詩篇42・1~11/交読文説教(15)
雨季の冬が過ぎ、春となったパレスチナは「地には花が咲き乱れ、歌の季節」となる。しかし、乾季の夏が訪れると、ソロモンの栄華にも優って美しく装った草花も、瞬(たちま)ちのうちにしおれ、枯れてしまう(照 雅歌2・11~12、マタイ6・29)。水の流れは涸れ、草も木も焼け、獣は水をあえぎ求める(照ヨエル1・19~20/エン・ゲディにて)。何かの理由で神の家のある都エルサレムを追われ、人々から「お前の神はどこにいるのか」と侮辱され、孤独の中にあった詩人は、厳しい夏に、鹿が涸れた谷の川底を水を求めてあえぐように、神に忘れられたような境遇と敵の虐げの中にあって、私の魂は、神よ、あなたを慕いあえぎます、と祈る(1~2)。体は水と空気がなければ生きられない。魂は神なしには生き続けられない。それは神が「土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込」み、「ご自身の像に創造された」(創世記2・7、1・27)ことによる。それゆえ人の魂は神を求めて渇くのです。このことをアウグスティヌスは、人は神の懐に憩うまでは平安がない、と記した。(注「魂(ネフェシュ)」は元々「喉、首」を意味。そこより「息」そして「生命」を意味するようになった)。
「ヨルダンとヘルモンの地、ミツアルの山」とは多分イスラエルの最北部、ヘルモン山麓のヨルダン川の水源ダンやピリポ・カイザリア(バアル・ガド/ヨシュア11・17)であろう。詩人はエルサレムから遠く離れた異郷の地にあるだけでなく、「大滝の轟き/激流(共)」「淵/深淵」「波/大波」に象徴される敵の激しい攻撃に、うなだれ、絶望します。その苦しみの余り食事もできず、昼も夜も、涙だけが詩人の食べ物であった。
そうした時に、詩人は祈りの中で声を聞くのです。「わが魂よ。なぜお前は絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め」。その声に励まされて詩人は「私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを」と神を讃美し、「昼、主は命じて慈しみを私に送り、夜、主の歌が私と共にある。私の命の神への祈りが」(8)と歌います。
サタンの支配するこの世に生きる私たちも「お前の神はどこにいるのか」と嘲られ、私たち自身も「あなたは私をお忘れになったのですか」と問うような境遇に置かれることがありましょう。十字架を前にして心を騒がし、悲しみの余り死ぬほどに悶えられた主イエス(照ヨハネ12・27、マタイ26・38)は、ご自身を魂の渇きをいやす水の泉であると啓示し、それを与えると約束された(照ヨハネ4・14、6・35、7・38)。このお言葉に信頼し、たとえ絶望し、思い乱れている時にも「なおも」(照「望みえないときに望みを抱いて信じ」ロマ4・18)神を待ち望み、「なおも」私の救い、私の神をほめたたえよう。これこそ霊とまことをもって神を礼拝する真の礼拝です(ヨハネ4・23~24)。

雨季の冬が過ぎ、春となったパレスチナは「地には花が咲き乱れ、歌の季節」となる。しかし、乾季の夏が訪れると、ソロモンの栄華にも優って美しく装った草花も、瞬(たちま)ちのうちにしおれ、枯れてしまう(照 雅歌2・11~12、マタイ6・29)。水の流れは涸れ、草も木も焼け、獣は水をあえぎ求める(照ヨエル1・19~20/エン・ゲディにて)。何かの理由で神の家のある都エルサレムを追われ、人々から「お前の神はどこにいるのか」と侮辱され、孤独の中にあった詩人は、厳しい夏に、鹿が涸れた谷の川底を水を求めてあえぐように、神に忘れられたような境遇と敵の虐げの中にあって、私の魂は、神よ、あなたを慕いあえぎます、と祈る(1~2)。体は水と空気がなければ生きられない。魂は神なしには生き続けられない。それは神が「土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込」み、「ご自身の像に創造された」(創世記2・7、1・27)ことによる。それゆえ人の魂は神を求めて渇くのです。このことをアウグスティヌスは、人は神の懐に憩うまでは平安がない、と記した。(注「魂(ネフェシュ)」は元々「喉、首」を意味。そこより「息」そして「生命」を意味するようになった)。
「ヨルダンとヘルモンの地、ミツアルの山」とは多分イスラエルの最北部、ヘルモン山麓のヨルダン川の水源ダンやピリポ・カイザリア(バアル・ガド/ヨシュア11・17)であろう。詩人はエルサレムから遠く離れた異郷の地にあるだけでなく、「大滝の轟き/激流(共)」「淵/深淵」「波/大波」に象徴される敵の激しい攻撃に、うなだれ、絶望します。その苦しみの余り食事もできず、昼も夜も、涙だけが詩人の食べ物であった。
そうした時に、詩人は祈りの中で声を聞くのです。「わが魂よ。なぜお前は絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め」。その声に励まされて詩人は「私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを」と神を讃美し、「昼、主は命じて慈しみを私に送り、夜、主の歌が私と共にある。私の命の神への祈りが」(8)と歌います。
サタンの支配するこの世に生きる私たちも「お前の神はどこにいるのか」と嘲られ、私たち自身も「あなたは私をお忘れになったのですか」と問うような境遇に置かれることがありましょう。十字架を前にして心を騒がし、悲しみの余り死ぬほどに悶えられた主イエス(照ヨハネ12・27、マタイ26・38)は、ご自身を魂の渇きをいやす水の泉であると啓示し、それを与えると約束された(照ヨハネ4・14、6・35、7・38)。このお言葉に信頼し、たとえ絶望し、思い乱れている時にも「なおも」(照「望みえないときに望みを抱いて信じ」ロマ4・18)神を待ち望み、「なおも」私の救い、私の神をほめたたえよう。これこそ霊とまことをもって神を礼拝する真の礼拝です(ヨハネ4・23~24)。
