香柏だより

福岡市東区の香椎バプテスト教会です。
聖書の言葉には、ひとを生かす力があります。
礼拝では手話通訳もあります。

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ごきげんよう

2016年05月24日 | ご案内
長らくご愛顧戴いた
「香柏だより」も、
今日で最後となりました。

9年にわたり、
香椎バプテスト教会の説教要旨を中心に、
その後教会の紹介や
祈りのようなもの、
お薦めできる本や放送などを
多くお届けすることが許されたことを、
感謝します。

そして、お読みになった皆さま、
ご愛読、ありがとうございました。





教会は変わりつつあります。
それはまた世の常でもありますが、
世のものではないところには、
きっと変わらないものがあることでしょう。

神の息が吹きかけられ、
神の声に呼びかけられ、
神の霊が流れていれば、いのちがあります。

もし、そうでなければ、
いのちはありません。

皆さま一人ひとりに、
そのいのちがつねに注がれていますように、と願います。
ごきげんよう。
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渾身の説教

2016年05月23日 | パンくず (礼拝余録)
22日の礼拝説教は、ルカ18章、
森山牧師のモットーとも言える箇所から。
幾度も説教に登場するエピソードですが、
それを真正面から取り上げなければならない、
いまという時を見据えてのことでした。

パリサイ人は、「心の中で」他を見下すような祈りをしました。
「心の中で」は「自分自身に向かって」のような表現です。
あるいは、「自分自身の利益のために」のニュアンスも強い語です。
自分を目的としているようすが窺えます。

祈りが、自分のためというものではないことを
この譬えは同時に描いているとも言えるでしょう。

隠れた神に祈ること。
ことば数の多少が問題ではないこと。
もちろん、流暢であるかどうかも含めて。

一方、罪人と自他共に認める取税人という立場の人は、
他人を見たり他人と比較したりせず、
まして他人を悪く言うことなどせずに、
ただ神に祈るのでした。
「あわれみたまえ」と。

「取税人」と口にした瞬間、
私たちはそれを「他人」と見なしてしまいます。
この世で「小さくされた」人々、とある人たちは呼びます。
社会的に虐げられた人々、権利を無視される人々、
弱い立場の人々、病気の人々、障碍のある人々、
貧困の中にある人々、「このような者たち」が、
イエスの注目した人々でした。
そして、イエスは「このような者たち」になったのです。





自分を目的としての考え・発言・行動は、
最も神の心から遠く離れたものだ、と説教は結びました。
神が主体であって、神が人を義とするということが語られました。

森山牧師の、渾身のメッセージであるとして受け止めました。
心に深く刻まれました。
私の信仰と、たがわないメッセージに、
司会者としては、感無量でした。
感謝でいっぱいです。
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こんな罪人の私を憐れんでください

2016年05月22日 | 説教要旨・こんな人になりたい
ルカ18・9~14/こんな人になりたい(1)

イエスが「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者にたちに対して」語られたこの譬え(照ルカ5・30、15・2)は、神の前に、自己義認こそ最大の誤りであること、また、神は憐みを求める罪人をこそ義とされるという福音の中核を教えています。

「分離」を意味する「パリサイ」人は、律法を守り行わない罪人、ローマの手先になり同胞より定められた額以上の税金を取り立てる取税人等から離れることによって、自分を特別な者とし、自分を義人だと自任していました。「自任する」の直訳は「自分自身を信頼する」ことです。パリサイ人は自分が他の人々のように、盗む者、不正な者、姦淫する者、特に取税人のようでないことを、神に感謝し、祈ります。それからユダヤ人の義務である年一度の贖罪日だけでなく、週に二度(月・木)も断食していること(照レビ23・27~29)、献げる義務のないものまでも、その十分の一を献げていること(照レビ27・30、申命記14・22)を、神に告げ、自分の功徳を吹聴するのです。

 「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸を叩いて言った。『神さま、こんな罪人の私を憐れんでください』」。自分が神の御前にも、社会においても、どうすることもできない卑しい人間であることを正直に認める取税人は、ただ遠く離れた所に立ち、喪中の人のように胸を打ちながら、罪以外に何もない自分自身を曝け出し、憐れみを乞うしかなかったのです。その時、取税人は他人を見ず、他人と比較せず、他人を悪人に仕立てず、ただ神に頼り縋り、呻くのです。

「義とされて家に帰ったのはこの人であって、あのパリサイ人ではありません」とのイエスの言葉は、聞いていた人々を驚かせたに違いありません。何故なら、ローマのために同胞から税を取り立て、その一部を横領する売国奴、また律法を守らない不浄な罪人である取税人が義とされ、自分を他人から分離し(パリサイ)、「律法による義についてならば、非難されるところのない」(ピリピ3・6)と、自他共に真に宗教的な人と見られていたパリサイ人が退けられ、自他共に罪人と認められる取税人が義とされたのですから。

この逆転の理由は何でしょうか。それはパリサイ人が他人に比べて自分の立派さを数え上げ、誇り(註・11、12節の)、真の祈りをせず、自分自身に(「心の中で」)祈ったのに対し、取税人は自分の罪に押し潰され、人ではなく、神から見られている自分を知り、目を天に向けることもできず、ただ自分の胸を叩き、呻き言わざるを得ませんでした。神は、彼のこの呻きの中に信仰を見、彼を義とし、彼を受け入れ、罪を赦して下さったのです(照 詩51・17)

聖書に一貫して教えられているこの真理、即ち自己義認ほど神から遠く離れたものはないこと、また人を義とされるのは神であること(照ローマ4・5、8・33)を主はこの譬えをとおして明白に語られるのです。



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いばる心とけなす心

2016年05月22日 | CS (教会学校)
イエスさまのお話は福音書に記録されていますが、
その目的がはっきり書かれてあることは案外珍しく、
ここでは、
自分を正しいと自分で決め、
他人を見下している人たちに対して話した、

と書かれています。

二人の人を想像してください。

一人は、パリサイ人といって、
きまりを立派に守って生活している人です。
生活に余裕がある人であったとも思われます。
この人が、神殿で胸を張ってお祈りをしました。
「私はちゃんと神様のきまりを守っています。
 横にいる人のようにそれの守れない人でないので、
 感謝します」

その横にいたのは、取税人といいました。
仕事の関係で、神様のきまりどおりに生活できません。
ユダヤ人の仲間からお金をごまかし取るような仕事で、
ユダヤ人からは嫌われ、悪人と呼ばれていました。
この人も祈りました。うつむいたままでした。
「私には罪があります。
 神さま、私をゆるしてください」





イエスさまは、
神さまが「あなたのほうがいい」と言ってくださったのは、
この取税人のほうだった、と説明しました。
自分で自分を偉いと自慢する人を、神は悪く思う。
自分はだめだと小さくしている人を、神は大切にしてくださる。

ひとにバカにされると、悔しく思うでしょう。
自分はダメだと辛く思うときがあるでしょう。
けれども、そこで相手にやり返したり、
ざまあみろと攻撃したりするのを、ちょっと待ってみましょう。
ひとの前で恥をかかされたとしても、
神さまは見ています。
神さまは、弱い私たちのことを、ちゃんと分かってくださいます。

そして、このことから、
神さまの救いというものについて、
もっと深く、広く、考えてみるとよいでしょう。
聖書の大切なメッセージが、
伝わってくるように思えるからです。
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香椎バプテスト教会です。

2016年05月21日 | ご案内


福岡市東区香椎の「香椎バプテスト教会」です。
 単立のプロテスタント教会です。
 
森山健也牧師から、聖書に根ざしたメッセージが取り次がれます。
 まさに聖書は、いのちのことば。聞くだけで、元気が出ます。

聖書は、新改訳聖書を用いています。
 通常、讃美は「讃美歌」を用いています。
 
「手話」の同時通訳が常時行われています。

〒813-0012 福岡市東区香椎駅東1-12-37  Phone:(092) 671-1149
 香椎高校の北側にあります。JR香椎駅から徒歩4分ほどです。


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