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香柏だより

福岡市東区の香椎バプテスト教会です。
聖書の言葉には、ひとを生かす力があります。
礼拝では手話通訳もあります。

成長しなさい

2011年09月04日 | 説教要旨・ペテロの手紙連講
Ⅱペテロ3・14~18/聖餐式/ペテロ連講(19)最終回
 
主イエスの再臨の日、「神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地」の実現する日を「待ち望んでいる」(12、13、14)「愛する人たち」に、「しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように励みなさい」とペテロは記します(照コロサイ1・22/Ⅰペテロ1・19/Ⅱペテロ2・13)。十字架の死によって、神と和解させてくださった主の御前に、平安をもって立てるように、主にお会いする日を深く思い、聖なる生活を追い求めなさい、と勧めるのです。
 
そして、前に(照3~4)主の再臨はないと主張し、自分の欲望のまゝに放縦に生活する偽教師たちに惑わされてはならない。再臨が遅れているのは、主の憐みによる忍耐のためであり、全ての人が悔い改めと信仰を通して救われることを願ってのことであると記したペテロは、そのことをここで繰り返し記し、教えます(9、15a)。
 
そして、「それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです」(15b)とパウロを引き合いに出します。「それは」「このこと」(16)とは、多くの人が悔い改めに至るようにとの主の憐みからの再臨の遅延をパウロも教えていることでしょうか(照ロマ2・4、3・25、Ⅰテモテ2・4)。続く16節には、パウロの「手紙の中には理解しにくい(字義〝はっきりしない〟〝多義的〟/例デルポイの神託)ところもあります。無知な(〝教育を受けていない〟)、心の定まらない人たち(照2・14)は、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し(〝ねじ曲げる〟)、自分自身に滅びを招いています」と書いています。偽教師たち異端は、決して人間の意志によって語られたのではなく、聖霊に導かれた人々が語った神からの言葉(聖書)を、自分勝手に、曲げて解釈し、自分たちを贖ってくださった主を否定し、その身に速やかな滅びを招いていました(照1・20~2・1)。そこから全体的に見て、「それは/このことについて」とは、信仰義認の教理(照エペソ2・8~10)を指していると考えてよいでしょう。偽教師たちは、パウロの言葉を自分勝手に解釈し、恵みの教理を罪の正当化の理由としました(照ロマ3・5~8、6・1、15)。律法から解放され、自由になったとのパウロの教え(照ロマ8・1~2、ガラテヤ5・13)を放縦の口実としました(照2・18、19)。
 
それゆえペテロは、このことを予め知っている愛する人々に、「無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さ(「堅固な足場」(共)〝揺るぎない立場〟/照ルカ22・32「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」)を失うことにならないよう」に注意します。
 
そして、終りに、ペテロは「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい」と勧めます。イエス・キリストの十字架の贖いと復活により、新しく生まれさせられた(照1・3、23)私たちキリスト者に、神がイエス・キリストにあって値なしに与えてくださる愛顧に応えて生活することにおいて、また主イエスに関する知識とそれに伴って主を人格的に知ること、そして主に似る者となることにおいて成長するよう勧めているのです。
 
このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン」。




神の日を待ち望む

2011年08月21日 | 説教要旨・ペテロの手紙連講
Ⅱペテロ3・1~13/ペテロ連講(18)
 
ペテロは「この第二の手紙」の終章に及んで、宛先の忠実な信者たちを「愛する人たち」(1、8、14、17)と呼び、彼らの記憶を呼び起こし、本書簡の執筆の目的を再提示し、彼らの「純真な(健全な/感覚が汚されていない)心を奮い立たせ」ようと努めます(照1・12~15)。その記憶とは、預言者たちが語った言葉である旧約聖書と彼らに福音を伝えた使徒たちが語った、主であり救い主である方の言葉、〝神であり救い主であるイエス・キリストの義によるペテロたちと同じ尊い信仰〟(照1・1)のことです。
 
偽教師たち・異端(2・1)は、「キリストの再臨の約束は、一体どうなったのだ。父たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのまゝではないか」と嘲り、終末・再臨を否定し、緊張感を失って、「自分たちの欲望に従って生活し」ていた。キリストが昇天され、年月が過ぎ、クリスチャン第一世代が召されていくとき(50年代)、キリストの再臨問題は深刻でありました(照Ⅰテサロニケ4章、Ⅰコリント15章)。偽教師たちは天地創造以来、世界は何も変わっていないと言い、終末と再臨を否定していました。ペテロは、神はみ言葉をもって混沌と闇に覆われた地と水の中から世界を創造された。その世界を神は大洪水によって滅ぼされた。今の世界も神のみ言葉によって火で滅ぼされるため、不敬虔な人々の裁きと滅びの日まで保たれている(照ナホム1・5~6)と、偽教師たちの間違いを指摘します。
  
また、未だ主が再臨されない理由を、ペテロは「愛する人たち」が異端者たちのように「見落とす」ことがないように注意します。それは「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです(照 詩篇90・4)。主は、ある人たちが遅いと思っているように、その約束のことを遅らせているのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです(照Ⅰテモテ2.4、エゼキエル18・23)」。
  
この神の慈愛による終末の遅延は永遠にではありません。「主の日は盗人のようにやって来ます」(照マタイ24・43~44、Ⅰテサロニケ5・2、黙示録3・3/サルデス)。主ご自身も知らず、ただ御父だけがご存知のこの世界の終末の時がいつなのか、あれこれ推測せず、私たちは目を覚ましているよう注意されています(照マルコ13章、特に32~33、マタイ24章、ルカ21章)。
  
天は大きな響きをたてて消え失せ、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地のいろいろな業は焼き尽くされる「主に日」が到来することを待ち望んでいる私たちは、再臨を信じない偽教師・異端者が、「欲望の赴くまゝに生活して」いるのと反対に、敬虔な聖い生活をし、「神の日の来るのを早めなければなりません」(考 再臨信仰とクリスチャン生活)。このように、私たちは、正義の住む新しい天と新しい地(照イザヤ65・17、黙示録21・1)を神の約束に従って待ち望んでいるのです。




偽教師たちの虚しさ

2011年07月31日 | 説教要旨・ペテロの手紙連講
Ⅱペテロ2・12~22/ペテロ連講(17)

「滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえ」(2・1)する偽教師たちは、御使いたちのような自制心(11)を持たないばかりか、「理性のない動物と同じで」、自分の情欲に従い、放縦に生きていました。本能のままに生きる「野蛮な動物」がやがては捕えられ、殺されるように、肉に従って生きる彼らも、その虜となり、「滅ぼされる」のです(12)。こうして彼らは、自分たちの不義にふさわしい報いをうけるのです。また偽教師たちは、昼間から飲み騒ぐことを快楽とし、さらに教会での食事(愛餐/脚注、ユダ書12節)に連なり、はめを外して騒ぎます。彼らは「傷もなく汚れもない」(Ⅰペテロ1・19)キリストの「しみや、しわや、そのようなものの何ひとつない」(エペソ5・27)教会の「しみや傷のようなもの」であり、「自分たちを買い取ってくださった主を否定する」者です(考Ⅰコリント11・17~34)。また彼らの〝目は淫行に満ちており、罪に関しては飽くことを知らず、信仰のまだしっかりしていない魂を欺き、誘惑し、自ら神の呪いを招いているのです〟。彼らは「不義の報酬を愛したベオルの子バラム」の貪欲の道に従い、神の民を正しい道から外れさせ、罪を犯させたのです(照 民数記22~24章)。

17~22節で、ペテロは「この人たちは、水のない泉、突風に吹き払われる霧」のように虚しいものであり、滅びをもたらす彼ら異端を待ち受けているのは暗黒の闇であると言います。〝渇くことのない永遠のいのちの泉〟である神・キリスト(照ヨハネ4・13~14、エレミヤ2・13)を否定し、捨てた彼らは、「水のない泉」であり、一滴の雨露も降らさずに「突風に吹き払われる雲霧」のように、渇いた魂を生かす何ものも持たない、虚しい者たちです。彼らは、内容のない大言壮語を吐き、偶像崇拝や異教的習慣等の迷いの生活から、ようやく逃れようとしている「心の定まらない」人々に、「自由を約束しながら」「肉欲と好色によって誘惑」する「滅びの奴隷なのです」。「真理である」キリストは「真理はあなたがたを自由にします」と言われました(ヨハネ14・6/8・32)。パウロは「あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」と勧めています(ガラテヤ5・13)。また、「仕えられるためではなく、仕えるために来」られ(マルコ10・45)、十字架において律法を完成された主キリストは「わたしが、あなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命じておられます(ヨハネ13・34、15・12)。偽教師たちの約束した自由は「義の道」律法に背き、聖書を自分勝手に解釈し、恵みの福音を曲解して、肉の欲のままに罪の奴隷として生きる自由でした。「そのような人たちの終わりの状態は、初めよりも悪くなります」(20~22/照マタイ2・45)。私たちは「自分たちを贖ってくださった」(1 共)「主であり、救い主であるイエス・キリストを深く知ることによって」「自分に伝えられた聖なる命令に」喜び従う者にされたいと祈り願います。




偽教師に注意せよ

2011年07月24日 | 説教要旨・ペテロの手紙連講
Ⅱペテロ2・1~11/ペテロ連講(16)

ペテロは前章の終りで〝預言=聖書は決して人間の意志に基づいて語られたものではなく、聖霊に動かされた人々が、神からの言葉を語り、記したものだから、自分勝手に解釈してはならない〟と記しました。続いて、かつて神の民「イスラエルの中に偽預言者が出ましたが、同じように、あなたがた(霊のイスラエルである教会)の中にも、偽教師が現れるようになります」。いえ、すでに現われて来ている、と、人々に注意を促します。

偽教師たちは、「聖徒にひとたび伝えられた信仰」(ユダ3節)〝真の信仰〟を破壊する「滅びをもたらす異端」即ち〝偽りの教理〟を「ひそかに」真実の教えと一緒に「持ち込む」のです(比ガラテヤ2・4)。そのようにして偽教師たちは「自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえ」するのです。キリスト御自身、「人の子が来たのは・・・・・・多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためである」と明言されています(マルコ10・45/照 Ⅰテモテ2・6、Ⅰペテロ3・18)。神・人なるイエス・キリストは、私たちの身代わりとなり、十字架上にその命という代価を払い、罪の奴隷であった私たちを贖い(買い取り)、律法の呪いから解放し、自由の身としてくださいました(照 Ⅰコリント7・23、ガラテヤ3・13)。それは私たちが「地上の残された時を、もはや人間の欲望のためにではなく、神のみこころのために過ごすようになる」ためです(Ⅰペテロ4・2)。しかし、偽教師たち異端者はキリストの十字架の死による解放を正しく理解せず、主キリストの僕として聖なる生き方をせず、欲望に従って生活し、贖主を否定する者となるのです。こうして偽教師たちは「自分たちの身に速やかな滅びを招いている」だけでなく、「多くの者が彼らの好色にならい」、そのため「真理の道」、イエス・キリストご自身(照ヨハネ14・6)が謗りを受け、神の御名が異邦人の中で汚されるのです。私たちは「あらゆることで、私たちの救い主である神の教えを飾る」者となりたいと祈り、願います(照テトス2・1~14、ロマ2・24)。

偽教師・異端の末路は滅亡です(照 申命記13・1~5)。ペテロはそうした悪人の運命と敬虔な者たちの救いを三つの例を挙げて示します。①創世記6章。神は堕落した神の子ら・御使いたちを地獄(タルタロス)に引渡し、暗闇の穴(セイロス)に閉じ込められた。②創世記6~9章。罪と悪の不敬虔な世界が大洪水によって滅ぼされるとき、義を宣べ伝えたノア家族8人は保護された。③創世記19章。堕落の町ソドムとゴモラが灰燼に帰するとき、義人ロトは救出された。「これらのことでわかるように、主は、敬虔な者たちを誘惑・試練から救い出し、(他方)不義な者どもを、裁きの日まで懲罰の下に置くことを心得ておられるのです」(9)。主の再臨を嘲笑し、肉欲的生活を正当化する偽教師・異端に苦しんでいる宛先のキリスト者に、時到らば神は必ず裁かれるとペテロは確言し、敬虔に神を畏れ、あなたがた「聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう」(ユダ3節)この手紙を書いているのです。




天からの御声と預言の言葉

2011年07月17日 | 説教要旨・ペテロの手紙連講
Ⅱペテロ1・12~21/ペテロ連講(15)

神と主イエスを知り、恵みにより、信仰による義を与えられ、神の性質にあずかる者となり、永遠の御国を約束され(1~11)、「真理に堅く立っている」宛先の人々に、彼らが直面している状況(照2~3章)を憂慮し、彼らが信仰と業、恵みと努力に関して間違うことのないように(照エペソ2・8~10/ローマ6・1~2)、また、自分が世を去った後も人々が、恵みによりキリストを知り、救われた者として、罪に陥らないように努め、救いの確かさを与えられることを「いつも思い起こさせ、奮い立たせることが」自分のなすべきことだと、「地上の幕屋を脱ぎ捨てるのが間近かに迫っている」老牧者ペテロは記します(12~15)。今、皇帝ネロの君臨するローマに在って、小アジアの各地に散ってキリスト者として生活している人々を想い、この手紙を認めながら、ペテロは自分のこれまでの歩みを振り返り、さらに自分が死んだ後のことまでも考えているのです(考・ルカ22・31~33「堅く立つ」・「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」/ヨハネ21・15~19、「わたしの小羊を飼いなさい」「年を取ると・・・・・・」。「幕屋」・族長たちの旅/「去る(エクソドス)」(エジプト)脱出→約束の地・「永遠の御国」/マルコの福音書(パピアス、エイレナイオス))。

ペテロは人々に「主イエス・キリストの力と来臨を知らせました」。しかし、主の再臨は作り話だとする人々も現われました(照3・4)。そこでペテロは、私はあの山上の変容の目撃者であり、「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である」との御声を聞いた、と証言します(照マルコ9・1~8)。そして、父なる神から誉れと栄光をお受けになったキリストは、十字架と復活を経て天に帰られたが、確かに再び栄光のうちに来臨される。そのことを忘れず、自制し、「世にある欲の滅びを免れ」(4)、「イエス・キリストの永遠の御国に入る」(11)よう、人々を励ますのです(16~18)。

山上の変容の個人的目撃証言に加えて、ペテロは「預言のことば」(旧約聖書)が主の再臨に関して確かな保証を与える、と言います。そして「夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に昇るまでは、暗い所を照らす灯火として、この預言の言葉に目を留めているように、と勧めます。ペテロは夜の闇を切り裂き昇る太陽ではなく、最も暗く、寒い夜明け前に、東天に輝く明けの明星の現われを、キリストの再臨にたとえ、暗黒の闇夜のような現実世界に、キリストは必ず再臨され、新しい時代が到来する。その夜明けを、信仰に堅く立って待ち望むように励ますのです。預言の言葉=聖書に対する深い信頼のためには、〝聖書の預言はみな、異端(照2・1)がするように、自分勝手に解釈してはならないということです。なぜなら、預言・聖書は決して人間の意思によって語られたものではなく、聖霊に動かされた人々が、神からの言葉を語り、記したものだからです〟。ですから私たちも、神の言葉である聖書を、聖霊の導きと助けによって読み、神の御意思を知り、信仰をもって喜び従ってまいりましょう。




神と主イエスを知ること

2011年06月26日 | 説教要旨・ペテロの手紙連講
Ⅱペテロ1・1~11/ペテロ連講(14)

 前に「使徒ペテロ」は「忠実な兄弟シルワノによって」流麗なギリシャ語で、小アジアの各地に「散って寄留している選ばれた人々」へ、第一の手紙を書き送りました(照Ⅰペテロ1・1、5・12)。そして今回、殉教の死を覚悟した「イエス・キリストの僕であり使徒であるシメオン・ペテロ」は「私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた人々」(1)へ、神からの賜物であるイエス・キリストへの「信仰」による救いと、主イエスの力により「世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となる」(4)ことを「いつも思い起こさせるために」決して上手くはないギリシャ語で、自らこの第二の手紙を書き、送ったのです(15、3・1他)。

 前書では、自らをイエス・キリストの「使徒」としたペテロは、ここでは「僕、使徒」と呼びます。僕=奴隷と言うことによって、ペテロは自分は全て神に所有された者であり、無条件に神に服従し、仕える者である、と告白しているのです。そして共にイエス・キリストによって差し出された神の御手を握り、同じ尊い信仰を受けた人々の上に、「神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように」と祈ります(2、照Ⅰペテロ1・2)。「主イエスを知ること」「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長すること」(3・18)が、「恵みと平安」、即ち救いの確かさを益々豊かにするのです。「無学な普通の人」(使徒4・13)と蔑まれたペテロがここで言う知識とは、神・キリストを知っていると言いながら、聖書を勝手に解釈し、主を否定し、不道徳な生活をしている滅びをもたらす異端の人々(照2章)が言う知識ではなく、「主イエスの神としての御力」によって、「信仰を受け」「神のご性質にあずかる者」としてくださった主イエス・キリストを、親しく、人格的に知ることです(考ルカ5・8)。

 神・キリストの恵み、力によって救いの信仰を受け、欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかり、キリストに似た者となるため、「あなたがたはあらゆる努力をし、(徳が建てられる土台である)信仰に、徳、知識、自制、忍耐、敬虔、兄弟愛、愛を加えなさい」とペテロは勧めます。アガペーの愛は、愛である神が、その対象に値しない私たちのために御子キリストを十字架に犠牲にされたことに示されました(ヨハネ3・16、Ⅰヨハネ3・16)。これらが備わり、益々豊かになるとき、キリスト者は、怠惰で実を結ばない者とならず、いよいよ深くキリストを知り、キリストが私たちを愛してくださったように、互いに愛し合うのです。そして、そこに人々はキリストを見るのです(5~8、ヨハネ13・34~35)。これらを備えていない者は目先の、世的事柄しか考えず、罪が赦された恵みを忘れ、この世を越えた幸福が見えなくなっているのです(9)。

 「ですから、あなたがたは自分の召されたこと、選ばれたことを確かなものにするために、益々熱心に努めなさい。これらのことを行なっておれば、躓くことは決してありません。こうして私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの永遠の御国へ入る恵みを豊かに加えられるのです」(10、11)。




この恵みの中に

2011年05月29日 | 説教要旨・ペテロの手紙連講
Ⅰペテロ5・8~14/ペテロ連講(13)

ペテロ第一の手紙は、ペテロが小アジアの各地に散って寄留し、今しばらくの間、さまざまな試練の中で苦しみ悲しまなければならないキリスト者に、神の真の恵み―キリストの苦難と復活を通して日々与えられる神の力、助け、赦し―に信頼し、強められ、「この恵みの中に、しっかりと立って」キリスト者生活を続けていくように「忠実な兄弟シルワノによって、簡潔に書き送った」ものです(照1・5~9/5・12)。

キリスト者は苦難により信仰の試練に遭い、「吼え猛る獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら歩き回ってい」る「敵である悪魔」からの攻撃を受けます(「あなたがたの罪は本当に赦されているのか」「あなたは神の裁きに耐えられるか」等々)。キリスト者はこうした艱難を避けることはできません。世にあっては艱難が定められているのです(照ヨハネ16・33、Ⅰテサロニケ3・3、使徒14・22)。それ故ペテロは「身を慎み、目を覚ましていなさい」と注意します。この時、ペテロは主のお言葉と自分が霊の戦いに敗北したこととを思い出していたことでしょう(照ルカ22・31~34、54~62/マルコ14・32~41)。さらにこの悪魔を怖れ、退くのではなく、神・キリストが勝利を与えてくださることを確信し、「信仰に堅く立ち、悪魔に立ち向かいなさい」と励まし(照ヤコブ4・7)、そして「世にあるあなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、同じ苦しみに遭っているのです」(共)と勇気づけます。それはあなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、悪魔による「しばらくの苦しみの後で」、その苦しみを通して、あなたがたを「完全にし(回復し/完全に元に戻し」)、「堅く立たせ(強め/確立させ/〈火で精錬された鋼鉄のように〉堅固にし」)、「強くし(力づけ/力で満たし」)、「不動の者(基礎を置くこと/揺らぐことのない/定着させる」)としてくださるのです、と永遠の豊かな恵みの約束を記します。

ペテロはこの手紙を「バビロン」即ちローマ(照 黙示録18・2)で、信頼する「忠実な兄弟シルワノによって・・・・・・書き送った」。シルワノはシラスと同じ人物であり、初代教会の指導者であり、パウロとも深い関わりのある人です(照 使徒15・22~18・5の間に12回言及。Ⅱコリント1・19他)。この手紙はガリラヤの漁師ペテロが口述したものを、シルワノが優れたギリシャ語で筆記し(照ローマ16・22)、送ったものでしょうか。「私の子マルコ」については先の「母の日/子どもの日」の合同礼拝でお話しいたしましたように、ペテロの通訳者となり、やがてマルコ福音書を書いたヨハネ・マルコでしょう。また13節直訳は「バビロンにあってあなたがたと共に選ばれたもの(女性形)」です。「婦人」とはペテロの妻(照Ⅰコリント9・5)ではなく、「教会」を意味していましょう。キリストのゆえに試練に遭っている人々のために祈っていたからこそこの手紙を書き始めたペテロは、最後も頌栄と祈りをもってこの手紙を結びます(照5・11、14、4・11)。ペテロ第一の手紙は彼の祈りから生まれ、送られたものといえましょう。




謙遜に、神にゆだねて

2011年05月22日 | 説教要旨・ペテロの手紙連講
Ⅰペテロ5・1~7/ペテロ連講(12)

前段で「裁きが神の家から始まる」(4・17)ことを記したペテロは、「そこで」長老たちに、同じく長老のひとりとして勧めます。ここでの「長老」とは高齢者を指すよりも、「牧師」「監督」と相互交換できる教会の指導者の呼称です。その時、ペテロは自分自身を「キリストの苦難の証人」と言います。キリストとペテロの関係において、「キリストの苦難」はペテロの恥辱の時でした。彼はキリストを捨てて逃げ(マタイ26・56)、三度も主を知らないと否認しました。その時、主は振り向いてペテロを見つめられました。ペテロは外に出て、激しく泣いたのでした(照ルカ22・54~62)。苦痛に満ちた自分の罪の事実を通して、ペテロはただキリストの苦難の恵みによって回復されたことを証言してきたのです。パウロもそのように語ります(Ⅰテモテ1・15~16)。さらにペテロは「やがて現われる栄光にあずかる者」であることを確信して、長老たちに、その生涯にどんな罪があっても、謙遜に罪を悔い改め、主キリストの恵みにより回復され、キリスト再臨の時、共に栄光にあずかる者となるよう励ますのです(照1・7、4・13)

次にペテロは神の羊の群を牧する長老たちが陥りがちな三つの罪、即ち、怠惰、貪欲、権力欲について注意します。主キリストはあの大罪を犯したペテロを、その羊を牧すること、世話する務めに召されたのでした(照ルカ22・31~34、ヨハネ21・15~17)。そのペテロが長老たちに「神の羊の群を牧しなさい」と勧める時、彼の胸中には迷える一匹の羊のためにご自分のいのちを捨てられた「良き羊飼い」「大牧者」イエスさまのお姿とお言葉(照ルカ15・4~7、ヨハネ10・1~8)が鮮やかに映っていたことでしょう。そうして「強制されてではなく、神に従って、自分から進んで」「卑しい利得のためではなく、心を込めて」「支配者となるのではなく、模範となりなさい」と長老たちに勧め、「そうすれば大牧者が現われるときに・・・・・・栄光の冠を受けることになる」と、その務めに素晴らしい報いが約束されていると励まします。

「若い人たちよ(他のすべての人たちも)、長老たちに従いなさい」と命じます(照3・1)。そして「みな」即ち教職者も高齢者も若人も、信仰歴の長い人も短い人も「皆謙遜を身に着けなさい」と勧めます。神は、自分の目的実現のために他人を支配しようとする高ぶる人に敵対し、神に信頼し他人の僕となり、仕える謙遜な人に恵みをお与えになるからです(箴言3・34)。「恵み」は私たちの功績によらない、神の一方的な好意です。ですから神の前における謙遜は人間的な卑下ではなく、キリストの十字架・苦難による贖い、救いに信頼することから生まれるものです(考ピリピ2・3~9)。こう勧めるペテロの心には、あの最後の晩餐の時、たらいの水で弟子たちの足を洗い、腰にまとった手拭いで拭かれた主のお姿とお言葉(ヨハネ13・1~15)が浮かんでいたことでしょう。神の前にへりくだるあなたを「神が丁度良い時に、高くしてくださいます」。そして、私たちのために御子キリストを賜わった神が、私たちのことを心配してくださっているのです。一切の重荷を思い煩いを主に委ねて、謙遜に、一日一日を生きていきましょう(詩篇55・22、マタイ6・25~34、ローマ8・28、32)。




キリストの苦しみにあずかる

2011年05月15日 | 説教要旨・ペテロの手紙連講
Ⅰペテロ4・12~19/ペテロの手紙(11)

ペテロ第一の手紙は、小アジアの五つの地方に寄留し、キリストに従うように選ばれた人々・キリスト者に宛てられています(1・1~2、2・17、2・11)。キリストの福音が伝えられていくとき、多くの所で激しい敵対、迫害が起こりました(照ピシデアのアンテオケ・イコニオム・ルステラ、使徒13・50~14・19/エペソ、使徒19・23~20・1)。宛先人のキリスト者たちは、異教社会の「異邦人たち」(照4・3)の反対や差別を受け孤立し、なぜキリストの名のために苦しまなければならないのか、と疑問を感じていました。

その彼らに、ペテロは「愛する人たち」と呼びかけ、「あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起ったかのように、驚き怪しんではなりません」(12)と、この世で、主イエスに従って生きるキリスト者には、迫害の避けられないことを諭します(照 箴言27・21 七十人訳「火は金銀を試す手段である」/Ⅰヨハネ3・13)。そして「むしろ、あなたがたがキリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜び続けなさい」(13/照 使徒5・41)と励まします。またキリスト者として苦しむことは、私たちがキリストの所属(もの)であり、キリストの栄光に与る確かな途上にあることを確認するものです。真実のキリスト者は、火のような試練を通して聖化され、信仰が深くされ、苦しみをも喜ぶ者とされていくのです。それは「キリストの栄光が現われる(再臨)ときにも、喜び踊る者となるためです」(13/照ローマ8・17)。そのために「栄光の御霊が・・・・・・あなたがたの上にとどまってくださる」(14)のです。主イエスは御父の栄光を現わす十字架の時をめざして歩まれました(照ヨハネ17・1他/考マタイ16・22)。キリスト者は、人々から蔑すまれ、除け者にされ、見とれ、慕うような姿も、輝きもない十字架上のキリストに、主の御腕を、神の現臨の光り輝く栄光を見たのです(照イザヤ53章/出エジプト24・16)。さらにペテロは、キリスト者はこの世の犯罪行為やみだりに他人に干渉して苦しみを受けてはならないと戒めます(15)。そして、十字架のナザレ人イエスをキリスト・救主として信じ告白する者、「キリスト者」(照 使徒11・26、24・5)としての苦しみは恥じることではなく、神の栄光を現わすことである、と励まします(16)。

私たち教会が受けている苦しみは、「裁きが神の家から始まる」(17/照エゼキエル9・6)終末の序曲です。しかし、裁きの試練の火によって聖められ、罪を取り除かれ、神への信頼を深くされたキリスト者・義人がかろうじて救われるとしたら、創造主を認めず、神を敬わない、神の福音に従わない人たちの終わりは、いったいどうなるのでしょう(17~18/照 箴言11・31)。そしてペテロは、キリスト者の苦しみは神の御意思によることを今一度記し、それゆえに善を行ない、継続的に、「真実であられる創造者」に自分の「魂」、内面を含めた自分の全存在を「委ねる」(照ルカ23・46「父よ、わが霊を御手に委ねます」)こと、即ち、この手紙のテーマである試練の中で神への信頼をもって生きていくことを勧め励まします(19)。




祈り、愛し合いなさい

2011年05月01日 | 説教要旨・ペテロの手紙連講
Ⅰペテロ4・1~11/聖餐礼拝/ペテロの手紙(10)

使徒ペテロは小アジアの各地に「散って寄留している・・・イエス・キリストに従うように・・・選ばれた人々」(1・1~2)に、「善を行なって苦しみを受ける」「キリストにある正しい生き方」(3・15~18)をして、キリストを証しするよう勧めました。そして「あなたがたを救うバプテスマ」(3・21)について言及した後、「このようにキリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました」と、善を行ない、苦しみを受ける神・キリストに従う正しい生き方をするよう励まします。パウロは、キリストの死と復活に与るバプテスマは、古い自分に死に、新しいいのちに生きることを表わしている、と教えています(ローマ6・1~8)。キリストの苦しみと死に、復活のいのちと力に与ったキリスト者は、罪とはっきりと決別したのです(アウグスチヌスの逸話)。「こうして地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです」。クリスチャンでない人々(「異邦人」/かつての私たち)は、肉欲的な生き方をやめたキリスト者を不思議に思い、謗(そし)るのですが、すべての人は警告なしに来て裁かれる神に、申し開きをしなければなりません。「というのは」信者も不信者も、すべての人は罪のゆえに、肉体においては死ななければなりません。しかし「死んだ人々(キリスト者)に福音が宣べ伝えられていたのは、その人々が肉体においては裁きを受けるが、霊においては神によって生きるため」、永遠の裁きから救うためでした(6/照ローマ14・9)。

「万物の終わりが近づきました」(7)。原文でも「万物」が文頭に置かれ、強調されています。「終わり」という言葉を、救いは「完成」したとの意味で、主イエスは使われました(照ヨハネ19・30)。ペテロは創造、堕落、アブラハムの召命・・・キリストの誕生、死と復活、昇天、聖霊降臨等、神の贖いの計画は「完成」され、キリスト再臨に伴う「万物の終わりが近づいた」と語っているのです。「ですから、心を整え(思慮深く、自分を抑制してふるまうこと)、身を慎み(酒を慎み、まじめであること→陶酔せず、しらふであること)、よく祈りなさい」と勧めます。絶えず祈り、神の御心に従い、主の御足跡を辿る者となるように励ますのです。そして「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい」と呼びかけます。それは「愛は多くの罪をおおうからです」。イエス・キリストに従うように、キリストの血の注ぎを受け(1・2)、真実に祈るキリスト者の交わりは、愛があふれ、大小の罪をおおうのです(8/照 箴言10・12)。このように、私たちの罪を覆う御子キリストにある神の愛に生かされているキリスト者は「呟かないで、互いに親切にもてなすこと」(9)、また、賦与されている賜物をもって「互いに仕え合うこと」(10)が求められています。それぞれが教会の奉仕において用いられる神からのさまざまな恵み・才能・能力を授かっています。それを隠したり、惜しんだりせず、良き管理者として、神の豊かな力をいただき、用い、仕えていくように、とペテロは励ましています。「それはすべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです」(11)。




キリストは身代わりとなって

2011年04月03日 | 説教要旨・ペテロの手紙連講
Ⅰペテロ3・18~22/聖餐式

受難節の中に、新年度最初の聖餐礼拝を捧げます。「たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです」(14)、「神のみこころなら、善を行なって苦しみを受けるのが・・・・・・よいのです」(17)と、キリストを信じ従うゆえに苦しみの中にある人々に、ペテロは「キリストも・・・・・・私たちを神のみもとに導くため」に「死なれました」と書き送り、キリストの救いの御業に目を向けさせ、苦しみの中にあって主にならって生きていくよう励まします。

ペテロは「キリストも一度罪のために死なれました」と書き出し、善を行なうキリストにある正しい生き方ゆえに苦しみを受けている人々に、先ずキリストの十字架を差し示し、見上げるように勧めます。十字架上のキリストこそキリスト教の核心であり、本質だからです。キリストの十字架なしにはキリスト教はないからです。ですからキリスト教は十字架で表わされるのです。

「キリストはただ一度罪のために死なれました」。祭司は日々、神殿において罪のための犠牲を献げましたが、キリストはただ一度だけ、私たちの罪を負うために、ご自分を完全な犠牲として献げられました(照ローマ6・10、ヘブル7・27~28)。キリストは私たちの罪のためにただ一度死ぬことによって、私たちの罪に対する永遠の解決をなされたのです。パウロも亦、「キリストは・・・・・・私たちの罪のために死なれた」(Ⅰコリント15・3/照ガラテヤ1・4)と記します。罪(堕落)により損なわれた神と人間の関係を回復するために、キリストがご自身を献げられたのです。「正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです」。何の罪もない、それゆえ苦難を受ける必要のない神の御子キリストが、当然苦難を負うべき私たち悪い者たちの身代わりとなって死なれたのです。「それは・・・・・・私たちを神のもとに導くためでした」。この十字架の死は普通のこと、公正なことではありません。秘義です。神キリストの一方的な、驚くべき恵みの御業です(聖229アメイジング・グレイス)。人間の罪に対する当然の裁きからの、キリストの十字架による救いの確かさが、洪水から救われたノアのことを通して語られます。このことはキリストと共に古い自分と罪に死に、キリストの復活に与って新しいいのちに生きることを表わすバプテスマを予示していたのです。

復活された「キリストは、天に昇り・・・・・・神の右の座におられます」。パウロも亦、憐みゆたかな神は、罪過の中に死んでいた私たちをただ恵みにより救い、キリストと共に生かし、よみがえらせ、共に天の所に座らせてくださいました、と記します(照エペソ2・4~6)。このキリストの受難・復活・高挙は全宇宙の権威や諸勢力を支配する神の勝利を表わしています。

受難節の聖餐式に与るにあたり、十字架上の救主キリストを信仰をもって仰ぎ、恵みの救いを感謝しましょう。そして「この恵みの中にしっかりと立ち」(5・12)、「キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかることも知って」(ピリピ3・10)、信仰の歩みを続けていけますように。




キリスト者の生き方

2011年03月27日 | 説教要旨・ペテロの手紙連講
Ⅰペテロ3・8~17/ペテロの手紙(8)

世から選ばれ、永遠の資産を受け継ぐ者とされ、各地に散って異邦人の中で生活しているキリスト者の生き方について、ペテロはこれまで述べてきたことの締め括りとして(「最後に」)、「あなたがたはみな」とキリスト者としての一般的な生き方を記します。

キリスト者の生き方の特徴の第一は「心を一つにすること」です。主イエスは、最後の夜、御父と御子が一つであるように、彼らキリスト者が一つとなることを祈られました(ヨハネ17・21~23)。パウロは、キリストを信じた者の新しい生活について記し、多くのキリスト者の集まりである教会はキリストの体であり、各自は器官であるので、互いに一つ心になり、高ぶることのないように、と教えています(ローマ12・5、16/照Ⅰコリント12章、エペソ4・3~6)。和合一致して歩むとき、私たちはキリスト者として生きているといえるのです。主イエスにより自我を砕かれ、心が支配されるとき、他者の苦しみ・悲しみと一つになること、「同情し合うこと」が起こります(照ローマ12・15、Ⅰコリント12・26)。主イエスは渡される夜、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と「兄弟を愛すること」を命じられ、人を愛する生活にキリストが見える、と言われます(ヨハネ13・34~35/Ⅰヨハネ4・20~21)。神は憐み・優しい心をもって、私たち罪人に同情し、配慮してくださいました。この神の憐み・キリストなくしてキリスト教は存在しません(ヨハネ3・16)。己を他者と比べて傲(おご)らず、罪赦され、救われた人間に過ぎないことを知り、「謙遜であること」、そして「お互いに親切にし、心の優しい(「憐み深い」)人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい」(エペソ4・32)と命じられている生活をすることが、キリスト者が召されている祝福を受け継ぐ生き方です。そのことを詩人は証言しています(照10~12=詩篇34・12~16/正しい生き方と祝福について)。

13~17節で、ペテロは、キリスト者に善に熱心に生きるよう励まします。同時に「義のために苦しむことがある」が、神の祝福を信じ、心を動揺させたりせず、全てのことを支配しておられるキリストを主として信頼し、キリスト者の希望について説明を求める人には穏やかに、敬意と正しい良心をもって弁明する用意をしておくよう勧めます。キリストにあって善い、正しい生活をしていたパウロは、彼を罵(ののし)る人々によって裁判にかけられたとき、その場をキリストを証しする機会としました(照 使徒22、24、26章)。キリスト者が横柄で押し付けがましい態度口調ではなく、敬意をもって合理的に、正しい良心から穏やかに弁明するとき、キリスト者の正しい生き方を罵る人たちは、悪口を言ったことを恥じ入るようになり、導かれるとき、人はキリストへの信仰を持つことが起こるのです(ステパノの弁明とパウロ・使徒6~7章/パウロの弁明とアグリッパ・使徒26・28~29)。このように神はキリスト者としての正しい生き方を祝福してくださり(12)、不当な苦しみをも、人々の救いのためにお用いになるのです。




いのちの恵みを共に受け継ぐ

2011年03月20日 | 説教要旨・ペテロの手紙連講
Ⅰペテロ3・1~7/ペテロの手紙(7)

聖書は夫と妻の関係を神とイスラエル(照エレミヤ2・2、偶像礼拝、ホセア書)、キリストと教会(エペソ5・22~33)に擬えています。そのことは最も基本的な、深遠な人間関係は血肉による親子関係ではなく、(契約による)夫妻関係であることを教えています。自らも結婚し、家庭を営んでいたペテロ(照マルコ1・29~31、Ⅰコリント9・5)は、キリスト者の夫と妻に「いのちの恵みを共に受け継ぐ者」として「共に生活しなさい」と勧めます。

全てのキリスト者に、主のゆえに、為政者に服従するよう(2・13~17)、僕たちには主人に服従するよう(2・18~25)に勧めたペテロは、ここで妻たちに自分の夫に「同じように服従しなさい」と勧めます。この句は原文においては2・18と全く同じ表現です。妻は、僕が主人に対すると「同じように」、主のゆえに、善良な夫にも横暴な夫にも、「尊敬の心を込めて服従しなさい」とペテロは言うのです。「すべての人を尊敬しなさい」と言ったペテロはどんな主人にも、夫にも「尊敬の心を込めて服従しなさい」と言っているのです(2・17、18、3・7)。それは、神は人を御自身の像に造られ(創世記1・27)、キリストがひとりひとりを愛し、私たちのために命を捨ててくださった(照ヨハネ3・16)からです。ですから、尊敬するとはすべての人を、ただ人なるが故に、無条件に自分よりすぐれた者とすることです(照ピリピ2・3)。

古代、ユダヤ社会でも、ギリシャ世界でも、ローマ法の下でも、女性の立場は極めて低く厳しいものでありました。そうした中でキリスト者となった女性・妻は、男性・夫より多くの困難に直面させられたのです。そのような妻たちに、ペテロが夫への服従を勧めたのは「たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです」(比2・12)。饒舌に福音を説教するのでなく、妻たちのキリスト者としての日常の神を恐れかしこむ清い生き方を見て、夫たちが神の国へと導かれるためです(照Ⅰコリント7・12~15)。
女性・妻の本当の美しさは編んだ髪や金の飾り、派手な衣服という外面的な過ぎゆくもの(イザヤ3・18~33/考ポンペイ展他)ではなく、柔和で穏やかな、永遠に続く内面的な人柄こそ、神が妻に与えた女性性の美しさであり、神の御前に価値あるものです。サラは神の言葉に服従したアブラハムに従うことが不確かで危険な時(照 創世記12・1、10~15、20・1~6、22・1~3他)にも、夫を主と呼んで従いました。サラをはじめ神に望みを置いた敬虔な婦人たちが、静かに、継続的に祈り、信頼して、「柔和で穏やかな霊」という朽ちることのない飾りをもって夫に従ったように、〝妻たちよ、夫に従いなさい〟とペテロは言っているのです。

夫たちは「妻が女性であって、自分よりも弱い器だということを弁えて・・・・・・尊敬しなさい」と勧められます。夫はその権威を利己的に乱用せず、弱い器(人間/照 使徒9・15)である「妻と共に生活し、いのちの恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい」。そうすれば祈りが妨げられることはなく、祝された結婚生活を送り、神に喜ばれる霊的な礼拝、神への奉仕がなされていくのです。これが神のみこころに適ったことです、とペテロは言っているのです。




キリストもあなたがたのために

2011年03月06日 | 説教要旨・ペテロの手紙連講
Ⅰペテロ2・18~25/聖餐式/ペテロの手紙(6)

世にあって旅人・寄留人であるキリスト者に、異邦人の中にあって、市民として立派に生活しなさい(11~17)と勧めたペテロは、次に、しもべとして心からの怖れをもって、主人に従って生きなさい、と勧めます(18~25)。しもべ(オイケタイ)は家庭の奴隷「召使い」(共)を意味します。紀元1世紀のローマ帝国内の奴隷のほとんどは、奴隷の家庭で生まれ、さまざまな職業(医師、技術者、音楽家他)の訓練を受け、法的な処遇規定もあり、給料も支払われ、自由を買い取ることも期待できた人も少なくありませんでした。それゆえ、主人と僕の関係に対するペテロの勧めを、今日の雇用者と被雇用者との関係に適用することは決して不適切ではないでしょう。

「神を恐れて、王・皇帝(共)を尊びなさい」(17)と教えたペテロは、キリスト者の僕たちに、神への恐れをもって、この世の主人に―善良で優しい主人にも、横暴な主人にも―従い仕えなさい、と命じます(照ルカ6・32)。そして、自分の罪のゆえに苦しんでも何の誉にもならない。しかし、他の人の罪により、不当な苦しみを受けながらも、神がすべてを見、知っておられ、悪を罰せられることを確信して、その悲しみを耐え忍ぶなら、それは自由人としての善行であり、神に嘉せられる苦難である、と励まします。そして、私たちキリスト者は、実にこのような苦しみを耐え忍ぶように召されたのである。なぜなら罪なきキリストご自身が神に信頼しつつ、私たちのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、模範(見本、手本)を残されたからである、と言います。(21)。

ペテロは2・22~25でイザヤ53章に依りつつ、キリストの苦難の二面を記しています。キリストは「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しく裁かれる方にお任せになりました」(23)。特に裁判と十字架のとき、人々は激しくキリストを罵りました(照マタイ26・67~68、27・28~31、39~44他)。キリストは私たちのために不当な苦しみを受けたとき、あらゆる状況を支配し、正しく裁かれる神に深く信頼し、ご自身だけでなく、加害者も、全状況もお委ねになり、神への従順と忍耐の模範を示し、私たちに踏み従うよう招かれたのです。

キリストがお受けになった不当な苦しみのもう一面は、キリストが「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました」(24)ことです。これは罪を犯さず、その口に偽りのなかった神の御子キリストのみがなし得た私たちの罪のための身代わりの苦難です。キリストは私たちの罪をその身に背負って、十字架(木/照ガラテヤ3・13)の上に運んでくださり、私たちが受けるべき刑罰を代って引き受けてくださったのです(照イザヤ53・6、Ⅱコリント5・21)。「それは私たちが罪を離れ、義のために生きるためです」。このキリストの十字架の苦難・打ち傷によって、私たちはいやされたのです。こうして私たちは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者(照 詩篇23・1、イザヤ40・11、ヨハネ10・11)であり、監督者(守護者、導き手)である方のもとに帰ったのです(25)。

私たちの罪を自らその身に背負い、十字架の上にその体を裂き、血を流したキリストの身代わりの苦難・死を想起しつつ、ただ信仰と感謝と悔い改めをもって、主が「取りなさい」と差し出してくださるパンと杯に与りましょう。




市民として生きる

2011年02月27日 | 説教要旨・ペテロの手紙連講
使徒ペテロは、小アジアの各地に散って寄留している選ばれた人々に「愛する人々」と呼びかけ、あなたがたは、神により選ばれ、新しく生まれさせられ、聖なる神の民、祭司とされ、天に国籍を持ち(ピリピ3・20)、この世に「旅人・寄留者」として生かされているのですから、「魂に戦いを挑む肉の欲を遠ざけなさい」と「強く勧めます」。旅人・寄留者とは母国を離れ、一時的に他の土地に住んでいる人のことです。聖書は、アブラハムに代表される信仰の人々は、天の故郷・神の都を仰ぎつつ、地上では旅人であり、寄留者であることを告白し、天幕生活をした、と記しています(照ヘブル11・8~16)。また新約聖書における肉という言葉は、生まれつきのままの、神から離れている人間の本性を意味します。ですから肉の欲とは単に性的欲望だけでなく、この世に属する広い範囲の罪深い欲望を表わします(照2・1、ガラテヤ5・19~21)。キリスト者の魂に継続的に戦いを挑み、害を与え、霊的に無力化する罪深い欲望を断ちなさい、とペテロは勧めます。

そして「異邦人の中にあって、立派に生活し続けなさい」と続けます。当時(いえ、今日も)キリスト教徒は悪人呼ばわりされたり、誤解され、非難されました(〝そのいまわしい行為によって憎悪されていた人々〟タキトゥス、年代記・ネロ帝の迫害64年)。キリスト者の正直な生き方を見て、人々がその非難中傷が間違いであることを知り、おとずれの日に神をほめたたえるようになる生活をしなさいと、ペテロは勧めます(照マタイ5・16)。福音伝道の力はキリスト者の生活にあるのです。

「立派なふるまい」とは肉の欲と正反対の「主のゆえに主権者に従う」ことです(照マタイ22・21、ローマ13・1~7/考ダニエル3・13~18、使徒4・18~20、5・27~29)。罪を犯すように命じられた時以外はあらゆる権威に服従することがキリスト者の責務です。自らを賢いとし、無知のゆえにキリスト(者)を汚す愚かな人々を、キリスト者の立派な行ない、善を行なうことで止めることは神のみこころです。

「あなたがたは自由人として行動しなさい」と記し、ペテロは真の自由、自分が本当にしたいことを行なうことは、神の僕・奴隷として、神のみこころに従順に生きるところにある、と確証します。キリスト者は、この自由を肉の働く機会としないで、神の奴隷として、愛をもって互いに仕えるよう召されたのです(照16、ガラテヤ5・13)。神の奴隷として、神に仕えることの中に、キリスト者は真の自由人として生きるのです。キリストにあって、人は初めて罪の奴隷から解放され、神の奴隷とされ、本来あるべき姿とされるのです(照ローマ7・7~25、Ⅰヨハネ5・3)。

そして、神の奴隷として自由に生きるキリスト者は、一般のすべての人を尊敬すること、教会のあらゆる人を神の家族として愛すること、神を畏れ、従うこと、そして王・皇帝(共/ネロ?!)を敬うことが求められ、命じられています。