」(1)と「恵み」(3)に応える生き方である、と記していきます。それは十字架の前夜、聖餐式を制定された最後の晩餐の席で、主イエスがお語りになったことです(照ヨハネ13・34)。それはイエス・キリストが私たちの身代わりとして十字架にその体を裂き、血を流して、私たちの罪を赦し、また復活して、私たちを罪への隷属状態から解放し、新しいいのちに生きる者としてくださった恵みに信頼し、感謝して生きる生活です。

恵みへの応答として、神を喜び生きることが、神の民イスラエルに求められていました(考 出エジプト記19・4~6、同20・2~17/ここにはイスラエルが奴隷の家エジプトから解放された後に、律法が与えられたことが記されています)しかし、始祖アブラハムにより神に選ばれ、律法を授かったイスラエルは、その賜物を誇り、オリーブの樹から切り取られました(照9~11章)。前回の所(12・1~8)で、パウロは神の選びの民キリスト者の間(教会)では、神の憐れみ・恵みに応え、思い上がらず、慎み深い考え方をし、与えられた恵み・賜物を他者のために用いることの大切さ=一致を、体の比喩をもって教えました。ここでパウロは神に選ばれ、神のイスラエルとされたキリスト者(照Ⅰペテロ2・5、9/ガラテヤ6・16)に、イスラエルの間違いをしないように教えているのです。

このことをきょうの所の前半部(9~13)でも教えています。「愛(アガペー)には偽りがあってはなりません」と愛の本質を宣言した後、偽善でない誠実な愛の行為を例示します(Ⅰコリント13章)。

後半部(14~21)において、この恵みに応えてのキリスト者生活は一般社会にも及ぶことが教えられます。社会でのキリスト者の生き方の鍵は、「できることなら、力の限り、すべての人と平和に過ごす」(18)ことです。この平和・平穏はこの世・社会との調和でも、善が悪に打ち負かされることによるのでもありません(照2、21)。また神に愛された私たちは、自ら敵に復讐してはなりません。神の敵であった私たちは、御子の死によって神との和解、平和を得ました(照5・1、9~10)。この憐れみの神に、敵を委ね、敵対する人へ善を行なうことが「敵の頭に燃える炭火を積む」ことです(照 箴言25・21~22)。これが、神が私たちを通して、敵対する人を救われる方法です。

善きものとして神に創造された世界は、堕罪の結果、神に敵対し、呻き苦しんでいます(照8・22)。その中から憐れみにより、恵みによって救われた私たちです。置かれ、遣わされている所(社会)で、喜びと悲しみを共にし、神のみ旨を弁え、善を行い、「平和をつくる者」(マタイ5・19)でありたいと願います。




新しい生活――教会で

2015年06月28日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ12・1~8/ローマ書連講(33)

救いを得させる神の力である福音のうちには、イエス・キリストを信じるすべての人は神によって義とされる=救われることが啓示されています(照1・16~17)。この信仰義認の教義(照3・21~28)を1~8章にかけて論じたパウロは、9~11章で同胞ユダヤ人の不信仰=キリスト拒絶の問題を取り扱い、ローマ人への手紙の前半部のまとめとして、すべての人を憐れみ、救おうとして、ユダヤ人をはじめギリシャ人も、すべての人を不従順のうちに閉じ込められた神の深遠な奥義に驚愕し、神を讃詠いたしました(11・25~36)。

〝ただ神の憐れみによる信仰義認=救い〟という前半を受けて(「そういう訳ですから」1)、パウロはこれから(12~15章)恵みにより、信仰によって救われたキリスト者の生き方について記します。それは聖書に於いては、教えは生活に移されるべきこと、信仰はその果実(生活)によって知られる、とあることです(照ガラテヤ5章、エペソ4章/マタイ12・33)。パウロは信仰と生活・倫理を同列に置かず、キリスト者の生活・倫理は信仰から生まれる、と言っているのです。それ故〝私(パウロ)は、兄弟たちに神の憐れみによって勧めます〟。ただ神の憐れみにより今あるを得ているパウロ、私たちキリスト者は、その信仰生活もただ神の憐れみのうちに導かれ、送るのです。

「あなたがたの体を、神に喜ばれる聖なる生ける犠牲として献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。この世に同化させられてはなりません。むしろ、心の一新により自分を変えられ、神の御心は何か、何が良いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかを弁えるようになりなさい」(1~2)。過ぎ行く世と調子を合わせ、倣うことをせず、神・聖霊によって自分を変えられ、生きていくことこそ、キリスト者のなすべき礼拝(生活)です。

天に国籍を持つキリスト者は、神の家族として、この世に寄留し、神の家・教会に宿る信仰の旅人です。今パウロは「ローマにいるすべての神に愛されている人々、召された聖徒たち」(1・7)一人一人に憐れみと共に「与えられた恵みによって」人間の体の比喩をもって言います(4~8/照Ⅰコリント12・12~31、エペソ4・11~16、コロサイ1・18)。〝キリストにあって一つの体であり、一人一人互いに器官である〟教会が、恵みにふさわしくある姿は一致です。その一致は擬えれば人間の体において見出されるような一致であります。換言すれば多様性の中の一致であり、特有の機能を持つ各々の器官が調和し、互いに依存し、全身のために働くように、キリストの体なる教会もそうあるべきだ、というのです。そのために一人びとりが心すべきことは「誰でも思うべき限度を越えて思い上がることなく、むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに従って、慎み深く思うことです」(3)。私たちは自分に与えられた神の恵み・賜物を、他者と比較し誇り、自分のために用いるのではなく、他者のために用いるように勧められています。




深遠な神の奥義

2015年06月21日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ11・25~36 /父の日/ローマ書連講(32)

イエス・キリストの福音を信ぜず、敵対するユダヤ人を厳しく断罪し、彼らの救われる可能性はないと考える人々(考18、20)に、パウロは「兄弟たち」と呼びかけ、〝イスラエル人の一部が頑なになったのは、異邦人の数が満ちるまでのことであり、こうしてイスラエルはみな救われます。私は、この神の奥義・秘められた計画について、あなたがたにぜひ知っておいていただきたい〟と言います(25)。そして、このことは(旧約)聖書に「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である」(照イザヤ59章/エレミヤ31・33~34)と書かれているとおりである、と言います(26~27)。

さらにパウロは述べます。福音の視点から言えば、イスラエルが現在、神に敵対し、遠ざけられているのは、異邦人が福音の祝福に与り、神と和解するためです(照11、15)。しかし選びの視点から見れば、イスラエルは先祖たちのゆえに神に愛されているのです(28)。神の賜物(照9・4~5)と召しとは変ること(撤回されること/神が後悔されるようなこと)がないものです(29)。異邦人は、かつては神に不従順でしたが、今はイスラエルの不従順によって憐れみを受けています。それと同じように、異邦人に示された憐れみのために、今は彼らは不従順になっていますが、今度は彼ら自身も同じ憐れみによって受け入れられるのです(30~31)。それゆえ神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められたのです。それはすべての人を憐れむためでありました(32)。「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ3・23)、ただ神の憐れみ・恵みに頼り縋る以外に希望はないのです。

パウロに啓示され、パウロの理解したキリストの奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も(イスラエル人と)共同の相続人となり、共に一つのからだに連なり、共に約束に与る者となるということでした(照エペソ3・3~6)。パウロは本書で、罪と死の奴隷となっているすべての人は、ただ神が御子キリストの十字架の死を通して現わされた憐れみ・恵みの福音によってのみ解放される、救われる、と述べているのです(照4・5、5・8/マタイ9・10~13、マルコ10・45)。こうして十字架に示された神の憐れみは、ご自身が義であり、またイエスを信じる者を義とするのです(3・26)。

イスラエルに対する神の計画、異邦人のための神の計画に役立つ不従順による救い、いったい誰がこの主の思いを知っていたのでしょうか。誰が主の相談相手であったでしょうか・・・・・・「神がすべての人を不従順・不信仰の状態に閉じ込められたのは、すべての人を憐れむためであった、とは・・・・・・あゝ、神の知恵と知識の富のなんと深いことよ。神の定めは究め難く、その道はなんと悟り難いことよ」(33~35)。〝神は神秘的な仕方で、不思議なわざを行なわれる〟。「すべてのことが神から発し、神によって成り、神に至る。創造主であり、贖い主なる神に、栄光が永遠にありますように。アーメン」(36)。