ルカ18・9~14/こんな人になりたい(1)
イエスが「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者にたちに対して」語られたこの譬え(照ルカ5・30、15・2)は、神の前に、自己義認こそ最大の誤りであること、また、神は憐みを求める罪人をこそ義とされるという福音の中核を教えています。
「分離」を意味する「パリサイ」人は、律法を守り行わない罪人、ローマの手先になり同胞より定められた額以上の税金を取り立てる取税人等から離れることによって、自分を特別な者とし、自分を義人だと自任していました。「自任する」の直訳は「自分自身を信頼する」ことです。パリサイ人は自分が他の人々のように、盗む者、不正な者、姦淫する者、特に取税人のようでないことを、神に感謝し、祈ります。それからユダヤ人の義務である年一度の贖罪日だけでなく、週に二度(月・木)も断食していること(照レビ23・27~29)、献げる義務のないものまでも、その十分の一を献げていること(照レビ27・30、申命記14・22)を、神に告げ、自分の功徳を吹聴するのです。
「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸を叩いて言った。『神さま、こんな罪人の私を憐れんでください』」。自分が神の御前にも、社会においても、どうすることもできない卑しい人間であることを正直に認める取税人は、ただ遠く離れた所に立ち、喪中の人のように胸を打ちながら、罪以外に何もない自分自身を曝け出し、憐れみを乞うしかなかったのです。その時、取税人は他人を見ず、他人と比較せず、他人を悪人に仕立てず、ただ神に頼り縋り、呻くのです。
「義とされて家に帰ったのはこの人であって、あのパリサイ人ではありません」とのイエスの言葉は、聞いていた人々を驚かせたに違いありません。何故なら、ローマのために同胞から税を取り立て、その一部を横領する売国奴、また律法を守らない不浄な罪人である取税人が義とされ、自分を他人から分離し(パリサイ)、「律法による義についてならば、非難されるところのない」(ピリピ3・6)と、自他共に真に宗教的な人と見られていたパリサイ人が退けられ、自他共に罪人と認められる取税人が義とされたのですから。
この逆転の理由は何でしょうか。それはパリサイ人が他人に比べて自分の立派さを数え上げ、誇り(註・11、12節の私)、真の祈りをせず、自分自身に(「心の中で」)祈ったのに対し、取税人は自分の罪に押し潰され、人ではなく、神から見られている自分を知り、目を天に向けることもできず、ただ自分の胸を叩き、呻き言わざるを得ませんでした。神は、彼のこの呻きの中に信仰を見、彼を義とし、彼を受け入れ、罪を赦して下さったのです(照 詩51・17)
聖書に一貫して教えられているこの真理、即ち自己義認ほど神から遠く離れたものはないこと、また人を義とされるのは神であること(照ローマ4・5、8・33)を主はこの譬えをとおして明白に語られるのです。

イエスが「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者にたちに対して」語られたこの譬え(照ルカ5・30、15・2)は、神の前に、自己義認こそ最大の誤りであること、また、神は憐みを求める罪人をこそ義とされるという福音の中核を教えています。
「分離」を意味する「パリサイ」人は、律法を守り行わない罪人、ローマの手先になり同胞より定められた額以上の税金を取り立てる取税人等から離れることによって、自分を特別な者とし、自分を義人だと自任していました。「自任する」の直訳は「自分自身を信頼する」ことです。パリサイ人は自分が他の人々のように、盗む者、不正な者、姦淫する者、特に取税人のようでないことを、神に感謝し、祈ります。それからユダヤ人の義務である年一度の贖罪日だけでなく、週に二度(月・木)も断食していること(照レビ23・27~29)、献げる義務のないものまでも、その十分の一を献げていること(照レビ27・30、申命記14・22)を、神に告げ、自分の功徳を吹聴するのです。
「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸を叩いて言った。『神さま、こんな罪人の私を憐れんでください』」。自分が神の御前にも、社会においても、どうすることもできない卑しい人間であることを正直に認める取税人は、ただ遠く離れた所に立ち、喪中の人のように胸を打ちながら、罪以外に何もない自分自身を曝け出し、憐れみを乞うしかなかったのです。その時、取税人は他人を見ず、他人と比較せず、他人を悪人に仕立てず、ただ神に頼り縋り、呻くのです。
「義とされて家に帰ったのはこの人であって、あのパリサイ人ではありません」とのイエスの言葉は、聞いていた人々を驚かせたに違いありません。何故なら、ローマのために同胞から税を取り立て、その一部を横領する売国奴、また律法を守らない不浄な罪人である取税人が義とされ、自分を他人から分離し(パリサイ)、「律法による義についてならば、非難されるところのない」(ピリピ3・6)と、自他共に真に宗教的な人と見られていたパリサイ人が退けられ、自他共に罪人と認められる取税人が義とされたのですから。
この逆転の理由は何でしょうか。それはパリサイ人が他人に比べて自分の立派さを数え上げ、誇り(註・11、12節の私)、真の祈りをせず、自分自身に(「心の中で」)祈ったのに対し、取税人は自分の罪に押し潰され、人ではなく、神から見られている自分を知り、目を天に向けることもできず、ただ自分の胸を叩き、呻き言わざるを得ませんでした。神は、彼のこの呻きの中に信仰を見、彼を義とし、彼を受け入れ、罪を赦して下さったのです(照 詩51・17)
聖書に一貫して教えられているこの真理、即ち自己義認ほど神から遠く離れたものはないこと、また人を義とされるのは神であること(照ローマ4・5、8・33)を主はこの譬えをとおして明白に語られるのです。
