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香柏だより

福岡市東区の香椎バプテスト教会です。
聖書の言葉には、ひとを生かす力があります。
礼拝では手話通訳もあります。

国と力と栄光は神のもの

2008年03月09日 | 説教要旨・主の祈り
マタイ6・9~13/四旬節・レント/主の祈り(8)

主の祈りの結びの句「国と力と栄光とは限りなく汝のものなればなり」は主が教えられた祈りの中には元来なかったものといわれます(照聖書本文と脚註)。この政治的な文言の頌栄は初代教会が主の祈りを祈り続けるうちに付け加えられた言葉でしょう。クリスチャンとはイエスをキリスト(メシヤ「油注がれた王」)と信じる人のことです。十字架のイエスこそ神の国の王であると告白する人々の集まりがキリスト教会です。国と力と栄光を自分のものにしようとするのが悪魔であり(マタ4・1~11)、その悪魔に唆されて神のようになろうとして罪に堕ちた人間です(創3・5、10・8~10、11・5)。それゆえこの世の支配者たちは自分の国を築くために力を行使し、自分の栄光を求めます。ローマ皇帝は自らを神・救主と称し、大帝国を支配しました。そのような圧迫の中で初代教会は「国と力と栄とは、とこしえにあなたのものだからです」と祈り始め、祈り続けたのです。

悪魔の試みを受けた後、イエスは「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」と宣べ伝えられました(照マコ1・12~15)。この世の国とは異なる神の国の王は、十字架のイエス・キリストにおいてご自身を現わされた神であり、私たちキリスト者はそのことを信じて、その神が支配される神の国の国籍を持つ者とされました。

罪深い私たちが地より天へ目を挙げ、自分の栄光ではなく神の栄光を祈る者となったのは、決して自分の力によることではなく、ただ神の力、十字架の福音によります(ロマ1・16、Ⅰコリ1・18)。「イエスは生ける神の子キリストです」と告白するキリスト者と教会は陰府の力も打ち勝つことができない神の力によって守られ、存在させられているのです(マタ16・13~19)。それゆえこの世の力を恐れ、この世の栄光に魅せられる弱い私たちをご存知の主イエスは、恐れずにキリストを告白するように言われます(マタ10・26~33/Ⅱコリ12・9~10)。

使徒12・20~23には人々の「神の声だ」との叫びを満足気に聞き「神に栄光を帰さなかった」ために死んだヘロデ王の事件が記されています。自分の栄光を求める罪深い私たち人間が、神に栄光を記すことは簡単なことではありません。主は十字架こそ栄光の時と語られました(ヨハ12・23~24、13・31~32/イザ53章)。パウロは、神は十字架の死にまでも従われたキリスト・イエスに栄光を与えられたこと、また十字架のイエス・キリストを信じ告白することが神の栄光を現わすことである、と記しています(ピリ2・5~11)。私たちは自分の罪をキリストが十字架に死ぬことによって赦して下さったことを信じ、神を喜び、神に感謝する者とされて始めて、神に栄光を帰す者となれるのです(考ウェストミンスター信仰問答、バッハのSDG、ヨハ15・8)。

アーメンとは「真実です」「その通りです」という意味です。主の祈りを声を合わせて祈りアーメンと終えるとき、私たちは主の祈りは私たちの熱心によらず、「アーメンである方」(黙3・14)によって確実である、真実であると信じ、肯定しているのです。

我らを救い出したまえ

2008年02月24日 | 説教要旨・主の祈り
マタイ6・9~13/主の祈り(7)

主の祈りの最後(第六)の祈願は「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」という叫びです。かつてガリラヤ湖で弟子たちが乗った舟が激しい嵐に遭い、大波に呑まれそうになった時、彼らは同船されているイエスに「主よ、助けてください。私たちはおぼれそうです」と叫び祈りました(マタ8・23~27)。キリスト教図像学によれば、こうしたテーマの図像は嵐に翻弄される小舟(教会)の中にキリストは留まり、共に航海されることを描いているものといわれます。

自ら悪に誘惑されることのない神は、人を誘惑したりはされません(ヤコブ1・13)が、私たちを訓練するために試練をお与えになることがあります(ヘブ12・4~11)。「吠えたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと探し回っている」悪魔(Ⅰペテ5・8)が、「光の天使を装う」(Ⅱコリ11・14)狡智な誘惑者として私たちを騙し、唆し、誘惑し、罪に陥れるのです。更に言えば、悪魔は神の試練に乗じて人を誘惑しようとします。神は悪魔の誘惑を用いて人を訓練されます(ヨブ1~2章)。しかし、私たちにはそれを区別することはできません(照聖歌614番)。

私たちの心の傾向・願望とは反対の祈りを教えている「主の祈り」の最後の祈願は不思議な安らぎを与える祈りです。それは神でありながら人となられた主イエスは「私たちと同じように」その生涯を通して悪魔の激しい試みを受けられ(マタ4・1~11、同16・21~23、ルカ22・28、39~46)、「この世の君」の力と「私たちの弱さ」を知っておられるその主イエスが「主よ、助けて下さい。救い出してください」と祈り叫びなさいと教えておられるからです(照詩50・15)。なんとやさしさと慰めに満ちた言葉でしょう。自分の弱さ、罪を知る者は、ただ神の恵み、キリストの力に頼るしかないのです(Ⅱコリ12・9~10、ロマ7・15~20、24~25)。

パウロはエペソ書の終り(6・10~20)で「主権と力、暗闇の世界の支配者」である「悪魔の策略」に対して「神のすべての武具を身に着けなさい」と命じ、「祈りなさい」「祈ってください」(各2回)と記しています。私たちを神から引き離し、神なしの世界観・人生観の中に引き入れようとする悪魔の力は決して小さくはありません。しかし、救主イエスは十字架の死と復活によって罪と死を滅ぼし、悪魔に勝利されました。このキリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すものは何もないのです(ロマ8・31~39)。この神、主イエスが夜の嵐の湖で漕ぎ悩み、恐れ惑う弟子たちの小舟に乗り込み、風も波も静めて下さったように(マタ14・22~33)、神が見えないような、御旨を損ねるようなことが多く起こるこの世界の中に生きる私たちに、十字架を仰ぎ、復活を想い「我らを救い出したまえ」と祈るよう教え、今日も私たちの信仰がなくならないよう祈っていて下さるのです(照ルカ22・31~32)。

私たちは「我らを試みに負けない者とし、悪に打ち勝たせたまえ」と祈らなくていいのです。「平安で静かな一生を過ごすため」に弱さを知り、恵みの救いの中に生きる人々と共に、主の祈りを捧げ、またすべての人々のために願い、祈り、とりなし、感謝を捧げて生きていくことこそ、私たちに対する主のみこころなのです(照Ⅰテモ2・1~3)。

われらの罪をも

2008年01月27日 | 説教要旨・主の祈り
マタイ6・9~13/主の祈り(6)

第五の祈願は「そして、私たちの負い目をお赦しください」と第四の祈願に続く形となっています。体にとりパンがなくてはならないように、霊魂にとり罪の赦しは不可欠の深刻な事柄であることを示しています。「主の祈り」の中で、この祈願が祈りにくいのは「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しましたように」という言葉が伴っているからでしょう。換言すれば、私たちは自分に罪を犯した人をなかなか赦せないことを知っているからでしょう。何故他者を赦せないのか。それは私たちが自己を絶対化し、自分の正しさを主張し、他者を裁くからです(考7・1~5)。

では、どうしたら自分を苦しめた人を赦すことができるのでしょうか。第五祈願の順序は私たちは他人の罪を赦すことを語る前に、自分の罪の赦しを願うように求めています。私を傷つけた人の過ちを思う前に、神を苦しめた私の罪過を思い巡らすように語り、そこにこの祈願を祈ることができると示唆されているのです。そして、第五祈願の順序と聖書(エペ4・32、、コロ3・13他)は、私たちがキリストによって自分の罪・負債を赦されていることを知る時、私たちは赦す者となることができること、即ち赦された経験をした者こそが赦すことができると語っているのです。ですからある人はこの祈願を「負い目のある者の祈り」と題しました。

ペテロが主イエスに「兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか」と尋ねた時、主は「仲間を赦さない僕の譬」をもって答えられました。これは主人の憐みにより六千億円を赦してもらいながら、そのことを自覚せず、百万円を貸している人を赦さず、牢に入れた僕の譬です。そして主は弟子たちに「あなたがたも心から兄弟を赦さないなら・・・・・・」と警告されます(照マタ6・14~15、マコ11・25)。自分に負い目のある人を赦そうとしないこの僕の姿こそ人間の正体です。こうした人間が自分に損害をもたらす人を赦すことは、人間の努力や性向によることではなく、ただ私たちの大きな罪・負債を赦して下さった神の憐み・愛に気付き、感謝して生きるところに生起するのです。

「私たち」教会、キリストにある神の家族の交わりは、神がキリストにおいて私たちを赦して下さったように、互いに赦し合うことから生まれる交わりです。神の求めに応えず、為すべき善を行なえず、してはならない悪を行ない、神に対して罪(負債)を重ねる私たちを、神はその独子キリストを十字架に付け、「私たちの債務証書を無効にし」(コロ2・13~15)この神を信じる者を「義(罪・負債はない)とみなされます(原意・ある人の勘定に入れる)」(ロマ4・5)。それゆえ教会は、神と人間との間を引き裂く深刻な罪の問題を語り、同時にイエス・キリストの十字架に示された罪の赦し、信仰による救い=信仰義認という恵みの福音を宣べ伝え続けるのです。そのとき「私たち」キリスト者の集まり(教会)の中に「主の祈り」第五祈願が実現していくからです。

日ごとの糧を

2008年01月20日 | 説教要旨・主の祈り
マタイ6・9~13/主の祈り(5)

「何を食べるか、何を飲むか・・・・・・心配するのは止めなさい。・・・・・・あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。・・・・・・これらのものはすべて与えられます」(6・31~34)と教えられる主は、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈るように教えられます。この第四の祈願は前半で「御名・御国・御心」後ろに「罪の赦し・試練と救出」という広大で深い祈願に挟まれて「日ごとの糧」という日常の生活臭の漂う祈願です。このことはキリストを信仰するとは精神的・抽象的なことではなく、食事の臭いの立ちこめる日常の生活の場で、この肉体をもって、具体的に主に信頼し生きていくことであることを物語っています。

「日ごとの糧」とは聖書脚註にあるように「明日のための糧」(アラム語で書かれたヘブル人の福音書)「必要な糧」(共)。「その日の食べ物」(塚本)のことです。私たちが天父を信頼して祈り求める糧とは食物・着物・家・財産・健康・教育・友人など生きていく上でなくてはならない全てのもののことです(ルター)。主は私たちに神の愛を疑わず、遠い将来、「これから先何年分も」(ルカ12・19)の糧を蓄えるのではなく、一日の生命を維持するための必要な糧を日ごとに祈り求めるよう教えられたのです(考マナ・出エ16・14~21)。

この祈願は飽食の時代に生きる私たちに〝何を食べ飽きているのか〟〝真実に日ごとの糧を食しているか〟と問いかけます。「なぜ、あなたがたは糧にもならないもののために金を払い・・・・・・労するか。わたしに聞き随い、良い物を食べよ」(イザ55・1~2)。そして石を糧に変える奇蹟により、救主への近道をと誘惑したサタンに対し、主が言われた聖句を想い起こさせます。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(4・4、申8・3)。「日ごとの糧」は私たちに人間を究極的に生かすものを指し示しています。

二魚五餅をもって五千人を養われた時、イエスを王にし「日ごとの糧」のみを求める人々に、イエスは人間を本当に生かす「永遠のいのちに至る食物・天から下って来て世にいのちを与えるパン」であるご自身を信じるように諭されました(ヨハ6章/マタ14、マコ6、ルカ9)。そして最後の晩餐の席で、パンと葡萄酒をもってこのことを明らかに示し、私たちを聖餐式・主の食卓に招き、「明日の」神の国での「盛大な晩餐会」を約束して下さっています。

飽食と飢餓の今の世界にあって、物質的な事にも関わり、「日ごとの糧」を与えたもう神に信頼し、感謝して生きていきましょう。同時に「私たちの日ごとの糧をきょうも私たちにお与え下さい」(直訳)と祈る者として、私の隣人を忘れず、優しい心をもって生きていきましょう。「恵み」の老人のように神の恵みに感謝して「一切れの乾いたパンがあって、平和であるのは、ご馳走と争いに満ちた家にまさる」(箴17・1)ことを生きる者、私を強くして下さる方によって、いかなる境遇にあっても満ち足りることを知り生きる者でありますように。

みこころの天になるごとく

2007年11月25日 | 説教要旨・主の祈り
マタイ6・9~13/主の祈り(4)

神は天と地を創造し、良しとされました(創1章)。しかし、アダムの堕落により地は呪われ、自己中心的になった人間は神をあがめず、心の欲望のままに生きる存在となりました(照ロマ1章)。そのような中から救われた私たちですが、「みこころが天で行われるように地でも行なわれますように」と祈るとき、「神が天で行われていることを、神を信じ従うあなたは、地で行うよう努めなさい」と偏って考えたり、この祈りは諦めてあなた委せでただ唱えるものと考えてはいないでしょうか。この主の祈り第三祈願は天において神の御意思が完全に実現されているように、地(この世界)に対する神の御業が明らかに示されることを切に祈願しているのです。

神のみこころは何でしょうか。それは罪ゆえに滅びゆく人間を救い、神との平和を回復することです。そのために神は御子を世に遣わされました。それゆえ御子イエスは「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げること」こそ生涯の目的であると言われました(照ヨハ4・35、5・30、6・38)。その主イエスが十字架の前夜、ゲッセマネで「深く恐れもだえ」「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」と弟子たちに言い、「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままをなさって下さい」と汗が血の滴のように地に落ちるほど切に祈られました(マタ26・36~46、マコ14・32~42、ルカ22・39~46)。この前半の願いは聞かれず、主イエスは捕らえられ、十字架に磔殺されました。それが「あなたのみこころ」でした。

パウロも「肉体のとげ」を取り去って下さるよう「三度も主に願いました」。主の答えは「否」でした(Ⅱコリ12・7~9)。モーセは40年間イスラエルの民を連れ荒野を彷徨し、約束の地を目前にして「私に渡って行って、あの良い地・・・・・・を見させて下さい」と懇願しましたが、主は「この事は二度と口にするな」と厳しく言われました(申3・23~29)。「あなたのみこころが、天のごとく地にも行われますように」と祈ることは、自分の思いや欲することが成就することを願うのではなく、自己中心の願いが浄化されて、神の聖く恵み深いみこころが私(達、教会)を通して成就し、現われますようにと祈願することです。「杯」は取り去られず、神の御子が十字架につけられたのは、それが「あなたのみこころ」であったからです。即ちイエス・キリストの十字架は神のみこころの最終的な、決定的な現われなのです。罪人を救おうとする聖愛の神のみこころは主イエスの十字架において明らかに示されたのです。このことを知ったヨハネは「キリストは私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。・・・・・・ですから私たちは兄弟のために、いのちを捨てるべきです」(Ⅰヨハ3・16)と、主の祈りを祈る私たちに勧めています。「私たちすべてのために、ご自分の御子さえ惜しまずに死に渡され」「神を愛する人々のためにはすべてのことを働かせて益として下さる」神(ロマ8・28~32)は、人が悪を企んでも、それを善に変え、みこころを実現してくださる方です(創45章、50・20ヨセフ)。それゆえ、聞かれない祈りは最も深い祈りであることを知る私たちは神の恵み深い御手に委ねて、「あなたのみこころの行なわれますように」と切に祈るのです。

み国を来たらせたまえ

2007年11月18日 | 説教要旨・主の祈り
マタイ6・9~13/主の祈り(3)

第二の祈りの直訳は「あなたの御国が来ますように」です。「国」という言葉は場所というより支配を意味します。ですからこの祈りは「アバ父よ。あなたの御意思が実現し、あなたの支配が行き渡りますように」と祈願しているのです。決して私の縄張りが大きくなりますように、わが国の領土が拡大しますようにではありません。

マルコは「神の子イエス・キリストの福音の初め」、荒野での誘惑の後、ガリラヤに行かれた「イエスは神の福音を宣べ伝え、『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」と記しています(1・1、14~15)。この世の君である悪魔がイエスに「この世の全ての国々とその栄華を見せ、『もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部与えよう』と言った時、イエスは断固それを拒否され、『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と言われた」(マタ4・8~10)。神の国はこの世のものではないのです(照ヨハ18・36)。この世の方法や価値観、秩序等によって成立するのではありません。

イエスの福音宣教の第一声は、すべての人が神の国に招かれていることを語っています。そしてイエスは最初の弟子たちを招かれました。彼らはエルサレムの指導者たちから「無学な普通の人」(使徒4・13)と軽蔑されたガリラヤの漁師でした。続いて汚れた霊に憑かれた人、思い皮膚病の人、中風の人などを癒された主が取税人レビ(マタイ)を招かれると、彼は立ち上がって従いました。それからマタイの家で食卓に着かれたイエスと共に、多くの取税人や罪人も同席しているのを見たパリサイ派の律法学者が非難すると、イエスは「わたしが来たのは正しい人を招くためではなく罪人を招くためである」と言われました(マコ12・13~17)。

「神の国は見える形では来ない。実にあなたがたの間にある」(ルカ17・20~21共)と語られた主は、神の国を王子の結婚の披露宴にたとえ、それを理由をつけて断った招待客と急にその食卓に与った良い人や悪い人、貧しい人や体の不自由な人等について語られました(ルカ14・15~25、マタ22・1~14)。こう語られた主は「小さな群よ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は喜んであなたがたに御国をお与えになるからです「(ルカ12・32)、また「取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです」(また21・31)と言われています。

「御国を来たらせたまえ」と祈ることは「悔い改めて福音を信じる」ことです。ですから理由をつけ、自分を正しい人間とし、神の国の招きを断ることのないようにしましょう。正直に罪を認め、神の子の十字架による罪の赦しを信じ、その愛と恵みに応えて、感謝して、神の御旨(御意思)に喜び従って生きる者とされましょう。同じ罪ゆるされた罪人として、他人を審かず、赦し合い「神の国はあなたがたのただ中にある」(ルカ17・21)教会となっていけますように。そしてこの素晴らしい「神の国の福音」を家族、友人が信じるよう「宣べ伝え」ていきましょう。

御名をあがめさせたまえ

2007年10月28日 | 説教要旨・主の祈り
マタイ6・9~13/主の祈り(2)

原文「聖とされますように お名前が あなたの」を口・改・共訳は「あなたの御名があがめられますように」と訳しています。「御名をあがめさせたまえ」(文)は、人間の祈願と同時に、私によって「御名が大きくされますように」(照ルカ1・46)と誤解される恐れもありましょう。主の祈りは、永遠から永遠まで聖である神の御名が、私の努力で人々に認められるほど大きくなりますように、との不敬虔不遜な祈りでは決してありません。

主の祈りのはじめの三つは「神のため」に祈り、後の三つは「私たちのため」に祈ります。私たちの日常の祈りは、先ず自分のためとなってはいないでしょうか。家内安全・商売繁盛、学業成就・無病息災等。或いは道徳的・社会的に立派な人間になりたい等、方向と目的は自分に向いています。そのような祈りは主の御名によって祈りながら、奉仕や犠牲的行為の陰に、計算や要求、功名心が隠されてはいないでしょうか。「あがめる」とは「聖とする」ことです。私たちが「あなたの御名があがめられますように」と祈るとき、神の名、支配、思いがいかなるものによっても妨げられ汚されることなく、聖とされることを願っているのです。

私たち人間は、アダムの堕落により神の聖なる御名を汚し、神を讃美せず、感謝せず、創造主に代えて被造物を崇め拝む者となりました(ロマ1・21、25)。このような人間に神は色々な方法でご自身を啓示して来られましたが、終わりの時には御子によってご自分を明らかに示されました(ヘブ1・1)。こうして人はイエス・キリストによって神(の御名)をあがめ、喜ぶことができるようになったのです。換言すれば、神が遣わされた独子キリストとその十字架と復活によって、神がだれで、いかなる方であるかを知らされた者、「子として下さる神の霊」をいただいた者(ロマ8・15)だけが神を「アバ、父」と呼び、「あなたの御名があがめられますように」と祈ることができるのです。

十字架の日が近づいたある時、主イエスは「わたしの心は騒いでいる。・・・・・・父よ、御名の栄光を現わしてください」(ヨハ12・27~28)と祈られました。私たちが、「あなたの御名があがめられますように」と祈ることは、日常、自分の十字架を負いつつ、神が御子キリストにおいて示された愛、十字架による罪の赦し、復活による救いの恵みに感謝し、神の栄光を現わす生き方をすることです。キリストの福音にふさわしく、良い行いに歩むことです(ピリピ1・27、エペ2・8~10)。その第一歩は礼拝の生活です。あの放蕩息子のように、父の御許に立ち帰り、父の愛に包まれることです(ルカ15・11~24)。あの取税人のように、赦しを乞い、神を礼拝することです(ルカ18・9~14)。さらに具体的に言えば、御名をあがめる、大きくするとは、自分を小さくすることです。自分中心の日常生活を中断し、週の初めの日を正しく聖別し、イエス・キリストの神の前に出て、共に礼拝を捧げる生活をすることです。