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香柏だより

福岡市東区の香椎バプテスト教会です。
聖書の言葉には、ひとを生かす力があります。
礼拝では手話通訳もあります。

レント

2016年02月10日 | キリスト教のことば
灰の水曜日が今日。
ここから復活祭まで、
レントと呼ばれる期間に入ります。

これは教会暦といって、
教会独自のカレンダーに基づくものです。
このレントには、
聖書そのものでの根拠はありません。

ただ、イエス・キリストの十字架への歩みの時期として、
それを深く思い、心に受け止める一定の期間を
設けて、それを過ごすという意味をこめています。

今日のレントは、復活祭までの日を、
主の日である日曜日を除いて数えて
40日前ということになります。
従って、復活祭に応じて、毎年日付は変わります。





この期間、
祈り、断食、そして慈善により、
悔い改めをする時期と考えられています。

季節は、春。
レントという言葉には、
その意味が含まれているのだとか。
そして、立春以降にあたるため、
まだ寒く、キリストの苦しみを思うに
適していると言えるかもしれません。
北半球での考え方ですが。

この直前まで行われるのが、カーニバル。
今のうちに騒いでおこう、みたいにも受け取られますが、
こちらは本来聖書とは本当に無縁なお祭りの様子。

たんに行事にしてしまうにはもったいない話。
黙想をするのに相応しい機会でもあります。
私は、
『十字架への道、復活からの道』
(越川弘英著・キリスト新聞社)から、
深い感動を与えられました。
これには、「レントとイースターのメッセージ」という
サブタイトルが付せられています。

聖書とは

2016年01月15日 | キリスト教のことば
聖書は、66巻から成っています。
旧約聖書と呼ばれる部分が39章、
新約聖書と呼ばれる部分が27章です。
「さんく・にじゅうしち」で覚えられます。

「巻」とはよくいったもので、
かつては巻物の形をとっていたこともあり、
ユダヤ教ではいまも
その伝統の形で聖書が読まれることもあるのだとか。

現代では、
すっかり紙の本になりました。
講壇用の大きなものから、
持ち運びに便利な、
ずいぶん小さなものもできています。





他方、
電子書籍やデジタルメディアとしても、
聖書は広まっており、
これだとますます持ち運びに苦労しなくなりました。
しかも、検索が容易にできます。

インターネットでも、
聖書を各国語で見ることが簡単にでき、
ヘブル語やギリシア語の意味も
即座に調べられるようになっています。
ただし、英語が基本となっていますので、
日本語でそれがなされたらうれしいなあ、とは思います。

メディアは揃いました。
誰でも聖書に触れる準備が整いました。
でも、
聖書があるからといって、
聖書をたとえ読んだからといっても、
誰もが同じように喜びを覚えるわけではありません。

そこから、神に、キリストに、
出会うことが必要です。
聖書のことばが、
自分自身に向けられているとして受けとめるのです。

さまざまな苦しみをお感じの方には、
とくにキリストの愛が注がれていることでしょう。
キリストの傷が、そのために痛みを受けたことでしょう。

聖書のことばが、いのちとなって
あなたの心で輝きますように。

招詞

2015年08月18日 | キリスト教のことば
礼拝のプログラムは、まず
この「招詞」から始まります。
「招きの言葉」と呼ぶ教会もあります。

聖書の朗読ですが、
「招く」という考え方は大変重要です。
礼拝は、人が神を崇めるためでもありますが、
先ず以て、神から人へ言葉を与えるのです。
神からの呼びかけがなされます。

司会者は、その神の思いの代弁者となり、
この日の礼拝に相応しい、最初の呼びかけを聖書に求めます。





神からの呼びかけです。
人から神への言葉も聖書には多く載せられていますが、
招詞に相応しいのは、
神から発された言葉、そして預言者の言葉です。
預言者とは、
神からの言葉を預かっている者のことだからです。

神が礼拝の主催者です。
神が私たちを呼び集めて下さったのです。
そうして、私たちは、神の前に立つことを許されます。

今日、キャンプへ行きます

2015年07月25日 | キリスト教のことば
今日は、うれしい子どもたちの一日キャンプ。
宗像の海へ出かけます。

昨年のキャンプの日は、
この写真のように夏の青空が拡がりました。





この時期、水の事故が報じられます。
交通手段においても、安全が第一です。
どうかお祈りください。

そして、こどもたちにとり、
よい思い出が、また、
すばらしい出会いが、ありますように、と。

礼拝

2015年07月21日 | キリスト教のことば
キリスト教徒は、
毎週日曜日に教会に集まります。
ほんとうは、呼び出されているのですが、
ともかく集まって、礼拝に参加します。

礼拝はもちろん、神を拝む思いに支えられていますが、
聖書の中では、多くの種類の語がその意味で使われており、
同じ「礼拝」と訳すことが可能と言われます。
しかし、日本語からすると、
「ひざまずく」「奉仕する」「信ずる」
そんなイメージの語だとも言えるでしょう。





旧約聖書の時代から、実に創世記の時代から、
礼拝は行われていました。
やがてエルサレムに神殿が造られてからは、
神殿での礼拝プログラムができていきました。

新約聖書の時代において、
特に書簡の頃になると、
キリストに従う者たちの集いが現にあり、
それを礼拝と捉えていたであろうと推測されます。
聖書に触れられていることからしても、
今の時代につながるものがあると言われています。

父・子・霊の神の前に出て、
その言葉や働きを受け、
こちらからも信仰のレスポンスをする。
こうした精神を以て礼拝とする歴史は、
もう二千年ほども受け継がれているのです。

儀式といえば儀式ですが、
この礼拝があるからこそ、
キリスト教会であると言えます。
香椎バプテスト教会も、
この礼拝をつねに中核に置き、
神の声を聞き、神と出会いつつ、
半世紀の歩みを続けてきたのです。

洗礼(バプテスマ)

2015年03月23日 | キリスト教のことば
もともとギリシア語の意味では、
沈めることや洗うことを意味します。
イエスの受けた洗礼(バプテスマ)も聖書に書かれていますが、
ここでは教会に行くようになって私たちが
信じて受ける洗礼を取り上げます。

香椎バプテスト教会は、
この洗礼の意味を教会名に入れています。
キリストの十字架の死と復活を重視し、
それを象徴するに相応しいバプテスマを、
ふつう浸礼といい、全身を水に浸す形で行います。
しかし、他教会で滴礼(頭を水で濡らす)を受けた方も
基本的に教会はそのままお迎えしています。





信仰をもち、それを告白するとき、
バプテスマを受けることができます。
それは、教会員として登録されることをも意味します。
が、
大切なことは、キリストと出会い、
キリストの約束を受けたことを確信して、
キリストの弟子として生きていくことの
始まりであることかもしれません。

とても短い言葉では説明しきれないことでもあります。
ただ、たぶん、構えているとき予想したよりも、
もっと楽になることができるのではないでしょうか。

教会

2014年11月19日 | キリスト教のことば
ギリシア語で「エクレシア」のように言います。
元々ギリシア都市の直接民主制総会を著したといわれています。
「呼び出されたもの」を表します。
これは、建物のことを指すのではありません。





ペンテコステは、伝統的に、
教会の始まった日だとされています。
それまでの弟子たちの弱気が一掃され、
新たな力強い結束のもとに歩み始めたからです。

制度的に固定されてきたのは、
紀元2世紀以降だろうとも言われますがね
新約聖書の書簡の中には、
教会制度関係の用語も見られることから、
かなり初期から一定の組織化はなされていたのでは、
とも思われます。

教会というのは、基本的に人の集まりです。
「家の教会」という呼び方も聖書にあり、
協力者の家庭で集まっていたこともあったようです。
それもまた教会です。

見える教会と見えない教会との解釈は、
カトリックとプロテスタントとの相違にもなっていますが、
他方、教会の外には救いがない、という捉え方も存在します。

教会に属することが救いの条件ではないというのが、
聖書を素直に読んでいく中で感じられる意味ですが、
教会すなわち同じ思いになれる仲間なしで
一人で信仰を適切に保ち続けるというのは、
実のところ至難の業でしょう。

また、互いにつながっている中でこそ、知りうることや、
味わえる良いことがふんだんにあります。
助け合える仲間が与えられる場でもありますから、
思い切って教会に飛び込んでみることを、強くお勧めします。
一般社会よりは、ずっと信頼できる場であると
お感じになるだろうと思います

聖霊

2014年08月04日 | キリスト教のことば
神はまた、聖霊という形でも働きます。
天地創造のときから、神の霊は漂っていたといいます。
イエスの十字架と復活の後、昇天を遂げてから、
聖霊が弟子たちの間に降りました。
その日から、弟子たちは力を得て、
恐れを覚えず大胆にイエスを証言するようになりました。
また、信じるグループが大きな団体・組織となっていくのでした。

聖霊は、聖書ではただ「霊」とだけ書かれていることもありますが、
「霊」には、悪いものもありますから、
しばしば「清い」の形容詞が付いています。
これはまさに、神そのものです。

イエスという、人となった姿で一時地上に現れた神は、
その後形をとらないことで、
見えない働きを随所でなすことになります。
聖書を読もうと思ったり、教会に行く気持ちになったりするのは、
知らず識らずの間に、神がその人の心にはたらいているからです。
つまり、そのとき聖霊が働いた、といいます。





また、聖霊を受けた、という言い方で、
神が霊の形で働いたことを説明することがあります。
聖霊を受けるということには、激しい反応を認めることもありますが、
静かに、イエスがキリストである、と認めたときに、
聖霊を受けたのだ、と説明することも可能です。

ただ、形がない分、
人や教派により、説明が異なることがあります。
その教会の説明がどうしてもなじまない場合、
他の説明もありうるのだ、という理解はしてよいと思われます。

イエス・キリスト

2014年07月23日 | キリスト教のことば
イエスがキリスト教の開祖である、という説明は
多くの人が変だとお気づきなのですが、
イエスが姓でキリストが名だというふうに
思っている方は少なくないようです。

「ナザレ村のイエス」などというのが当時の普通の呼び方で、
「キリスト」というのは、救い主を表す称号です。
ヘブル語では「メシア」と言いました。
イスラエルを救う救世主を指し、
もともとは「油注がれた者」を表す語でした。
古来イスラエルでは、王位継承が
油注ぎという儀式で行われていたからです。





つまり、「イエス・キリスト」という呼び方は、
「イエスこそ、あの待ち焦がれた救い主である」という、
立派な信仰告白であることになります。
これを信じている人が、クリスチャンであるからです。
そうでない人にとっては、
イエスは、キリストというわけではありませんから、
「イエス・キリスト」という言い方はできません。

イエスがキリストである、ということの信仰こそ、
いわばキリスト教のすべてだと言えます。
これを良いニュースとして伝えるのが、
キリスト教の伝道だということになります。

さらに、「主イエス・キリスト」という言い方もあります。
これは、「主」すなわち父なる神を並べていますから、
イエスが神であることを同時に告白していることになりましょう。

三位一体

2014年07月18日 | キリスト教のことば
世間では、三つの力が合わさるときに、
気軽に「三位一体」(さんみいったい)などと言います。
これはできれば考えなおして戴きたい表現です。

ただしこれは神学的な用語であり、
聖書の中には「三位一体」という言葉はありません。
また、歴史的に見ても、
この神学が、とくに初期において
よく議論されたのも確かです。
つまり、解釈に差が現れる教義であるのです。





父なる神・子なる神・聖霊なる神
この三つの姿は、実のところ一つの神である、とします。
子というのは、普通イエスを指します。
しかしこれを攻撃して、多神教であると言ったり、
イエスは神でなく人間であるとか、
神と人間との中間のようなものだとか、
様々な理解を述べたりする歴史がありました。

また、近代においても、
神として呼べるのは父なる神だけだ、とするような
グループもあります。

三つの個性は、「位格」といいます。
働き方はそれぞれ違っても、三つの神なのではなく、
内容的に一体である一つの神だというのが、
キリスト教の標準的な理解です。

父なる神

2014年07月08日 | キリスト教のことば
「天の父なる神さま」という言葉を
お聞きになったことがあるだろうと思います。
キリスト教では、ユダヤ教の伝統の中から、
より、神に親しみをもつ呼び方を採用しました。

ユダヤ民族だけの神というよりも、
すべての人類の神となったとき、
そして、イエス自身が
神を、「父ちゃん」に匹敵するような呼び方で
父として呼んだことに基づいて、
キリスト教は神を父と呼ぶことを推奨しました。

福音書の中でも、
イエスが弟子たちに祈りを教えるところで、
神を父として呼んでいるところがあります。
そして、とくにヨハネの福音書において、
イエスは自分が子であり神が父である、ということを告げ、
二人の一体性を強調しました。





「父なる神」という日本語は、
「父である神」という意味です。
最近は怖くなくなった世の父親と違い、
絶対的な権威のある神は厳父でありましょうが、
親しい交わりと信頼とがそこにあったのです。

神の名

2014年06月17日 | キリスト教のことば
「名」に力があるというのは
世界各地で認められている事柄です。
聖書の神にも「名」があるのでしょうか。





古くは、それを「エホバ」と訳していました。
しかしこれには、ユダヤ側の事情が絡んでいました。

神の名をみだりに口にすることができない、
厳しい掟がありました。
それで、神聖な文字で記した文字を、
ほんとうの言葉で読まないでいました。

それを、文字通りに読んでしまったのが、
聖書を受け継いだヨーロッパ人。
それが「エホバ」のような言葉でした。
これはいわば、
「神」という漢字に「しゅじん」という振り仮名を
振っていたようなものです。
もう少し正確なたとえを用いると、
「神」は「KM」と書かれていたのを、
「syujin」の母音部分を振り仮名として混ぜて「KyuMin」と書いていたため、
「神」を「キュミン」と読むのだ、と受け取ったようなものです。

今の日本語訳聖書の多くは、
神の名が記されているところには
「主」の字を当てています。
新改訳聖書ではこれを太字の「主」としています。
他の、普通に神を表すところでは、
「神」と訳してあります。

ペンテコステ

2014年06月09日 | キリスト教のことば
ギリシア語のままなので分かりにくいのですが、
「五十日目」というような意味がある言葉です。
もともとユダヤの祭りで、「五旬祭」といいました。
このころ、穀物のとりいれがある故の
お祝いでもありました。

これが、過越の祭り、
すなわちあの十字架刑が執行された直後から
五十日目という意味であったことから、
今も私たちは、
イースターから七週目をこれと理解し、
その日曜日、主の日を
ペンテコステとして祝うことになっています。





4月20日と遅かった2014年のイースターですので、
ペンテコステも遅くなり、6月8日となりました。

この日、イエスがかつて話していたとおり、
助け主としての聖霊を神が送り、
これを受けた多くの弟子たちが
新しい命を吹き込まれたかのように、
これまでと違う人生を歩むようになりました。

昇天

2014年05月29日 | キリスト教のことば
今日は2014年の教会暦における、
昇天日です。

同じ読みでも「召天」というのは、
いわば「死ぬこと」を意味します。
天に招かれることですが、
ユダヤ教ではむやみに神の名を口にしない、という
十戒の伝統がありますから、
「神」という代わりに「天」と言います。
つまり、「召天」は「神に召されること」です。

その意味では「天国」と今は気軽に誰もが言いますが、
「神の国」のことを表す言葉であり、
しかも「国」とは場所というよりも「支配」のことですから、
「神の支配下」に入ることを指すわけです。





さて、「昇天」のほうですが、
これは天に昇ることをいいますから、
復活のイエスが天に昇った出来事をいいます。

復活したイエスは、
たしかに肉体を伴ってよみがえっていました。
しかし、それは朽ちない肉体であり、
永遠のものだったということで、
そのまま天に還る必要があったと思われます。

復活後40日間、イエスは復活の話を続けました。
40という数字には聖書で重要な意味があり、
「もう十分」という度合いを表します。
十分、復活の事実を知らせた後は、
またいずれキリストが来るという夜の終わりになるまで、
人はその姿を直接見ることがないように、
地上から姿を隠すのでした。

イエスを天に見送った弟子たちは、
再びイエス・キリストが来るときには
神が完全にすべての決着をつけると理解し、
それまでにキリストを信じるように、
この良い知らせを伝える必要を感じました。

ただ、まだこの時点では、
その力は与えられていませんでした。

ローマ書

2014年05月20日 | キリスト教のことば
5月18日から、香椎バプテスト教会では、
講解説教が始まりました。
説教が「ローマ人への手紙」から少しずつ
説き明かされていきます。

18日はその冒頭でしたが、
このいわゆる「ローマ書」の成り立ちや
背景知識が説明されました。

簡単に振り返っていきましょう。
これはパウロ書簡の一つです。
研究者の中には、パウロが書いたと記される書簡でも、
ほんとうにパウロが書いたのではない、と
疑う人が多々あります。
それなりに根拠があるのですか、その疑い深い学者でも、
このローマ書については、
パウロでない、と疑う人は殆どいないようです。

書いた時期は確定しにくいのですが、
紀元58年ごろではないかと考えられています。
それは、パウロが手紙の中で、
自分が行った場所やこれから行くところ、
今何をしているかなどを書いた言葉があり、
それを、一定の確定した出来事と比較して
割り出している、ということです。





十二使徒はユダヤ、とくにガリラヤの人でした。
ユダヤ教の文化の中で、
イエスをユダヤ教の一部にまず位置するものとして捉えました。
パウロは、十字架前のイエスとは会っていません。
復活のイエスと出合って劇的な回心を経験しました。
ユダヤ教のエリートだったパウロでしたが、
イエスの十字架と復活の中に、
ユダヤ教にとどまらない全人類の救いを逸早く感じ、
ユダヤ文化にない人にも救いを伝えることができると考えました。

この手紙には、そんなパウロの知恵があふれています。
キリスト教とは何か、がよく描かれている書簡となりました。
神学的だと称しても差し支えありません。

宗教改革者ルターにとり、
このローマ書は決定的な書でした。
信仰による義、キリスト者の自由が
あますところなく宣言されているというのです。

パウロが強調したキリスト教の姿ではありますが、
キリスト教神学、キリスト教の教えを知るにふさわしいもの。
これから一年余、教会では
ローマ書に浸りながら、神の恵みに目を開かれたいと願います。