マタイ7・24~27/新会堂献堂19周年/イエスの譬え(5)
〝砂上の楼閣〟 とは、〝砂上に建てた楼閣は基礎がやわらかくて、転覆する恐れがあることから、長続きしない物事、また実現不可能な計画の譬え 〟(広辞苑)。阪神大震災では神戸市街地の低層のビルが倒壊し、ポート・アイランドの高層建築は被害が少なかったのは何故? 主は「だから、わたしのこれらの言葉を聞いて・・・・・・」と山上の説教全体の結論として、この「ふたりの建築家」の譬えを話された。ふたりの人が各々に、外観は何の相違もない家を建てたが、突然の洪水と嵐が、ひとりは岩の上に、もうひとりは砂の上に建てたことを顕にする。イエスの言葉を聞いてそれを行なうか、行なわないかによって、人生の危機の時の安全、終末の神の裁きと天の御国への旅券・査証が決まるのである。
パレスチナの地方色が満ちているこの譬えは 〝ふたつの家〟 の譬えではなく、〝ふたりの建築家〟 の譬えである。この譬えは実際の二棟の建築が良いか悪いかではなく、ふたりの建築家の場所の選定が賢明であるか愚かであるかを語っている。愚かな人は涸川の砂の河床に家を建築した。雨季になると、嵐と共に山地に降った雨は、急流となり谷を走り、幾つも合流して激しい大きな洪水(土石流/ネゲブの流れ 詩篇126・4)となり、すべての物を押し流し飲み込んでしまう(毎年、そうした悲劇がくり返されると聞いた)。しかし、賢明な人は涸谷の側岸の岩や平地の涸川の小高い岩山に建てた。同じように嵐と雨、そして濁流と土石流が発生したが、岩の上の家は、その被害を免れる。基礎が磐石であるからである。

ひとはそれぞれ自分の人生という家を建てる。またすべての人は人生の嵐・試練を避けることはできない。生老病死は勿論、いずれ人は皆、神の裁きを受ける存在である。人生の家の真価はその外観にはよらない。この譬えで教えられていることは、人がどんな基礎の上に、自分の人生の家を築くかが最も肝要だ、ということである。正しい選択をするなら、厳しい困難が押し寄せようと「それでも倒れませんでした」。しかし、間違った選択をするなら、ついには「倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした」。
預言者イザヤは、エジプトと軍事同盟を結んだユダの人々が「たといにわか水があふれ、越えてきても、それは私たちには届かない」と言った時、「見よ。わたしはシオンに・・・・・・堅く据えられた礎の、尊い隅石を据える。これを信じる者は、あわてることがない」との神の仰せを告げた(照 イザヤ28・15~16)。受難を前に、主はご自身に関わるこの預言に言及された(照マタイ21・42)。この主の言葉を聞いて、それを行なう人こそキリスト者である。十字架の「試みを経た石」、復活した主イエスに「信頼する者は、だれでも救われ、失望させられることがない」(照ローマ10・9~13)。だれでも 〝岩なるイエス〟 (聖歌506番おりかえし)の上に、その人生の家を建てて生活していくなら、嵐や洪水で象徴されているこの世でのさまざまな困難試練、また最期の裁きが打ちつけようとも、決して倒れることはありません。永遠の岩なるイエスは、いかなる時にも力ある愛の御手をもって、私たちを覆い守ってくださるのです(照ローマ8・35~39)。

〝砂上の楼閣〟 とは、〝砂上に建てた楼閣は基礎がやわらかくて、転覆する恐れがあることから、長続きしない物事、また実現不可能な計画の譬え 〟(広辞苑)。阪神大震災では神戸市街地の低層のビルが倒壊し、ポート・アイランドの高層建築は被害が少なかったのは何故? 主は「だから、わたしのこれらの言葉を聞いて・・・・・・」と山上の説教全体の結論として、この「ふたりの建築家」の譬えを話された。ふたりの人が各々に、外観は何の相違もない家を建てたが、突然の洪水と嵐が、ひとりは岩の上に、もうひとりは砂の上に建てたことを顕にする。イエスの言葉を聞いてそれを行なうか、行なわないかによって、人生の危機の時の安全、終末の神の裁きと天の御国への旅券・査証が決まるのである。
パレスチナの地方色が満ちているこの譬えは 〝ふたつの家〟 の譬えではなく、〝ふたりの建築家〟 の譬えである。この譬えは実際の二棟の建築が良いか悪いかではなく、ふたりの建築家の場所の選定が賢明であるか愚かであるかを語っている。愚かな人は涸川の砂の河床に家を建築した。雨季になると、嵐と共に山地に降った雨は、急流となり谷を走り、幾つも合流して激しい大きな洪水(土石流/ネゲブの流れ 詩篇126・4)となり、すべての物を押し流し飲み込んでしまう(毎年、そうした悲劇がくり返されると聞いた)。しかし、賢明な人は涸谷の側岸の岩や平地の涸川の小高い岩山に建てた。同じように嵐と雨、そして濁流と土石流が発生したが、岩の上の家は、その被害を免れる。基礎が磐石であるからである。

ひとはそれぞれ自分の人生という家を建てる。またすべての人は人生の嵐・試練を避けることはできない。生老病死は勿論、いずれ人は皆、神の裁きを受ける存在である。人生の家の真価はその外観にはよらない。この譬えで教えられていることは、人がどんな基礎の上に、自分の人生の家を築くかが最も肝要だ、ということである。正しい選択をするなら、厳しい困難が押し寄せようと「それでも倒れませんでした」。しかし、間違った選択をするなら、ついには「倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした」。
預言者イザヤは、エジプトと軍事同盟を結んだユダの人々が「たといにわか水があふれ、越えてきても、それは私たちには届かない」と言った時、「見よ。わたしはシオンに・・・・・・堅く据えられた礎の、尊い隅石を据える。これを信じる者は、あわてることがない」との神の仰せを告げた(照 イザヤ28・15~16)。受難を前に、主はご自身に関わるこの預言に言及された(照マタイ21・42)。この主の言葉を聞いて、それを行なう人こそキリスト者である。十字架の「試みを経た石」、復活した主イエスに「信頼する者は、だれでも救われ、失望させられることがない」(照ローマ10・9~13)。だれでも 〝岩なるイエス〟 (聖歌506番おりかえし)の上に、その人生の家を建てて生活していくなら、嵐や洪水で象徴されているこの世でのさまざまな困難試練、また最期の裁きが打ちつけようとも、決して倒れることはありません。永遠の岩なるイエスは、いかなる時にも力ある愛の御手をもって、私たちを覆い守ってくださるのです(照ローマ8・35~39)。
