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香柏だより

福岡市東区の香椎バプテスト教会です。
聖書の言葉には、ひとを生かす力があります。
礼拝では手話通訳もあります。

贈り物への感謝と祝福

2010年11月14日 | 説教要旨・ピリピ書連講
ピリピ4・14~23/ピリピ(14)最終回

手紙の最後の部分で、パウロはピリピ教会の人々に贈物への感謝を述べます(10~20)。その前半(10~13)は前回「足るを知る」と題し、説き明かしがありました。今日はピリピ書連講の最終回として4章の残りの部分を読みましょう。

パウロは「それにしても、よくも」ピリピ教会の人々よ。あなたがたは「最初の日から今日まで、福音を広めること」(1・5)、「福音の信仰のために共に戦い」(1・27)、私の宣教の働きに伴う苦しみを共にしてくれました、と感謝を表明します。「私が福音を伝え始めた頃」とは使徒16章に記されているヨーロッパ・ピリピでの最初の宣教を指しています。帝国の都ローマを目指すパウロの宣教(照 使徒19・21)は、ここに第一歩を踏み出したのです(エグナチア街道→アッピア街道)。パウロがピリピを発ち「テサロニケに行った時にさえ(直ぐに)」(使徒17・1)、ピリピ教会はパウロの窮乏を補うために「一度ならず」贈物をしてくれました(16)。また、パウロがマケドニア州を出て行った時も、やり取りしてパウロの働きを共にしてくれた教会はピリピ教会以外にはありませんでした(15 照Ⅱコリント11・9)。パウロはピリピ教会に福音を与え、その代価として贈物を受けたと考えているのです(照Ⅰコリント9・11)。

「私は贈物を求めているのではありません」と慎重な物言いの後、パウロは「私が欲しいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福(果実)なのです」(17)と祈りを込めて語ります。「果実」=「利子」という経済用語を使って、パウロはピリピ教会の惜しみない贈物(投資・義の業)が、終わりの日に豊かな実り(利益)となるよう願っているのです。そして、「私はすべての物を受けて豊かになっている。エパフロデトからあなたがたの贈物を受け取って(領収して)、私は満たされている」と贈物がパウロの必要を十二分に満たしただけでなく、「贈物は香ばしいかおり、神が喜んで受けてくださる供え物です」(18)と言います(照ロマ12・1)。19節は、ピリピ教会の人々は貧しさの中にもパウロを支援したことを示唆しています(照Ⅱコリント8・1~5)。そして「私の神」は、私の必要を満たすだけでなく、ピリピ教会の人々の物質的な、霊的なすべての必要を、その富に従い、栄光の中に、キリスト・イエスにあって満たしてくださる、と言います(照Ⅱコリント8・9)。そして、「栄光」に導かれた突然の頌栄(20 照ロマ11・36、16・27、ガラテヤ1・5)には、ピリピ書全体の喜びが流れています。頌栄は人が神の栄光を増し加えることではなく、人はただ神の栄光を認め、それに服することを教えています。「アーメン(「確かな」→「堅固である」を意味)である方」(黙示録3・14)、「私たちの父なる神に御栄が永遠にありますように。アーメン」。

結びで、ピリピ教会の「キリスト・イエスにある全聖徒に」、パウロは共にいる兄弟たち・聖徒全員、特にカイザルの家に属する人々(広義で皇帝に仕える人々)からの「よろしく!」との挨拶を記し(21~24)、最後に祝福の言葉を述べます。祝福の言葉は多少の言葉使いの相違はあっても、パウロのすべての手紙の末尾に共通して記されています。「どうか、主イエス・キリストの恵みがあなたがたの霊と共にありますように」(23)。




足るを知る

2010年10月31日 | 説教要旨・ピリピ書連講
ピリピ4・10~13/ピリピ書(13)

「最後に」勧めをし(8~9)、結びの言葉(21~23)を記す前に、パウロは追伸という形で、ピリピ教会の人々に贈物への感謝を述べます(10~20)。しかし、お礼の言葉としては一般的な表現ではありません。それ故、ある人はここに〝教会との関係について感謝するパウロ〟という副題を附しています。今日はその前半部(10~13)を読みます。

パウロとピリピ教会の関係は他とはちがいとても親密でありました(照1・3~4/比ガラテヤ書)。ピリピ教会の人々は初めからパウロと共に「福音を広め」(1・5)、また投獄されたパウロが「福音を弁明し立証する」(1・7)時にも、「福音の信仰のために共に戦って」(1・27)来ました。ピリピ教会だけは、福音を宣べ伝えるパウロのために幾度となく献金をし、支えました(4・15~16)。パウロも亦、このピリピ教会の人々を「心に覚え」(1・7)「キリストの愛の心をもって慕い」(1・8、4・1)ました。そうした関わりの中でピリピ教会はエパフロデトを使者に立て、ローマの獄中にあるパウロに贈物を届けたのでした(4・18、2・25)。

このことを背景にして、パウロは「私のことを心配してくれるあなたがたの心が、今ついに甦って来た(「芽ばえてきた」(文・口)、「(再び)開花させた」(佐竹))ことを、主にあって非常に喜んでいます」(10/考Ⅱテモテ4・10、14)。パウロは贈物に対し直接感謝せず、パウロに対するピリピ教会の人々の「心」を「主にあって喜んでいます」。パウロのこの「主にあっての喜び」とは「福音を宣べ伝える」パウロの使徒としての働きに、以前と同じように、ピリピ教会の人々が(今再び)参画してくれたことです。

自分の利益を喜びとする中に生きていないパウロ(照11、17)は、そのことを示すために自分の生き方を述べます(11~13)。パウロは貧しさ・豊かさ、飽くこと・飢えること、富むこと・乏しいこと、と貧しさと豊かさと対極の事態を、言葉をかえて三回も記します。そして「は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。・・・知っています。・・・あらゆる境遇に対処する秘訣を心得て(「授かって」共)います」。「私は、私を強くしてくださる方によってどんなことでもできるのです」と語ります。哲学(ストア派)や密儀宗教の用語といわれる「満ち足りる」「秘訣を授かる」「私を強くする方」等の言葉を借りて、パウロは自分が精神的・宗教的修養努力によって自足の境地に達したというのではなく、「私を強くしてくださる方によって(あって)」あらゆる境遇に対処することを授かったのです、と言い、自分の無力さを告白し、「私を強くしてくださる方」キリストを証しします。秘訣を与え、強くする方の力は、私たちの日常の現実の中にあって逞しく生きさせる力として働き、「どんなことでもできる」ようにさせるのです(照Ⅱコリント12・9)。

「ホスピスでの語らい」の中で、私は多くの方々とこの聖書箇所を語り合った。その方々を通して「私を強くしてくださる方によって」「足るを知る」ことを深く思わされ、教えられた。




主にあって

2010年10月24日 | 説教要旨・ピリピ書連講
ピリピ4・1~9/ピリピ書(12)

前述(三章)のように、「律法による自分の義」を立て、自分の欲望(腹)を神とし、この世のことしか考えない「キリストの十字架に敵対して歩んでいる」者が多いので(「そういうわけですから」)、「私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠(照1・9、2・16/3・14「栄冠=救いの完成」)」であるピリピ教会の人々よ、どうか、「キリストを信じる信仰によって」「神から与えられる義」を持ち、「天に国籍のある」者として、私(パウロ)を始め聖徒たちに見ならって(「このように」)、主に在って(パウロの愛用句、全書簡に40回以上)しっかりと立ってください」とパウロは勧めます(1)。

2~3節で、パウロは、ユウオデヤとスントケに「主にあって一致してください」と勧告します。二人の女性がこうした関係に至った事情は何も記されていませんが、信者の交わりである教会全体に関わる問題であったと思われます(照1・1/ピリピ教会への手紙)。この二人は「いのちの書に名の記されているクレメンスやその他の私の同労者たちと共に、福音を広めることで私と協力して戦ったのです」。パウロはピリピ教会の人々が「霊を一つにしてしっかり立ち、心を一つにして福音の信仰のために共に戦っている」ことを聞きたいのです(1・27)。ピリピ教会の中で大きな影響力を持っていた二人が、今一度、以前のように「福音の信仰のために」「同じ思いを抱く」(共)ように勧めたパウロは、また「真の協力者」に「彼女たちを助けてやってください」と「頼みます」。福音の信仰のために「一致する」ことは「主にある」ことなしにはありません。罪人であり、敵であった私たちは、キリストの死によって神との和解に与りました(ローマ5章)。このキリストの十字架の贖いにより、私も、他の人々も罪を赦され、新しく創造され、新しい生き方をする者とされたのです(Ⅱコリント5・17/エペソ2・14~16、4・25~26)。この信仰生活の原点を忘れ、自分を義とし、他を裁くことをせず、「福音の信仰のために」「主にあって一致してください」とパウロは二人に語りかけているのです。

「いつも喜ぶ」こと、「寛容な心」であることは「主にある」こと、「主は近い」ことによってのみ成就することです。状況とか気質などに左右されない聖霊による結果です(照ガラテヤ5・22)。このことは「何も思い煩わないで、あらゆる場合に感謝をもって捧げる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただく」ときに、換言すれば、自分の能力に頼り自分の人生と将来を確保しようとする努力を止め、「主は近い」、現在すでにすべてを支配されている神に全的に信頼するときに現実となるのです。「そうすれば」、即ち、思い煩いの人生に終止符を打つならば、「人知を凌駕する神の平安が、キリスト・イエスにあってあなたを警護してくれます」。この「神の平安」は単なる心の安らぎではなく、十字架と復活の主キリスト・イエスによる神の圧倒的な力による平安です(照ヨハネ14・27/死を覚悟した獄中のパウロ)。

パウロは自分が教えたこと、見本として示した生き方を実行しなさい、と励まします。「そうすれば」(前述の)「平和の神があなたがたと共にいてくださいます」と確言します。




国籍は天にあり

2010年10月17日 | 説教要旨・ピリピ書連講
ピリピ3・17~21/ピリピ書(11)

割礼派の悪い働き人たちは、自分はすでに救いを捉えた、完全な者とされたと主張していた。それに対して、パウロは、私は未だ得てもいず、完全な者ともなっていない、と言った。そして、自分を競走者にたとえ、神は神がキリスト・イエスによって上に召して、お与えくださる栄冠(賞・救いの完成)をめざして一心に走っていると言い(3・12~14)、ピリピ教会の人々に「共々に私を見倣う人になってください。またあなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください」と呼びかけます。パウロは自分の不完全さを認め、神が上に召して与えてくださる救いの完成という目標に向かって、自分と一緒に信仰の馳せ場を走るように、人々を招いているのです。

「というのは・・・・・・多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです」。この人々はキリストを信じると言いながら、この世の知恵(Ⅰコリント1・18)や律法の業(ガラテヤ3・1)という人間的なもの、「律法による自分の義」を誇り、「キリストを信じることによる神から与えられる義」を拒み、「キリストとその十字架」を不要とする人々です。①「彼らの最後は滅びです」②「彼らの神は彼らの欲望(腹)です」③「彼らの栄光は彼ら自身の恥です」④「彼らの思いは地上のことだけです」。こうした地上の朽ちゆくもの、滅ぶべきものを目ざしている彼ら、「十字架の敵として歩んでいる人々」の「最後は滅びです」。

こうした「地上のこと」しか考えない人たちに対比して(「けれども」)、「私たちの国籍は天にあります」(「私たちの本国は天にあります」共)とパウロは明言します。「マケドニア州のこの地方第一の町」で小ローマを誇った植民都市ピリピ(使徒16・12)にある教会の人々に、パウロは帝国の首都ローマの獄中から「我らの本国は天にあるぞ!」と書き送ったのです。そして「そこから主イエス・キリストが救い主としておいでにな」り、私たちを上に召して、私たちの救いを完成してくださるのを、神の栄冠を授けてくださるのを「私たちは待ち望んでいます」。神は天地万物を創造された同じ力をもって、私たちをキリストにある救いを信じるようにしてくださいました(照Ⅱコリント4・6、ヨハネ1・3)。その神キリストが再臨されるその時、「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだ(照ローマ7・24)を、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです」(照Ⅰコリント15・51~54)。

私たちの教会の墓石には「我らの国籍は天に在り」(文語訳)と刻されてあります。「天にあるいのちの書」に「その名を記され」(照 黙示録20・12/ルカ10・20)国籍を天に持つ者とされた私たちの信仰の先達たちは、地上では旅人であり寄留者であることを告白し、異邦人の中にあって立派にふるまい、信仰の人として死に、天に召されました(照ヘブル11・13、Ⅰペテロ2・11~12)。私たちもイエス・キリストの十字架と復活の福音にふさわしく信仰の旅を続けてまいりましょう。




ただこの一事に

2010年10月03日 | 説教要旨・ピリピ書連講
ピリピ3・8~16/聖餐式/ピリピ書(10)

パウロはかつて自分にとり「得であったもの」、価値があり、誇りであったもの、即ち、ユダヤ教の律法を中心とする人間的なもの(肉)を頼みとする生き方を、「キリストのゆえに」「キリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに」、今は「損、塵あくた」と考えるに至りました(照4~8)。

「キリストのゆえにすべてを失った」パウロは新しい目標、生き方を願い求めます。「それは①キリストを得」、②「キリストの中にある者と認められ」、③「どうにかして死者の中からの復活に達したい」ことです(8~11)。「律法による自分の義」を立てることは、結局のところ自らを神とし、キリストを不要とし、キリストの福音を破壊することであると知ったパウロは「キリストを信じる信仰による義、神から与えられる義」によって「キリストの中にある者と認められ」「キリストを得」たいと願います。更に、キリストを復活させた神の力は、キリストの弱さ、即ち、その苦難と死において働きました(照Ⅱコリント13・4)。それゆえパウロは「キリストの苦しみにあずかり、キリストの死と同じ状態になる」(照Ⅱコリント4・10、ロマ8・36)ことにより、死に勝利した「キリストとその復活の力」、キリスト者の内に働き、罪と死からキリストにある新しいいのちに甦えらせる神の力を知り、経験し、やがての時、神の恵みの業が完成されるとき、「どうにかして死者の中からの復活に達したいのです」と願うのです。

このキリストの恵みの救いに与った私たちキリスト者はどのように生きるべきかを、60年余の人生を過し、その大半を福音伝道の働きに懸命に励んできた、今はキリストのゆえに牢獄にあるパウロが、自分の生涯を手本として示し、教えます。パウロは自分を競技場の走者にたとえ、「私は……キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」と言います(照14、2・16「努力したこと」=「走ったこと」共、Ⅰコリント9・24~27)。「すでに得た。すでに完成された」(照12、15)と自分の義を立て、完全な知識を持っていると自惚れる「切傷の悪い働き人」たちを念頭におきつつ、パウロは「私はまだ捕らえていない」と言います。そして、彼は「どうにかして死者の中からの復活に達し」「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠(救いの完成)を得るために」「後のもの(考・ユダヤ人としての人間的なものがキリストへの信仰を妨げた)を忘れ、ひたむきに前のものに向かって身体を伸ばし」「ひたすらに走る」という「ただこの一事に」励んでいる、と言います。パウロは自慢しているのではありません。彼がそうするのは「それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださった」からです、と告白します。

キリストの十字架と復活によって救いを与えられたキリスト者は、その恵みに応え、救いの完成という神の栄冠を得るために、一心に走ること、「ただこの一事に」励むのです。このように考え、生きる者こそが真の成人、成熟した信仰者、完全な者です。





キリスト・イエスを知ること

2010年09月26日 | 説教要旨・ピリピ書連講
ピリピ3・1~8/ピリピ書(9)

「最後に」と手紙の締括りの部分に入ったパウロは「主にあって喜びなさい」と記した後、「前と同じことを書きます」。これは直前の「喜べ」(照2・18)を指すのか、「あなたがたの安全のために」パウロが少し心配して、前に書いた手紙(考Ⅰコリント5・9、Ⅱコリント13・2)なのか・・・・・・。いずれにしてもこの「最後に」(元々は「さて」「それでは」と訳される言葉/共「では」)は手紙の半ばです(照4・8)。

次いでパウロは「犬・悪い働き人・肉体だけの割礼の者(直訳は「切傷」照レビ19・28)」に「気をつけなさい」(3回)と続けます。この人々は割礼を受けることは救いにとって不可欠の条件と考え、自らの割礼を誇り、ピリピ教会の異邦人キリスト者に割礼を要求したユダヤ主義的傾向を持ったキリスト教の伝道者と思われます(照 使徒15・1)。パウロはこうした「キリストから離れ、恵みから落ち」律法に戻ろうとする間違った教理、「他の福音」に対しては激しい言葉で、断固として反対しました(照ガラテヤ5・2~12/比1・15~18)。そして「神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、人間的なもの(直訳「肉」)に頼らない私たちこそ、割礼の者(考「神のイスラエル」ガラテヤ6・12~16)です」と確言します。

そして、他の人(ユダヤ主義的キリスト教伝道者)が人間的なものに信頼できると考えるなら、自分はその人々以上にそうである、と述べます(4)。そして、自分のかつての宗教生活を告白し、ピリピ教会の人々に彼等を警戒するように記します。

パウロは①「八日目の割礼を受けた」(照レビ12・3、ルカ1・59、2・21)。パウロは生まれながら純血のユダヤ人であり、先祖の信仰の中で養育された。②「イスラエルの民族に属する」(照Ⅱコリント11・22、ガラテヤ2・15/申命記7・7~8)。③「ベニヤミン族の出身」。ベニヤミンは唯一約束の地で生まれたヤコブ(イスラエル)の末子(創世記35・18)。イスラエル初代の王サウロの出身部族(Ⅰサムエル9・1~2/考パウロのヘブル名)。④「生粋のヘブル人」とは「ヘブル人の両親のヘブル人の息子」の意味。パウロはヘレニズム文化の町小アジアのタルソの生まれであったが、その生活様式と気質において生粋のヘブル人であった(照 使徒21・39~22・3/ヒエロニムスの伝承)。⑤「律法についてはパリサイ人」。パウロはユダヤ教の中でも最も厳格な宗派パリサイ派の一員であった(使徒26・5、ガラテヤ1・14)。⑥「その熱心は教会を迫害したほど」。神に対するパリサイ人としての誤った熱心から教会を迫害した(照 使徒22・3~5、26・9~12、ガラテヤ1・13、Ⅰコリント15・9、ロマ10・2)。⑦「律法による義についてならば非難されるところのない者」(照3・9、ロマ3・20、ガラテヤ3・11)。パウロは人間的に、伝統的に、律法を形式的に守ることにおいては完全無欠であった。

しかし、かつてはパウロにとり得であったこれらのものを、今や損と見なすようになった。この価値観の逆転は「キリストのゆえ」「私の主キリスト・イエスを知ることのすばらしさのゆえ」でした。あのダマスコ途上でキリストに出会ったパウロは、これらのもの・肉の誇りが、キリストを知ること・キリストに信頼することの妨げになっていることを知ったからです。キリスト以外のものに信頼を置くことは、「人間的なものを頼みとすること」であり、キリストの福音を破壊することであることをパウロが知ったからです。





テモテとエパフロデト

2010年08月29日 | 説教要旨・ピリピ書連講
ピリピ2・19~30/ピリピ書連講(8)

この箇所は神学的な、或いは倫理的な問題を論じた所ではない。パウロとテモテとエパフロデトの三人の近況を報告しつつ、ピリピ人への手紙が書かれた目的を具体的に記している。

生粋のヘブル人で、パリサイ人であったパウロは、その熱心さから教会を迫害した人物であった(3章)。しかし、ダマスコ近郊で現われた復活の主イエスは、主の名を運ぶ器として彼を選ばれた(使徒9章)。第二次伝道旅行の時、アジア(エペソ?)でみことばを語ることを聖霊によって禁じられたパウロ一行はトロアスに到った。そこよりピリピへと導かれ、ヨーロッパ最初の教会が生まれた(使徒16章)。そのパウロは今、キリストの故に、ローマの獄中にある。

テモテ(「神を畏れ敬う者」の意)は多分ルステラの出身であった。ギリシャ人の父とユダヤ人の母との間に生まれたテモテは、パウロの第二次伝道旅行より同道し、ヨーロッパのピリピの町に初めて福音を伝えたひとりであった(使徒16章)。

母ユニケ、祖母ロイスのもとで育まれたテモテは、パウロによってキリスト教信仰へと導かれた(照Ⅱテモテ1・5、Ⅰコリント4・17)。ピリピ教会の様子を知って励ましを受けたいと望んだ獄中のパウロが、テモテを遣わそうとしたのは、「テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたを心配している者はほかに誰もいないからです」。一般的に人間は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めている。宣教の協力者もその恐れがある(Ⅱテモテ4・9~16)。しかし、テモテは試験に合格した健全な確かな人物であることは、ピリピの人々も認めていた。テモテは子が父に仕えるように、パウロと一緒に福音に仕えてきた。「ですから」(自分のことが見通しがつき次第)「彼を遣わしたい」とパウロは主にあって望んだのです。パウロは共働者であり、ピリピ書他四書の共同差出人であるテモテを信頼し、特に困難な課題を委ねた(照Ⅰテサロニケ3・2~3、Ⅰコリント4・17、ここも)。

エパフロデト(「アフロディーテのもの」の意/短縮形エパフラス(コロサイ4・12)とは別人)は、ピリピ教会の使者として、獄中のパウロへの贈物を携え、パウロに仕えるよう派遣された(4・18)。その彼が死ぬほどの病気にかかった。が、神の憐みにより快復した。パウロはこのエパフロデトを大急ぎでピリピに遣わすことにした。それは彼がピリピ教会の人々すべてを慕い求めており、また自分の病気のことがピリピ教会に伝わったこと(その結果、使者としての使命を果たせなかったこと)を気にしているからです。そこでパウロは彼を「私の兄弟、同労者、戦友、あなたがたの使者、奉仕者」と呼び、ピリピ教会の人々に、エパフロデトはあなたがたのできない分も私に仕えようとして、キリストの業のために命の危険を冒し、死ぬばかりになったのです。どうか、このエパフロデトを主に在って、喜び迎えてください。また彼のような人々に尊敬を払いなさい、と書いたのです。




いのちのことばを保って

2010年07月25日 | 説教要旨・ピリピ書連講
ピリピ2・12~18/ピリピ書(7)

キリストは神のあり方を捨て、ご自分を無にして仕える者となり、十字架の死にまでも従われた。すべての口が「イエス・キリストは主である」と告白し、神を讃美する「キリスト讃歌」(2・6~11)をうけて(「そういうわけですから」)、パウロはローマの獄中からピリピ教会の人々に「わたしの愛する人たち」とやさしく語りかけ、彼らを救おうとする神の恵みの働きに対して従順であるようにと勧告します。

従順とは、逆らわないことだけでなく、積極的に聞き従うことです(照Ⅰサムエル5・22)。パウロがピリピに滞在した時、人々はキリストの使徒パウロの語る福音に聞き従いました(照 使徒16・15、33)。「私のいない今はなおさら」キリスト讃歌に歌われたキリストによる神の恵み、十字架と復活の福音に従順であり、「恐れおののいて自分の救いを達成してください」と勧めます。この勧めの言葉は「自分の救いを達成する」のは、自助努力によるとか、神人協力によるとは語ってはいません。そうした誤解はキリストの福音の否定であり、人々を不安と絶望に陥れるだけです。聖なる神に対して、罪人である私たちは自分を主張し、自分の力で救いを確保することはできません。ただ神の恵み、キリストの福音により義とされ、救われている事実を知り、神の御前に「恐れおののき」謙虚に、神の恵みのみを頼りに、神のことばであるキリストに信じ、従って生きていくのです。神がそうしてくださるのです。「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです」から、私たちは「すべてのことを呟かず、疑わずに」、私たちの内に働きたもう神と共に働く者となり、よい業に喜んで生きる者となり(照エペソ2・8~10)、「自分の救いを達成する」者となりたいと願います。

このように神に絶対的に信頼し、服従して生きるとき、あなたがたは「非難されるところのない=世間からも非難されない」「純真な=混ぜ物のない」者、即ち「キリストの福音にふさわしく生活する」(1・27)者となり、「曲がった邪悪な世代の真ただ中にあって(照ヨハネ17・15)傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として(=「星のように」)輝く」のです(照ダニエル12・3、マタイ5・14~16、ヨハネ8・12)。

キリスト者が「世の光として輝く」のは、自分の力によるのではありません。それは「いのちのことばを堅く保つ」(佐竹、共)ことにより、始めて可能となるのです。いのちを与える言葉にあずかっている私たちは、御国への途上にある者として「つぶやかず、疑わず」(照Ⅰコリント10・10)神の恵みの福音に徹底的に信頼し、従順に生き、夜空に輝く星のようになりたいと願い祈ります(考 いのちのことば社とマーク)。

パウロがピリピの人々のため、福音伝道に努めてきたことが実を結び、彼らがいのちのことばを堅く保ち、生きるならば、また、そのためたとえパウロ自身が「注ぎの供え物」となっても、それは神の栄光を現わすことであるゆえ、「私と一緒にあなたがたも喜んでください」と記し、この勧めを結びます。




キリストは神でありながら

2010年07月18日 | 説教要旨・ピリピ書連講
ピリピ2・1~11/ピリピ書連講(6)

ピリピ教会はパウロを支え、福音を広めることに与って来たすぐれた教会であった(照1章)。しかし、一致の精神に欠けていた。そこでパウロはピリピ教会に「もしキリストにあって励ましがあり、(神の)愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情と憐みがあるなら」と、三位一体の神の祝福を基盤として「あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせて、志を一つにしてください」と一致を勧めます。彼らの福音による一致は、彼らだけの問題ではなく、パウロの救い・喜びにとって重要なことでした。

信仰は個人の事柄であり、神に問われることは自分自身の信仰です。しかし、キリスト教信仰は個人主義ではなく、教会の中で他の人々と共に生きることを信仰者に求めている。それも一致して生きることを求めている。

そこでパウロは教会の一致を妨げている原因を記し、彼らに勧めます。「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい」。自己中心・利己心とは自分の利益を求める心である。虚栄とは実体のない見せかけを誇ること、うぬぼれである。ともに他人に対し自分の優越を主張し、神を味方に、他人を排除する生き方である。それは神の助けを必要としない、生まれながらの人間の生き方である。神による一致のために必要なことは「へりくだって、他人を自分よりすぐれた者」(照ロマ12・10)とする新しい生き方である。他者(の全体)を自分よりすぐれた者とすることは、罪深い自分に絶望する所にのみ生まれる生き方である。それは神の恵みの支配に徹底的に信頼し、服従する生き方である。この生き方のみが教会に一致をもたらすのである。

パウロは、この生き方はキリスト・イエスのうちに見られると言い、キリストは神の御姿(モルフェー)、即ちその本質において決して変化しない神ご自身であられる方であるが、そのことに固執することをせず、神のあり方を捨てて、ご自分を「無にされ(ケノオン)」た。即ち、キリストはしばらくの間(一時的に)、人間と同じ姿となるために、神性・神の栄光を自ら進んで捨て去られた。そして奴隷の姿となられたキリストは「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた」。人となられたキリストは、ご自分が称賛されるためではなく、私たち人間のために、三十年余の地上での生涯を謙遜と従順をもって過ごされた、とピリピ人にこのキリスト・イエスにならうように勧める。

「イエス・キリストは主である」と信仰を告白したピリピの人々であり、私たちです。自己中心や虚栄から、己を誇り、他者を卑しめ、神にある一致を損なうことがないように祈り求めよう。そして、ただ罪深く、滅びるべき存在(もの)をも憐れみ、ご自分の命を賭して救ってくださった神・人なるキリストの名によって、神を崇め、ほめたたえる者でありましょう。




キリストの福音にふさわしく

2010年06月27日 | 説教要旨・ピリピ書連講
ピリピ1・27~30/ピリピ書連講(5)

前段で、生きるにしても、死ぬにしても、御名が大きくされ、福音が前進することを願っていると述べたパウロは、ピリピ教会の人々のために自分が生きながらえることが必要であると確信しました。そして、今、彼らに、キリストの「福音の信仰のために」共に戦うよう、勧告します。

26節で、パウロがもう一度ピリピに来ると喜んだ人々に、パウロは「私が行ってあなたがたに会うにしても、また離れているにしても」何事が起ころうとも、またいかになろうとも、あなたがたが今すべき大切なことはただひとつ(照ルカ10・42)「キリストの福音にふさわしく生活する」ことであると言います。

パウロはキリストの死と復活を中心とする御業を信じ保つならば救われるという喜ばしい知らせ(照Ⅰコリント15・1~4)「キリストの福音」を宣べ伝えてきました。キリストにあって、新しく造られ(Ⅱコリント5・17)、救いに与り、神のこどもとされたキリスト者は、「キリストの福音にふさわしく生活する」ことが求められているのです。「ふさわしく」とは「振る舞う、身を処する」ことです。「生活する」という原語は「市民として生活する」という意味を持っていました。それゆえ「キリストの福音にふさわしく生活する」とは、聖なる神の御子キリストの死と復活により救われ、天に国籍を持つ者とされたキリスト者(照3・20)は、その言葉や行為、振る舞いにおいて神の国の国民にふさわしく生きること、神の召しにふさわしく生活することです(照Ⅰテサロニケ2・12)。<考・ピリピ書はローマ市民権を持つパウロが、ローマ帝国の本国イタリアの永遠の都と呼ばれた首都ローマの獄中より、マケドニア地方第一の町、イタリア本土と同等に扱われる特権(イタリア権)を与えられ、小ローマと誇った殖民都市ピリピにある教会に書き送った手紙である>。

キリストの福音にふさわしく(教会)生活を送る」(佐竹訳)ことを、パウロは「霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘する」ことであると言います。そして、キリストを信じ受け入れた時、与えられた同じ御霊にあって一致して、反対者たちの攻撃に屈して倒れないように(照Ⅰコリント10・12)、キリストの福音の恵みにしっかりと立ち、信仰に生き(照4・1、Ⅰコリント16・13、ガラテヤ5・1)、「福音の信仰のために、力を合わせて戦う」ように勧めます。それは人々に救いを与えるキリストに従い、その福音に誠実に生きることです。そして、キリスト者が迫害に屈せず、信仰を放棄しないことは、反対者には滅びのしるし、信仰者には救いのしるしであり、それは神によることであると伝えます。さらに、「あなたがたはキリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです」と記し、苦しみは神に見放されたことによるのではなく、神の恵みから出ていることであり、救いにとって不可欠のことであると励まします(照 使徒9・4~5)。終わりにピリピの人々の「キリストの信仰」のための苦難は、パウロのピリピでの苦難(照Ⅰテサロニケ2・2、使徒16・12~)、そして今ローマでの投獄と同じく、キリストのための苦闘・戦いであると語り、人々を慰め、励ますのです。




キリストの栄光の現われることを

2010年06月20日 | 説教要旨・ピリピ書連講
ピリピ1・19~26/ピリピ書連講(4)/父の日

「私の身に起こったこと」即ち、パウロがローマでキリストのゆえに投獄されたこと、が「かえって福音を前進させることになった」(12)ことを「喜んだ」パウロは、「今からも喜ぶことでしょう」と続けています(18/ピリピ教会の人々は、この手紙を読みつつ、使徒16・16~40の出来事(先聖日説教)を連想したでしょう)。

カエサルの法廷に訴えたパウロは、獄中にあって、無罪放免となり「生きながらえる」(25)か、或いは「注ぎの供え物」(2・17)となるか、不確かな毎日を生きていました。しかし、パウロにとっては、自分が生きながらえるか、死ぬかは問題ではありませんでした。パウロにとっては「私がどういう場面にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされること」が切なる願いであり、希望でした(20)。パウロにとり、キリストがあがめられること、キリストの福音が前進していくことが最も大事なことでした。そこよりパウロは「私にとって、生きることはキリスト、死ぬことは益です」と確信するところを述べています。

「私にとって、生きることはキリスト」とは、他の人はどうであろうと、パウロにとっては、キリストこそ命、自分が日々生きているのは、キリストによって生かされていることによる、キリストが私に代わって生きるということでしよう(照ガラテヤ2・20)。「死ぬこともまた益です」とは、現実逃避的な意味で言われているのではありません。キリストにより救われ、神のこどもとして生かされている身ではあっても、この世にある限り、完全ではあり得ません。キリストの死と復活の福音により「死は勝利にのまれた。……神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」(照Ⅰコリント15・1~4、54~57)。キリスト者にとり、死は罪から解放され、キリストと共にある生、自分の救いの完成される時です(照ルカ24・43、黙示録14・13)。それゆえパウロは「死ぬこともまた益です」と言うのです(考・キリスト者の死生観)。

生きるか、死ぬかの二つの間に板挟みとなったパウロの願いは「世を去ってキリストと共にいることです」。しかし、生きるにしても、死ぬにしても、御名があがめられ、福音が前進することを願っているパウロは、「あなたがたの信仰の進歩と喜びとのために、生きながらえ、共にいることが必要」であることを確信します。パウロは年老いて、獄中にあっても、自分のためにではなく、人々を愛し、信仰のため、福音の前進のために生きることを選んだのです。

聖書は、人の主な目的は、神の栄光を現わすことと、永遠に神を喜ぶことである、と教えています(照Ⅰコリント10・31他)。私たちが自分の罪を深く気付かされ、神の恵みの福音に堅く信頼しつつ、自分の人生・生活を通して、キリストが大きくされること、あがめられることを切に祈り願います。




私の身に起ったことが

2010年05月30日 | 説教要旨・ピリピ書連講
ピリピ1・12~20/ピリピ書連講(3)

パウロは第二次伝道旅行のとき「アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられ」また「ビテニヤの方に行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならず」トロアスに導かれた。そこで「マケドニアに渡って来て私たちを助けて下さい」という幻を見、海を渡ってピリピに来た。ルデヤの家族や看守の家族他が入信し、ピリピ教会が始まった(使徒16章)。

今、パウロはローマの獄中から、パウロのことを案じているピリピの人々に、自分の様子を書き知らせる。「私の身に起ったことが、かえって福音を前進させることになったことを知ってもらいたい」と。「前進」(「進歩」「深める」25)と訳された言葉は、道をふさぐ障害や危険を取り除きながら前進することを意味する。キリストの福音を伝えるというパウロの働きを妨げるかに思えた投獄。しかし、それがかえってキリストを力強く証しすることになり福音が前進することになった。パウロは悪事の故ではなく「キリストのゆえに投獄されている」ことが「親衛隊(「兵営」(共))全員と他の全ての人にも明らかになった」。また「兄弟たちの大多数」はパウロが投獄されたことによって、主に在って確信を得、勇気をもってみことばを語るようになった(14)。十字架の前後、弟子たちは怖れ、隠れていた。しかし、今や多くの弟子たち=教会は「主にあって(=聖霊により)」力を受け、大胆に神のことば、キリストの福音を証言している(照 使徒1・8、4・8~13)。投獄という束縛と圧迫のなかで「喜びの手紙」を書いたパウロによって、キリスト者たちは、主がおられる所には苦しみがないのではなく、苦しみのある所に常に主がおられる、という神の摂理を信じる者となったのである。

次にパウロは自分の投獄が全く予期しない方法で福音を前進させることになったと記す。ある一部の人たちは党派心から、パウロに対するねたみや敵意から、キリストを宣べ伝えている。パウロは動機はともあれキリストが宣べ伝えられていることを重要視し、喜んでいる。パウロは個人的利害や感情をこえて、人を用いて福音を伝えさせる神の大きな意思に、全的に信頼するのである。人を救い、生かすのは、これを宣べ伝える人間の動機や人格によらず、福音そのものによるのである。

そして福音の前進を第一とするパウロは、ピリピの人々の祈りと、イエス・キリストの御霊の助けによって、その職務が果たせるようにと願っている。そのようにしてパウロの福音伝道のわざが果を結ぶことが「私の救いとなる」からです(照Ⅰコリント9・19~23)。そして福音を伝えるために召されたパウロは、神に用いられず、捨てられるような恥を受けないように願い「これまでのように今も、大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを、私は切に願い、希望しているのです」。このパウロの願い、人生の目的「私の身によって、キリストのすばらしさが現わされること」を、私たちも切に祈り求めていきたく願います。




感謝と祈り

2010年02月28日 | 説教要旨・ピリピ書連講
ピリピ1・3~11/ピリピ書連講(2)

パウロは挨拶、祝祷(1~2)に続けて、感謝と祈りを捧げます(3~6)。彼はピリピの人々を思うごとに、神に感謝し、喜びをもって祈願していました。感謝の理由は「あなたがたが最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たこと」です。ピリピの人々がパウロによりキリストの福音を聞き、信じ、信仰に生き続けてきたことと、パウロと共に福音を広めることに与っている(コイノニア/分け合う、交わる/照4・15)ことです。

ピリピ教会に問題がなかったわけではありません(照2・21、3・2~3、4・2~3)。それでもパウロはピリピの人々を覚える度ごとに「いつも喜びをもって祈る」ことができました。それはパウロが「あなたがたのうちによい働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださること」を確信していたからです。「よい働き」とはピリピ教会が物資的援助をもって福音宣教に参加していることよりも、人々が福音に接し、「主イエスを信じ」たこと、即ち神の救いのわざのことです(照ロマ14・15と20)。「キリスト・イエスの日」とは終末、キリスト再臨の日です。キリスト者は将来の救いの完成への途上にあるのです。パウロがそのことを「堅く信じている」のは、ピリピの人々の人間性や行ない、信仰心に基づくのではなく、神が真実な方であるからです(照Ⅰテサロニケ5・23、ヘブル12・2)。神は今も私たちのうちに始められた救いの業を完成に向かって続けておられるのである。私たちの希望はこの神にあります。この救いの創始者にして完成者なる神キリストに信頼し、バプテスマを受け、教会に加えられる人々が起こされますように(照 使徒16・15、31~33)。

7~8節でパウロはピリピの人々への深い思慕を表明します。パウロが「投獄されているときも、(法廷で)福音を弁明しているときも」物を送り、人を遣わして福音を証しする恵みに共に参画してくれた同士とも呼ぶべきピリピの人々を、パウロは「キリスト・イエスの愛の心をもって」深く慕っていました。「愛の心」の原義は「はらわた」であり、主イエスがご自分の体に痛みを覚えるほどに罪人を「憐れみ」、救わずにはおれない激しい思いをもって、ご自身を十字架に献げられた熱愛です。そのキリストの熱愛に「キリスト・イエスの僕であるパウロ」は動かされて、ピリピの人々を慕っているのです。

9~11節でパウロはピリピ人のために執り成し、祈ります。キリストの愛によって生かされたキリスト者は、愛に生きることを可能され、それを期待されているのです。ピリピの人々が個々の場面で、知識と識別力によって「本当に重要なもの」(共)「神のみこころは何か、即ち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるか」(ロマ12・2)を知り、神の意思に即した行動であるかを、愛に基づいて絶えず吟味して生きていくように、パウロは祈っているのです。そして、神が私たちを「キリスト・イエスの日には、純真で非難されるところのない」「イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者」として完成してくださるのです。この神の救いに与ったキリスト者は、神に感謝と讃美を捧げ、神に栄光を帰し、神をほめたたえるに至るのです。




キリスト・イエスにあって

2010年02月21日 | 説教要旨・ピリピ書連講
ピリピ1・1~2/ピリピ書連講(1)

パウロはその第二次伝道旅行の時、聖霊に追い遣られるようにしてアジアの最西端トロアスに来た。そして「ある夜『マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください』と懇願する幻を見た」。そこでトロアスから船出し、サモトラケを経由して、ネアポリスに着き、10㎞余内陸部にあるマケドニア第一区のローマの殖民都市で、市民は自分たちを「ローマ人」と感じていたピリピにやって来た。こうしてキリストの福音はヨーロッパに渡り、ヨーロッパ最初の教会がピリピに始まったのである(使徒16章)。後49年のことであった。

小アジア・ルデア地方テアテラ出身の紫布を商うルデアの家のピリピ教会の人々に、パウロが「キリストのゆえに投獄されている」(1・13)ことが伝わってきた。人々はパウロが「兄弟、同労者、戦友」と呼ぶエパフロデトに見舞金を託し、パウロに届けた。その所で重篤な病気になり、癒されたエパフロデトがピリピに帰るに際し(2・25~30)、パウロはピリピ教会への感謝と、自分の近況報告と、教会への二、三の注意を書き記した手紙を彼に託した。それが「ピリピ人への手紙」である。

「キリスト・イエスの僕(しもべ)であるパウロとテモテから」。タルソ出身のパリサイ人で、教会を迫害していたパウロは、ダマスコ途上で復活のキリストに出会い、福音を宣べ伝える者とされた(使徒9・1~20、21・39~22・16、3・5~9他)。ルステラ出身のテモテはパウロを助け、ピリピ教会とは特に親しかった(使徒16・1~3、2・19~23他)。旧約聖書では「僕」は神に選ばれた人で、神はこの僕を通して働かれる。キリスト・イエスの僕は、2・6~8に描かれる謙遜な奉仕の模範にならう者である。

「キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、また監督と執事たちへ」。旧約において聖とは分離を意味する(照出エジプト19・6、申命記7・6)。「キリスト・イエスにある聖徒」とは、この世から分離され、主の所有(もの)とされ、神の栄光をあらわす聖なる生活をするように召されたキリスト者である。このような生活は、信仰によってキリストの死と復活に結びつくことによって(キリスト・イエスにあって)のみ実現する(照テトス2・14、Ⅰペテロ2・9~10)。

「どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように」。「恵み」は罪深い人間、功績のない人間に与えられる神の愛であり、キリストの贖いである(ロマ3・24)。「平安」はそのような神の恵みの結果であり、「主キリスト・イエスによる神との平和」(ロマ5・1~2)である。ただキリストの十字架と復活によって福音を宣べ伝える者とされたパウロが、ピリピ教会の人々に、行いによらず、ただ「キリスト・イエスにあって」即ちキリスト・イエスの十字架と復活により、恵みのゆえに、信仰によって救われ、義とされ、聖徒とされていることを感謝し、神との平和を持つ者として生活していくよう祈っているのです(照1・27)。