goo blog サービス終了のお知らせ 

香柏だより

福岡市東区の香椎バプテスト教会です。
聖書の言葉には、ひとを生かす力があります。
礼拝では手話通訳もあります。

行いによらず、信仰によって

2014年09月07日 | 説教要旨・ローマ書連講
ローマ3・27~31/聖餐礼拝/ローマ書連講(10)

3・21~31はローマ書の核心部分と言われ、人は信仰によって義とされることが述べられています。前回 8/17はその前半部(3・21~27)から 〝しかし、今や、神の義が〟 と題し、神が義であられ、私たち罪人も義とされる新しい時(「今や/今の時」)が到来したこと、それは旧約(聖書)に証言されてきたように、御子キリストが十字架に磔になり、血を流すことによって、神の代理人として、神の赦しの恵みを人に与え、他方人の代理人として、人の罪の結果としての裁きを、その身に引き受けられたことによることをお話しいたしました。きょうはその後半部から「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、(ただ)信仰による」(28)ということを教えられたいと願います。

生粋のヘブル人、律法については落度のない者と自負していたパウロが「それでは私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでにとり除かれました」(27)と言います。ユダヤ人は「律法を持つことに安んじ、神を誇っていました」(2・17)。律法を行なう功績により、自分を義人だとするその誇りは最終的に、完全に除外されました。〝それはどういう原理によってですか?〟。人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、今やイエス・キリストを信じる信仰を通して与えられる神の恵みによるからです(28)。律法を持つことに安んじ、それを守り行なえると自任し、義人であると誇っていたユダヤ人に、〝律法に定められたことを行なうだけでは、人間は誰一人神の前に義とされない。律法によっては、罪の意識が生じるだけだ〟(20)と言ったパウロは、ここでは積極的、肯定的に 〝人が神の前に義とされるのは、ただ信仰にのみによる〟 と論じます。律法の行ないによらず、恵みにより信仰によって人を義とするこの神は、当然ユダヤ人の神であり、異邦人の神でもあります。この唯一の神が御子キリストを、世に遣わし、十字架に付け、割礼のある者も、割礼のない者をも、信仰によって義と認め、罪を赦してくださるのです(29~30)。

ここでパウロは 〝それではお前はモーセ律法を破棄するのか〟 とのユダヤ人の反対者を想定し 〝決してそうではない。かえって律法を確立することになる〟 と答えます(31)。「律法を確立する」とは、律法の深遠な根本・原則を堅持する、律法を真実に実効化する ― 即ち信仰によって、律法への服従が促進される ― ということです。この姿こそ、律法の行ないによらず、ただ信仰によって義とされた私たちキリスト者に〝律法や預言者を破棄するためにではなく、成就するために来られた〟 (マタイ5・17)主キリストが求めておられることです(→照マタイ5・20/考ガラテヤ5・6「愛によって働く信仰」)。

「律法の行いによらず、ただ信仰によって」神の前に義と認められることにより、律法を成就し、律法を確立することを、次章においてパウロはアブラハムの例を通して説明いたします。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。