マタイ6・9~13/四旬節・レント/主の祈り(8)
主の祈りの結びの句「国と力と栄光とは限りなく汝のものなればなり」は主が教えられた祈りの中には元来なかったものといわれます(照聖書本文と脚註)。この政治的な文言の頌栄は初代教会が主の祈りを祈り続けるうちに付け加えられた言葉でしょう。クリスチャンとはイエスをキリスト(メシヤ「油注がれた王」)と信じる人のことです。十字架のイエスこそ神の国の王であると告白する人々の集まりがキリスト教会です。国と力と栄光を自分のものにしようとするのが悪魔であり(マタ4・1~11)、その悪魔に唆されて神のようになろうとして罪に堕ちた人間です(創3・5、10・8~10、11・5)。それゆえこの世の支配者たちは自分の国を築くために力を行使し、自分の栄光を求めます。ローマ皇帝は自らを神・救主と称し、大帝国を支配しました。そのような圧迫の中で初代教会は「国と力と栄とは、とこしえにあなたのものだからです」と祈り始め、祈り続けたのです。
悪魔の試みを受けた後、イエスは「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」と宣べ伝えられました(照マコ1・12~15)。この世の国とは異なる神の国の王は、十字架のイエス・キリストにおいてご自身を現わされた神であり、私たちキリスト者はそのことを信じて、その神が支配される神の国の国籍を持つ者とされました。
罪深い私たちが地より天へ目を挙げ、自分の栄光ではなく神の栄光を祈る者となったのは、決して自分の力によることではなく、ただ神の力、十字架の福音によります(ロマ1・16、Ⅰコリ1・18)。「イエスは生ける神の子キリストです」と告白するキリスト者と教会は陰府の力も打ち勝つことができない神の力によって守られ、存在させられているのです(マタ16・13~19)。それゆえこの世の力を恐れ、この世の栄光に魅せられる弱い私たちをご存知の主イエスは、恐れずにキリストを告白するように言われます(マタ10・26~33/Ⅱコリ12・9~10)。
使徒12・20~23には人々の「神の声だ」との叫びを満足気に聞き「神に栄光を帰さなかった」ために死んだヘロデ王の事件が記されています。自分の栄光を求める罪深い私たち人間が、神に栄光を記すことは簡単なことではありません。主は十字架こそ栄光の時と語られました(ヨハ12・23~24、13・31~32/イザ53章)。パウロは、神は十字架の死にまでも従われたキリスト・イエスに栄光を与えられたこと、また十字架のイエス・キリストを信じ告白することが神の栄光を現わすことである、と記しています(ピリ2・5~11)。私たちは自分の罪をキリストが十字架に死ぬことによって赦して下さったことを信じ、神を喜び、神に感謝する者とされて始めて、神に栄光を帰す者となれるのです(考ウェストミンスター信仰問答、バッハのSDG、ヨハ15・8)。
アーメンとは「真実です」「その通りです」という意味です。主の祈りを声を合わせて祈りアーメンと終えるとき、私たちは主の祈りは私たちの熱心によらず、「アーメンである方」(黙3・14)によって確実である、真実であると信じ、肯定しているのです。
主の祈りの結びの句「国と力と栄光とは限りなく汝のものなればなり」は主が教えられた祈りの中には元来なかったものといわれます(照聖書本文と脚註)。この政治的な文言の頌栄は初代教会が主の祈りを祈り続けるうちに付け加えられた言葉でしょう。クリスチャンとはイエスをキリスト(メシヤ「油注がれた王」)と信じる人のことです。十字架のイエスこそ神の国の王であると告白する人々の集まりがキリスト教会です。国と力と栄光を自分のものにしようとするのが悪魔であり(マタ4・1~11)、その悪魔に唆されて神のようになろうとして罪に堕ちた人間です(創3・5、10・8~10、11・5)。それゆえこの世の支配者たちは自分の国を築くために力を行使し、自分の栄光を求めます。ローマ皇帝は自らを神・救主と称し、大帝国を支配しました。そのような圧迫の中で初代教会は「国と力と栄とは、とこしえにあなたのものだからです」と祈り始め、祈り続けたのです。
悪魔の試みを受けた後、イエスは「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」と宣べ伝えられました(照マコ1・12~15)。この世の国とは異なる神の国の王は、十字架のイエス・キリストにおいてご自身を現わされた神であり、私たちキリスト者はそのことを信じて、その神が支配される神の国の国籍を持つ者とされました。
罪深い私たちが地より天へ目を挙げ、自分の栄光ではなく神の栄光を祈る者となったのは、決して自分の力によることではなく、ただ神の力、十字架の福音によります(ロマ1・16、Ⅰコリ1・18)。「イエスは生ける神の子キリストです」と告白するキリスト者と教会は陰府の力も打ち勝つことができない神の力によって守られ、存在させられているのです(マタ16・13~19)。それゆえこの世の力を恐れ、この世の栄光に魅せられる弱い私たちをご存知の主イエスは、恐れずにキリストを告白するように言われます(マタ10・26~33/Ⅱコリ12・9~10)。
使徒12・20~23には人々の「神の声だ」との叫びを満足気に聞き「神に栄光を帰さなかった」ために死んだヘロデ王の事件が記されています。自分の栄光を求める罪深い私たち人間が、神に栄光を記すことは簡単なことではありません。主は十字架こそ栄光の時と語られました(ヨハ12・23~24、13・31~32/イザ53章)。パウロは、神は十字架の死にまでも従われたキリスト・イエスに栄光を与えられたこと、また十字架のイエス・キリストを信じ告白することが神の栄光を現わすことである、と記しています(ピリ2・5~11)。私たちは自分の罪をキリストが十字架に死ぬことによって赦して下さったことを信じ、神を喜び、神に感謝する者とされて始めて、神に栄光を帰す者となれるのです(考ウェストミンスター信仰問答、バッハのSDG、ヨハ15・8)。
アーメンとは「真実です」「その通りです」という意味です。主の祈りを声を合わせて祈りアーメンと終えるとき、私たちは主の祈りは私たちの熱心によらず、「アーメンである方」(黙3・14)によって確実である、真実であると信じ、肯定しているのです。