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香柏だより

福岡市東区の香椎バプテスト教会です。
聖書の言葉には、ひとを生かす力があります。
礼拝では手話通訳もあります。

神を待ち望む

2010年05月16日 | 説教要旨・交読詩篇
詩篇42・1~11/交読文説教(15)

雨季の冬が過ぎ、春となったパレスチナは「地には花が咲き乱れ、歌の季節」となる。しかし、乾季の夏が訪れると、ソロモンの栄華にも優って美しく装った草花も、瞬(たちま)ちのうちにしおれ、枯れてしまう(照 雅歌2・11~12、マタイ6・29)。水の流れは涸れ、草も木も焼け、獣は水をあえぎ求める(照ヨエル1・19~20/エン・ゲディにて)。何かの理由で神の家のある都エルサレムを追われ、人々から「お前の神はどこにいるのか」と侮辱され、孤独の中にあった詩人は、厳しい夏に、鹿が涸れた谷の川底を水を求めてあえぐように、神に忘れられたような境遇と敵の虐げの中にあって、私の魂は、神よ、あなたを慕いあえぎます、と祈る(1~2)。体は水と空気がなければ生きられない。魂は神なしには生き続けられない。それは神が「土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込」み、「ご自身の像に創造された」(創世記2・7、1・27)ことによる。それゆえ人の魂は神を求めて渇くのです。このことをアウグスティヌスは、人は神の懐に憩うまでは平安がない、と記した。(注「魂(ネフェシュ)」は元々「喉、首」を意味。そこより「息」そして「生命」を意味するようになった)。

「ヨルダンとヘルモンの地、ミツアルの山」とは多分イスラエルの最北部、ヘルモン山麓のヨルダン川の水源ダンやピリポ・カイザリア(バアル・ガド/ヨシュア11・17)であろう。詩人はエルサレムから遠く離れた異郷の地にあるだけでなく、「大滝の轟き/激流(共)」「淵/深淵」「波/大波」に象徴される敵の激しい攻撃に、うなだれ、絶望します。その苦しみの余り食事もできず、昼も夜も、涙だけが詩人の食べ物であった。

そうした時に、詩人は祈りの中で声を聞くのです。「わが魂よ。なぜお前は絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め」。その声に励まされて詩人は「私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを」と神を讃美し、「昼、主は命じて慈しみを私に送り、夜、主の歌が私と共にある。私の命の神への祈りが」(8)と歌います。

サタンの支配するこの世に生きる私たちも「お前の神はどこにいるのか」と嘲られ、私たち自身も「あなたは私をお忘れになったのですか」と問うような境遇に置かれることがありましょう。十字架を前にして心を騒がし、悲しみの余り死ぬほどに悶えられた主イエス(照ヨハネ12・27、マタイ26・38)は、ご自身を魂の渇きをいやす水の泉であると啓示し、それを与えると約束された(照ヨハネ4・14、6・35、7・38)。このお言葉に信頼し、たとえ絶望し、思い乱れている時にも「なおも」(照「望みえないときに望みを抱いて信じ」ロマ4・18)神を待ち望み、「なおも」私の救い、私の神をほめたたえよう。これこそ霊とまことをもって神を礼拝する真の礼拝です(ヨハネ4・23~24)。




私の魂は憧れる

2010年04月18日 | 説教要旨・交読詩篇
本篇は神のみ住まい(神殿)への強い憧れを懐いてシオン(エルサレム)への旅路を辿る巡礼者(詩人)の歌です。

「万軍の主」(1、3、8、11、12)という呼び名は、ご自身を現わし、その民と共にいますことを望まれた主が、大能をもって、民を守られることを表わしています(照24・7~10、89・5~14)。詩人は、絶え入るばかりに慕い憧れた神殿に来て、全身全霊をもって生ける神に向かって、喜び歌います。「万軍の主、私の王、私の神よ」と。神殿の祭壇に雀や燕が巣を作り、雛(ひな)を育てているのを見て、神の家に住みか(隠れ家)を見出した小鳥たちをうらやましく思った詩人は、また神殿でいつも奉仕する祭司たちにも羨望の思いを寄せつつ、「なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは」と祝福します。

幸いなのは小鳥や祭司たちだけではありません。詩人は、神殿の礼拝に共に連なっている巡礼者(詩人もそのひとり)たちも「なんと幸いなことでしょう」と祝福します。彼らは遥かな道程を辿り、「涙の谷を過ぎ」て、今、「シオンにおいて、神の御前に現われ」、神にまみえているのです。巡礼者の辿る「シオンへの大路」は広く平坦な道だけではありません。「涙の谷」や「死の陰の谷」(23・4)を歩かなければならない時もあるのです。潤いのない荒れ野、涸れ谷・水無川(ワディ)に象徴される困難や欠乏、失意や恐れは避けて通れないのです。しかし、その心に「万軍の主」への深い信仰とエルサレムの神殿で礼拝することに強い憧れを持って「シオンへの大路」を旅する巡礼者の旅路には、共に旅する万軍の主が祝福の雨を注いでくださるのです。その恵みによって巡礼者は「涙の谷」を「泉の湧く所とし」、ついに「シオンにおいて、神のみ前に現われる」のです(照107・35/考・エジプトを脱出したイスラエルの40年の荒野の旅と水・マナ、そして約束の地へ入る)。

神殿に到着した巡礼者は、万軍の主に「神が油注がれた方、我らの盾とする方に、目を注いで下さい。……あなたの大庭にいる一日は、千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりは、むしろ神の宮の門口に立ちたい」と心の底より祈ります。

私たちも亦、永遠の神の都、天のエルサレムを慕い憧れ、時として涙の谷・荒野のようなこの世の旅路を、万軍の神、インマヌエルの主イエスに伴われ、守り導かれて、私たちの永遠の住まい、天の故郷をめざして信仰の旅を続けている巡礼者です(照ヘブル11・13~16/考「天路暦程」)。私たちは毎週、週の初めの日、復活の主イエスを覚え、万軍の神に共に礼拝を捧げ、インマヌエルの主と共に一週の信仰の旅に上るのです。

私たちのいのちの賦与者、また保護者である恵みと栄光に満ちた神は、二心なく、一途に神・キリストを信仰し、「正しく歩む者」に良いものを与え拒まれません。詩人は私たちを励ますかのように「なんと幸いなことでしょう。あなたに信頼するその人は」と祝福の言葉をもって、この詩を結びます。





いのちの道

2010年03月21日 | 説教要旨・交読詩篇
詩篇16・1~11/受難週・復活祭を前にして

死を覚悟するような苦難の中で、詩人は、「神よ。私をお守りください」と祈り訴えた。「ほかの神へ走」らず、主にひたすらに信頼し、「身を避けた」詩人を、主は「陰府に捨ておかず・・・・・・いのちの道を知らせてくださ」った。その主に「あなたこそ私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません」(照73・25)と、詩人は信頼の讃美を歌います。詩人にとり、すべてを献げ、委ねることのできる主を持つことこそ、何ものにも換え難い幸福でありました。

「地にある聖徒たち」、神を畏れ敬い、謙虚に生きる人生は尊い。キリストのからだである聖徒の交わりに加えられ教会生活を送ることこそ、私たちの喜びであります。しかし、「ほかの神へ走った者の痛みは増し加わりましょう」。神・キリストを知る者、いや、神・キリストに知られ、救われながら、キリストとその教会を捨てることは、「ほかの神」をとることであり、「正しい良心を捨てて、信仰の破船に会う」ことになりましょう(照ガラテヤ4・9、Ⅰテモテ1・19)。汎神論・多神教の日本、経済至上主義の日本にある1%にも満たないキリスト教徒である私たちは、絶えず厳しく、巧みな霊的・信仰的な攻撃と誘惑の中に置かれています。詩人と共に、また主が教えてくださったように「神よ。私をお守りください。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈り、「血を注ぐ彼らの祭りを行わず、彼らの神の名を唇に上らせません」(共)と真の神・キリストを礼拝する者であり続けたいと願います。

ゆずりの地所、杯、受ける分(所領)、嗣業(5~6)は割り当てられた土地・財産のことです(考・カナン定着と12部族への土地分割)。詩人は相続地を与えられなかったレビ族にとっては「主が彼らの相続地である」(ヨシュア13・33)ことを想いつつ、「測り綱は私の好む所に落ちた」と喜び、「主」こそ「私へのすばらしいゆずりの地だ」と歌います。そして助言(み言葉)と私の内なる良心の諭しをもって教え、導いてくださる主を、「いつも私の前に置き」主を仰ぎ見て、み言葉に従う歩みをします。主は私の右におられ、力強く私を保護してくださるので、私はゆるぐことがなく、心も、魂も、体も、恐れや緊張から解放され、喜び踊り、安らぎの中に憩うと歌い、証します。

人生の避けることのできない困難や試練、老いや死に直面して、私たちは詩人と共に「神よ。私をお守りください。私はあなたに身を避けます」と祈ります。その時、主は「私の魂を陰府に捨ておかず、聖徒(「いつくしみに生きる者」共)に墓の穴を見させず、いのちの道を教えてくださいます」。ペテロとパウロはこの10節の預言が「神がイエスを死者の中からよみがえらせ」たことによって成就したと語っています(使徒2・24~32、同13・34)。私たちの罪を贖うために十字架に死に、葬られ、三日目に墓よりよみがえられた主は、私たちにいのちの道を開き、示し知らせていてくださいます。十字架と復活の主キリストからさしくる永遠の光の中を、右にいて導いてくださる主と共に、一途にいのちの道を歩んで行きたいと祈り願いつつ。




生涯の日を数える知恵を

2010年03月14日 | 説教要旨・交読詩篇
詩篇90・1~17/交読文説教(11)

人生の儚さと神の永遠を歌い、生涯の日を数える知恵を得させ給えと祈る90篇は、葬儀の時によく読まれる詩篇である。「生まれるに時あり、死ぬるに時あり」と歌った伝道者は、「祝宴の家に行くより、喪中の家に行け」と言っている。そのようにして心に永遠への思いを与えられている人間は「神を畏れ、その命令を守る」真の知恵(箴言1・7)を学び、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」と告白できるのである(照 伝道者の書3・2、11、7・2、12・13)。

山々を生み、世界を創造された永遠の神は、私たちの代々にわたる住まいである。人間はこの天地の創造者、保持者であり、主権者である神に造られ、生命を与えられ、神の守りの中に赦されて、生かされている。永遠の神こそ「私たちの住まい」、生の基盤である(1~2)。

永遠の神を称えた詩人は、人間の儚い運命を歌う。「神により土のちりより形造られ、生命の息を吹き込まれた人」(創世記2・7)は、神が「人の子よ、帰れ」と仰せられると、「ちりは元あった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る」(伝道者12・7/創世記3・19照)。これが人の死である。人の世の千年は主の目には夜警のひととき。人の一生は短く、儚い。それは、朝は花を咲かせているが、夕べにはしおれて枯れていく草花のようだ(照103・15~16、イザヤ40・6)。この災いに満ちた無常な人生を思い巡した詩人は、それは人間の罪に対する神の怒り、憤りによると知り、「私たちの生涯は激しい御怒りのうちに沈み行き、人生はため息のように消え失せる。私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは、労苦と災いです」と述懐する(3~10)。

私たちの隠れた罪をも御顔の光で照し出し、裁かれる神の激しい怒りの力を誰が知っているか。主を畏れることによってのみ、人は神の御怒りの力を知ることができる(11)。「それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして知恵の心を得させてください」(12)と祈り願うのである。人生が儚く、困難に満ちているのは、私たちが神を信じ、人生の苦しみ、悲哀を神の懲らしめ、訓練として受容し、神の御前に罪を告白し、赦されて感謝し、謙遜に従順に生きるためである。このことを知ることが知恵の心である。

そこで詩人は「主よ。帰って来てください」と祈る。罪ゆえに、神の怒りの下にある人は「み心を変えてください。あなたの僕を憐れんでください」と祈り願うのです(13~17)。

神は「自分の罪過と罪の中に死んでいた・・・・・・御怒りを受けるべき子らであった」(エペソ2・1~3)私たちを愛し、御子キリストの十字架によって「御怒り」を「憐み・恵み」へと変えてくださった(照ヨナ3・10)。私たちの罪に対する裁きがイエス・キリストに下されたことに心より信頼し、人生の苦難も死も、永遠の愛の神のはかり知れない御意思によることと受けとめ、その恵みのうちに、神を讃美し、喜び生きる者とされたい。また、キリストにあってもなお、私たちの内にはアダムが、古い人が生きているが、イエス・キリストによって与えられた救いの恵みに、さらに私たちを迎えに再び帰って来られるとの約束(ヨハネ14・3)に信頼して生きる者とされたい。




わが助けはいずこより

2010年02月14日 | 説教要旨・交読詩篇
詩篇121・1~8/冬季学び会「信仰告白を読む」/交読文(10)

この詩篇は都上りの歌(120~134、全15篇)、エルサレム神殿に詣でる巡礼の歌である。2節ずつ4つに区分される全8節の短い詩篇ではあるが、多くの人に愛誦され、讃美歌301番にも歌われている。

最初の区分「われ山に向かいて目を上ぐ/わが助けはいずこより来るや/わが助けは天地を造りたまえる/主より来る」(1~2)を読むとき、私たちはどのようなことを想い、描くだろうか。この詩は故郷より巡礼の旅に出る時のものとか、エルサレムに近づいた時のものとか、遠く捕囚の地より聖都を想っての歌とかいわれる。いずれにしろこの詩人は人生の旅路において、私・人生そのものを守り支えてくださる力ある真実な主に素朴に信頼している。「信仰とは色々な知識を頭に詰め込むことではない。ただひたすら神の約束を信じて進み行くことである」(ルター)。このことは8節の中に、「主」が5回、「守る」が6回も語られていることに示されている。

巡礼者は旅路の遥か遠く、危険と怖れ、孤独や不安の中で、エルサレムを囲む山々と神殿の建つシオンの丘に想いを馳せつつ(125・1~2)、「天の御座に着いておられる方」「主に向かって目を上げる」(123・1)。即ち、主が祈りに答えてくださることを訴え、見守ってくださることを信頼し、巡礼に上り、旅を続けるのである。詩人は危険と困難に満ちた人生において「私の助けはどこから来るのだろうか」と自問し、「私の助けは、天地を造られた主から来る」と告白した。天のエルサレムをめざして、この地上の旅を続けている私たちも亦「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」(使徒信条)と告白する。私たちの信仰の旅において、私たちを助けるのはではない。また山(神によって最初に造られ、天地宇宙を支えるもの(詩90・2))に代表される被造物でもない。人生の困難、危機から私たちを救出するのは、全てのものを造り、今もそれを御手の中に統べ治めておられる主から来る(照124・8、イザヤ37・16、エレミヤ32・17)。

詩人も私たちも、この世の君が支配し、栄華を誇り、勝利を叫んでいるような世界で、信仰の旅を続けている(それが主の御旨である/ヨハネ17・15)。サタンは遷り変わり、過ぎ去っていくこの世のもの(富、地位、国、自分自身等)をもって、私たちを激しく巧みに攻撃し、誘惑する。しかし、私たちのためにいのちを捨ててくださった良き羊飼いである主(ヨハネ10・11)は、天の都をめざし、荒野を旅する私たちに同道してくださり、まどろむことなく、力ある右の手をもって、あなたをおおい守り、すべての災いから、あなたを守ってくださる(3~8)。だれも主の手より私たちを奪い去ることはない(ヨハネ10・28、ロマ8・39)。まことに私たちの救いは天地を造られた主、十字架につかれたキリストより来る(照Ⅱコリント4・6/聖歌480番)。




主の御手はだれに

2010年02月07日 | 説教要旨・交読詩篇
イザヤ53・1~12/聖餐式/交読文(9)

イザヤ書40章以後はバビロン捕囚と帰還に関する預言である。長年に及ぶ異国での抑圧された生活に疲れ果てた捕囚の民(照40・28~31)は嘆き、呻いた。「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている」(40・27)。「主は私を見捨てた。主は私を忘れた」(49・14)と。そのような民に「労苦は終わり、咎は償われた」と「優しく語りかけ」(直訳は「心に語りかける」(岩波)。「心に染み入るまで語る」「口説く」で主の熱愛を示す)、その思いをなだめ晴れやかにして「慰めよ」と神は言われる(40・1~2)。

私たちも亦、厳しい現実に直面し、神の御意思を計りかね、不信仰に陥り、神の不在、神の沈黙に苦悩し「神は私を忘れた」「神は手を伸ばしてはくださらない」(照50・2)と疲れ、心が荒れたことはなかっただろうか。そして民と同じように「奮い立て、力をまとえ、主の御腕よ」(51・9~10)と、神がさめて、沈黙を破り、あの創造の日や紅海渡渉の奇跡に示した威力を発揮し、私たちを苦しみや困難から解放し、慰めてくれることを願ったことはないだろうか。

「主の御腕は、だれに現われたのか」(1)。主の御腕とは神の働き・活動のことであり「主のみこころ」(10)を成し遂げることである。イザヤは「苦難の僕」に主の御腕が現われたと預言し、新約聖書はそれが主イエスにおいて成就されたと記している(マタイ8・17、使徒8・32~35、Ⅰペテロ2・24)。神の力・働きは苦難の主の僕、主イエスのどこに、どのように現われているのでしょうか。
彼は、人が見とれ、慕うような美しい容貌の人ではなかった(2)。人の力よりも強い十字架の主の弱さにこそ、神の力が現われているのです(Ⅰコリント1・25)。彼は人々に「蔑(さげす)まれ、除け者にされ、見捨てられ、尊ばれなかった」(3)。主イエスは人に侮(あなど)られ、神にも見捨てられた(十字架の時)。こうして主イエスは、苦難・病を罪のゆえと責められ、孤独と恐れの中にいる人と共にあり、その苦しみを分かってくださるのです。さらに「苦難の主の僕」であるイエスは行動においても言葉においても、何の罪もなかったにもかかわらず、「口を開かない」(9)で、ひたすらに「私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」(4)。この苦難の僕イエスなればこそ、苦難の中で、神からの理由(ことわり)も聞けず、人にも分かってもらえない人を救ってくださるのです。

何も罪を犯さず、正しい方であったにもかかわらず、口を開かず、十字架につけられ、神から見捨てられた主イエス。彼は私たちの背きの罪のために打たれ、絶たれた(8)。それは多くの人の罪を負い、義とするためであった。こうして「主のみこころは彼によって成し遂げられた」(10~12)。

苦難・病苦はこの十字架の主イエスが共にあり、背負ってくださる。主イエスは復活の光の中で苦しむ人に真実の希望を与えてくださっている。そして神が人と共に住む御国においては、もはやいかなる罪の結果も、不条理の苦しみもない(黙示録21・3~4)




その響きは全地に

2010年01月31日 | 説教要旨・交読詩篇
詩篇19・1~14/交読文(8)

讃美歌74番は、詩篇19篇に関わるハイドンのオラトリオ「天地創造」から採られている。彼は「創造主への礼拝と賛美の気持ち」を深くされ、「聴く人を創造主の優しさと全能の力にこれ以上なく敏感に」させるために作曲した(「大作曲家の信仰と音楽」)。

多くの詩篇は初めに「主よ」と呼びかけるが、本詩はその呼びかけが末尾にきている。「わが岩、わが贖い主、主よ。」(14)。この信仰告白的な結びの言葉に先立って、詩人は主なる神の創造の御業を告白し、大地に満ちる神の栄光を頌めたたえる(1~6節)。次に主の教え(戒め・み言葉)を通して、まなこを明らかにされ、賢くされ、魂を生き返らされた人は、主のみことばの正しく真実なことを知る(7~11節)。終りに、詩人は広大無限な天地と真実な主のさばき・みことばの前に立って、自分の小ささと罪とを痛感し、その赦しと救いとを祈り願う(12~14)。

元始(はじめ)に、神が創造された世界・被造物は創造主の栄光を讃美し、神を証している{自然啓示}と詩人は詠う。「話すことなく、語ることなく、その声も聞こえないのに、その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ」(口訳)。見える世界が奏でる神への讃歌を詩人は聞いている。これは汎神論や自然を神とすることではない。パウロも亦「神の目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知らされ、はっきりと認められる」(ロマ1・20)と言う。

天は声を発せず、宇宙は直接には語らない。しかし、「みおしえ・あかし・戒め・仰せ・さばき」を与えた主は、そのみことば・聖書{特別啓示}を通して直接に語られる。人はみことばによって生き返らされ、目を明らかにされる。そして初めて天地に響く創造主への讃歌を聞くことができる。同時に、神の指のわざである壮麗な宇宙に比して、卑小な存在でしかない自分を知り、そんな自分を顧みたもう主を知る(照8・3~4、ロマ3・19~20)。そして、詩人はみことばを喜び、自分自身を「あなたの僕」と呼び、主に属する者・主に頼る者であることを言い表す。

自然を通し、歴史(みことば)を通して示される栄光の聖なる神の前に立たせられた詩人は、自分の罪に戦き、こんな罪人をも顧みたもう主に、赦しを乞い、きよめを願うしかなかった(照130・4)。神の赦しと守りのみが詩人を神に責められることのない全き者にし、大きな罪から清められた者とする。それゆえ詩人は「私の口のことばと、私の心の思いとが、御前に受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ」と祈る。

天は神の栄光を語る。その代表である太陽は神の力と恵みを表わし、「物としてその暖まりをこうぶらざるはなし」(6 文))。天地の創造主は私たちの心を照らし、キリストにある神の栄光・恵みを知る者としてくださった(照Ⅱコリント4・6)。十字架に示された神の栄光・愛を仰ぎつつ、心から罪の赦しを祈り求め、また栄光を讃美する者とされたいと願います。




神はわれらの避け所

2010年01月24日 | 説教要旨・交読詩篇
詩篇46・1~11/交読文(7)

詩篇46篇は諸々の災禍から、私たちを守ってくださる万軍の主への信頼を歌った詩篇である(1、7、11)。ルターはこの詩篇を愛誦し、宗教改革を推し進めた「神はわがやぐら」(讃267番、)を作詞作曲しました。また讃286番、アイザック・ワッツもこの詩によっている。

詩人は揺れ動き、立ち騒ぐ世界を見、そこに生きている(照「変る」「移る」(2)、「立ち騒ぐ」(3、6)「泡立つ」(3)「揺れ動く」(3、4、6)「溶ける」(6)。この揺れ動く世界が「地」という言葉で表現され、三つの段落の全てに出てくる(2、6、7~10)。

第一段落(1~3)は「地は変わり、山々が海のまなかに移る」ような、神の創造された世界が根底から揺れ動かされ、地が海中に飲まれ、全地が水に覆われ、未だ光もない闇の、原始の混沌のような世界にあっても「われらは恐れない」と告白する。それは「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け(「苦難の時、必ずそこにいまして助けてくださる」(共)「その助けは悩めるさなかに見出される」(左近))であると信頼しているからである。

第二段落(4~7)は神の都について語る。前701年にアッシリアのセナケリブ王が大軍を率いてエルサレムを包囲攻撃した。イザヤはヒゼキヤ王と人々に「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われる。落ち着いて信頼すれば、あなたがたは力を得る」(イザヤ30・15)と預言し、励ました。その通りに、ある「朝早く」人々は累々たるアッシリア兵の死体を見、神の奇跡を経験した(照5/イザヤ37・36)。エルサレムにはユーフラテス川やナイル川のような大河はない。大河は沃野を作り、豊饒をもたらす。強大な国家と軍事力を約束する。都を静かに流れるシロアハの泉(照イザヤ8・6)は、神が共にいてくださることを象徴し、都の住人にとっては真実のいのちの水であった。詩人はエルサレムの不落信仰(Ⅱサムエル5・6/前述の奇跡は勝利)に頼っているのではない。「われらと共におられる」万軍の主、我らの砦である神に信頼しているのである。

第三段落(8~11)は歴史世界の大規模な戦争と兵器によってもたらされた恐ろしい破壊について語る。詩人が「来て、見よ」という「主のみわざ」は、一切の戦いを止めさせ、一切の兵器を砕かれたことである(アッシリア軍敗退と都の安全)。それゆえ詩人は万軍の主なる神に逆らうことの無益であることを知り、神を恐れ、信頼するよう語る。

一時的にエルサレムの神殿を御自身の「住まい」とされた主は、民と共に移動可能な天幕をこよなく好まれ、民の真中にいて、あらゆる災いから民を守り導く万軍の主である。この天地の主が、土くれにひとしい私たち罪人を救うために「人となって、私たちの間に天幕を張り、共に住んでくださった」(ヨハネ1・14)。常に揺れ動き変化して止まない世界、自然の破壊、戦争や病気等々の中に生きる私たちに、詩人は私たちの真中に来て、共に歩んでくださり、十字架につき、命を賭して私たちを守り抜いてくださる永遠の神のことば、イエス・キリストに信頼するように招いている。




恵み深い主に感謝する

2009年12月27日 | 説教要旨・交読詩篇
詩篇118・1~29/年末主日礼拝/交読文6

「ハレルヤ」で始まる113篇より本詩118篇までは、ユダヤ教の過越祭に歌われた「エジプトのハレル」(照114・1)と呼ばれる讃歌集です。09年の年末主日にあたり感謝礼拝のために編まれた交読文27番の本詩篇を読み、御声を聞きたいと願います。

本詩は様々な厳しく、恐しい苦難から救われた人(「私」)の信仰告白と、それを喜び祝う人々との交唱讃歌である。また「主の御名によって来る人」(26)について預言している。全体は二つの段落(5~18節と19~28節)より成り、「主の恵みはとこしえまで」(1~4節、29節)との讃美の枠に囲まれている。

1節の主語の「あなたがた」即ち「主を畏れる者たち」に、遷り変わることのない「主の恵み(ヘセド)」に「感謝せよ」と呼びかける。「岩」という言葉より派生した「恵み(ヘセド)・慈しみ(ヘセド)」は善意による約束に対する忠実さを意味し、旧約250例の半数のある詩篇では、もっぱら神の人に対する行為について言われている。

困難な恐ろしい苦しみに直面した(何人かの個人?)が、苦しみのうちから、主に呼び求めると、主は、主に身を避ける私を広い所(安全な所)に置かれた。国々が私を包囲し、激しく攻め、倒そうとしたが、私は主の御名によって戦い(考ダビデ×ゴリアテ)助けられた。また、主は私を厳しく懲らしめられたが、私を死に渡されなかった(考イスラエルの捕囚と帰還)。こうして「主は私の救いとなられた」。それゆえ私(人間)の事柄に介入される神の御業を表わす「主の右の手」は高く上げられ、力ある働きをする、と、正しい者の天幕に救いの歓声が響く。主は私の味方であることを知った私は、死なないで、生きて、主のみ業を語り伝えよう。主こそわが救いと。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ロマ8・31)と主を讃美しよう。

「家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石となった」(22)。無用として捨てられた石が建物の最も重要な礎石となった。この驚くべき逆転は主のなさったことで、私たち人間の目には不思議なことである。新約聖書は「主の御名によって来る人」(26)との句を、エルサレムに入城される主イエスに宛てて群集が叫んだと記している(照マタイ21・9と並行箇所)。また主は「「悪い農夫の譬え」(マタイ21・33~46並行箇所)の中で、22~23節を引用し、ご自身の死について予告された。ペテロはユダヤ議会での尋問に次のように証言しました。「あなたがたが十字架につけ、神が死者の中から甦えらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった』というのはこの方のことです」(使徒4・10~11)。更にその手紙の中に「主は人に捨てられたが、神の目には選ばれた、尊い、生ける石です」(Ⅰペテロ2・4~8)と記しました。

私たち人間の目には不思議なこと、十字架に死なれたイエスが三日目に復活された驚くべき出来事が、現実の歴史世界に起こった。「主が造られたこの日」(26)この特別な日、「週の初めの日」(マタイ28・1)を教会は、主イエスの復活を記念し、喜び、楽しむ礼拝の日とした。

新しい年「初めの愛」(黙示録2・4、エレミヤ2・2)を忘れず、主日を聖別し、共に集い礼拝を捧げ、喜び楽しむ日といたしましょう。

罪をおおわれた人

2009年11月22日 | 説教要旨・交読詩篇
詩篇32・1~11/交読文(3)

この詩は悔い改めの七つの詩篇(6・32・38・51・102・130・143)の一つです。「知恵の初めは己自身の罪を知るにあり」を座右銘としたアウグスチヌス(354~430)は、この詩篇を愛し、読むたびに涙し、死の床にあっては慰めを得たと伝えられています。同時に彼は「天の御国をめざして、あなたの義を当てにするな。罪を犯すために、神の恵みを当てにするな」と、罪の告白が誠実になされ、赦しの恵みにふさわしい歩みをするよう戒めています。

標題「ダビデのマスキール/教訓詩」より、ダビデがバテシェバと姦淫の罪を犯し、預言者ナタンによって指弾され、罪を告白し、その赦しを嘆願したのが51篇であり、32篇は罪の赦しを感謝し、神との交わりを回復された喜びと安全を歌い、その体験によって与えられた教訓を語っているものと言われます。それは亦、イスラエルの経験でもありました。教会はパウロが1、2節を引用(ロマ4・6~8)して以来、この詩をイエス・キリストの赦しの光の下で読んできました。

詩人は罪を赦されたことを感謝し、そのさいわい・祝福を歌います(1~2)。これは主イエスが「心の貧しい人は幸いです」(マタイ5・3)と言われたことと同じです。このさいわいな人とは心に欺きのない人です。主はそのような人の罪を数え上げず、その罪をおおい、赦してくださるのです。

ところが詩人は、自分の過ちを認めず、言葉にすることを拒み、隠します(考 アダムは藪に隠れた。創3・8)。そのため詩人は「一日中、呻いて、骨々は疲れ果てました。それは御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄(力、気力)は、夏の日照りで乾ききった」からでした。神への沈黙、重い御手への抵抗は、詩人の全身全霊を疲れ果てさせ、生気を衰えさせたのです。

その時、詩人は自分の罪を隠さず、主に告白します。詩人は苦悩と悲惨のどん底で、自分の罪を認めたのです。自分の心を偽らなかったのです(考 放蕩息子 ルカ15・17)。「その時、あなたは私の罪のとがめを赦されました」。詩人が深い心の葛藤に耐えられなくなり、自分を神の御前に投げ出した時、主は即座に罪の罰を取り除いてくださったのです(考ルカ15・20~24)。

主の赦しを経験したこの時、詩人は神に出会ったのです。「悩める時の、いと近き助け」である神(詩46・1)に救われた詩人は、また聖徒たちはみな、罪を数え上げず、おおい、赦してくださる神である「あなたにお会いできる間に」祈るのです。

さらに詩人は、自分のこの経験から人々に、自分を偽らず、神の手を拒まず、素直に自分の罪を認め(照Ⅰヨハネ1・8~10)、「お会いできる間に、近くにおられるうちに」(イザヤ55・6)ほかにはいない「あなたのような神」、「咎を赦し、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれる」(ミカ7・8)「あなた」に立ち帰り、キリストの十字架による赦し、救いの恵みに感謝して、喜び生きる者となるよう呼びかけているのです。

私のための食事 

2009年11月01日 | 説教要旨・交読詩篇
詩篇23・1~6/聖餐式/交読文2

詩篇の中でも最もよく知られ、多くの人に愛唱されてきた23篇は、葬儀式の中でも朗読される詩篇です。それは、六節しかないこの小詩が、時空を越えて、私たち信仰者の心に響き、魂を生かし励ますからでありましょう。

この讃歌はダビデの晩年に詠まれたものでしょう。かつて父エッサイの羊を飼っていた少年時代(Ⅰサムエル16・11)、またイスラエルの第二代目の王に任命されて以後の日々を回想しながら、ダビデは「主は私の羊飼い。私は乏しいこと(「欠けること」共・岩波)がありません。主は私を緑の牧場に伏させ、憩いの水のほとりに伴われます」と歌います。イスラエルの王ダビデには、「何も欠けること」はなかったろう、と僻(ひが)むのは間違いでしょう。「乳と蜜の流れる地」「年の初めから年の終わりまで、あなたの神、主が絶えずその上に目を留めておられる地」(申11・8~12)に生きる聖書の民は、「暗闇の中、死の地と死の陰に住んでいた人々」(照イザヤ9・2、マタイ4・16)であり、「日毎の糧」を必死に祈り求める乏しさの中に生きた人々でありました。ダビデ王も国家・政治問題で、また夫婦や親子関係等で苦悩し、赦しと助けを嘆願した人でありました。

それにも拘らず、「私は乏しいことがありません」と歌えるのは「私の羊飼い」である主が、迷える一匹の羊に過ぎない私を「伏させ、憩わせ、伴い、生き返らせ」て下さったことによるのです(ルカ15・4、イザヤ40・11)。「羊がいのちを得、またそれを豊かに持つために……羊のために命を捨てる」よい牧者なる主のお働きのゆえです(ヨハネ10・10~11)。

「死の陰の谷を歩くこと」が暗示するような自分の罪・不誠実さから来る恐怖、大きな試練、意気消沈させるようなひどい仕打ち等に遭っても「災いを恐れない」のは、「あなたが私と共におられる」からです。暗闇の中、死の陰に怯えている私たちと共にいて下さる羊飼いである「あなた」が、羊を守る笞と杖をもって、羊を襲う獣と闘い、私たちを守って下さるからです。

かつて奴隷の地エジプトから解放された民は荒野をさ迷いました。その時、民は「神は荒野の中で食事を整えることができようか」と呟き、神を信ぜず、御救いに信頼しませんでした。しかし、神は天の戸を開き、彼らの上にマナを降らせて下さいました(詩78・19~24)。聖書の神は、「私の敵の前で、私のために食事を整えて下さる」お方です(考 逃れの町・民数35・22/ゼカリヤ3章)。

罪から解放され、義の奴隷・神の奴隷とされた私たちは、荒野のような世界で、なお肉の弱さを持って生きています。そのため罪を犯し、不信仰に陥ります。そんな私たちのために、神は天から下って来て、世にいのちを与えるいのちのパンであるキリストを私たちに賜りました(ヨハネ6・26~40)。そして、御子キリストは「これはあなたがたのための、わたしの体です。……この杯はわたしの血による新しい契約です」(Ⅰコリント11・24~25)と言われ、聖餐を定められました。神が整え、招いて下さる主キリストの食卓に信仰と感謝をもって与りましょう。

聖書を生きる人に

2009年09月20日 | 説教要旨・交読詩篇
詩篇1・1~6/敬老主日/交読詩篇(1)

敬老主日のきょうから、交読詩篇を月一~二回のペースで読んでまいりたいと思います。詩篇一篇は、二編とひとつになって、詩篇全体の序として詠われたものと言われます。(考・両詩とも表題がなく、「幸いなことよ」で第一篇は始まり、第二篇は終わっている)。初めの「幸いなことよ」との言葉をもって、詩篇全体は私たちを滅びに至る道ではなく、神に祝福された道に歩むように招いています。

主イエスも山上の教えの結論として、砂上に楼閣を建てる愚かな人となるな、盤上に家を建てる賢い・人になるよう諭されています(マタイ7・24~27)。

誰でも詩篇を読むとき、自分の状況にあった祈り・詩篇を見出し、慰めを受けると記し、詩篇を「小聖書」と呼んだルターが聖書の精髄としてキリストの福音を発見したのは詩篇講解をしていた時でありました。換言すれば、ルターは詩篇の中に十字架と復活のキリストを発見し、神のことばであるキリストを証言する聖書をドイツ語に翻訳し、「キリストの福音にふさわしく生活する」(ピリピ1・27)ことこそ、聖書を生きること、幸いなことである、と語ったのです。

詩人は「幸いな正しい人」とは、消極的には「悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かなかった」「悪い人の誘いに乗らず、罪人の生き方をまねず、傲慢な人間の仲間にならなかった」(左近淑)人であります。悪人・罪人・嘲る人とは不道徳な犯罪人を意味せず、神に逆らい、的はずれの生き方をし、聖なるものを軽蔑する傲慢な人間のことです。そのような人は、「風が吹き飛ばす籾殻のようだ。それ故、裁きに耐えられず、正しい者の集いにいられない」。

詩人が言う、「幸いな人」とは「主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ」人、主がその道を知っておられる「正しい人」です。「その人は水路のそばに植えられた木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は何をしても栄える」。エレミヤも亦、自分を誇らず傲らず、主を信頼する人こそ幸いであり、正しい人であると語っています。(エレミヤ17・7~8)。

ところでルターは詩篇講解の冒頭で、この幸いな人とはキリストを指すと記しています。キリストだけが「幸いな正しい人」です。私たちは神に敵対していた不敬虔な罪人です(ロマ5章)。私たちはただ、キリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められ、神の子どもとされた存在(もの)です。イエスこそ真の葡萄の樹、私たちはその枝です(ヨハネ15章)。私たちは主イエスに留まるとき、「時が来ると」初めて実を結ぶことができるのです。更には、なかなか実を結べない私たちですが、主は今も執り成し、実りを待っていて下さいます(照ルカ13・6~9)。時期が来たら必ず実るという神の時に信頼し、どんな状況でもキリストに留まり、落ち着いた信仰・教会生活を送りたいと願います。