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香柏だより

福岡市東区の香椎バプテスト教会です。
聖書の言葉には、ひとを生かす力があります。
礼拝では手話通訳もあります。

オリーブの樹

2015年06月14日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ11・11~24/聖餐礼拝/ローマ書連講(31)

アブラハムにおいて神に選ばれ、モーセにおいて律法を授かりながら、キリストの福音を拒絶している同胞イスラエルを、「神は退けてしまわれたのか」との問いに「絶対にそんなことはありません」(11・1)と断言したパウロは、「では、彼らが躓いたのは、倒れたままでいるためなのか」との反問に対しても「絶対にそんなことはありません」(11・11)強く否定し、オリーブの樹の比喩をもって、イスラエルの拒絶は最終的なものではないこと、そして、救われた異邦人キリスト者への訓戒をも書き記します。

異邦人の使徒とされた自分の務めを光栄としつつ、ローマにいる異邦人キリスト者に(少数のユダヤ人キリスト者を念頭に置きつつ)、パウロは自分の宣教経験を思い起こしながら、キリストの福音を拒むイスラエルの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果となりました。それはイスラエルに妬みを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです、と述べ(11、14/10・19)〝イスラエルの失敗が異邦人の世界を豊かにしたとすれば、彼らの完成(全イスラエルが救われること/照11・26)は、どれほど素晴らしいものをもたらすことでしょう(12)〟。さらに〝イスラエルが捨てられることが(神と)世界の和解をもたらしたとすれば、イスラエルが受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう(15/照5・10、Ⅱコリント5・18~19)〟と述べます。「眠った者の初穂として死者の中から甦ったキリスト」(Ⅰコリント15・20)は聖なる方であるので、そのイエスを主キリストと認めた人々(粉の全体)も聖いのです。「根が聖なるものであれば、枝もそうです」(16)。

地中海沿岸に自生するオリーブの樹は、聖書にはイスラエルの象徴として記されています(照エレミヤ11・16、ホセア14、7)。ただ神の恵みによって選ばれた民を表わすこの〝オリーブの樹〟は、信仰の父アブラハムに始まり、イスラエルのキリストの拒絶を経て(「オリーブの枝のあるものが折り取られ」17)、その結果、パウロたちを異邦人伝道に向わせることになりました(使徒13・44~52)。福音を聞いた異邦人がイエス・キリストを信じ、受け入れたとき、彼らは選びの民・残された者の一員となった(「野生のオリーブの枝が接ぎ木された」17、24)。さらにパウロは、ユダヤ人をはじめ、異邦人にも救いを得させる憐みの神の力であるキリストの福音に信頼して(照1・16)、イスラエルも不信仰を続けなければ、再び接ぎ木されるのです。もともと栽培されていたこのオリーブの枝を、神はもっとたやすく元のオリーブの樹に接ぎ木されることでしょう(24)と最終的なイスラエルの救いを将来に見ています。

このように〝オリーブの樹〟のすべての枝は神の憐れみ・恵みによって接ぎ木され、信仰のみによって立っています(20)。ですから異邦人キリスト者である私たちは〝不信仰のユダヤ人が折られたのは、私が接がれるためだ〟と高ぶることなく、神の慈しみと厳しさを思い、慈しみに留まり、「信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味し」(Ⅱコリント13・5)、〝神が前もって備えてくださった善い業に歩んでまいりましょう」(照エペソ2・10)。




残された者

2015年05月31日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ11・1~10/ローマ書連講(30)

ご自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、頑なにしたいと思う者を頑なにされる(9・18)神の選びは、人間の行い、願いや努力によらず、憐れんでくださる神によります(9・16)。不信仰と反逆により神の怒りの器となっていた私たちを、神はゆたかな寛容をもって耐え忍び、憐れみの器として、ユダヤ人の中からだけでなく異邦人の中からも選び召してくださいました(9・22~24/考「ローマにいる召された聖徒たち=ローマの教会」1・7)。信仰による義を得た私たち=キリスト者の集まり=教会こそが「残された者」「神のイスラエル」(ガラテヤ6・16/比ローマ9・6)であります(9・27~30)。

肉によるアブラハムの子孫、律法を授けられたイスラエルは、自分自身の義を立てようとして、神の義に従いませんでした(10・6)。神の選びの民ユダヤ人は、律法の目標であり、その完成者であるイエス・キリストを信じる信仰による神の義(3・21)を拒絶しました。神に選ばれながら「不従順で反抗する民」(10・21)となったイスラエル「ご自分の民を神は退けられたのでしょうか」とパウロは尋ねます。そして「絶対にそんなことはありません」と強くはっきりと否定し(1/照Ⅰサムエル12・22、詩篇94・14)、本章でイスラエルに対する神の計画について論じ、神は予め選ばれたご自分の民を退けられたのではないこと、即ちイスラエルの疎外は最終的ではないこと、確かに現時点では多くのイスラエルは頑なにされている(7)が、イスラエルの過去の歴史におけると同様、今も救いに与る「残された者」(5、9・27)がいる、と述べます。
パウロはこのことを証言する二つの実例を挙げます。第一はパウロ自身です。「この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です」(1)。イスラエル人の中のイスラエル人であるパウロ自身が退けられず、選ばれ、使徒とされていること(照ピリピ3・3~9)がその実例です。第二の例はエリヤです。彼はイスラエルのことで神に訴え、〝彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして私だけが残りましたが、彼らは私の命を狙っています〟と苦情を言いました。しかし、神はエリヤに〝わたしはバアルにひざまずかなかった七千人を、わたしのために残しておいた〟とお告げになりました(照Ⅰ列王19・10、14、18)。
この事実に基きパウロは「現に今も、律法による自分の義を立てようとしたイスラエルは神の義を獲得できなかったが、行いによらず、ただ憐れみの神の恵みの選びによって、信仰によって神の義を与えられた残された者がいます」と論じます。神に不従順で反抗的な人間自身のうちに神の律法の要求を満たす力が備わっていない私たち人間(照7章)の願いや努力によっては、誰も神の義を獲得できないのです。ただ憐れみの神が恵みによってお取り扱いくださるとき、私たちは生きることができるのです。神の恵み以外の方法に依ろうとするなら、人はそれによって自分の運命を決定づけることになるでしょう。「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」(9・14)と言われる憐れみの神の恵み・福音を信仰の手をもって受け取る「残された者」となり、その恵みの中に歩んでまいりましょう。




キリストの言葉を聞く

2015年05月17日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ10・14~21/ローマ書連講(29)

イスラエル民族は、自分たちが神に選ばれたのは肉によるアブラハムの子孫であるからであり、律法を授かったのはそれを実行するためである、と誤解した(9章)。その結果、彼らは自分の義を立てて、神に信頼せず従わず、律法による義に捕われて、信仰による義を悟ることができなかった。しかし、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、主を呼び求めるすべての人に恵み深くあられる主は、律法の目的であり、その完成者である主イエスに信頼する人は誰でも、その憐れみの器として、選び救ってくださるのです(10・1~13)と、パウロは論を進めてきました。

これに対する反論は〝イスラエルは福音について聞いたことがなく、(聞いたとしても)その意味(神の普遍的救い)を知らず、信じる機会に恵まれなかったのだから、キリストとその福音を拒絶したことについて責任は問われない〟というものでしょう。即ち「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょうか。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょうか。宣べ伝える人がいなくて、どうして聞くことができるでしょうか。遣わされなければ、どうして宣べ伝えることができるでしょうか」(14~15)とユダヤ人のキリスト拒絶を擁護する反問が出されるのです。

そこでパウロは答えます。「良い知らせを伝える人の足はなんと美しいことでしょう」(15、イザヤ52・7)。イザヤ書の40章以後は、第二の出エジプトと言われるクロス王によるバビロン捕囚からの解放に関する預言であり、キリストによる罪からの完全な解放・赦しを預言しています(照イザヤ40・3「声」マルコ1・3他/イザヤ61・2「主の恵みの年」ルカ4・18~21。またヘンデル「救世主(メサイア)」)。使徒パウロを始め使者たちは荒野の如き世界に、キリストの福音を運んで行ったのです。しかし、パウロたちの宣べ伝えた福音を聞いても従わない人々がいました(16、イザヤ53・1)。この預言はイエスを信じなかったエルサレムの人々に対し引用されています(照ヨハネ12・38)。

イラエル人の不信仰は、キリストが律法を完成し、終らせられたことを聞かず、知らなかったからでしょうか。パウロは「その声は全地に響き渡り、その言葉は地の果てまで届いた」(18、詩篇19・4)、さらに申命記32・21(19)、イザヤ65・1(20)を引用し、〝そうではない!〟と言います。イスラエルがキリストを拒絶したのは、彼らが神の御子が私たちのためにしてくださったことについての言葉(説教)を聞いても、それを心に留めず、聴き従おうとしなかった彼らの不信仰の故である、と言います(考Ⅰテサロニケ2・13、ヘブル4・2、申命記11・18~21、マルコ4・1~20)。それゆえパウロは「このように、信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストの言葉・キリストについてのみことばを聞くことです」(17)と、本箇所の核心を記すのです。そして自らの罪について言い訳できないこの「不従順で反抗する民に対して、わたし(神)は一日中、手を差し伸べた」(21、イザヤ65・2)と、イスラエルに対する神の憐れみに、同胞の救いの希望を託するのです。




万人の救い主

2015年05月03日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ10・5~13/ローマ書連講(28)

今朝は、み言葉の説き明かしの後、十字架上に裂かれたキリストの体と流された血を記念する主の晩餐=聖餐式があります。パンと杯に与る人は決して謂るパリサイ人のような聖人君子ではありません。その真逆、罪人・取税人のように、ただ神の憐れみに縋るしかない人です。律法の行いによる自分の義を立てることができない罪人であることに苦しみ、律法を成就し、完成されたキリストを信じ、恵みによる義・救いをいただいた人です(照9・30~10・4)。

〝というのは(ギリシア語・ガル)〟という言葉で始まる今日の聖書箇所(テクスト)(10・5~13)は、直前の「キリストが律法を終らせられたので、信じる人はみな義と認められるのです」(4)との言明の根拠を述べています。

モーセは「律法による義を行う人は、その義によって生きる」と書いています(レビ記18・5/照ルカ10・28、ガラテヤ3・12)。神の律法を完全に守った唯一の方であるキリストを知らなかったとき、パウロは「律法についてならば非難されるところのない者です」(ピリピ3・5~6)と自分の義を立てました。そして神に呪われ木(十字架)に懸けられた者と考えたパウロはイエス・キリストを拒否しました。

しかし、「信仰による義はこう言います」と、旧訳聖書・古い律法、申命記30・11~14を新しい律法・新しい契約(照エレミヤ31・31~34)、キリスト(教)の立場から読みます。〝あなたは心の中で「誰が天に上るのだろうか」と言ってはならない。キリストは既に人となり、私たちの間に生きてくださった。また「誰が地の奥底に下るだろうか」と言ってはならない。十字架に懸けられ死なれたキリストは、よみがえらせられ、天に昇り、神の右の座にあられます。このキリスト=み言葉=福音は決して遠くにあるのではありません。信仰による義認の良い知らせ、パウロたちが宣べ伝えている「み言葉はあなたの口にあり、あなたの心にあります」。即ち、あなたの口でイエスを主と告白し(照Ⅱコリント22・3、ピリピ2・11)、あなたの心で、神はイエスを死者の中から復活させられたことを信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです〟。信仰は告白を伴うのです。また「あなたの口、あなたの心」とあるように、キリスト教信仰・キリストによる義認・救いは、他人や家族の信仰ではなく、あなた自身が神・キリストにどう向き合うか、イエス・キリストを誰だと言うかによるのです(照マタイ16・13~16)。

イエスを死者の中から復活させてくださり、死を克服してくださった神に感謝する人は、失望させられることがない、と聖書(イザヤ28・16)は言います。律法の目的=神への信頼を拒んだイスラエルは、律法の目標であり、十字架と復活の福音を通して神への信頼を呼びかけたキリストをも拒みました。しかし、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられる主の名を呼び求める人は、誰でも救われるのです。神の賜物キリスト、キリストの恵みの福音を、信頼をもって受け取り、告白する人となられますように祈ります。




つまずきの石

2015年04月26日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ9・30~33~10・4/ローマ書連講(27)

前段でパウロは、神がその栄光を示すための「憐れみの器」として召された「わが民・生ける神の子ら・残された者」は、肉によるアブラハムの子孫よりも異邦人の方が多いことを示唆しました。今日の所で「それでは、どういうことになりますか」と問うたパウロは〝義を追い求めなかった異邦人は、義、すなわち信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法=律法に基づく義=律法を守り行うことによって神との正しい関係を追い求めましたが、その律法の義に到達しませんでした〟と述べます(30~31)。

〝私たち異邦人は、かつては真実の神を知らず、キリストとも、約束の契約とも関係がなく、自分の肉の欲望のまゝに生きる不従順の子ら、御怒りを受けるべき者でした。しかし、憐れみ豊かな神は、罪過の中に死んでいた私たちをキリストに在って愛し、赦し、生かしてくださいました。私たちは、神の恵みにより、信仰によって神との正しい関係を回復され救われました。行いによる義=律法を行うことによる自分が立てる義(救い)ではありません。それゆえ自分を誇らず、憐れみの器として神が備えられる善い業に歩むのです〟(照エペソ2・1~10)。

一方〝神の子とされること、栄光、契約、律法、礼拝、約束、先祖たち、そしてキリストも〟自分たちのものであるイスラエル人(照9・4~5)は、〝律法の目的である義=義の律法を追い求めながら・律法を守ることによって神に受け入れられようとしながら、神の御前にその律法の義に到達しませんでした。なぜでしょうか。それは彼らが神に義と認められること、即ち神との正しい関係を異邦人と同じように信仰によって追い求めることをしないで、行ないによって達せられるものと考えたからです。その結果、彼らは「つまずきの石=妨げの岩=イエス・キリストにつまずいた」のです(31~33)。彼らは、神からの義・救いは異邦人に開かれたとまったく同じ道(ただ恵みと信仰)によってのみ到達できることを受け入れなかったのです。

イスラエルはとても熱心に神に仕えていました(その典型はパウロ:照ガラテヤ1・13~14、ピリピ3・6)。しかし、彼らのこの宗教的熱心さは無知や不注意からではなく、自ら目を閉ざし、正しい認識を欠いた狂信によるものでした。その結果、彼らは神の義=キリスト・イエスに対する信仰による義の賜物が示されたとき、その〝神の義を知らず悟らず、律法の行いによる功績に基づく自分の義を立てようとして、神の義=信仰による義に従わなかったのです〟(考ピリピ3・9)。律法の目標であるキリストは律法を破棄するためではなく、律法を実現成就し、律法を完成し、律法を終わらせられたのです。こうしてキリストは、私たちにとって義を達成するための手段として、律法に取って代わられたのです。それで、信じる人はみな、義とされるのです(10・1~4、照3・22~24/マタイ5・17)。

私たちは、憐れみの器として自分の行いによって自分の義を立てて、神との正しい関係を保つ者でなく、ただキリストへの信仰による神の義によって神の子とされていることを感謝し、信頼して歩いて行く者であります。




憐れみの器として

2015年04月19日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ9・19~29/ローマ書連講(26)

祝福をもたらす存在(もの)として選ばれたアブラハムの子孫イスラエルが、キリストの福音を拒絶する姿に「深い悲しみ」を覚えながらも、それは神の言葉が無効になり、計画が挫けたことを意味しないことを、イサクとヤコブの選び、また世界の権力者パロの桎梏から最弱小の民イスラエルを解放することを通して、これらのことは人間の意志や努力によらず、「わたしは自分の憐れむ者をあわれみ、自分の慈しむ者を慈しむ」と言われた神の自由な・主権的な愛・恵みによることである、とパウロは述べました(照「神の恵みの選び」9・6~18/ローマ書連講25説教要旨3/1)。

きょうの所で、パウロは神の豊かな寛容・憐れみ・恵みに堅く信頼し、〝憐れみの器として〟の神の民、〝残された者〟について書き記していきます。

〝神はご自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、頑なにしたいと思う者を頑なにされる〟(18)のなら〝なぜ神は人を責めるのか。誰が神の意志に逆らうことができようか〟と異議を唱える人に、パウロは〝神は世界の創造者であり、歴史の支配者であること、人間は土の塵から形造られ、いのちの息を吹き込まれて、神の像(かたち)に創造された被造物であることを、陶工が陶器を自由に造ること〟を通して語ります(19~21/照イザヤ29・16、エレミヤ18・6)。

勘違いしてならないことは、この主権者なる創造主は憐れみの神であることです(15)。それゆえ、この〝神の怒りを示し、その力を知らせようとお望みになりましたが、滅ぼされて当然の怒りの的である器を大いなる寛容をもって耐え忍ばれました〟(23)。神がそうされたのはご自身の憐れみの豊かさを示すためです(23照 出エジプト33・18~19)。

この憐れみの器として、神はユダヤ人からだけでなく、異邦人からも召し出してくださいました。この〝憐れみの器として〟の〝残された者〟について、パウロは旧約の歴史を通し、未信のユダヤ人・異邦人の救いに望みを託し、さらに〝残りの者〟であるキリスト者が、ただ神の憐れみと恵みにより滅びの中から救い出された「その場所」について語ります(24~29/照ホセア2・23、同1・6~10/イザヤ10・22~23、考 同7・3「シェアル・ヤシュブ 残りの者は戻ってくる」の意/同1・9)。

〝彼らは「あなたたちはわたしの民ではない」と言われた実にその場所で「生ける神の子どもと呼ばれる」〟(26)。民が神を捨て、偶像に走り、神に裁かれたその場所で、私たちの罪が断罪されたその場所で、「私たちは生ける神の子どもと呼ばれる」のです。その場所は十字架のイエス・キリスト以外にはありません。「私たちの罪のために死に渡され、私たちが義とされるあめに復活させられた」(4・25)主イエス・キリストの十字架と復活による「福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です」(1・16)。

神の憐れみ・恵みによる救いを受けた〝憐れみの器として〟、〝残された者〟として、謙遜に、感謝しつつ、また愛する隣人の救いを祈りつつ、信仰の道を歩んでまいりたいと願います。





神の恵みの選び

2015年03月01日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ9・6~18/聖餐式/ローマ書連講(25)

祝福をもたらす者として選ばれたアブラハムの子孫・イスラエルがキリストの福音を拒絶する姿に、「深い悲しみ」を覚えながらも、パウロは、それはご自身の民への神の言葉が無効になり、神の計画が挫かれたことを意味しない。聖書における神の約束は依然として有効であり、それは民族としてのイスラエルではなくて、真のイスラエルを対象とし、それは神により「選ばれた」イスラエル、内面的な・霊のイスラエルである、と言います(6)。

そのためパウロは始祖アブラハムの二人の異母兄弟、イシュマエルとイサクを取り上げ、肉の子どもではなく、約束の子ども(死んだも同然のアブラハムとサラにイサク誕生の約束の言葉が与えられた、創世記18・10、ヘブル11・11)イサクから出る者がアブラハムの子孫とみなされたこと(7~9/照ガラテヤ4・21~31)。次にイサクとリベカの間に生まれた双生児エサウとヤコブの例を引き、双子がまだ生まれもせず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画は人の行いによってではなく、人を召してくださる神ご自身によって進められることが明らかになるように、神は母リベカに「兄は弟に仕える」と告げられた。「わたしはヤコブを愛し(選び)、エサウを憎んだ(退けた)」と書かれているとおりです(10~13/照 創世記25・23、マラキ1・2~3)と述べます。この二例の預言は個人に関係しているのではなく、民族としてのイスラエルに関連して語られています。

選びにおける神の絶対的な自由・主権に対する反駁を予想して、パウロは「それでは、どういうことになりますか。神に不正・不義があるのですか」と問い、「絶対にそんなことはありません」と言います(14)。そしてパウロは、金の子牛を礼拝したイスラエルのために身命を賭して執り成した(出エジプト32・31~32、詩篇106・23/ローマ9・3)モーセが「あなたの栄光を私に見せてください」と願った時の主の言葉「わたしは憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」(15、出エジプト33・19)を引用し、神の憐れみと慈悲、選びは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神の自由な、無償の恵みによることである、と言います(16)。「そういうわけで」聖書=神はパロに「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と言われたのです(17)。このように、神はご自身が憐れみたいと思う者を憐れみ、頑なにしたいと思う者を頑なにされるのです(18)。

パロが頑なになったことが、イスラエルの出エジプトに繋がり、この民からキリストが出られ(5)、このキリストこそがユダヤ人であろうとギリシャ人であろうとご自身を信じる全ての人を救うお方です(1・16)。〝神はその怒りを示し、その力を知らせようと望まれたが、滅ぼされて当然の怒りの的である器を、大いなる寛容をもって忍耐し〟(22)、〝すべての人を不従順の状態に閉じ込めましたが、それはすべての人を憐れむためでした〟(11・32)。〝あゝ、神の富と知恵と知識はなんと深いことでしょう。神の裁きはなんと悟り難く、その道はなんと測り難いことでしょう〟(11・33)。




深い悲しみ

2015年02月22日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ9・1~5/ローマ書連講(24)

初めに(1~4章)神の主権と人間の罪―恵みと怒り、救いにおける信仰の役割について、次いで(5~8章)恵みと律法、信じる者を救う神の愛について論じてきたパウロは、彼の他の書簡(ガラテヤ書やエペソ書等のように教理から倫理へ)とは異なり、8章から12章へと直接しないで、9~11章で神の恵みとイスラエルの不信仰の問題を取り上げます(考ローマ教会)。

前段(8・31~39/連講23「神の愛」1/25)で、どんな被造物も、主キリスト・イエスにある神の愛から、キリスト者を引き離すことはできない、とパウロは謳いました。しかし、神の愛顧により選ばれ、福音の第一の対象であるイスラエルは、神の愛、キリストの恵みの福音を頑なに拒絶しました。異邦人への使徒として召され、懸命にその働きを進めてきたパウロにとり、同胞イスラエルのこの不信仰は大きく重い課題でありました。パウロは言います。「神はご自分の民を退けられたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です」(11・1/ 照 Ⅱコリント11・22)。

かつては、誰よりもイスラエル人の中のイスラエル人であることを誇り、キリスト(の福音)に激しく反対していたパウロでしたが、復活の主イエスに捉えられ、キリストの名を、異邦人またイスラエルの子孫にもたらすために選ばれたのでした(照ピリピ3・4~6、使徒9・1~20)。そのパウロが肯定のあとに否定を続ける強調形で「私はキリストにあって真実を語り、偽りを言いません」(照Ⅰテモテ2・7)と前置きし、「私には深い悲しみがあり、心には絶え間ない痛みがあります。このことは私の良心も聖霊によって証ししています」と記します。そして続けて「兄弟、つまり肉による同胞のためなら、この私自身がキリストから切り離されて、呪われた者となることさえ祈り願いたいのです」と言います(照 出エジプト32・32)。

〝彼らは誉れあるイスラエル人(照 創世記32・28、ヨハネ1・47)であり、私の同胞です。イスラエルは諸民族の中で並ぶ者のない神の初子であり(照出エジプト4・22~23、ホセア11・1)、神が彼らの間に住まわれるしるしである栄光(照出エジプト40・34、Ⅰ列王記8・10~11)も、契約(創世記17・4~21/出エジプト24・8/Ⅱサムエル23・5、エレミヤ31・31)も、律法(照出エジプト20・1以下)も、礼拝(の規定/レビ記)も、(メシアの)約束(ローマ4・13~21、イザヤ55・3)も、約束の最初の受取人である父祖たちも、彼らのものです。そしてキリストもまた、人としては彼らから出られました〟。

「このキリストは万物の上にある神であり、永遠にほめたゝえられる神です。アーメン」。

不信仰の同胞イスラエルに対する深い悲しみの中にあって、しかし、パウロは神・キリストへの頌栄を捧げたのち「神のみ言葉・約束は無効になってしまったわけではありません」(6)と、神の不動の愛(ヘブライ語でヘセド)・誠実・真実への信頼をもって、本箇所(9~11章)のテーマである人間(イスラエル)の不信仰と神の主権・恵みの計画について論述していきます。




愛の勝利

2015年02月01日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ8・31~39/伝道・聖餐礼拝/ローマ書連講(23-2)

愛の使徒と呼ばれるヨハネは「神は愛(アガペー)です」(Ⅰヨハネ4・8、16)と神の特性、即ち神は見返りを求めない無償の愛のお方であることを物語り、その「神は、実に、その独り子をお与えになったほどに、世を愛され(アガパオー)た。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3・16)と述べます。また「神はその独り子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のためになだめの供え物(罪を償ういけにえ(共)/罪のための贖いの供え物(フ))としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(Ⅰヨハネ4・9~10)と記します。こうしてヨハネは、神は罪に堕ちた人間を一方的に愛し、御子をこの世に遣わし、私たちの罪のための贖いのいけにえとして、十字架に懸け、私たちに永遠のいのちを得させてくださいました。ここに愛がある! と歌うのです。そのことをパウロは「私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」(37)と、愛の勝利を宣言するのです。

「この世を去って父のみ許に行くべき自分の時が来たことを知られた主イエスは、世にいる自分の所有(もの)たちを愛し、その愛を残すところなく示された」(ヨハネ13・1)。そして「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒に、この過越しの食事をすることをどんなに望んでいたことか」(ルカ22・15)と言われた後、主の晩餐(聖餐式)を制定されました(マタイ26・26~29/マルコ14・22~25/ルカ22・19~20/Ⅰコリント11・23~25)。

聖餐式におけるパンと杯(葡萄酒)は、私たちの身代わりとして、私たちの罪を赦すために、十字架に上げられた御子キリストの裂かれた体と流された血を象徴します。主イエスはご自分の所有(もの)である弟子たち皆が、この夜、ご自分に躓き、ユダは裏切り、ペテロは三度否認することを知りながら、その弟子たちに、パンと杯を「取って食べよ・・・飲め」とお命じになります。こうして主は弱く、罪深い弟子たち、私たちに、ご自身が十字架に死ぬことによって現わされる神の愛は、揺ぐこともなく、移ることもないものであり、どんな被造物も、このキリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできないことを確言されているのです。それゆえ、私たちはどんな苦しみや災い、怖れや不安、罪と汚れの中にあっても、「(罪)人を義としてくださる神」(33/共)、即ち独り子を賜った神の愛と、わたしの罪を赦し、救うために、私に代わって十字架に死んでくださった主キリストの愛により、私たちには輝かしい勝利が約束されているのです。

十字架の主イエス・キリストを信仰し、その愛の勝利に与り、主を讃美し、主に感謝する者、さらに主の晩餐に与る者とされましょう。




神の愛

2015年01月25日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ8・31~39/ローマ書連講(23)

これまでパウロは本書の主題〝福音のうちに啓示された神の義〟・〝パウロの福音〟について、人は律法によっては救われることはなく、ただ信仰のみによって救われること(信仰義認)を歴史に基き論じてきました。それは「人を義としてくださるのは神である」(33)こと、それゆえ「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すものはない」(39)と明言するためです。

「これらのこと」(31)とは、前記のように長い説明を経て達した結論とも言うべき、前段8・28~30を指しています。即ち、神の御計画に従って召された神を愛する人々を、神は義と認め、その人々を(将来)御子の姿に似る者となるよう定められたことです。ですからパウロは神が私たちの味方であるので、誰も私たちに敵対できない、と言明します。神に背き、自己中心の偶像礼拝に生きる人間への神の怒り・裁きは、彼らをその欲望のまゝに引き渡すことによって示されました。その神が、不敬虔で、罪人、敵であった私たちのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡されたのです(考 創世記22・12、15)。神に敵対し、私たちに敵対する存在[もの]がいます。しかし、私たちの味方である神が、御子と一緒に救いや永遠のいのち等のすべての恵みをくださり、私たちを守り、勝利を賜うのです。

次にパウロは「これらのことから」誰も神に選ばれた人を有罪とすることはできない、と言明します。私たちキリスト者を告訴し、罪に定めようとする存在[もの](サタン)はいるのです。そして、神の法廷で厳しく私たちを告発するのです。しかし、その時、その場で、私たちの罪を赦し、私たちを義とするために復活させられたキリスト・イエスが、神の右の座にあって、私たちのために執り成してくださるのです。こうして、私たちを告発し、罪に定めることのできる唯一の方である神・キリストご自身が「人を義としてくださる」のです。〝無罪放免と宣告してくださる〟のです(考イザヤ50・8~9/ヨハネ8・1~11/ゼカリヤ3・1~5)。

さらにパウロは確信し、言明します。私たちを義としてくださる神が、私たちの味方であるなら、「私たちをキリストの愛から引き離すものはありません。患難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣等々が、私たちを脅かしおどすとも、信仰ゆえに命の危険に曝されようとも、また死も、命も・・・今あるものも、後に来るものも・・・その他のどんな被造物も、私たちを愛してくださった、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」。このことは災害、不幸等々は決して神が私たちを拒絶している証拠ではないことを意味します。さらに神の力以外に、私たちの最終的な運命を左右できる力はないということです。それゆえ私たちは、私たちを愛し、私たちを義としてくださった神に信頼し、私たちが経験する苦しみは、この神の摂理の下にあることであり、私たちを愛してくださる神の御手の中にあることを覚え、希望をもって将来へと歩んで行きたいと願い、祈ります。




将来の栄光

2015年01月11日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ8・18~30/伝道礼拝/ローマ書連講(21)

御霊により神の子どもとされた私たちは、キリストと共同の神の相続人です。即ち、私たちがキリストと共に苦しむなら、共に栄光をも受けるのです(照8・11~17)と述べたパウロは、きょうの箇所で来るべき〝将来の栄光〟について語ります。この時より一、二年前「今の時の軽い患難は私たちの内に働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです」と、コリント教会宛に認めたパウロは、今、コリントの地よりローマのキリスト者たちに「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りない」と書き送ります。こうしてパウロは、神の子どもキリスト者の将来の栄光は、単に苦難の代償であるだけでなく、苦難から生じるものであり、現在のどんな苦しみよりも遥かに優る、と言っているのです。そして三つの苦しみ・呻き―被造物の呻き(19~22)、私たちキリスト者の呻き(23~25)、御霊の呻き(26~27)について記します。

1、今に至るまで、呻き、産みの苦しみを味わっている被造物全体が、切なる思いで神の子たちの現われ(=神の御子が栄光のうちに現われる日)を待ち望んでいます。すべてのものは善いものとして造られた。人間は被造物を管理するように命じられたが、自ら堕落した結果、土地は呪われ、被造物は虚無(「結果を伴わない」「創造の本来の目的に到達しない」の意)に服した(照 伝道1・2、12・8/考 異常気象、地震、津波、火山噴火、凶作等々)。これは被造物自身の責任や意志ではなく、創造主の意志によった。それゆえ希望がある。アダムの堕罪の結果もたらされたものは、第二のアダム・キリストの贖い(「釈放」「解放」を意味する)の御業により、栄光が現される日、被造物も滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかるのです。将来、栄光が啓示される日、現在の被造世界は変容し、「正義の住む新しい天と新しい地」(Ⅱペテロ3・13、イザヤ65・17~25)が創造されるのです。

2、「御霊の初穂」。内住の御霊は永遠の相続財産の最初の支給分であり、「手付金/保証」(Ⅱコリント1・22、5・4~5)をいただいた神の子どもである私たちは、肉のゆえに、心の中で呻きながら将来の栄光の日に、「私たちの体の贖われること」「御子の姿に似た」名実ともに「(神の)子にしていただくこと」を待ち望んでいるのです(照29、創世記3・26~27/ローマ3・23/Ⅱコリント3・18)。「私たちはこの望みによって救われているのです」。救いの完成は将来ですが、私たちはすでに救われているのです。

3、「罪について、義について、裁きについて、世にその誤りを認めさせる」「真理の御霊」「助け主」(照ヨハネ16・8、14・16、17)なる聖霊ご自身が、弱い私たちを助け、言葉に表わせない呻きをもって、私たちのために執り成してくださいます。[伝道礼拝]。今も神は御霊によって、御言葉を介して、静かな声をもって、私たちに語りかけられます。「御霊を消してはなりません」(Ⅰテサロニケ5・19)と警告されています。どうかあなたに来たりたもう御霊を吹き消し、拒むことのないように、御霊を迎え、心に宿すキリスト者となられますように切に祈ります。




神の子ども

2015年01月04日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ8・12~17/年頭主日聖餐礼拝/ローマ書連講(21)

前の部分(8・1~11「神の御霊によって生かされて」12/28)で、キリストとキリスト・イエスを死者の中から復活させた神の御霊は、私たちの死ぬべき体をも生かしてくださる、と述べたパウロは、そのような私たちキリスト者の新しい生き方は〝神の御霊に導かれる神の子どもである〟(14)ことによる、と語ります。

〝ですから、私たちキリスト者には一つの果たさなければならない義務(責任/借金/負い目)があります〟(12)と記すパウロは「私は・・・・・・人にも、返さなければならない負債を負っています。・・・・・・ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです」(ローマ1・14~15)と記しました。そのパウロがここで私たちキリスト者に「ただ神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いのゆえに、価なしに義と認められる」(ローマ3・24)無条件の恵みに対する責任がある、と言うのです。それは肉に従って生きるという責任ではなく、内住される御霊によって生きるという責任です。「肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、御霊によって、体の悪い行いを絶つなら、あなたがたは生きるのです」(照ガラテヤ5・18~24)。

この肉・体の行いを絶つことは容易なことでないことを体験的に知り、述べたパウロ(照7・24)は、キリスト者は、奴隷が主人を恐れるように神を恐れる「奴隷の霊」を受けたのではなく、子が父を信頼し愛し「アバ、父」と呼ぶ「神の子とする御霊」を受け、その御霊に導かれるとき、キリスト者の新しい生き方が成る、と語ります。即ち、私たちが神の(養)子とされるとき、私たちは御霊によって、神との新しい関係・神の家族の一員とされ、キリストの兄弟(照ローマ8・29)として、「アバ、父」と呼ぶ神をイエスと共有しているのです(照ガラテヤ4・5~7/マルコ15・36)。(「アバ」はアラム語で、子どもが父を呼ぶときの親しみを込めた表現であった。主イエスが日常、また主の祈りの中で使われたであろうこの言葉が、ギリシャ語を話す教会で使われるようになったとき、「父(ホ・パテール)」が説明として付け加えられたのであろう)。このように「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が私たちの霊と一緒になって証ししてくださいます」(16)。私たちキリスト者が神を「アバ、父」と呼ぶことは、イエスを「主」と呼ぶ(照Ⅰコリント12・3)のと同じように、内住の御霊の確かなしるしなのです。

 「子どもであれば、相続人であります。私たちが栄光を共に受けるために、キリストと苦難を共にしているなら、私たちは神の相続人、しかもキリストとの共同相続人であります」(17)。「私たちは・・・・・・である」(16、17)は強調的な位置に置かれている(文頭、文末)。養子縁組によって、正式に神の子どもとされた私たちキリスト者(15)は、本来、神のひとり子キリストのものである栄光(照ヨハネ17・22~24)を、恵みによって共に受け継ぐキリストとの共同相続人なのです。




御霊によって生かされて

2014年12月28日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ8・1~11/年末主日礼拝/ローマ書連講(20)

7章の終わりで「このように私自身は心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えている」という人間の悲惨さを直視したパウロは、8章冒頭で「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」と、「死に定められたこの体から」救い出してくださったイエス・キリストへの信頼を大書します。

アダムの子孫として、肉に従って追い求めてきた生き方は、本質的に自己中心的であり、自己偶像化の生き方でした。しかし、本章でパウロは、律法と罪への隷属から、聖霊によって救われたキリスト者の生き方、即ち、「肉に従って歩まず、御霊に従って歩む」(4)私たちキリスト者の勝利と希望の人生について記します。きょうの聖書箇所で、神は受肉した御子を通して私たちの罪を処断され、御霊によって律法を完成させ、最終的には、私たちの死ぬべき体をも生かしてくださること、換言すれば、律法がなし得なかったことを、キリスト者は聖霊の助けの下に律法の要求を満たす力を与えられ、なし得る者とされている、と述べます。そのために神は、私たちの罪を償う犠牲として、御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り(照ガラテヤ4・4~5)、肉において罪を罪として処断されたのです。

肉・古い秩序(ノモス)によって支配されるなら、即ち自分の力・行いに頼り、義を獲得しようとする限り、人は神の御意思を行うことはできず、敗北し続けるだけです。しかし、御霊が与えるいのちに満たされ、御霊の新しい秩序(ノモス)に属する人(考Ⅱコリント5・17/Ⅰコリント6・20)は、今しばらくは肉の残る者として罪の律法に仕えながら、内住する御霊の力により、心から神の御意思を喜び行なうのです(照エレミヤ31・33、エゼキエル11・19~20、36・26~27)。こうして「肉によって歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法によって要求される義が、成就されるのです」(4)。〝モーセ律法(ノモス)は正義をもつが、力は持たない。罪の法則(ノモス)は力を持つが、正義はもたない。御霊の原理(ノモス)は、力と正義の両方をもつ〟(T・w・マンソン)。

  走れ、働けと 律法は命じる。
  だが私には、足も手も与えられていない。
  しかし福音は、素晴らしい知らせをもたらす。
  それは私に飛べと命じ、そして翼を与えてくれる。
                 ―アウグスティヌス―

それゆえパウロは朗らかに、確言するのです。「もしイエスを死者の中から復活させた方の御霊が、あなたがたの内に住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべき体をも生かしてくださるのです」(11)。神はイエスを復活させた御霊の力をもって、その御霊を私たちの内に住まわせ、私たちを古い秩序・肉の支配から解放し、御霊による自由と力を与え、神の御意思を喜び行い、御霊の実を結ぶ者としてくださるのです。何とさいわいなことでしょう。




私の内の善と悪の戦い

2014年12月07日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ7・14~25/アドヴェント第二主日/聖餐礼拝/ローマ書連講(19)

前段(7~13)で、私の内にある罪(蛇)は命をもたらすはずの聖なる律法・戒め・神の言葉(照 創世記3・1~6/十戒、旧約聖書)を足掛かりにして、私(アダム、その子孫のパウロ、私)に死をもたらす限りなく罪深いものである、と呻いたパウロは、ここ(14~25)で、自分自身の内面を曝け出し、律法に熱心なパリサイ人サウロ(パウロ)が、主イエス・キリストによって救い出されたことを、「神の福音のために選び分けられ、使徒として召された」(ローマ1・1)キリスト者パウロが語ります。

かつてパウロは律法が行うべき神の意思であるであることを知り、パリサイ人として誰よりも熱心に律法を行い「律法による義についてならば非難されるところのない者です」(ピリピ3・6)と自負し得た人でした。そのパウロが、律法は善いものであることを知っており、それを行いたいと願いながら、それができない。かえって私は自分がしたくない悪を行っている、と告白します。善を行おうと願い、熱心に努めたパウロは、悪、即ち神の意思に反対することを行っている自分を知ったのです。こうしてパウロは私の肉・アダムの子孫である私の古い人間性・私の体の中にある罪の律法の虜になっていることを知ったのです。

律法については落度のない者と豪語し得たパリサイ人パウロは、「木に掛けられた者は、神に呪われた者である」(申命記21・23)との律法に従い、熱心に「教会を迫害し」、ダマスコまでもその手を伸ばしたのでした。その時、パウロは天からの光に打たれ、主イエスの御声を聞き、自分が間違っていることを知ったのです(照 使徒9・1~5)。完璧に律法に従い、神の意思を行っていると自認していたパウロは、神の意思と真逆のこと、神のキリストを迫害するという悪を行っていた自分を知ったのです。このように神の意思を行うためには律法は無益であり、かえって神の意図と反対の結果をもたらすことをローマ9・30~10・4にも書いています。

そのような自分を発見したパウロは悲痛な呻きをあげます。「私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救い出してくれるのでしょうか」と。このパウロを「イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父なる神」が使徒とされ、福音を宣べ伝えさせられたのです(ガラテヤ1・1)。

こうした「私」の内の善と悪の戦い、パリサイ人からキリスト者へ、律法による義からイエス・キリストを信じる信仰による義への霊的遍歴を、パウロはピリピ3・5~10に認めています。
呻き叫んだパウロが主イエスに出会い、キリスト者となった今、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は心(理性)では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです」と敗北と挫折を経験する者であることを告白します。私たちもパウロに倣い、追い迫り、誘惑する律法による義という後ろのものを忘れ、ひたむきに前のもの(神の栄冠)に向って進みたいと祈り願います(考ピリピ3・12~14)。




内在する罪と私

2014年11月30日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ7・7~13/アドヴェント第一主日/ローマ書連講(18)

パウロは7章において「私」の霊的遍歴を通して、すべての人に 〝律法と罪〟 について語ります。本箇所では 〝内在する罪〟 の問題を論じています。

人間が行なうべき神の御意思を示す律法により、人間はかえって罪を自覚するしかありません(3・20)。〝私たちが肉に従って生きていたとき、律法により罪の情欲が私たちの体に働いて、死に至る実を結びました〟(7・5)。「それでは、律法は罪なのでしょうか」。パウロは「絶対にそんなことはありません・・・・・・律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです」(8、12)と明確に言います。悪は律法ではなく罪であって、問題は私の内なる罪が律法という良いものを通して私に死をもたらすことです(考マルコ7・18~23)。律法の欠陥は罪の力に抗し切れない弱さにあり、その結果、律法は罪に隷属させられ、罪自身の悪しき目的のために使役させられることです。

こうして私の内なる罪が、聖なる律法によって機会を捕らえ、私を惑わし、私の内にあらゆる貪りを引き起こし、欲望を産み出し、律法の意図することをひっくり返し、私に死をもたらしたのです。罪は 〝取って食べてはならない〟という本来いのちに導くはずの神の命令(照 創世記2・17、レビ18・5、ローマ10・5)を足がかりに、私(アダム)を惑わし欺き、私を殺したのです。こうして人類は「アダムにあって」罪を犯しました(創世記3章)。このアダムの堕落による罪の力の恐ろしさは、良いもの、即ち律法を通して私に死をもたらすことによって現わされているのです。

神の御心を示す律法が罪に悪用されるとき、私は神の恵みに頼るよりもむしろ、自分自身や自分の行ないに頼り、自らを誇るようになるのです。こうして神の像に創造された人間は、罪に欺かれ、「自分を義人だと自任し」(ルカ18・9)神であるかのように錯覚するのです。キリキアの首都タルソに、ベニヤミン族に属する生粋のヘブル人として生まれ、エルサレムでガマリエルの門下生として学び、律法による義についてならば非難されるところのない者と自負していた私(アダム)は、自分にとって得であったものを全て、損と思うようになりました。それは、私が律法による自分の義ではなく、十字架に死に、三日目に復活されたキリストを信じる信仰による義、神から与えられる義を持つ者とされたからです(照ピリピ3・5~10)。

かつては律法を行なうことによって神の御心に生きることができると思っていたパウロが、今ここでキリスト者として自身の霊的遍歴を振り返ります。彼は自分に内在する罪が、律法を通して私(アダム)を支配し、キリストにおいて示される神の御意思を受け入れるよりも、それに反対するようにさせ、教会を迫害させたことを、あのダマスコ途上のキリストの顕現によって知ったのです(13、21)。善を行なおうとする意思に反して、律法を通して悪を生じさせる罪の奴隷であったパウロは、罪の支配を打ち破るキリストによって、律法による罪から解放され、自由に神に仕える者とされたのです。