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香柏だより

福岡市東区の香椎バプテスト教会です。
聖書の言葉には、ひとを生かす力があります。
礼拝では手話通訳もあります。

ふたりの建築家

2012年11月25日 | 説教要旨・イエスの譬え
マタイ7・24~27/新会堂献堂19周年/イエスの譬え(5)

〝砂上の楼閣〟 とは、〝砂上に建てた楼閣は基礎がやわらかくて、転覆する恐れがあることから、長続きしない物事、また実現不可能な計画の譬え 〟(広辞苑)。阪神大震災では神戸市街地の低層のビルが倒壊し、ポート・アイランドの高層建築は被害が少なかったのは何故? 主は「だから、わたしのこれらの言葉を聞いて・・・・・・」と山上の説教全体の結論として、この「ふたりの建築家」の譬えを話された。ふたりの人が各々に、外観は何の相違もない家を建てたが、突然の洪水と嵐が、ひとりは岩の上に、もうひとりは砂の上に建てたことを顕にする。イエスの言葉を聞いてそれを行なうか、行なわないかによって、人生の危機の時の安全、終末の神の裁きと天の御国への旅券・査証が決まるのである。

パレスチナの地方色が満ちているこの譬えは 〝ふたつの家〟 の譬えではなく、〝ふたりの建築家〟 の譬えである。この譬えは実際の二棟の建築が良いか悪いかではなく、ふたりの建築家の場所の選定が賢明であるか愚かであるかを語っている。愚かな人は涸川の砂の河床に家を建築した。雨季になると、嵐と共に山地に降った雨は、急流となり谷を走り、幾つも合流して激しい大きな洪水(土石流/ネゲブの流れ 詩篇126・4)となり、すべての物を押し流し飲み込んでしまう(毎年、そうした悲劇がくり返されると聞いた)。しかし、賢明な人は涸谷の側岸の岩や平地の涸川の小高い岩山に建てた。同じように嵐と雨、そして濁流と土石流が発生したが、岩の上の家は、その被害を免れる。基礎が磐石であるからである。





ひとはそれぞれ自分の人生という家を建てる。またすべての人は人生の嵐・試練を避けることはできない。生老病死は勿論、いずれ人は皆、神の裁きを受ける存在である。人生の家の真価はその外観にはよらない。この譬えで教えられていることは、人がどんな基礎の上に、自分の人生の家を築くかが最も肝要だ、ということである。正しい選択をするなら、厳しい困難が押し寄せようと「それでも倒れませんでした」。しかし、間違った選択をするなら、ついには「倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした」。

預言者イザヤは、エジプトと軍事同盟を結んだユダの人々が「たといにわか水があふれ、越えてきても、それは私たちには届かない」と言った時、「見よ。わたしはシオンに・・・・・・堅く据えられた礎の、尊い隅石を据える。これを信じる者は、あわてることがない」との神の仰せを告げた(照 イザヤ28・15~16)。受難を前に、主はご自身に関わるこの預言に言及された(照マタイ21・42)。この主の言葉を聞いて、それを行なう人こそキリスト者である。十字架の「試みを経た石」、復活した主イエスに「信頼する者は、だれでも救われ、失望させられることがない」(照ローマ10・9~13)。だれでも 〝岩なるイエス〟 (聖歌506番おりかえし)の上に、その人生の家を建てて生活していくなら、嵐や洪水で象徴されているこの世でのさまざまな困難試練、また最期の裁きが打ちつけようとも、決して倒れることはありません。永遠の岩なるイエスは、いかなる時にも力ある愛の御手をもって、私たちを覆い守ってくださるのです(照ローマ8・35~39)。




隠された宝/良い真珠

2012年11月18日 | 説教要旨・イエスの譬え
マタイ13・44~46/イエスの譬え(4)

主イエスは一つのことを強調するために、二つの小さな譬えを語られた。「天の御国」は「持ち物を全部売り払って」(44、46)も、自分の所有とする価値のある最も美しい宝のようなものである、と。「天の御国」とは真実と愛の神が完全に、永遠に支配する世界のことであり、それは 〝キリストの測りがたい富、キリストの内に隠されている知恵と知識との宝〟のことである(エペソ3・8、コロサイ2・3)。

「畑に隠された宝」の譬え(44)。昔の人々は地下が一番安全な場所と考え、貴重品を隠した。生活の場が絶えず戦場に化する危険に曝される所では、このことは一層深刻な真実であった(考 埋蔵金、金印/パレスチナ、死海写本/照マタイ25・25)。「人」とは恐らく日雇い労働者のことであろう。彼はいつものように他人の畑で働いていた。土を耕していると、何者かによって「隠された宝」、「天の御国」に擬えられている「その宝を見つけた」。驚いたその人は土を埋め戻して宝を隠し、「喜びのあまり持ち物をことごとく売り払い、その畑を買い」、その宝を手に入れる(ブルガリアの農夫とトラキアの宝)。

イエスの最初の四人の弟子たちは、主が「わたしについて来なさい」と呼びかけられると「すぐに網も、舟も、父も残して、イエスに従った」(マタイ4・18~22)。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」との主イエスのお言葉を聞き、神の隠された宝イエスこそ天の御国を体現しておられることを知り(「見つけ」)、持ち物全部を主に委ねて、喜んで主に従ったのである。収税所に座り、金を神とするような生き方をしていた取税人マタイは、近づいて来て「わたしについて来なさい」と言われたイエスこそ「天の御国」そのものと観じ、大喜びで立ち上がり、イエスに従った(マタイ9・9~13/守銭奴ザアカイ、ルカ19・1~10)。

「良い真珠を捜している商人」の譬え(45、46)。当時オリエントでは真珠は紅海沿岸だけで採れ、驚くほど高価であった。真珠はすべての中で一番美しいものとして天国に譬えられた(照マタイ7・6、Ⅰテモテ2・9、黙示録17・4、21・21)。長い間良い真珠を捜し求めている商人は、「最高の価値を持つ真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をことごとく売り払って、それを買う」(ピタゴラスの書物を探すプラトン/シナイ写本を入手したティッシェンドルフ)。

八日目の割礼を受けた生粋のヘブル人で、ベニヤミン族出身のパウロは、歴とした町キリキアの州都タルソの出身で、エルサレムでガマリエルに学び、律法による義についてならば非難される所のないパリサイ人だ、と自任していた。そのパウロが、十字架に付けられたイエスこそ最高に美しい真珠のようなキリストであることを知ったとき、その素晴らしさのゆえに彼は、これまで誇りにしてきた人間的な、この世的なものを塵芥(ちりあくた)と思って捨てた。そして生涯かけてキリストに従った(照ピリピ3・4~9、使徒21・39、22・3)。

天の御国を具象する「隠された宝/良い真珠」であるイエス・キリストを知った私たちも信じ、従ってまいりましょう。




良きサマリヤ人

2012年11月11日 | 説教要旨・イエスの譬え
ルカ10・25~37/伝道礼拝/イエスの譬え(3)

宣教のため派遣された七十人の報告を聞き「ただあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と言われた主イエスは、預言者や王たちが見たい、聞きたいと願っていた神の国の奥義を、この世の賢者や知者は理解できず、幼子のような弟子たちに現わされた、と天父をほめたたえられた(17~24/照 使徒4・13、Ⅰコリント2・7~10)。
 
すると、ある律法の専門家がイエスを試そうとして「何をしたら永遠のいのちを獲得できるか」と質問した。イエスは「律法には何と書いてあるか。あなたはどう読んでいるか」と逆に尋ねられた。すると律法の専門家は即座に「神を愛せよ」(申命記6・5)と「隣人を愛せよ」(レビ記19・18)とあると答えた。イエスが「その通り。それを実行しなさい」と言われると、彼は自分の正しさを示そうとして「私の隣人とは誰ですか」と言った。それに対して主は「良きサマリヤ人の譬え」を語り、「だれが隣人になったか」と問い返された。
 
律法全体は隣人愛を主題としていることを記す聖書(照ロマ13・8~9、ガラテヤ5・14)は「義人はいない。ひとりもいない」「なぜなら、律法を行なうことによっては、誰ひとり神の前に義と認められないからです」(ロマ3・10、20)と記し、律法を行なうことによって自分の義を立て、永遠のいのちを獲得しようとする律法主義(ユダヤ教)の間違いを断罪している。私たちは律法・旧約聖書をどう読み、どのように生きているのだろうか。
 
海抜750mのエルサレムと海面下300mのレビ人の町エリコを結ぶアドミームの坂は、ユダの荒野を通る急峻な道である。祭司とレビ人とは神殿で奉仕する人々である。サマリヤ人はユダヤ人から混血の異教徒と見なされ、その関係は犬猿の間柄であった(照エズラ4・1~5/ヨハネ4・9)。
 
ある人(ユダヤ人)が、エリコ街道で強盗に襲われ、半殺しにされて放置された。そこに通りかかった祭司とレビ人は彼を見ながら、道の向こう側を通って行った。ところが旅をしていたひとりのサマリヤ人は、彼を見て「かわいそうに思い(スプランクニゾマイ)」手当てし、宿屋に連れて行き介抱し、全費用までも負担した。「かわいそうに思い」はルカ伝では三度(7・13、15・20、ここ)用いられ、いずれも神の憐れみを表わしている。従ってここのサマリヤ人は神・主イエスを表わしている。サマリヤ人と軽蔑されたイエス(ヨハネ8・48)こそは、神を信ぜず敵対し(ロマ5・6~10)、自分の罪過のゆえに死に瀕し、滅びを待つばかりの私たちの所に来て、かわいそうに思い、私たちに永遠のいのちを与えるために十字架に死に、私たちの隣人となってくださった神・キリストである。
 
「あなたも行って同じようにしなさい」と「良きサマリヤ人」の譬えを結ばれた主は、十字架の前夜、最後の晩餐の席で弟子たちに言われた。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。・・・・・・わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34/Ⅰヨハネ4・7~12)。神キリストの救いに恵みにより、信仰によって与った者は「行って同じようにする」「良い行いをもあらかじめ備えられ」「良い行いに歩む」ことができる者、小さなサマリヤ人として造られたのです(エペソ2・8~10)。




一粒の麦

2012年11月04日 | 説教要旨・イエスの譬え
ヨハネ12・24/イエスの譬え(2)/聖餐式

過越祭の六日前に、イエスは死人の中から甦えらせたラザロのいるベタニヤに来られた。多くのユダヤ人がイエスを信じ、エルサレムに入城するイエスを歓迎した。祭司長たちやパリサイ人たちは「何一つうまくいってない。見よ。世は挙げてあの人について行ってしまった」と、更にイエス殺害へと傾いていった(12・1~19/11・50~53)。

出エジプトを記念するユダヤ教三大祭(過越祭/五旬節/仮庵祭)のひとつ過越祭に、神殿で礼拝を捧げるために上ってきた幾人かのギリシア人(ヘレーネス)(ギリシャ世界を代表する改宗者)がいた。彼らがピリポの所に来て 〝イエスにお目にかかりたい〟 と申し出た。ピリポはアンデレとともに、イエスの所に行き、このことを伝えた。するとイエスは「人の子が栄光を受けるその時が来た」と仰言り、この 〝一粒の麦の譬え〟 をお語りになった。

日毎の食糧の原材料の麦がどのように種播きされ、育ち、実を結び、収穫されるかは、ユダヤ人がよく知るところであった(照マタイ13・3~8他/分けつ、麦踏み)。堅い種皮に覆われた種は地に播かれ、種皮が腐り、破られ、死んで初めて発芽し、成長し、結実する。「この世を去って父のみ許に行くべき自分の時」(13・1)を深く意識して来られたイエス(照2・4、7・8)は、救いから遠い者として区別されてきた異邦人(ギリシア人)の来訪(19/照ガラテヤ3・28)を聞き、自分が十字架に死ぬべき「その時」が来たこと、同時に新しい時代が到来したこと(考32)を知られた。それゆえ主イエスは「その時が来た。人の子が栄光を受けるため」(直訳)と言われ、「一粒の麦の譬え」を語り、ご自分が十字架に死ぬことによって、神の栄光が現わされる、と説き明かされた。御子の栄光は苦しみと十字架上の死、復活、昇天されることによって、すべての人をご自分の所に引き寄せること(照32~33、16、7・39)であり、それによって父も栄光を現わし、またお受けになる(27~28 〝ヨハネのゲッセマネ〟 、13・31~32)。

主イエスは「一粒の麦」として死ぬことにより栄光を現わされた。それは誰であろうとイエス・キリストを信じる者が滅びることなく、永遠のいのちを与えられ、ご自分の所へ引き寄せるための救いの御業によることである。

「一粒の麦」として死ぬことにより、信じる者の罪を赦し、救ってくださる主イエスは 〝わたしに仕える者は、わたしに従い、私と同じ道( 〝十字架なしに栄光なし〟)を歩きなさい。そうすれば、わたしが居る所にいることができる。父がその栄誉を与えてくださる〟(26)と確言される。十字架の死によって救われ、キリストの僕となった私たちは、生まれながらの罪のままの自分を愛する自己中心の生き方を捨て、神中心の永遠のいのちに至るキリストの道に歩む新しい生き方が求められているのです(25~26)。「一粒の麦」イエス・キリストの死によって新しく生まれた私たちも「一粒の麦」です。内に神のいのちを持つ私たちは、キリストに倣い、自分の栄光を求めず、与えられているいのちと賜物を献げ、神と人のために生きてまいりたい、と切に祈り願います。




ふたりの債務者

2012年10月28日 | 説教要旨・イエスの譬え
ルカ7・36~50/宗教改革記念主日/イエスの譬え(1)

「譬え(パラボレ)」は 〝傍に置くこと〟 を意味する。主イエスは重要な霊的真理を伝えるために、日常生活の周知の事柄を用いられた。「ふたりの債務者」の譬えは、イエスが町の罪深い女に対して御国の門を開かれたことについて、パリサイ人が批判したことに対する反論である。「我らの罪をお赦しください」と祈る者を、神は御子キリストにより完全に赦し、受け入れてくださる驚くべき愛のお方である。この愛を知るとき、人は新しい者とされ、感謝と愛に生きる者とされる。

あるパリサイ人が、一緒に食事をしたいとイエスを招いた。イエスはその家に入り、食卓に着かれた。そのことを知ったこの町の一人の罪深い女は、香油の入った石膏の壺を持って、泣きながら後からイエスの足許に近寄り、涙で御足をぬらし始め、やがて髪の毛でぬぐい、御足に口づけして香油を塗った。イエスを招待したパリサイ人はこれを見て、自分に触れている女が罪深い女であることが分からないイエスは預言者ではない、と秘かに思った。しかし、イエスはパリサイ人シモンの思いを知っておられた。そこで「ふたりの債務者」の譬えを話された。

〝二人の債務者がいた。一人は五百デナリ、もう一人は五十デナリを借りていた。金貸しは二人とも赦してやった。さてシモン、二人のうちどちらがこの金貸しを多く愛し、どちらがこの金貸しを多く有り難いと感じると思うか〟 。シモンが 〝余計に赦してもらった方だと思います〟 と答えると、主は 〝その通りだ〟 と仰言り、イエスに対するシモンの態度と罪深い女の態度の違いを語り、「だから、彼女の大いなる愛が、彼女の数多い罪が赦されたことを証明しているのだ」(47新英訳)と言われた。シモンがイエスに好意を示さなかったことは、彼が自分の罪の意識を持たない、自己義認の心の持主であることを示している。だから彼は女を「罪深い女」と非難し裁いた(照マタイ7・1~5)。一方、女はかつてイエスに会い、主イエスの罪人に対する愛を知り、確信させられ、悔い改めに導かれていた。彼女のイエスへの熱愛はそのことを物語っている。

かつてイエスは人々に言われた。「まことにあなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです」(マタイ21・31)。また本所の直前でイエスは語られている。〝ヨハネの説教を聴いた民衆は皆、取税人まで、バプテスマを受けることによって神の正しいことを認めた。しかし、パリサイ人・・・・・・は、彼からバプテスマを受けることをせず、救おうとされた折角の神の御心をないがしろにした〟(7・29~30塚本)。

この女にイエスは言われた。「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心していきなさい」。彼女は何処に行くのだろうか。この町に彼女を受け入れ、彼女が心安らかに生きる場所は何処にあるのだろうか。そこは彼女と同じように神キリストにより罪を赦された人々の集まる所・教会である。私たち香椎バプテスト教会がキリストの教会らしい教会であるように祈り、成熟していけますように。