ローマ11・11~24/聖餐礼拝/ローマ書連講(31)
アブラハムにおいて神に選ばれ、モーセにおいて律法を授かりながら、キリストの福音を拒絶している同胞イスラエルを、「神は退けてしまわれたのか」との問いに「絶対にそんなことはありません」(11・1)と断言したパウロは、「では、彼らが躓いたのは、倒れたままでいるためなのか」との反問に対しても「絶対にそんなことはありません」(11・11)強く否定し、オリーブの樹の比喩をもって、イスラエルの拒絶は最終的なものではないこと、そして、救われた異邦人キリスト者への訓戒をも書き記します。
異邦人の使徒とされた自分の務めを光栄としつつ、ローマにいる異邦人キリスト者に(少数のユダヤ人キリスト者を念頭に置きつつ)、パウロは自分の宣教経験を思い起こしながら、キリストの福音を拒むイスラエルの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果となりました。それはイスラエルに妬みを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです、と述べ(11、14/10・19)〝イスラエルの失敗が異邦人の世界を豊かにしたとすれば、彼らの完成(全イスラエルが救われること/照11・26)は、どれほど素晴らしいものをもたらすことでしょう(12)〟。さらに〝イスラエルが捨てられることが(神と)世界の和解をもたらしたとすれば、イスラエルが受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう(15/照5・10、Ⅱコリント5・18~19)〟と述べます。「眠った者の初穂として死者の中から甦ったキリスト」(Ⅰコリント15・20)は聖なる方であるので、そのイエスを主キリストと認めた人々(粉の全体)も聖いのです。「根が聖なるものであれば、枝もそうです」(16)。
地中海沿岸に自生するオリーブの樹は、聖書にはイスラエルの象徴として記されています(照エレミヤ11・16、ホセア14、7)。ただ神の恵みによって選ばれた民を表わすこの〝オリーブの樹〟は、信仰の父アブラハムに始まり、イスラエルのキリストの拒絶を経て(「オリーブの枝のあるものが折り取られ」17)、その結果、パウロたちを異邦人伝道に向わせることになりました(使徒13・44~52)。福音を聞いた異邦人がイエス・キリストを信じ、受け入れたとき、彼らは選びの民・残された者の一員となった(「野生のオリーブの枝が接ぎ木された」17、24)。さらにパウロは、ユダヤ人をはじめ、異邦人にも救いを得させる憐みの神の力であるキリストの福音に信頼して(照1・16)、イスラエルも不信仰を続けなければ、再び接ぎ木されるのです。もともと栽培されていたこのオリーブの枝を、神はもっとたやすく元のオリーブの樹に接ぎ木されることでしょう(24)と最終的なイスラエルの救いを将来に見ています。
このように〝オリーブの樹〟のすべての枝は神の憐れみ・恵みによって接ぎ木され、信仰のみによって立っています(20)。ですから異邦人キリスト者である私たちは〝不信仰のユダヤ人が折られたのは、私が接がれるためだ〟と高ぶることなく、神の慈しみと厳しさを思い、慈しみに留まり、「信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味し」(Ⅱコリント13・5)、〝神が前もって備えてくださった善い業に歩んでまいりましょう」(照エペソ2・10)。

アブラハムにおいて神に選ばれ、モーセにおいて律法を授かりながら、キリストの福音を拒絶している同胞イスラエルを、「神は退けてしまわれたのか」との問いに「絶対にそんなことはありません」(11・1)と断言したパウロは、「では、彼らが躓いたのは、倒れたままでいるためなのか」との反問に対しても「絶対にそんなことはありません」(11・11)強く否定し、オリーブの樹の比喩をもって、イスラエルの拒絶は最終的なものではないこと、そして、救われた異邦人キリスト者への訓戒をも書き記します。
異邦人の使徒とされた自分の務めを光栄としつつ、ローマにいる異邦人キリスト者に(少数のユダヤ人キリスト者を念頭に置きつつ)、パウロは自分の宣教経験を思い起こしながら、キリストの福音を拒むイスラエルの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果となりました。それはイスラエルに妬みを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです、と述べ(11、14/10・19)〝イスラエルの失敗が異邦人の世界を豊かにしたとすれば、彼らの完成(全イスラエルが救われること/照11・26)は、どれほど素晴らしいものをもたらすことでしょう(12)〟。さらに〝イスラエルが捨てられることが(神と)世界の和解をもたらしたとすれば、イスラエルが受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう(15/照5・10、Ⅱコリント5・18~19)〟と述べます。「眠った者の初穂として死者の中から甦ったキリスト」(Ⅰコリント15・20)は聖なる方であるので、そのイエスを主キリストと認めた人々(粉の全体)も聖いのです。「根が聖なるものであれば、枝もそうです」(16)。
地中海沿岸に自生するオリーブの樹は、聖書にはイスラエルの象徴として記されています(照エレミヤ11・16、ホセア14、7)。ただ神の恵みによって選ばれた民を表わすこの〝オリーブの樹〟は、信仰の父アブラハムに始まり、イスラエルのキリストの拒絶を経て(「オリーブの枝のあるものが折り取られ」17)、その結果、パウロたちを異邦人伝道に向わせることになりました(使徒13・44~52)。福音を聞いた異邦人がイエス・キリストを信じ、受け入れたとき、彼らは選びの民・残された者の一員となった(「野生のオリーブの枝が接ぎ木された」17、24)。さらにパウロは、ユダヤ人をはじめ、異邦人にも救いを得させる憐みの神の力であるキリストの福音に信頼して(照1・16)、イスラエルも不信仰を続けなければ、再び接ぎ木されるのです。もともと栽培されていたこのオリーブの枝を、神はもっとたやすく元のオリーブの樹に接ぎ木されることでしょう(24)と最終的なイスラエルの救いを将来に見ています。
このように〝オリーブの樹〟のすべての枝は神の憐れみ・恵みによって接ぎ木され、信仰のみによって立っています(20)。ですから異邦人キリスト者である私たちは〝不信仰のユダヤ人が折られたのは、私が接がれるためだ〟と高ぶることなく、神の慈しみと厳しさを思い、慈しみに留まり、「信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味し」(Ⅱコリント13・5)、〝神が前もって備えてくださった善い業に歩んでまいりましょう」(照エペソ2・10)。
