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香柏だより

福岡市東区の香椎バプテスト教会です。
聖書の言葉には、ひとを生かす力があります。
礼拝では手話通訳もあります。

神の子とする御霊

2014年06月08日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ8・12~17/ペンテコステ/聖霊降臨祭主日/伝道聖餐礼拝


パウロは未だ会ったことのない「ローマにいるすべての神に愛されている人々、召された聖徒たちへ」(1・7)、「兄弟たち」と呼びかけます。兄弟とは、聖霊により、イエスを神の御子キリストと告白し、神の子どもとして召され、神を父とし、イエスを長子(8・29)とする神の家・教会に加えられた神の家族・キリスト者です。御霊により、神の子どもとされたキリスト者には、肉に対してではなく、御霊に対しての責任があります。肉に対する責任とは、「神に対して反抗する・・・・・・肉に従って生きることです」(7と13)。そうするなら「あなたがたは死ぬのです」。一方、御霊に対する責任とは「御霊によって、体の行ない(照ガラテヤ5・19~21)を殺す」生き方であり、神に喜び服従する生き方です。その時「あなたがたは生きるのです」。パウロは自分の努力によって「体の(悪い)行ない・仕業」を「殺そう・絶とう」としました。しかし、体の欲する悪い行ないに打ち克つことはできませんでした。この惨めな罪の奴隷、死の体から、神はイエス・キリストのゆえに、パウロを救い出し、罪と死の原理から解放してくださったのでした(7・15~8・2)。ですからパウロは、聖霊によりイエス・キリストを信じ救われた私たちは、自分の力で体の悪い行ないを絶とうという肉による自分勝手な生き方を止め、御霊の働きによって、体の行ないを殺し続ける生き方をする責任があるというのです(照ガラテヤ5・16~24)。

そのように神の御霊に導かれる人は誰でも皆、神の子どもなのです(14)。この神の霊(御霊)は、人を再び恐れに陥らせ、奴隷とする霊(考・霊能者の言葉/この世の価値観等の諸霊)ではありません。私たちを諸霊の恐怖から解放し、「神の子とする御霊」です。「子とする」という言葉(15/照23、9・4、ガラテヤ4・5、エペソ1・5)は養子縁組に用いられた言葉です。私たちは、聖霊によってイエス・キリストを信じた時、神の養子とされ、神の子どもとして受け入れられ、神の家族とされたのです。「アバ」とは子どもが父親に対して親しみを込めて呼びかける言葉です(照マルコ14・36、ガラテヤ4・6/主の祈り)。イエス・キリストを信じ、救われ、神の子どもとされた私たちは、その時から罪を裁かれる義なる神を、御霊によって「アバ、父」と呼ぶ者とされたのです(15)。さらに、「御霊ご自身が私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます」(16 照ガラテヤ4・5~7)。

キリストと共に、神を「アバ、父」と呼ぶ神の子どもとされた私たちは、キリストと共に苦しむなら、キリストの栄光をも共に受けるキリストと共同の神の相続人です(17)。将来に受ける栄光の相続とは、神の(養)子とされた私たちが、長子である御子の姿に似た者とされる栄光です(8・27~30)。その時「私たちの体は贖われ」(23)、即ち身体的生命から最終的に救われ、私たちに永遠のいのち、神の子の身分が完全に実現されるのです。

二千年前のペンテコステの日に世に来られた御霊は、今も、私たちに罪・義・裁きについて語りかけ、イエス・キリストを信じ、救われるように招いておられます。きょうが、あなたに聖霊が降臨される祝日となりなすように。




感謝とローマ訪問の希望

2014年05月25日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ1・8~15/ローマ書連講(2)

当時の手紙の書き方の習慣に従って、差し出し人である自分自身(注・共同差出人なし。比・他書簡)と手紙の主題であるキリストについて、拡長した形で挨拶を送ったパウロは、ローマのキリスト者たちのために祈り(1・1~7)、続いて彼らについて、「先ず第一に」(文頭)「イエス・キリストによって私の神に感謝します」。それは当時の世界の中心ローマ、繁栄し、殷賑を極め、奢侈と不道徳の都ローマ、その地に、名もないキリスト者たちの手によって福音の種が播かれ、教会が形成され、彼らの信仰がローマ世界全体に言い伝えられているからです。

ローマ世界の諸教会で評判になっているローマの信徒たちの信仰とはどんな信仰だったのでしょうか。それは彼らが神に愛され、召され、聖なる者とされたこと、即ち、神の一方的な、主権的な愛により、イエス・キリストを信じ、救われていることです(7)。換言すれば、神がその預言者たちを通し、旧約聖書に約束されたように、神の御子が人となり、(十字架に死なれたこと、そして葬られ)、三日目に復活することにより、神の子として公けに宣言されたイエス・キリストによる神の福音に、ローマの信徒たちが信頼していることです(照1・2~4/2・16「私の福音」、Ⅰコリント15・1~4)。

この「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスの僕パウロ」(1)は、〝ローマの聖徒たちを思い、祈るたびに、神の御心によって、何とかして、いつかは道が開かれて、あなたがたの所に行き、あなたがたに会いたいと切に望んできました。それは御霊の賜物、即ちパウロの福音の恩恵を分け与え、あなたがたが強くされ、また互いの信仰によって、共に励ましを受けたいからです。そして他の民族の中でと同じように、ローマでも回心者を得たいと思っているからです〟 。そのことはパウロにとり神から委ねられた務めであり、返さなければならない負債でした(9~14)。

「ですから、私は、ローマにいるあなたがたにもぜひ福音を伝えたいのです」(15)。こうしてパウロはローマの信徒たちに、この手紙を認める動機と目的は、人となった神の御子イエス・キリストの十字架の死と復活による神の福音、パウロが宣べ伝えた「私の福音」、すべての人に差し出され、開かれている福音、誰であっても信じるならば救われる恵みの福音を伝えることである、と記します(照Ⅱコリント5・20~21)。

ローマに行くことを切望しながら、幾度も妨げられ、今も妨げられているパウロは、この手紙を通して、ローマの信徒たちが、パウロと同じ福音に堅く立つことを願っているのです。(ですから、続く15、16節で福音について語ります。6/15説教予定)。そして、いつか神に許されて、ローマに行き、共に信仰の交わりを喜び、心満たされ、それから同信のローマの信徒たちに祈られ、イスパニア(スペイン)に福音を宣べ伝えるため送り出されたいのです(照15・19~24)。




パウロからローマの聖徒たちへ

2014年05月18日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ1・1~7/ローマ書連講(1)

アジア州の首都エペソを中心とする第三次伝道旅行(使徒19・10/53~57年)の後半、パウロはマケドニア(使徒20・1)に渡り、アドリア海沿岸のイルリコまでも行った(ロマ15・19)。それからギリシア・コリントに来て、3ヶ月滞在した(使徒20・2~3)。同労者プリスキラやアクラ、その他の友人たちもいるローマにある教会についてかねて聞いていたパウロは、ローマ世界の中心・首都ローマに行って、ぜひ福音を伝え、幾らかでも実を得たいと願ってきたが、今なお妨げられていた。ケンクレアの女性執事であったフィベがローマへ行くと聞き、「ローマにいるすべての神に愛されている人々、召された聖徒たちへ」この手紙を書き彼女に託して送ったのである(1・10/16章)。

この手紙は新約聖書の中で最も大きく、神学的・教理的内容、キリスト教の核心を論理的・体系的に書き記した最も重要な手紙である。そこからローマ書は聖書の中の聖書と呼ばれ、ルターは本書は新約聖書の主要部であり、鮮やかな福音そのものである、と言ったという。このローマ人の手紙をきょうから45回ほどにわたって学んでいきたいと願っています。

本書を認めたパウロは小アジア、キリキアのタルソに生まれた生粋のユダヤ人です。成長してエルサレムに上りガマリエルの許で律法を修めました。また彼は生まれながらにローマ市民権を持っていました。十字架に懸けられて死んだナザレ人イエスをキリストとする新興宗教(と考えていた)キリスト教撲滅のため、ダマスコに赴いたパウロは、突然天からの光に打たれ、キリストの声を聞き、回心します。こうして「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスの僕パウロ」は以来三次にわたる伝道旅行を行ない、小アジアからギリシアにわたり福音を宣べ伝えました。そしてこの時、パウロはイスパニア伝道の幻を抱き、その途上にローマ訪問を切望しているのです。「僕」とは単なる召使いでなく、奴隷(ドウロス)です。旧約の神の僕(エベド)は神に絶対的服従をもって仕える選民を意味しました。「使徒」とは「遣わされた者」の意ですが、一般には使節・大使を表わしました。全権を与えられて派遣された者のことです。

宛先人は「ローマにいる神に愛され、召されたすべての人々」です。キリスト者とは神の一方的な愛によって、神に愛され、召されている人々です。「聖徒」とは謂ゆる聖人君子ではなく、原義は「分離・区別されたもの」です。キリスト者とはキリストの所有の者であり、キリストに身を捧げてキリストの福音のために生きる者です。そのために神に愛され、選ばれ、召されたのです。これは私たちの自由意志の選択ではなく、神の愛の選びの結果です。ここにこそ私たちの救いの確かな根拠があります。だから、「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。生きるにしろ、死ぬにしろ、私たちは主のものなのです」(14・8)。