Ⅱペテロ3・14~18/聖餐式/ペテロ連講(19)最終回
主イエスの再臨の日、「神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地」の実現する日を「待ち望んでいる」(12、13、14)「愛する人たち」に、「しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように励みなさい」とペテロは記します(照コロサイ1・22/Ⅰペテロ1・19/Ⅱペテロ2・13)。十字架の死によって、神と和解させてくださった主の御前に、平安をもって立てるように、主にお会いする日を深く思い、聖なる生活を追い求めなさい、と勧めるのです。
そして、前に(照3~4)主の再臨はないと主張し、自分の欲望のまゝに放縦に生活する偽教師たちに惑わされてはならない。再臨が遅れているのは、主の憐みによる忍耐のためであり、全ての人が悔い改めと信仰を通して救われることを願ってのことであると記したペテロは、そのことをここで繰り返し記し、教えます(9、15a)。
そして、「それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです」(15b)とパウロを引き合いに出します。「それは」「このこと」(16)とは、多くの人が悔い改めに至るようにとの主の憐みからの再臨の遅延をパウロも教えていることでしょうか(照ロマ2・4、3・25、Ⅰテモテ2・4)。続く16節には、パウロの「手紙の中には理解しにくい(字義〝はっきりしない〟〝多義的〟/例デルポイの神託)ところもあります。無知な(〝教育を受けていない〟)、心の定まらない人たち(照2・14)は、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し(〝ねじ曲げる〟)、自分自身に滅びを招いています」と書いています。偽教師たち異端は、決して人間の意志によって語られたのではなく、聖霊に導かれた人々が語った神からの言葉(聖書)を、自分勝手に、曲げて解釈し、自分たちを贖ってくださった主を否定し、その身に速やかな滅びを招いていました(照1・20~2・1)。そこから全体的に見て、「それは/このことについて」とは、信仰義認の教理(照エペソ2・8~10)を指していると考えてよいでしょう。偽教師たちは、パウロの言葉を自分勝手に解釈し、恵みの教理を罪の正当化の理由としました(照ロマ3・5~8、6・1、15)。律法から解放され、自由になったとのパウロの教え(照ロマ8・1~2、ガラテヤ5・13)を放縦の口実としました(照2・18、19)。
それゆえペテロは、このことを予め知っている愛する人々に、「無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さ(「堅固な足場」(共)〝揺るぎない立場〟/照ルカ22・32「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」)を失うことにならないよう」に注意します。
そして、終りに、ペテロは「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい」と勧めます。イエス・キリストの十字架の贖いと復活により、新しく生まれさせられた(照1・3、23)私たちキリスト者に、神がイエス・キリストにあって値なしに与えてくださる愛顧に応えて生活することにおいて、また主イエスに関する知識とそれに伴って主を人格的に知ること、そして主に似る者となることにおいて成長するよう勧めているのです。
「このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン」。

主イエスの再臨の日、「神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地」の実現する日を「待ち望んでいる」(12、13、14)「愛する人たち」に、「しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように励みなさい」とペテロは記します(照コロサイ1・22/Ⅰペテロ1・19/Ⅱペテロ2・13)。十字架の死によって、神と和解させてくださった主の御前に、平安をもって立てるように、主にお会いする日を深く思い、聖なる生活を追い求めなさい、と勧めるのです。
そして、前に(照3~4)主の再臨はないと主張し、自分の欲望のまゝに放縦に生活する偽教師たちに惑わされてはならない。再臨が遅れているのは、主の憐みによる忍耐のためであり、全ての人が悔い改めと信仰を通して救われることを願ってのことであると記したペテロは、そのことをここで繰り返し記し、教えます(9、15a)。
そして、「それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです」(15b)とパウロを引き合いに出します。「それは」「このこと」(16)とは、多くの人が悔い改めに至るようにとの主の憐みからの再臨の遅延をパウロも教えていることでしょうか(照ロマ2・4、3・25、Ⅰテモテ2・4)。続く16節には、パウロの「手紙の中には理解しにくい(字義〝はっきりしない〟〝多義的〟/例デルポイの神託)ところもあります。無知な(〝教育を受けていない〟)、心の定まらない人たち(照2・14)は、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し(〝ねじ曲げる〟)、自分自身に滅びを招いています」と書いています。偽教師たち異端は、決して人間の意志によって語られたのではなく、聖霊に導かれた人々が語った神からの言葉(聖書)を、自分勝手に、曲げて解釈し、自分たちを贖ってくださった主を否定し、その身に速やかな滅びを招いていました(照1・20~2・1)。そこから全体的に見て、「それは/このことについて」とは、信仰義認の教理(照エペソ2・8~10)を指していると考えてよいでしょう。偽教師たちは、パウロの言葉を自分勝手に解釈し、恵みの教理を罪の正当化の理由としました(照ロマ3・5~8、6・1、15)。律法から解放され、自由になったとのパウロの教え(照ロマ8・1~2、ガラテヤ5・13)を放縦の口実としました(照2・18、19)。
それゆえペテロは、このことを予め知っている愛する人々に、「無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さ(「堅固な足場」(共)〝揺るぎない立場〟/照ルカ22・32「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」)を失うことにならないよう」に注意します。
そして、終りに、ペテロは「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい」と勧めます。イエス・キリストの十字架の贖いと復活により、新しく生まれさせられた(照1・3、23)私たちキリスト者に、神がイエス・キリストにあって値なしに与えてくださる愛顧に応えて生活することにおいて、また主イエスに関する知識とそれに伴って主を人格的に知ること、そして主に似る者となることにおいて成長するよう勧めているのです。
「このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン」。
