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香柏だより

福岡市東区の香椎バプテスト教会です。
聖書の言葉には、ひとを生かす力があります。
礼拝では手話通訳もあります。

低きに下る神・キリスト

2015年12月20日 | 説教要旨・クリスマス
詩篇113・1~9/ルカ19・1~10/クリスマス主日

日本語の神は〝堅固〟を表わす「カ」(頭は体で一番堅く、上にある)と人知の及ばない不思議な存在・現象を表わす〝ミ・身・霊〟から構成されている(「日本語の意味と構造」野村玄良)。それ故、日本人にとりまた多くの人間にとり、神とは、第一義に〝人間を超越した威力を持つ隠れた存在。人知をもってははかることのできない能力を持ち、人類に禍福を降すと考えられている威霊〟とされるが、〝キリスト教では、宇宙を創造し、支配する全知全能の絶対者〟(広辞苑)である。この聖書の神・キリスト教の神「私たちの神、主に並ぶものがあろうか。主は御座を高く置き、低きに下って天と地を御覧になる」(詩篇113・5~6)。

いと高き神は罪に堕ちた人間に「あなたはどこにいるのか」と呼びかけ、歩み寄られた(創世記3・9)。エジプトで奴隷とされ、悩み、叫び、痛むイスラエルを救出し、約束の地に上らせるため、主は下って来られた(出エジプト3・7~8)。至高者なる聖書の神は、罪に苦しみ悩む人間のもとに、自ら身を低くして下って来られる憐れみ・慈しみの神であります。「身を低くする」は〝引き倒す/地に倒す〟(照 詩篇147・6)と訳される言葉です。私たちの神・主はご自身を天から地に引き倒して、「天と地を御覧になる」お方です。高き所から降って来て地を御覧になる主が目を留めたもう人とは「弱い人、貧しい人、子を産まない女」(7、9)に代表される〝存在意味がない、見出せない人〟です(照・石女(うまずめ)エリサベツ、ルカ1・7と25/マリヤ讃歌、ルカ1・46~55)。

パウロは献金に関する勧めの中で「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。即ち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたがキリストの貧しさによって富む者となるためです」(Ⅱコリント8・9、照ピリピ2・7)と言っています。私たちの主イエス・キリストこそ身を低くして下って来て、私たちに目を留め給う神です。

ベツレヘムでマリヤより誕生し、飼葉桶に寝かせられたイエスは、公生涯の初め、世界で最も低い所を流れるヨルダン川でバプテスマを受け、公生涯の終り、エルサレムに待つ十字架の直前、死海近くのエリコに来られ、取税人の頭(比・「罪人の頭」パウロ、Ⅰテモテ1・15)ザアカイ(正義さん)の下に立たれ、樹上のザアカイを見上げ〝急いで下りて来なさい。今日、わたしはあなたの家に泊まることにしている〟と言われます。急ぎ降りたザアカイは大喜びでイエスを家に、心に迎え入れます。そして生まれ変ったザアカイに、主イエスは「今日、救いがこの家に来ました・・・・・・。わたしは失われた人を捜して救うために来たのです」と仰言います(ルカ19・1~10)。

身を低くした神・キリストは今日、このクリスマスに、あなたの下に立ち、あなたに〝下りて来なさい〟と呼びかけ、あなたの心を宿としようと願っておられるのです。このキリストを迎え、詩人と共にハレルヤ! と我らの神、主キリストをたたえましょう。




人として生まれた御子イエス

2015年12月06日 | 説教要旨・クリスマス
ルカ1・26~38/ガラテヤ4・4~5/アドヴェント第二主日/聖餐礼拝

神は、ご自身の像(かたち)に創造した人間アダムが堕落したとき、蛇サタンに「わたしはお前と女との間に、またお前の子孫と女の子孫との間に敵意を置く。彼はお前の頭を踏み砕き、お前は彼のかかとに咬みつく」と仰せになり、自ら皮の衣を作り、アダムとエバに着せてくださった(照 創世記1・26~28/3・15、21)。以後、「神は、昔、預言者たちを通して、いろいろなかたちで、多くの仕方で先祖に語られました」(ヘブル1・1/例 信仰の父アブラハム、姦淫と殺人の王ダビデ、預言者ホセア)。

〝しかし、時が満ちると、神は御子を遣わし、この方を女から生まれた者、また律法の下に生まれさせました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、また私たちが神の子の身分を受けるためです〟(ガラテヤ4・4~5)。古い時代が完了し、神の定めた新しい時代の夜明けとなったのです。これは単純にローマ帝国による道路網の整備やヘレニズム文化の拡大によるギリシア語の国際化だけではなく、パウロは律法の下に隷属させられている人間への神の試みの時が満ちたことを言っているのです。

神は約束のようにひとりの男の子を、女から、律法の下に生まれさせられたのです(創世記3・15イザヤ9・6)。こうして神は〝この終わりの時には、世界の創造者であり、万物の支配者・保持者である御子によって、私たちに語られました〟(ヘブル1・2/照マタイ28・18/ヨハネ1・1~3)。「遣わす」は元の地位から任務を与えて派遣することです。神は、永遠・先在の神(ことば)である御子を「女から生まれさせ、律法の下にある者とされました」。霊である神が受肉されたのです。「キリストは神の身分でありながら、神としてのあり方に固執せず、ご自分を無にして、仕える者となり、人間と同じようになられたのです」(ピリピ2・6~7)。

「それは、律法の下にある者を贖い出すためでした」(5)。律法は約束の子孫(照ガラテヤ3・16/創世記3・15)が来られる時まで、違反を明らかにするために付け加えられたものです。すべての人は律法の監視下に置かれ、罪の支配下に閉じ込められたのです(ガラテヤ3・22~23)。キリストはこのような〝律法の下にある者を贖い出し(この言葉は身代金を払って捕虜や奴隷を自由な身にすることを表わす)、その人々を律法に対する隷属から解放し、神の子どもとしてくださるのです〟。こうして〝神は、肉のために無力となった律法がなし得なかったこと、即ち罪を取り除くために、御子を罪深い肉と同じ姿でお遣わしになり、その肉において罪を処断されたのです〟(ローマ8・3)。

私たちと同じ人となり、律法の下に生きられた御子イエスは疑いや不安、孤独や恐れ、死や、裁き等々に脅える私たちの間に宿る恵みと真理に満ちたお方です(照ヨハネ1・14)。「神は罪を知らないこのお方を、私たちの身代わりに罪となさいました。それは、私たちがこのお方にあって神の義となるためです」(Ⅱコリント5・21)。こうして「キリストは私たちのために呪われた者となって、私たちを律法の呪いから贖い出すために」時満ちて、女(マリヤ)から、律法の下にお生まれになったのです。




救いの光が昇った

2014年12月21日 | 説教要旨・クリスマス
ルカ2・28~32/マタイ4・15~16/クリスマス主日/降誕祭礼拝

皇帝アウグストゥスのローマ帝国全土にわたる住民登録の勅令により、ヨセフとマリアはガリラヤの寒村ナザレから、故郷ユダヤの小村ベツレヘムへと上って行った。そこにいる間に、出産の日が満ちて、マリアは男子の初子を産んだ(2・1~7考 創3・15、ガラテヤ4・4/神の時と人の時・歴史)。その日の夜、救い主誕生の告知を受けた羊飼いたちは、飼い葉桶に寝ている乳飲み子を捜しあてた(ルカ2・8~20)。8日たって割礼の日を迎えた幼子はイエスと名づけられた(21、照1・31/ルカ1・59)、産後40日間の清めの日数が満ちると、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムの神殿に連れて行った(22~24、照レビ12・2~8)。その時、イスラエルの慰められることを待ち望み、主が遣わすキリストを見るまでは決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた(老)シメオンが、御霊に導かれて神殿に入ると、幼子イエスを連れた両親も入って来た。シメオンは幼子を腕に抱きあげ、神を頌めたたえた。〝主よ、今こそ、あなたはお言葉のとおり、あなたの僕を、安らかに去らせてくださいます。私の目が、あなたの御救いを見たからです。御救いは、あなたが万民の前に備えられたもの、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの栄光です〟と、年老いた信仰深いシメオンは、静かな信頼と平安、そして希望に満たされて歌った(25~32/シメオンの讃歌[ヌンク・ディミトゥス])。

誕生からおよそ30年後、皇帝ティベリウスの第15年、ポンテオ・ピラトがユダヤ人の総督、ヘロデ(・アンティパス)がガリラヤの領主・・・・・・アンナスとカヤパが大祭司であった時(照ルカ3・1~2、23)、イエスはナザレを去り、ガリラヤ湖畔の町カペナウムに来て住まわれた、その時から〝悔い改めよ。天の御国は近づいた〟と宣教を開始された。これはイエスの誕生に先立って、ザカリアが引用した(照ルカ1・78~79)預言者イザヤの言葉の成就であった、とマタイは記す(マタイ4・12~17)。南北の大国を結ぶ湖沿いの道の周辺のゼブルンやナフタリ、異邦人のガリラヤ等の地は、絶えず大国に攻められ、蹂躙され、人々は〝暗闇の中に座し、死の陰の地に住んでいた。聖書は、救い主キリストの誕生・到来はそのような人々に偉大な光、救いの光が昇ったことである、と告げているのである(考ガリラヤ湖の夜明け/アッシリアの侵略/〝惨めな、死に定められたこの体・私〟ローマ7・24/エチオピア教会のクリスマスと太陽図)。今や〝神の深い憐れみにより、神が罪に苦しむ万民の前に備えられた大いなる光・義の太陽(マラキ4・2)は昇ったのです。世の光(ヨハネ8・12)なるキリストの光は、私たちの上に差し込んできているのです。その光によって、私の目はキリストの救いを見るのです(詩36・9)。そしてシメオンと同じく、神との平和を得、深く静かな信頼と死の彼方にも続く希望に満たされて、このクリスマスを祝い、新しい年の日々を歩みたいと願い祈るのです。




ザカリヤの讃歌・日の出の訪れ

2014年12月14日 | 説教要旨・クリスマス
アドヴェント(第三)主日礼拝の聖書箇所は、キリストの先駆けとなるバプテスマのヨハネの誕生に関わる所(1・57~79)の後半部、ザカリアの讃歌(ベネディクトウス)です。

祭司ザカリアと妻エリサベツは神の前に正しい人で、主の戒めと定めを落度なく守り行っていた。彼らには子がなく、二人とも年老いていた。ザカリアが神殿で務めをしていたとき、主の使い(ガブリエル)が彼に現われ〝ザカリア。あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。その子をヨハネと名付けなさい〟と告げた。ザカリアが〝私は老人で、妻も年をとっております・・・・・・〟と言うと、み使いは〝あなたは口が利けなくなる。時が来れば実現する私の言葉を信じなかったからである〟と答えた(1・5~20)。神に仕える敬虔な老祭司であり、子を授かることを願い続けていたザカリアであったが、男の子の誕生を告げるみ使いの言葉に、イサク誕生の予告に〝私も妻も年を取り過ぎている。そんなことはあり得ない〟と、ひれ伏しつつも、心の中で笑ったアブラハムと同じように〝どうしてそんなことが・・・・・・〟と信じようとしなかったのです(照 創世記17・17)。この不信仰のゆえに言葉を失ったザカリアは、主の賜わる幸い(45)を妻やマリアと共にすることもできず、10か月の間ひとり孤独と暗闇のなかにいたことでしょう。

そのザカリアが「イスラエルの神である主を、頌めたたえます」。それは父祖アブラハムに誓われたとおり、また聖なる預言者たちを通して語られた言葉・契約に心を留め〝主はその民を顧み訪れて、贖い解放するために、救いの角・神の力を、僕ダビデの家に立てられ、私たちを敵の手から救い出し、生涯、清く正しく、心安らかに、主に仕えるようにしてくださったからです〟(68~75)。「これは我らの神の深い憐れみによる。この憐れみにより、日の出がいと高き所から我らを訪れ/天から朝の太陽が我々の上に昇る(新英語聖書)/彼は救いの輝く夜明けを我々の上にもたらす(現代英語聖書)、暗黒と死の陰に座っている者たちを照らし、我らの足を平和の道に導く」(78~79)と。

ザカリアと同じように、パウロと同じように、私たちも神を信じ、愛していながらも時として神の言葉への不信仰、不従順の罪を犯し、苦しみ〝私は何と惨めな人間でしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救い出してくれるのでしょうか〟と呻きます。疎外され、孤独で希望も見えず、立ち上がる力も失せて、暗黒と死の陰に座っている人々・私に、我らの神の深い憐れみにより、いと高き天より、御子キリストが訪れて来てくださり、罪の赦しによる救いを与え、神との平和の中に、心安らかに、主に仕える者としてくださるのです。ですから私たちは「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」。〝きよしこの夜〟暗く深い静寂(しじま)の中に生まれ、飼葉桶に寝かせられた〝み子の笑みに、めぐみのみ代の あしたの光 輝やけり 朗らかに〟(照 讃美歌109番3節/78文語訳)と、高らかに讃美するクリスマスでありますように。




ことばは人となって

2013年12月22日 | 説教要旨・クリスマス
ヨハネ1・1~18/クリスマス主日礼拝

クリスマスは真夜中の出来事です。そこからキリスト教会は夜の最も長くなる冬至の時期、夜の暗闇の中で、クリスマスを祝うようになりました。私たちも一年の終りに、来し方をふり返り、新しい年を前にするこの時期に、クリスマスを祝うのです。

私たちの生きる世界、日本の状況は決して快適ではありません。シリア難民は250万人に達し、一年後は450万を数えるだろうと言われます。痛ましく、おぞましい事件(幼児虐待、ストーカー殺人事件 〝自分の所有、支配するのは当然〟 等)が跡を絶ちません。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、貪るな」との言葉は、そのような暗く恐ろしい闇の心を持つ人間に語られた言葉でしょう。そのような黒く蹲(うずくま)る罪の闇が、地獄のような心が、私の内にないでしょうか。ダビデは「死の波、滅び(ペリヤアル)の川(〝悪魔/飲み込む者→誰ひとり這い上れない所〟)、陰府の綱、死の罠」に悩み苦しみ、助けを叫び求めました。すると「主は暗闇を足の下にして、天を押し下げて降りて来られた」。そして「主は大水から私を引き上げ、強い敵から私を助け出された」と主を讃美します(詩篇18・1~19)。

ヨハネは創世記1章を踏まえつつ、永遠の神の「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」と記します。この方こそ主イエス・キリストです。先在の神なる「ことば」によって天地は創造されました。そのとき、神の第一声が混沌と大水と闇の中に響きわたります。「光よ、あれ」。すると光があった(創世記1・1~3)。
この「人の光」なる「ことば」が、ご自分の所有・国に来られたのです。創造主なる神が天を押し下げて降りて来られ、私たちの間にテントを張られたのです。偉大な神がエルサレムの王宮ではなく、最も小さな村ベツレヘムに慎ましく誕生し、飼葉桶に寝かされたのです。それはモーセの律法では救われることができない私たちを、イエス・キリストの十字架の死によって実現する神の恵みと真実によって救うためでした。自ら這い上がることのできない罪の深淵に呻き苦しむ私たちを救うには、神ご自身が栄光の天を押し下げて、最も低く暗い所に降り、住み、死ぬしか術がなかったからです(ここにユダヤ教・イスラム教他とキリスト教の決定的相違がある/律法・行ないによる義か、恵み・信仰による救いか)。

神の時が満ちた二千年前、永遠のことばなるキリストは、闇の深いベツレヘムに人の光として降誕されました。そして今も、この「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」。ここに私たちの希望があります。私たちの生きる世界の現実がどんなに暗く、悲惨であっても、闇は光に打ち勝つことはないのです。私たちの心がどんなに罪に汚れ、醜悪であっても、イエス・キリストは罪を赦し、救い、神の子どもとしてくださり、私の心の内に輝き、住んでくださるのです。




イエス誕生の予告

2013年12月15日 | 説教要旨・クリスマス
ルカ1・26~38/アドヴェント(待降節)主日礼拝

一般に 〝受胎告知〟 と呼ばれるきょうの聖書箇所は、人々の心を捉え、多くの画家が描いています(ダ・ヴィンチ/今年のカレンダー)。また私たちは礼拝において「主は聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれ」と告白します。今朝はイザヤが預言した「それゆえ、主みずからあなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける」(7・14、マタイ1・23 12/1説教)に関係する 〝イエス誕生の予告〟 を学びましょう。

ルカはその福音書を、〝私たちの現実の歴史の中で実現したすべてのことを初めから綿密に調べ、順序立てて書いた〟 と記しています(1・1~4 照1・5、26、2・1~2他)。ルカの師とも言うべきパウロも亦、原福音(創世記3・15)を心に置きつつ、神の御子が現実の歴史の中に、女から誕生されたと記しています(ガラテヤ4・4)。こうして聖書は聖霊による受胎と処女降誕という人間の理解を超えた神の出来事が、歴史の中で現実となったことを告げるのです。

その舞台となったのが異邦人の地ガリラヤの寒村ナザレであり、ユダで最も小さなベツレヘム(照ミカ5・2とマタイ2・6)です。またこのために神が選ばれたのが、ダビデの家系のヨセフという人の許嫁の処女マリアでした。エリサベツが(バプテスマの)ヨハネをみごもって六ヶ月目、神から遣わされた天使ガブリエルはマリアに告げました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられます」。直訳は「喜びなさい。あなたはすでに恵みを受けました。主があなたと共におられます」です。聖書は決してマリアが神と協力して恵みを与えることのできる存在とは言っていません。「主が共におられる」ゆえに、マリアは「恵まれ」、神の子の母となるのです。

天使の「おめでとう(アヴェ(祝された))、マリア」との祝詞にマリアは戸惑い、尋ねます。〝どうしてそのようなことがありえましょう〟。天使は 〝聖霊があなたを覆い、あなたは神の子をみごもり、男の子を産みます。その子をイエスと名付けなさい。神にとって不可能なことは一つもありません〟 と答えます。神が共にあって(インマヌエル)マリアから生まれてくる男の子の名はイエス(主は救い)と呼ばれます。このイエスの誕生こそ、神が私たちを救うために備えられた最も偉大な神の出来事の一つです(考 天使はイエスの誕生、試み、ゲッセマネ、復活の場面に登場)。

処女マリアは 〝恵まれた方〟〝主が共におられます〟 との天使の告げた神のお言葉を聞き、〝戸惑い、考えこんだ〟 のでした。しかし、マリアは言いました。「ほんとうに私は主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と。私たちも、私たちの内に宿ろうとされる主に、また私たちの人生を共に歩き、恵んでくださる主に 〝私は主の僕です。あなたの思し召しのとおり、この身になりますように〟 と応答したく切に祈り願います。




主は身を低くして

2013年12月08日 | 説教要旨・クリスマス
詩篇113・1~9/アドヴェント待降節第二主日/クリスマス伝道礼拝

Xマスって何? Xって何? なぜXマスに誕生ケーキを食べるの? なぜ贈物をするの? サンタクロースって誰? Xマスとはキリスト・ミサ(礼拝)、キリストをたたえることです。

エジプト脱出に関連する(照114・1)詩篇113~118篇は 〝エジプトのハレル〟 (ハレル(ヤ)とは 〝(主を)たたえる・(主を)讃美せよ〟 の意/照135~136大ハレル、146~150小ハレル」)と呼ばれ、ユダヤ教では特に過越し祭の時に歌われました。この栄光の神が、ナザレ人イエス・キリストにおいて、私たちの罪の世界に、私たちの現実の歴史の中に、人として生まれ、共に歩いてくださった主キリスト(照マタイ1・23)を礼拝するのがクリスマスです。

詩人は、〝すべての国々の上に高くいまし、その栄光は天よりも高いこの主を、今よりとこしえまで、日の昇る所から日の沈む所まで、ほめたたえよ〟 と呼びかけます(1~4)。信仰する神を頌めたたえない宗教はありません。しかし、詩人はその信仰する神を次のように讃美します。「誰が我らの神、主のようであろうか。主は高き所に座し、身を低くして天と地をご覧になる」(5~6)と。この主はエジプト脱出の指導者モーセを召すに際し、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。それゆえわたしは下って来た。彼らをエジプトの手から救い出し、約束の地に導き上るために」(出エジプト3・7~8)と仰せられました。

クリスマスとはいと高き所に在す主が、その栄光を 〝投げ捨てて(照147・6)・身を低くして〟 下って来られたことを讃美することです。この主は「弱い者、貧しい人、子を産まない女」(7~9)に代表される人々を「心にかけ」(ルカ1・25)、「目を留めてくださる」(ルカ1・48)お方です。

それゆえパウロは言います。「あなたがたは私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。即ち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたがキリストの貧しさによって富む者となるためです」(Ⅱコリント8・9)。また「キリストは神の身でありながら/神としてのありかたに固執しようとはせず/かえって自分をむなしくして/しもべの身となり、人間と同じようになった/その姿はまさしく人間であり/死にいたるまで、十字架の死にいたるまで/へりくだって従う者となった」(ピリピ2・6~8 フ訳)と初代教会の讃美歌を共にうたいます。

どこに人々の苦しみを確かに見、酷使される人々の叫びを聞き、その痛みを知り、至高の座より下り、人となり、自らを無にして、へりくだって十字架に死ぬまでして人間を顧み、救う神がいるだろうか、〝だれが、われわれの神、主イエス・キリストのようであろうか〟(5/照ミカ7・18)。それゆえ「キリストの貧しさによって富む者となった」私たち「主のしもべたち」は、私たちの救い主イエス・キリストにおいて「身を低くする」主なる神を「ほめたたえる」のです。ハレルヤ! メリー・クリスマス!




ひとりのみどりごが

2013年12月01日 | 説教要旨・クリスマス
イザヤ7・14、9・6~7/ アドヴェント・待降節第一主日 / 聖餐礼拝

アドヴェント・待降節を迎えました。蝋燭を四本立て、毎週一本ずつ灯し、世の光なるキリストが到来されるのを待つ時です。その第一週の今朝は、イザヤの預言を聞き、救い主イエス・キリストの御誕生を想い、主の晩餐に与ります。

イザヤ7・1~17。アラムと北王国イスラエルは反アッシリア同盟に南王国ユダを引き入れようとします。しかし、ユダのアハズ王が躊躇すると、両国はエルサレムを攻撃します。そこでアハズはアッシリアに助けを求めました(前733年)。その中でイザヤは、森の木々が風に揺らぐように動揺している王と民に「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはならない(4)。信じなければ、あなたがたは存続しない(9)」と歴史の主なる神への信仰を求めました(照7)。しかし、信じようとしないアハズに、イザヤは「我らと共に在す神・インマヌエル」預言を告げ(14)、さらに「御顔を隠しておられる方を待つ」人々について預言しました(8・16~18)。

これより約30年後、アッシリア軍がエルサレムを包囲攻撃しました(前701年)。するとユダはエジプトに助けを求めました。その時もイザヤは「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落着いて信頼すれば、あなたがたは力を得る」(30・15)と預言します。

イザヤは怖れと不安の危機の中で、落着いて、静かに主に信頼するとき、人々は力を得、存続することができる、と変わることなく預言したのです。

イザヤ9・1~7。「先に、ゼブルンの地、ナフタリの地は辱しめを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川の彼方、異邦人のガリラヤは栄光を受ける」ことを預言する中で「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる」(6)ことが語られます。ゼブルンとナフタリの地はメソポタミア ― ダマスコ ― エジプトを結ぶ国際幹線道・海沿いの道に沿うガリラヤ地方に位置します。大国の軍隊により絶えず蹂躙され、最終的にはアッシリアによって最初に滅ぼされた地域でした。先には、そのような苦難を被った異邦人の地ガリラヤから、後には、旧約聖書に預言されたように、救い主キリストが御国の福音の宣教を開始されました。こうして「暗闇に座していた民は偉大な光を見、死の地と死の陰に住んでいた人々に、光が昇った」のです(照マタイ4・12~17)。

世界も日本も、私たちの日常も混乱と不安が覆う日が少なくありません。シリアの内戦は終りが見えません。東日本大震災からの復興も、原発事故の処理も遅々としています。高齢化社会の抱える問題も深刻です。生きること、死ぬことは容易ではありません。「御顔を隠しておられる」(8・17)ように思える主は、しかし、あの混沌の暗闇の中に「光よ、あれ」と仰せられた主です(創世記1・1~2)。その同じ主が「暗闇と死の隠に住む」私たちを照らし救うために、「ひとりのみどりご」、インマヌエル(私たちと共にある神)として人となり、飼葉桶に寝かせられたのです。




救い主がお生まれになった

2012年12月23日 | 説教要旨・クリスマス
ルカ2・1~20/アドヴェント第四聖日/クリスマス主日礼拝

「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになった」(11共)クリスマスの出来事は、旧約聖書に連綿として預言されてきた救い主(メシア)(照創世記3・15他)が、人間の歴史の中に現実に人となられた(照ヨハネ1・14/ガラテヤ4・4)ことを物語っている。それは皇帝アウグストゥス(在位前31~後14年)が人頭税を徴収するために、ローマ世界全体に住民登録をせよという勅令を発布した「その頃」の「きょう」のことであった。

臨月のマリアは100㎞余の危険な旅を余儀なくされ、故郷ベツレヘムの馬小屋で、「男子の初子を産み、布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」。この世の権力者と人々の欲望と冷酷さゆえの馬小屋での救い主の誕生であり、飼葉桶の床であった。しかし、こうして 〝救い主(キリスト)はベツレヘムで生まれる〟 との預言は成就した(照マタイ2・4~6)。「人の心には多くの計画がある。しかし、主のはかり事だけが成る」(箴言19・21)。そして「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝道者3・11)。クリスマスの出来事は、私たち人間の罪と思惑、困難と悲しみを越えて、神の御意思は必ずや実現することを教え、この摂理の神=歴史の主への信仰に生きるよう諭している。

当時のユダヤでは、移動して羊を飼い、異邦人の地にも行き、安息日を守れない羊飼いたちは 〝汚れている〟 と軽蔑されていた。そのような羊飼いたちが、野宿しながら夜通し羊の群の番をしていたとき、主の天使が現われ、主の栄光が照らしたので「彼らはひどく恐れた」。聖なる神の光に照らされるとき、罪の中に座す人間は恐れ戦くしかない。その彼らに御使いは「恐れるな。わたしはこの民全体(全人類)のためのすばらしい喜びを知らせに来た(エウァンゲリゾマイ))」と言う。なぜ恐れなくていいのか、なぜ素晴らしいのか。「(なぜならば)、きょうダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった(からです)」(照マタイ4・15~17)。この救い主は、皇帝に代表される政治的な主・救い主ではなく、旧約聖書に預言されてきた「主メシア(キリスト)」である。

この救い主が、羊飼いたちに代表されるあなたがた全人類のためにお生まれになった。日常の現実生活の中で、律法を遵守しようと思っても守り行なえない羊飼いたち=私たちのために約束の「救い主はお生まれになった」のである。その乳飲み子が「布にくるまって飼葉桶に寝ておられる」ことこそ、この方が救い主、主キリストのしるしであった(考ヨハネ19・30)。

羊飼いたちはみどりごを捜し当て、見聞きしたことが全部天使の話したとおりだったので、「神を崇め、讃美しながら帰って行った」。羊飼いたちは「飼葉桶に寝ておられるみどりご」を礼拝した。そのとき、彼らはこの方こそ、ありのままの自分たちを受け入れ、罪を赦し、生かしてくださる救い主である、ことを知った。だから彼らは喜び「讃美しながら」、神が召してくださっている自分たちの仕事に「帰って行った」。このクリスマスが、あなたの心に救い主がお生まれになり、あなたがキリストを礼拝し、またあなたが主イエス・キリストと共に歩く人生の出発のときとなりますように祈ります。




主が目を留めた人

2012年12月16日 | 説教要旨・クリスマス
ルカ1・39~55/アドヴェント第三週/待降節礼拝

来年の教会カレンダーの絵は、フラ・アンジェリコの「告知」です(照1・26~38)。受胎告知から程ならずして、マリアは山地にあるユダの町に、エリサベツを訪ねました(39~45)。その時、マリアが「主をあがめ・・・・・・救い主なる神を喜びたたえた」歌が、〝マリアの讃歌〟 です(40~55)。

マリアが主をあがめ((ラ)マグニフィカート)、讃美するのは、「主がこの卑しいはしために目を留めてくださったからです」。「卑しい」とは「低い」「陽のあたらない」「存在する意義のない」等の意味を持つ言葉です。ダビデの子孫でありながら異邦人のガリラヤ地方の寒村ナザレに住んでいたマリア(26~27)のみならず、私たちも自分の存在の意味が見出せない、「卑しいはしため」であることを経験してはいないでしょうか。そのマリアは続けます。「主はこの卑しいはしために目を留めてくださった」(新改・共・口)「主は、その婢女の卑しきをも顧み給えばなり」(文・フランシスコ会)と。この世は、私たちは偉い人、一番の人に注目します。しかし、聖書の神・主は卑小なる存在に目を留めたまいます。マリアはそのような「救い主なる神を喜び称える」のです。

アブラハムの妻サラの女奴隷であったハガルは、傲慢さのゆえにサラの許から逃走しました。荒野の泉のほとりで彼女を見つけた主の使いは「女主人の許に帰り、身を低くしなさい」と命じ、同時にイシュマエルの誕生とその子孫の繁栄を予告しました。それは主がハガルの苦悩を聞かれたからでした。その時、ハガルはこの主を「エル・ロイ=私を顧みられる神」と呼びます(創世記16・3~13共)。

詩人は、いと高きに在す主は、身を低くして天と地を御覧になる、と歌います(113・1~9)。己を低くし、私たちの心の底に分け入ってまで主が目を留めたもうのは、「弱い者」「貧しい者」「子を産まない女」に代表されるような存在意味を見出せない人々です。

クリスマスとは「卑しい婢女」、存在意味を見出せない小さく弱い存在(もの)に、至高者なる主が、身を低くして目を留め、低い者を高く引き上げてくださった出来事です。力ある方が卑小な存在(もの)に偉大なことをしてくださったことを喜び称える時です。

人となった御子イエス・キリストにおいて私たちを御覧になる神=エル・ロイ、卑しいはしために目を留めてくださる主は、ハガルを、マリアを顧みてくださったように、今日も自分の存在意味を感じられず、苦悩する人の許に身を低くして顧みてくださるのです。私たちには各々、自分ではどうすることもできない過去があり、卑しさがあります。しかし、飼葉桶に寝かせられ、十字架に死なれた「わが救い主なる」イエス・キリストの神は、このような卑しい私にも、やさしいまなざしをもって顧みてくださるのです(照22・61)。それがクリスマスにおいて私たちに明示された主なる神のあり方です。この神の愛の現れである救い主イエス・キリストを心に宿すクリスマスとなりますように。




罪人を救うために

2012年12月09日 | 説教要旨・クリスマス
Ⅰテモテ1・15/アドヴェント第二週聖日/伝道礼拝

アドヴェントと同根の語にアドヴェンテュアという言葉があります。神の独子「キリスト・イエスが世に来られた」という出来事は、神の冒険であり、神は自ら危険を冒してこの世に、私たちの間に、人となられたことを物語っています。

パウロの晩年の手紙である本書簡で、彼は澄んだ目で人生を振り返り、若いテモテに「神の家(教会)でどのように行動すべきかを」(3・15)書き送っています。きょうの文脈をパウロは「私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげる」ことから始めます(12)。〝感謝する〟 ことは 〝考える〟 ことなしにはありません。〝ありがとう〟 は 〝当り前〟 と思う心からは発せられません。パウロが感謝するのは「以前は神を◯す者、迫害する者、暴力を振るう者」であった彼が、「憐れみを受け」、「キリスト・イエスにある信仰と愛と共に、主の恵みがあふれるほど与えられた」からです。

それ故、老パウロは「『キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られた』という言葉(照マタイ9・13)は真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人の頭です」と、人生を振り返り、告白します。彼はあのダマスコ途上の出来事の前後のことを思い出していたことでしょう(照 使徒8・1~3、9章)。そして「そのような私が憐れみを受けた」(16)、そのような私に「主の恵みがあふれるほど与えられた」(14)と証言します。パウロは「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」(使徒9・4)との声に、十字架上の主イエスの「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23・34)の言葉を聞き取ったのです(照13)。

さらに 〝罪人の最たる者であった私が、キリスト・イエスにある溢れるばかりの憐れみ・恵みに浴したのは「今後イエス・キリストを信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしよう」と主がなさったことである〟 と記すとき、パウロは犯罪人への「まことに、あなたに告げます。あなたは今日わたしと共にパラダイスにいます」(ルカ23・43)との十字架上の主イエスの言葉を聞いていたのです。こうしてパウロは自分の恐ろしい罪を俎上に載せながら、その罪過を凌駕するキリスト・イエスにある溢れるばかりの主の憐れみ・恵みを思い、深甚の感謝を捧げているのです。そのようにしてパウロは、どんな人でも主イエスは救ってくださること、また私たち教会がすべきことは、自分の罪を忘れず、キリストの福音を宣べ伝えることである、と教えているのです。

キリスト・イエスは、栄光の御国から罪の世に人となり「飼葉桶に寝かせられた」(ルカ2・7)。そして「枕する所のない」(ルカ9・58)30年余の聖き生涯を送り、十字架に「頭を垂れて」(ヨハネ19・30)死に、「罪人を救うため」の危険に身をさらした旅を終えられ、復活し、天に昇り、神の右の座に着かれた。この神・キリストに「誉れと栄えとが世々限りなくありますように。アーメン」(17)。




わたしは来た、そして来る

2012年12月02日 | 説教要旨・クリスマス
マタイ5・17~20/アドヴェント第一週聖日/聖餐式

アドヴェントとは、〝何かが起って来る(ラテン語advenire:アドウェニーレ)〟 に由来し、皇帝などが征服した町に入城するときに行なった儀式を言った。キリスト教会ではキリストの 〝出現/到来〟 を言い、クリスマス前の四週間を指す。
 
かつて主イエスはユダヤ人たちに「あなたがたは(旧約)聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、(旧約)聖書を調べています。その(旧約)聖書がわたしについて証言しているのです」(ヨハネ5・39)と言われた。旧約聖書は、人間(アダム)が罪を犯すと同時に、神は、女の子孫が悪魔を打ち滅ぼすと告げ、その人間たち(アダムとエバ)のために「皮の衣を作り、着せてくださった」(創世記3・15、21)と預言し始め、繰り返し、メシアの到来を予告した。新約聖書は、約束のとおりメシア=キリストが来られたこと、そして行なわれたことを記し、さらに、やがてまた来られることを予告している。
 
ここで主イエスは「わたしは来た」と二回言われている。何処から「来た」のか。聖書は「主は遠くから、私に現われ、永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」と記している(エレミヤ31・3)。神と共にあった「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1・14)。「来た」目的について、主は「律法や預言者を廃棄するためではない。成就するため」と言われる。〝律法を成就し、確立する〟 ために来られた主イエスは、神の御意思を示し、求めている律法を実行できない私たちに代わって、十字架の死に至るまで従順に従うことによって、律法の要求を満たし、私たちを救ってくださった。
 
「さまざまの規定から成り立っている戒めの律法」(エペソ2・15)を、細大漏らさず守り行なっていると自己の義を主張していたのが、律法学者やパリサイ人であった。しかし、主は彼らが律法の中で最も重要な正義、憐み、誠実をおろそかにしていると、厳しく彼らを批判された(照マタイ23・23)。その律法学者やパリサイ人にまさる義とは、イエスが完成し、私たちの内に実現してくださった信仰による義である。だから「『キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られた』・・・・・・私はその罪人の頭です」(Ⅰテモテ1・15)と告白したパウロは「あなたがたは恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。・・・・・・良い行ないをするために、キリスト・イエスにあって造られたのです」(エペソ2・8~10)と述べた。この救われた人(キリスト者)に、主は新しい戒め・愛の律法を与えられた(ヨハネ13・34)。
 
十字架に死に、復活、昇天されたこの救い主イエス・キリストは「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」(使徒信条)。キリストがすべてを裁くために再び来たりたもう前に、人となった神イエス・キリストの聖い生涯と十字架の死による贖いを信じ、罪を赦された人は、再臨に伴う終わりの裁きに遇うことはなく、天の御国に救い入れられる。しかし、イエス・キリストを信ぜず、十字架の恵みの救いを拒絶する人は、終りの裁きを免れることはできない。「わたしはすぐ来る」と言われる主に「アーメン。主よ、来てください」と祈る者とされましょう(照 黙示録22・20)。




星に導かれて

2011年12月25日 | 説教要旨・クリスマス
マタイ2・1~12/クリスマス・降誕祭礼拝

東日本大震災の年(照アモス1・1、ゼカリヤ14・5)として記憶されていくであろう二〇一一年のクリスマスを迎えました。あの三月十一日から一週間ほどして、ひとりの高校生とその祖母が三百mほど流され、崩壊した自宅二階から救出されました。その時、〝お祖母ちゃんを先に救出してください〟と言った少年は、後に 〝崩れた家の材木や屋根の隙間から、星が美しく見えた〟と語ったと報道されました。揺れ動く大地に震われ、押し寄せる大津波に呑み込まれ、暗く冷たい死の淵にあって、少年は凍てつく漆黒の闇の中に輝く悠久の星を見、美しいと感じたのです。荒涼とした被災地の上を重く暗く覆う闇の中に輝く星が、少年に感動を、生きる力を与えたのです。

新約聖書の巻頭の書マタイ伝は、「ヘロデ大王の時代に」、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」の「星に導かれて」、東方の博士たち(異邦人)がエルサレムに来、そしてベツレヘムに行き、「母マリアと共におられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ」というクリスマスの出来事を記し、新しい時代、新しい価値観の世界が到来したことを告げます。

クリスマス・ツリーの頂には「その方の星」イエス・キリストを象徴する星が飾られます。東方の博士たちに王なる救い主の誕生を告げ、その旅路を先導し、ベツレヘムの幼子の許に到らせたのは「その方の星」でした。私たちの進むべき方向、歩むべき道、留まるべき所をはっきりと教えるのは「その方の星」です。

ユダの中で一番小さな村ベツレヘムの幼子のおられる所の上空に留まった「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ」(直訳「非常に大きな喜びを喜んだ」)。彼らはその家に「母マリアと共におられる幼子を見た」のです。「人となって、私たちの間に住まわれた」ことば(ヨハネ1・14)、そして「神が私たちと共におられる」こと、即ち「インマヌエル」(照1・23)の出来事・クリスマスを喜んだのです。

「喜びにあふれた」(共)博士たちは、「母マリアと共におられる幼子」を「ひれ伏して拝んだ」。神が人となってくださった。王がキリスト・救い主として来てくださったことの喜びは、〝大地に身を投げ出して、ひれ伏して拝む〟(2、8、11節)という礼拝によってしか表わせなかったのです。これが「クリスマス=キリスト礼拝」です。

イスラエルの最大、最後の繁栄のヘロデの時代は、抑圧された悲惨な時代でした。知識を誇り、科学万能信仰を推し進め、経済性のみを追及し、物質文明に酔ってきた世界に、日本に、私たちに、東日本大震災はそうした世界観・価値観の転換を迫ったのではありませんか。人間は神・創造主ではない。私たちと世界は被造物であることを正しく認識するよう促されているのではないでしょうか。

二〇一一年のクリスマスに、私たちは改めて「その方の星を」仰ぎ、「星に導かれて」日々を歩いていきたいと祈り願います。




光は闇の中に輝いている

2011年12月24日 | 説教要旨・クリスマス
ヨハネ1・5、14/マタイ4・16/聖夜燭火讃美礼拝

東日本大震災の年(照アモス1・1、ゼカリヤ14・5)として記憶されていくであろう二〇一一年のクリスマスを迎えます。あの三月十一日から一週間ほどして、ひとりの高校生とその祖母が津波により三百㍍ほど流され、崩壊した自宅二階から救出されました。その時、〝お祖母ちゃんを先に救出してください〟と言った少年は、後に 〝崩れた家の材木や屋根の隙間から、星が美しく見えた〟と語ったと報道されました。揺れ動く大地に震われ、押し寄せる大津波に呑み込まれ、暗く冷たい死の淵にあって、少年は凍てつく漆黒の闇の中に輝く悠久の星を見、美しいと感じたのです。荒涼とした被災地の上を重く暗く覆う闇の中に輝く星が、少に感動を、生きる力を与えたのです。

あの三月十一日の大地震と津波、そして原発事故。二万人の死者・行方不明者。故郷と家と日常を失った人々。そして今、人々は厳しい冬を迎えています。この年、この教会においても、数人の方々が親、子供、兄弟など身近な人々を送られました。厳しく難しい病いに罹った方々、思いもしない事故に遭った方々もいます。悲しく、重苦しい二〇一一年です。

そのような中、今宵二〇一一年のクリスマス・イヴに、私たちは聖夜燭火讃美礼拝を捧げつつ、特別な思いをもって、この夜を過ごしています。それは、クリスマスは夜が最も長く、深くなる冬至の頃の夜の出来事だからです。ベツレヘムの野にあった羊飼いたちは、夜の静寂の中で救い主キリストの降誕の知らせを聞きます。東方の博士たちは夜空に煌く星を見て、救い主の誕生を知り、その星に導かれて幼子キリストを礼拝します。

ヨハネも亦、「すべての人を照らす真実の光」、永遠の神の「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みと真実に満ちておられた」(1・9、14)と記します。ヨハネは「世の光・人の光」なる神の御子が、罪と悲惨に満ちた暗黒のこの世界に来て「住まわれた」と記します。天に住み給う神の御子が、地に下りて来て、慎ましやかに「テントを張られた」のです。それがクリスマスです。ヨハネはそこに「父の御許から来られたひとり子らしい栄光を見た」(前田護郎訳)のです。そして「この方は恵みと真実に満ちておられた」と証言しているのです。

このお方は大震災に遭い、苦難の中にある日本に、また内なる罪と悲しみに苦しむ人々に、優しく、慎ましく寄り添ってくださいます。そして暗く沈む私たちの心に宿ってくださいます。「この方の星」は、大震災直後の荒涼とした被災地を覆う漆黒の夜空に、少年が見た美しい星のように、今、冬の鉛色の雪雲が重く垂れ込める被災地の上に留まっているのです。なによりも、悲しみと不安、孤独の中にある人々の心の中に、人の光なる主キリストは宿り、共に生きてくださいます。そのようにして暗く冷え切った私たちの心を照らしてくださいます。「暗闇の中に座っていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰に座っていた人々に、光が上った」(マタイ4・16/ルカ1・78~79、2・30~32)とあるとおりです。

キリスト教会はどんな時でもクリスマスを大切に祝います。いえ、私たちを取り巻く状況が暗く、困難であればあるほど、クリスマスを深く思い、幼子キリストを静かに、敬虔に礼拝します。それは神が、罪と暗闇のこの世界に、私たちの如何ともし難い心の闇と苦悩のために、ひとり子を賜わったからです。そのようにしてそのお方が「テントを張って」私たちと一緒に生きてくださるからです。この救い主イエス・キリストを仰ぎ見る時、私たちは感動を受け、希望の力を与えられ、生きていけるのです。

今宵も「光は闇の中に輝いています」。「世の光」なる主イエス・キリストを共々に頌め歌いましょう。




マリヤの讃歌

2011年12月18日 | 説教要旨・クリスマス
ルカ1・46~55/アドヴェント待降節4

ルカは全24章の中、イエス・キリストの誕生に関して2章を費やし、神の約束・お言葉は必ず実現すると記します。 〝マリアの讃歌〟(この讃歌はラテン語訳の最初の言葉からマグニフィカート(「崇める」)と呼ばれます)はそのことを高らかに謳います。時と所と環境を大きく隔てた二〇一一年の日本に生きる私たちも、〝マリアの讃歌〟を心から歌い「主をあがめ」、きょうの待降節の礼拝を捧げたいと祈り、願います。

「わが魂は主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます」とマリアが語る理由は「主はこの卑しいはしために、目を留めてくださったからです」。「卑しい/身分の低い(共)」とは単に社会的・経済的な低さ、或いはハンナ(照Ⅰサムエル1・11)やエリサベツ(照ルカ1・25)のように子供を産めない苦しみだけではなく、聖なる神の御前における私たちの罪深さ・卑小さ・低さ・暗さ等々を含意していましょう。それは現実には人生と自分の存在に意味を見出せず、「暗黒と死の陰にすわる者たち」(79)のことでもありましょう。そしてマリアもそうした苦しみを知っていたのです。

そのようなマリアに「主は・・・・・・目を留めてくださった」のです。天地の造り主、闇の中に光を創造された「力ある方」が、卑小な「私に偉大なことをしてくださった」のです。この神の顧み・偉大な御業こそがマリアにとり救いであり、福音だったのです。ですからマリアは自分の卑小さを知りながら、自分の全存在(魂・霊)をもって、この「主をあがめ・・・・・・救い主なる神を喜びたたえる」のです。これが 〝マリアの讃歌〟です。

これはマリアへの讃歌ではありません。マリアが救い主なる神を「あがめ」頌えているのです。「あがめる(メガルーノー)」とは本来「大きくする」との意味です。ですから「主をあがめる」とは天地の創造主が、塵にも等しき卑小なる被造物である私に目を留めて、偉大なことをなしてくださったことを知り、喜び礼拝することです。そして、この 〝マリアの讃歌〟をマリアと共に歌うために、私たちは自分がどんなに罪深い存在であるかに気付き、また、力と憐れみの主なる神が私たちを顧みてくださっているかを知り、信じたいと切に願います。

クリスマス・降誕祭は高きに在す栄光の神が、低きに住む私たちの所に下って来て、私たちの間に宿ってくださったときです。その前のアドヴェント・待降節は主がしてくださったこのクリスマスの偉大な出来事に思いを馳せながら、私たちに注がれているこの神の眼差しを仰ぎ、見つめる時です。主の目は正しくこの世界と私たちを見張り、戒められます。同時に、主はやさしく私たちに目を留め、憐みをもって見守ってくださいます。世界も、日本も、私たちもつらく悲しい事柄のあった二〇一一年でした。しかし、大いなる神はイエス・キリストを通して、今もこの世界を、日本を、そして卑しい私を、変わることなく正しく、やさしく目を注いでくださっているのです。その眼差しの中に待降節の日々を歩み、来聖日、クリスマスの日の朝、飼葉桶の小さき幼子、私たちの救い主なる神イエス・キリストをあがめ、喜びたたえましょう。