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香柏だより

福岡市東区の香椎バプテスト教会です。
聖書の言葉には、ひとを生かす力があります。
礼拝では手話通訳もあります。

こんな罪人の私を憐れんでください

2016年05月22日 | 説教要旨・こんな人になりたい
ルカ18・9~14/こんな人になりたい(1)

イエスが「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者にたちに対して」語られたこの譬え(照ルカ5・30、15・2)は、神の前に、自己義認こそ最大の誤りであること、また、神は憐みを求める罪人をこそ義とされるという福音の中核を教えています。

「分離」を意味する「パリサイ」人は、律法を守り行わない罪人、ローマの手先になり同胞より定められた額以上の税金を取り立てる取税人等から離れることによって、自分を特別な者とし、自分を義人だと自任していました。「自任する」の直訳は「自分自身を信頼する」ことです。パリサイ人は自分が他の人々のように、盗む者、不正な者、姦淫する者、特に取税人のようでないことを、神に感謝し、祈ります。それからユダヤ人の義務である年一度の贖罪日だけでなく、週に二度(月・木)も断食していること(照レビ23・27~29)、献げる義務のないものまでも、その十分の一を献げていること(照レビ27・30、申命記14・22)を、神に告げ、自分の功徳を吹聴するのです。

 「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸を叩いて言った。『神さま、こんな罪人の私を憐れんでください』」。自分が神の御前にも、社会においても、どうすることもできない卑しい人間であることを正直に認める取税人は、ただ遠く離れた所に立ち、喪中の人のように胸を打ちながら、罪以外に何もない自分自身を曝け出し、憐れみを乞うしかなかったのです。その時、取税人は他人を見ず、他人と比較せず、他人を悪人に仕立てず、ただ神に頼り縋り、呻くのです。

「義とされて家に帰ったのはこの人であって、あのパリサイ人ではありません」とのイエスの言葉は、聞いていた人々を驚かせたに違いありません。何故なら、ローマのために同胞から税を取り立て、その一部を横領する売国奴、また律法を守らない不浄な罪人である取税人が義とされ、自分を他人から分離し(パリサイ)、「律法による義についてならば、非難されるところのない」(ピリピ3・6)と、自他共に真に宗教的な人と見られていたパリサイ人が退けられ、自他共に罪人と認められる取税人が義とされたのですから。

この逆転の理由は何でしょうか。それはパリサイ人が他人に比べて自分の立派さを数え上げ、誇り(註・11、12節の)、真の祈りをせず、自分自身に(「心の中で」)祈ったのに対し、取税人は自分の罪に押し潰され、人ではなく、神から見られている自分を知り、目を天に向けることもできず、ただ自分の胸を叩き、呻き言わざるを得ませんでした。神は、彼のこの呻きの中に信仰を見、彼を義とし、彼を受け入れ、罪を赦して下さったのです(照 詩51・17)

聖書に一貫して教えられているこの真理、即ち自己義認ほど神から遠く離れたものはないこと、また人を義とされるのは神であること(照ローマ4・5、8・33)を主はこの譬えをとおして明白に語られるのです。




私を思い出してください

2009年11月08日 | 説教要旨・こんな人になりたい
ルカ23・32~43/こんな人になりたい(3)

「こんな人になりたい」シリーズの最終回は「この最後の人にも」(マタイ20・1~16/十月十八日礼拝説教)同じようにしてくださる主によって救われた十字架上の犯罪人の物語です。

ローマの支配下にあったユダヤでは、十字架による死刑は帝国に対する反逆罪か極悪な犯罪に適用されました。そこでユダヤ人はイエスを「国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っている」(23・3)と訴えたのです。告訴が退けられると、ピラトを脅して(ヨハネ19・12)十字架につけるように要求し、ついにその声が勝ったのでした(23)。二人の犯罪人はバラバと同じ「暴動と人殺しのかど」(照19・24/マタイ、マルコは『強盗』)で十字架刑に処せられたのでしょう。

「どくろ」と呼ばれているところに来ると、人々はイエスを真中に、二人の犯罪人を左右に十字架につけた(33)。こうして罪なき神の御子は、私たちの罪を一身に負って、十字架につけられたのです(照マルコ15・27脚注)。十字架上でイエスは「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか自分でわからないのです」と祈られた。「彼ら」とはイエスを十字架につけたローマ兵であり、ユダヤの指導者や民衆であり、私たち神に敵対する不敬虔なすべての人間のことです。しかし、人々は「もし神の子なら」(照ルカ4・3)自分を救え」と嘲笑うだけであった。十字架につけられた犯罪人のひとりも同じであった。

ところが、もうひとりの犯罪人は彼をたしなめ「お前は神をも恐れないのか。お前も同じ刑罰を受けているのに。我々は自分のやったことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は悪いことは何もしなかったのだ」と言った。この犯罪人は死に臨んで神を恐れ、自分の人生をふり返り、自分の罪を認め、死刑になるのは当然だと言う。同時に、彼はイエスの十字架の祈りを聞き、そのあり様を見て、何も悪いことをしないこの方は、神のキリストであることを認め、そのお言葉にすがり願った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」

その彼に、イエスは明確に「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」とお告げになった。自他共に認める極悪非道なこの犯罪人、これまでも、いまも、これからも何のよいこともしなかったであろうこの犯罪人は、人生の幕が閉じようとする土壇場で、十字架上の主を仰ぎ、ただ信じて、救われたのです。「この最後の人」・犯罪人をも、主は他の人と同じように、ただ恵みにより、信仰によって救いを与え、パラダイス・天国(照Ⅱコリント12・4、黙示2・7)に迎え入れ、キリストとともに住む者として下さったのです。

「失われた者を捜して救うために来た」(ルカ19・10)キリストの御許に帰るのに遅すぎることはありません。キリストにあって、やり直せない人生はありません。人には不可能でも、神にはできないことはありません(照ルカ-18・27)。「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」(Ⅱコリント6・2)との神のお言葉に励まされて、自分の罪を認め、ただイエス・キリストを信じ、「私を思い出してください」と祈り、「あなたは今日、私と共にパラダイスにいます」とのお声を聞く者とされましょう。

こんな罪人の私を

2009年10月11日 | 説教要旨・こんな人になりたい
ルカ18・9~14/「こんな人になりたい」(2)

イエスが「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対して」語られたこの譬(照ルカ5・30、15・2)は、神の前に、自己義認こそ最大の誤りであること、また、神は憐みを求める罪人をこそ義とされるという福音の中核を教えています。

「分離」を意味する「パリサイ」人は、律法を守り行わない罪人、ローマの手先になり同胞より定められた額以上の税金を取り立てる取税人等から離れることによって、自分を特別な者とし、自分を義人だと自任していました。「自任する」の直訳は「自分自身を信頼する」ことです。パリサイ人は自分の弱さを知り、努力し克服したと「自惚れて」(共)いました。それゆえ神殿に上っていったパリサイ人は、自分の努力の成果を誇示するかのように、立って、心の中で祈った。「神よ、私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者でなく、ことにこの取税人のようではないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一を献げております」と。

「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸を叩いて言った。『神さま、こんな罪人の私を憐れんでください。』」。自分が神のみ前にも、社会においても、どうすることもできない卑しい人間であることを正直に認める取税人は、ただ遠く離れた所に立ち、胸を打ちながら、罪以外に何もない自分自身を曝け出し、哀れみを乞うしかなかったのです。そのとき取税人は、他人を見ず、他人と比較せず、他人を悪人に仕立てず、ただ神に依り頼むのです。

イエスは言われます。「この人が義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」イエスのこの結語は人々を驚かせたでありましょう。なぜならパリサイ人がその信仰の道徳的な規定に身を律し従っているのに対し、取税人は自他共に認める非難されるべき人間であるからです。

この逆転は何処から起こったのか。それはパリサイ人が「自分を高くした」からです。即ち自分の行いを誇り、他の人々を見下し、神に義と認められるのは自分であると傲っていたからです。だからパリサイ人は「低くされた」のです。取税人は「自分を低くした」。取税人は「自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っている」(ロマ7・20)「こんな罪人の私を憐れんでください」と、憐み深い神に赦しを祈りました。だから神は彼を「義と認め」「高くされた」のです。「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるならその信仰が義とみなされる」(ロマ4・5)。この聖書の神が「恵みのゆえに、信仰によって」「こんな罪人の私」である取税人を義とし、また私を救い、神の作品として「私たちが良い行いをするためにキリスト・イエスにあって、お造りくださったのです(照エペソ2・8~10)。

感謝!

私は資格がない

2009年09月13日 | 説教要旨・こんな人になりたい
ルカ15・1~32/「こんな人になりたい」(1)

高齢になり求道を始めたTさんをお訪ねした折、「私はこんな人になりたい」と聖書の三人の人物を挙げられた。自宅で礼拝説教テープを聴き、聖書を学んでおられたTさんがキリストの福音を正しく理解されていることがわかった。

イエスが罪人・取税人を受け入れ、食事まで一緒にするのを見たパリサイ人・律法学者が非難したことに対し語られた「父親とふたりの息子」の譬話は、小聖書と呼ばれるほど、聖書の真髄を的確に語っています。この譬話の中心は二度繰り返される父の言葉「この息子は死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しみ喜び祝うのは当然ではないか」(24、32)にあります。当然、譬話の中心は私たち人間の姿を表わす放蕩息子でも道徳主義の兄でもなく、神を表わすなんとも不思議な父親です。

弟は父に「私に財産の分け前を下さい」と当然のように要求します。父親は(何も言わず)身代を二人に分けてやります。このことは私たち人間が持っているものは全て父、即ち神から与えられたものであることを示しています。そのことが分からない弟は、幾日もしないうちに「遠くの国に旅立って」いきました。大人になることは親から離れてひとり立ちすることです。神は人間アダムを責任、リスクを伴う自由な存在として創造されました。それは私たちが奴隷としてではなく、神を喜び、その恵みに自由に応えて生きていく者となるためでした。弟が全財産を使い果たした時、その地方に大飢饉が起こり、彼は悲惨のどん底に突き落とされます。弟息子は「ここで初めて本心に立ち返った」(塚本)、「そこで我に返った」(共)。自分の惨めな姿を直視し、自分の間違いに気づいたのです。その間違いとは、自分で何でもできると考え、父を離れて生きたことでした。罪とは個々の悪い行為だけではなく、人間があるべき場所から遠く離れてしまったことです。そこには真実の自由、喜び、充実はなく、金と物の奴隷となった彼は「ここで飢え死にしそう」になってしまいました。「我に返った」弟は「立ち上がり」父の許に行きます。まだ遠くにいる息子を見つけ、かわいそうに思い走り寄り抱いた父は、息子の言葉を遮るようにして「この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのが見つかった」と我が子の帰還を喜び、祝宴を始めます。神は罪ゆえに神から離れ、罪の奴隷となり、自分で神の許に立ち返ることのできなくなった私たち人間を憐み、自らイエス・キリストにおりてこの世に来て、私たちに駆け寄り、私たちを本来あるべき場所に連れ帰り、神との正しい関係を回復して下さいました。近くにいながら父の心から遠く離れていた兄も同じです。弟も兄も、父にとってはわが息子です。だから父は弟が放蕩し散財しても、それを咎めず、何よりも父の家に帰ってきたことを喜び、祝うのです。兄にも、私はいつもお前と共におり、私のものは全てお前のもの、私のこの心を知って共に喜び祝う者となってくれ、と諭すのです。

敵対する私たちを愛し、私たちの救いのために御子キリストを十字架につけられた神の広く、深い愛を知り、神の御許に立ち返り、感謝し、神を喜び、神の栄光を願い生きる者とされましょう。




レンブラントの「放蕩息子の帰還」が
礼拝に光と影とをもたらしてくれました。




 
惨めな思いの弟と、それを抱きとめる父。
傍らで見つめる兄。
 
今朝は、私たちからすれば理解しがたいこの父を
この絵のように浮かび上がらせたメッセージでした。