ピリピ4・14~23/ピリピ(14)最終回
手紙の最後の部分で、パウロはピリピ教会の人々に贈物への感謝を述べます(10~20)。その前半(10~13)は前回「足るを知る」と題し、説き明かしがありました。今日はピリピ書連講の最終回として4章の残りの部分を読みましょう。
パウロは「それにしても、よくも」ピリピ教会の人々よ。あなたがたは「最初の日から今日まで、福音を広めること」(1・5)、「福音の信仰のために共に戦い」(1・27)、私の宣教の働きに伴う苦しみを共にしてくれました、と感謝を表明します。「私が福音を伝え始めた頃」とは使徒16章に記されているヨーロッパ・ピリピでの最初の宣教を指しています。帝国の都ローマを目指すパウロの宣教(照 使徒19・21)は、ここに第一歩を踏み出したのです(エグナチア街道→アッピア街道)。パウロがピリピを発ち「テサロニケに行った時にさえ(直ぐに)」(使徒17・1)、ピリピ教会はパウロの窮乏を補うために「一度ならず」贈物をしてくれました(16)。また、パウロがマケドニア州を出て行った時も、やり取りしてパウロの働きを共にしてくれた教会はピリピ教会以外にはありませんでした(15 照Ⅱコリント11・9)。パウロはピリピ教会に福音を与え、その代価として贈物を受けたと考えているのです(照Ⅰコリント9・11)。
「私は贈物を求めているのではありません」と慎重な物言いの後、パウロは「私が欲しいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福(果実)なのです」(17)と祈りを込めて語ります。「果実」=「利子」という経済用語を使って、パウロはピリピ教会の惜しみない贈物(投資・義の業)が、終わりの日に豊かな実り(利益)となるよう願っているのです。そして、「私はすべての物を受けて豊かになっている。エパフロデトからあなたがたの贈物を受け取って(領収して)、私は満たされている」と贈物がパウロの必要を十二分に満たしただけでなく、「贈物は香ばしいかおり、神が喜んで受けてくださる供え物です」(18)と言います(照ロマ12・1)。19節は、ピリピ教会の人々は貧しさの中にもパウロを支援したことを示唆しています(照Ⅱコリント8・1~5)。そして「私の神」は、私の必要を満たすだけでなく、ピリピ教会の人々の物質的な、霊的なすべての必要を、その富に従い、栄光の中に、キリスト・イエスにあって満たしてくださる、と言います(照Ⅱコリント8・9)。そして、「栄光」に導かれた突然の頌栄(20 照ロマ11・36、16・27、ガラテヤ1・5)には、ピリピ書全体の喜びが流れています。頌栄は人が神の栄光を増し加えることではなく、人はただ神の栄光を認め、それに服することを教えています。「アーメン(「確かな」→「堅固である」を意味)である方」(黙示録3・14)、「私たちの父なる神に御栄が永遠にありますように。アーメン」。
結びで、ピリピ教会の「キリスト・イエスにある全聖徒に」、パウロは共にいる兄弟たち・聖徒全員、特にカイザルの家に属する人々(広義で皇帝に仕える人々)からの「よろしく!」との挨拶を記し(21~24)、最後に祝福の言葉を述べます。祝福の言葉は多少の言葉使いの相違はあっても、パウロのすべての手紙の末尾に共通して記されています。「どうか、主イエス・キリストの恵みがあなたがたの霊と共にありますように」(23)。

手紙の最後の部分で、パウロはピリピ教会の人々に贈物への感謝を述べます(10~20)。その前半(10~13)は前回「足るを知る」と題し、説き明かしがありました。今日はピリピ書連講の最終回として4章の残りの部分を読みましょう。
パウロは「それにしても、よくも」ピリピ教会の人々よ。あなたがたは「最初の日から今日まで、福音を広めること」(1・5)、「福音の信仰のために共に戦い」(1・27)、私の宣教の働きに伴う苦しみを共にしてくれました、と感謝を表明します。「私が福音を伝え始めた頃」とは使徒16章に記されているヨーロッパ・ピリピでの最初の宣教を指しています。帝国の都ローマを目指すパウロの宣教(照 使徒19・21)は、ここに第一歩を踏み出したのです(エグナチア街道→アッピア街道)。パウロがピリピを発ち「テサロニケに行った時にさえ(直ぐに)」(使徒17・1)、ピリピ教会はパウロの窮乏を補うために「一度ならず」贈物をしてくれました(16)。また、パウロがマケドニア州を出て行った時も、やり取りしてパウロの働きを共にしてくれた教会はピリピ教会以外にはありませんでした(15 照Ⅱコリント11・9)。パウロはピリピ教会に福音を与え、その代価として贈物を受けたと考えているのです(照Ⅰコリント9・11)。
「私は贈物を求めているのではありません」と慎重な物言いの後、パウロは「私が欲しいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福(果実)なのです」(17)と祈りを込めて語ります。「果実」=「利子」という経済用語を使って、パウロはピリピ教会の惜しみない贈物(投資・義の業)が、終わりの日に豊かな実り(利益)となるよう願っているのです。そして、「私はすべての物を受けて豊かになっている。エパフロデトからあなたがたの贈物を受け取って(領収して)、私は満たされている」と贈物がパウロの必要を十二分に満たしただけでなく、「贈物は香ばしいかおり、神が喜んで受けてくださる供え物です」(18)と言います(照ロマ12・1)。19節は、ピリピ教会の人々は貧しさの中にもパウロを支援したことを示唆しています(照Ⅱコリント8・1~5)。そして「私の神」は、私の必要を満たすだけでなく、ピリピ教会の人々の物質的な、霊的なすべての必要を、その富に従い、栄光の中に、キリスト・イエスにあって満たしてくださる、と言います(照Ⅱコリント8・9)。そして、「栄光」に導かれた突然の頌栄(20 照ロマ11・36、16・27、ガラテヤ1・5)には、ピリピ書全体の喜びが流れています。頌栄は人が神の栄光を増し加えることではなく、人はただ神の栄光を認め、それに服することを教えています。「アーメン(「確かな」→「堅固である」を意味)である方」(黙示録3・14)、「私たちの父なる神に御栄が永遠にありますように。アーメン」。
結びで、ピリピ教会の「キリスト・イエスにある全聖徒に」、パウロは共にいる兄弟たち・聖徒全員、特にカイザルの家に属する人々(広義で皇帝に仕える人々)からの「よろしく!」との挨拶を記し(21~24)、最後に祝福の言葉を述べます。祝福の言葉は多少の言葉使いの相違はあっても、パウロのすべての手紙の末尾に共通して記されています。「どうか、主イエス・キリストの恵みがあなたがたの霊と共にありますように」(23)。
