熊本の地下を震源とする最初の大きな地震から2週間。
28時間後には再び強い地震に見舞われ、
以後数百回という余震の中にある熊本や大分などの地域では、
避難所での生活を余儀なくされた被災者が
苦しい生活を送っています。
一般の人々へは様々な募金が呼びかけられていますが、
キリスト教会でも各方面から援助がなされています。
ただ、香椎バプテスト教会から縁のある教会に対しては、
やはり直接少しでも手助けが可能なら、との思いから、
教会としての募金を呼びかけようと思います。

一応、教会員の皆さまの承認を得てからになりますが、
早急に募り、行動しようと考えています。
ご理解とご協力をお願いします。
また、何よりも祈りが必要です。
熊本や大分のために祈ろう、という合い言葉を
マークのようにしてみました。
草千里をイメージした円の中に、ハートを描きました。
心を注いで、神に助けを祈る日々に、
終わりはありません。
28時間後には再び強い地震に見舞われ、
以後数百回という余震の中にある熊本や大分などの地域では、
避難所での生活を余儀なくされた被災者が
苦しい生活を送っています。
一般の人々へは様々な募金が呼びかけられていますが、
キリスト教会でも各方面から援助がなされています。
ただ、香椎バプテスト教会から縁のある教会に対しては、
やはり直接少しでも手助けが可能なら、との思いから、
教会としての募金を呼びかけようと思います。

一応、教会員の皆さまの承認を得てからになりますが、
早急に募り、行動しようと考えています。
ご理解とご協力をお願いします。
また、何よりも祈りが必要です。
熊本や大分のために祈ろう、という合い言葉を
マークのようにしてみました。
草千里をイメージした円の中に、ハートを描きました。
心を注いで、神に助けを祈る日々に、
終わりはありません。
儀式というのは堅苦しい、
そう言って拒絶したり、避けたりする人がいます。
気持ちは分かります。
でも、私たちも自ら儀式を日常的にすることがあります。
外へ行く時に右脚から出て行く。
まずみそ汁を一口すすってから食事をする。
イチロー選手が構えるときの儀式は、物真似されやすかったですね。
もちろん、礼拝を儀式と呼ぶかもしれないし、
聖餐式も洗礼式も、儀式には違いありません。

儀式により、日常と非日常との境界線が築かれます。
また、けじめや区切りがつけられることがあります。
悲しいことが起こったとき、
泣かずに耐えていると、
いつまでもその悲しみが終わったことにならず、
無意識のままに実は引きずっていて、
自分がそれに支配されてしまっていたり、
心が歪められていったりすることがあります。
つまり、
悲しい出来事についても、なお、
大いに悲しむ儀式をきちんと経て、
そこで一区切りがつけられて、
やがてまた新たな一歩が始められていく、
そういう過程が、人生にはしばしばあるということです。
泣いても、いいんだよ。
辛いと叫んで、いいんだよ。
それを神は聞いてくださる。
イエス・キリストは十字架で受けとめている。
泣いて、叫んで、
それから、明日を歩いていくことができたらいい。
イエスもまた、十字架では、叫ばれたのです。
そう言って拒絶したり、避けたりする人がいます。
気持ちは分かります。
でも、私たちも自ら儀式を日常的にすることがあります。
外へ行く時に右脚から出て行く。
まずみそ汁を一口すすってから食事をする。
イチロー選手が構えるときの儀式は、物真似されやすかったですね。
もちろん、礼拝を儀式と呼ぶかもしれないし、
聖餐式も洗礼式も、儀式には違いありません。

儀式により、日常と非日常との境界線が築かれます。
また、けじめや区切りがつけられることがあります。
悲しいことが起こったとき、
泣かずに耐えていると、
いつまでもその悲しみが終わったことにならず、
無意識のままに実は引きずっていて、
自分がそれに支配されてしまっていたり、
心が歪められていったりすることがあります。
つまり、
悲しい出来事についても、なお、
大いに悲しむ儀式をきちんと経て、
そこで一区切りがつけられて、
やがてまた新たな一歩が始められていく、
そういう過程が、人生にはしばしばあるということです。
泣いても、いいんだよ。
辛いと叫んで、いいんだよ。
それを神は聞いてくださる。
イエス・キリストは十字架で受けとめている。
泣いて、叫んで、
それから、明日を歩いていくことができたらいい。
イエスもまた、十字架では、叫ばれたのです。
熊本県を中心として、
九州各地に大きな揺れをもたらした地震は、
とくに熊本県の益城町に
深刻な被害を与えました。
熊本の教会の被害の知らせもありました。
その牧師にお世話になった、当教会のある方が、
直ちに駆けつけました。
救出されたニュースは喜びでしたが、
喜べない方々もたくさんいらっしゃいます。
被災された方々には、
いま、ここがまず問題です。
速やかな援助が求められています。
小さな子どもを抱える家族・母親は、
物質的にもさることながら、
精神的に、どんなに厳しい状況に置かれていることでしょう。
ろう者や失聴者のためには、
字幕のテレビ、情報の張り出し、なされているでしょうか。
夜の冷え込みが厳しい地域です。
また、雨も懸念されます。
栄養や睡眠も不十分なうえに姿勢なども害され、
からだの弱い方ならずとも倒れそうになることでしょう。
年配の方の健康が心配です。
病気治療中の方の不安ははかり知れません。

余震がくり返される中、
まだ再興のスタートすらできないままに、
避難所での生活を余儀なくされている方々に、
神が助けを与えてくださいますように。
日用の糧を、今日も与えたまえ。
私たちの祈りのことばが、
偽りでありませんように。
17日の礼拝の中でも、
熊本のために祈るひとときをもとうと思います。
心が痛くてたまりません。
ことばのかけようもありません。
困り果てて希望を見失いかけた方々のそばに、
寄り添うことが、私たちにできるでしょうか。
ただ黙ってそばにいるようにして、
味方であり続けることができるでしょうか。
被災された方々のために、
教会では祈っています。
祈ることしかできませんが、
祈ることができます。
いま、お困りの方へ、
速やかに助けがあるように、と祈り続けます。
九州各地に大きな揺れをもたらした地震は、
とくに熊本県の益城町に
深刻な被害を与えました。
熊本の教会の被害の知らせもありました。
その牧師にお世話になった、当教会のある方が、
直ちに駆けつけました。
救出されたニュースは喜びでしたが、
喜べない方々もたくさんいらっしゃいます。
被災された方々には、
いま、ここがまず問題です。
速やかな援助が求められています。
小さな子どもを抱える家族・母親は、
物質的にもさることながら、
精神的に、どんなに厳しい状況に置かれていることでしょう。
ろう者や失聴者のためには、
字幕のテレビ、情報の張り出し、なされているでしょうか。
夜の冷え込みが厳しい地域です。
また、雨も懸念されます。
栄養や睡眠も不十分なうえに姿勢なども害され、
からだの弱い方ならずとも倒れそうになることでしょう。
年配の方の健康が心配です。
病気治療中の方の不安ははかり知れません。

余震がくり返される中、
まだ再興のスタートすらできないままに、
避難所での生活を余儀なくされている方々に、
神が助けを与えてくださいますように。
日用の糧を、今日も与えたまえ。
私たちの祈りのことばが、
偽りでありませんように。
17日の礼拝の中でも、
熊本のために祈るひとときをもとうと思います。
心が痛くてたまりません。
ことばのかけようもありません。
困り果てて希望を見失いかけた方々のそばに、
寄り添うことが、私たちにできるでしょうか。
ただ黙ってそばにいるようにして、
味方であり続けることができるでしょうか。
被災された方々のために、
教会では祈っています。
祈ることしかできませんが、
祈ることができます。
いま、お困りの方へ、
速やかに助けがあるように、と祈り続けます。
寒く感じる日も時々ありますが、
もうすっかり春の装いです。
きれいな色の花々を見ると、
春が来たなあと思うひとがたいへん多いそうです。
花や虫などを見ると、
命の季節だなあとあらためて感じます。
地には花が咲き乱れ、
歌の季節がやって来た。
旧約聖書の雅歌の感動は、
いまの私たちにもそのまま伝わります。
たとえ雑草にしかカウントされない花でも、
ひとつひとつが出会いなんだなぁと思います。

この季節、人との新たな出会いもあるでしょう。
久しぶりに会った人と喜び合うこともありましょう。
10日の礼拝報告のとき、
ドイツに研究のために行った証しがありました。
以前日本に来ていた人が、
わざわざ遠くから会いに来てくれたそうです。
主にある交わりが、
世界中でなされているお話は、
たいへん励みになりました。
こんなすばらしい出来事を
共有できるということは、
いくらお金を積んでも、苦行を行っても、
無理なことです。
あなたは高価で貴いと宣言した主の名のもとに、
集って礼拝を献げる中での、
ありがたいひとときでありました。
もうすっかり春の装いです。
きれいな色の花々を見ると、
春が来たなあと思うひとがたいへん多いそうです。
花や虫などを見ると、
命の季節だなあとあらためて感じます。
地には花が咲き乱れ、
歌の季節がやって来た。
旧約聖書の雅歌の感動は、
いまの私たちにもそのまま伝わります。
たとえ雑草にしかカウントされない花でも、
ひとつひとつが出会いなんだなぁと思います。

この季節、人との新たな出会いもあるでしょう。
久しぶりに会った人と喜び合うこともありましょう。
10日の礼拝報告のとき、
ドイツに研究のために行った証しがありました。
以前日本に来ていた人が、
わざわざ遠くから会いに来てくれたそうです。
主にある交わりが、
世界中でなされているお話は、
たいへん励みになりました。
こんなすばらしい出来事を
共有できるということは、
いくらお金を積んでも、苦行を行っても、
無理なことです。
あなたは高価で貴いと宣言した主の名のもとに、
集って礼拝を献げる中での、
ありがたいひとときでありました。
ひとの過ちを赦すということは、
たしかに聖書の教えでもありましょう。
世の中でも、
弱さから悪をなすという人がいた場合、
それを許したほうがよいと言えるのが、
聖書に従うと思う人がいるかもしれません。
しかし、神は義の神であるという前提があります。
ひとの悪を安易にかばうことは、
一見優しいように見えるかもしれませんが、
実は神を否むようなことになりかねません。
「私でない誰かが傷ついたり、被害を受けたりした」悪に対して、
「私が許すよ」などと言えないのは当然です。
問題は、誰かが「私に対して」悪をなした場合に、
「私がそれを許せる」かどうか、
というところにあります。
イエスに罪を赦されたという経験をした人は、
罪がいかに厳しいものであるかを知っています。
罪や悪は、許されないものなのです。
ただ、イエスに赦された者は、
自分が受けた悪を赦すという奇蹟を行うことができます。

そもそも、
どんな悪でも許そうよ、という発想が通用するなら、
どうしてイエスが十字架で死ななければならなかったのか、
全くその必要はなくなってしまいます。
聖書を信じるということは、
自分の罪や悪を知っているということにほかなりません。
逆に言えば、
自分は罪深いとお思いの方は、
もう聖書の恵みと喜びが、
すぐそこまで来ている、ということです。
その方は、
教会にいらっしゃいませんか。
聖書をいっしょに読みましょう。
きっと、光が射してきますから。
たしかに聖書の教えでもありましょう。
世の中でも、
弱さから悪をなすという人がいた場合、
それを許したほうがよいと言えるのが、
聖書に従うと思う人がいるかもしれません。
しかし、神は義の神であるという前提があります。
ひとの悪を安易にかばうことは、
一見優しいように見えるかもしれませんが、
実は神を否むようなことになりかねません。
「私でない誰かが傷ついたり、被害を受けたりした」悪に対して、
「私が許すよ」などと言えないのは当然です。
問題は、誰かが「私に対して」悪をなした場合に、
「私がそれを許せる」かどうか、
というところにあります。
イエスに罪を赦されたという経験をした人は、
罪がいかに厳しいものであるかを知っています。
罪や悪は、許されないものなのです。
ただ、イエスに赦された者は、
自分が受けた悪を赦すという奇蹟を行うことができます。

そもそも、
どんな悪でも許そうよ、という発想が通用するなら、
どうしてイエスが十字架で死ななければならなかったのか、
全くその必要はなくなってしまいます。
聖書を信じるということは、
自分の罪や悪を知っているということにほかなりません。
逆に言えば、
自分は罪深いとお思いの方は、
もう聖書の恵みと喜びが、
すぐそこまで来ている、ということです。
その方は、
教会にいらっしゃいませんか。
聖書をいっしょに読みましょう。
きっと、光が射してきますから。
地方によっては、
これから桜が咲くところもあるでしょうが、
福岡は全国一早い開花と満開の宣言が出され、
必然的に、散るのも一番早くなります。
花吹雪というよりも、
花の雨に悩まされたこの春でした。
雲のような姿を見せていた花々も、
わずかな期間の後に散りゆくさまは、
はかなさというものを思わせる、
日本人の美意識に適うものでもありました。

今週は花言葉について幾度か触れましたが、
桜については、その種類ごとに花言葉があるようです。
ただ、おおまかにいって「美」がそこに漂っているのは確か。
キリスト者は、
神の真実なること、善い方であることについては、
語ることに慣れていますが、
ふと、美しい方であるということが、
あまり触れられないような気がしました。
神は真・善・美――それが伝統的な神観でありましたが、
そのなさることが時に適って美しい、というのもさることながら、
神ご自身の美しさということについて、
私たちはもっと注目してよいのではないか、と思いました。
これから桜が咲くところもあるでしょうが、
福岡は全国一早い開花と満開の宣言が出され、
必然的に、散るのも一番早くなります。
花吹雪というよりも、
花の雨に悩まされたこの春でした。
雲のような姿を見せていた花々も、
わずかな期間の後に散りゆくさまは、
はかなさというものを思わせる、
日本人の美意識に適うものでもありました。

今週は花言葉について幾度か触れましたが、
桜については、その種類ごとに花言葉があるようです。
ただ、おおまかにいって「美」がそこに漂っているのは確か。
キリスト者は、
神の真実なること、善い方であることについては、
語ることに慣れていますが、
ふと、美しい方であるということが、
あまり触れられないような気がしました。
神は真・善・美――それが伝統的な神観でありましたが、
そのなさることが時に適って美しい、というのもさることながら、
神ご自身の美しさということについて、
私たちはもっと注目してよいのではないか、と思いました。
復活祭で燃え尽きないように。
新しいいのちの始まり、
これを受けたことは感謝なことですが、
ここからが私たちの歩みであり、
ここから新しい道が始まるのです。
復活したイエスは、
さまざまな形で弟子たちに現れます。
興味深いのは、
どの場合も、イエスのほうから近づいてきたことです。
私たち人間が、
神を求めて、探して近づいていくのではなく、
いつも神の側から私たちに迫ってきます。
歩み寄ってきます。

私たちが神のために何をしよう、と
もがく必要はありません。
お返しをしようにも、
人間の力でできることなど、他愛もないことに過ぎません。
ただ、神から来たのだ、と認めること。
神の方を向いていること。
いまははっきりとは見えないけれども、
ただ十字架を通して、
自分がどこから来てどこへ行くのかを想うこと。
そして、神が私に何を期待しているだろうか、と
考えてみること。
さあ、もう古いものは過ぎ去りました。
どんな過去も、こだわりも、
もういまはなくなりました。
ここから新しい道を、
歩み始めることが、できるはずです。
それが、死んでよみがえるということなのです。
新しいいのちの始まり、
これを受けたことは感謝なことですが、
ここからが私たちの歩みであり、
ここから新しい道が始まるのです。
復活したイエスは、
さまざまな形で弟子たちに現れます。
興味深いのは、
どの場合も、イエスのほうから近づいてきたことです。
私たち人間が、
神を求めて、探して近づいていくのではなく、
いつも神の側から私たちに迫ってきます。
歩み寄ってきます。

私たちが神のために何をしよう、と
もがく必要はありません。
お返しをしようにも、
人間の力でできることなど、他愛もないことに過ぎません。
ただ、神から来たのだ、と認めること。
神の方を向いていること。
いまははっきりとは見えないけれども、
ただ十字架を通して、
自分がどこから来てどこへ行くのかを想うこと。
そして、神が私に何を期待しているだろうか、と
考えてみること。
さあ、もう古いものは過ぎ去りました。
どんな過去も、こだわりも、
もういまはなくなりました。
ここから新しい道を、
歩み始めることが、できるはずです。
それが、死んでよみがえるということなのです。
ある意味で、
昔の出来事を「この日」だと言っても、
それは歴史を刻んだだけの話であり、
記念日にしか過ぎないものです。
ですから、「受難日」といっても、
キリストが十字架につけられた日を
さしあたりカレンダーに設定した、
それだけだと言われても仕方がありません。
けれどもこの十字架は、
ただの記念日ではありません。
「いま」「ここに」はたらいている出来事です。
ひとの人生を変える力をもっています。

古来、キリスト教徒は、
この日を聖なる日として扱い、
断腸の思いで過ごしたものでした。
今でも重視しての集会や礼拝を行うところがあります。
香椎バプテスト教会では、
金曜日に集まる号令をかけてはおりません。
仕事などのために
金曜日の夕刻まで
静まった時間をもてない方もいらっしゃることでしょう。
でも、やはり、思うのです。
どこかで、祈りませんか、と。
十字架を忘れることは
たしかにクリスチャンにはありえないにしても、
十字架を深く思う機会の日に、
私たちは自らのことを優先する心を、行いを、
神に献げることができる者でありたいと思うのです。
昔の出来事を「この日」だと言っても、
それは歴史を刻んだだけの話であり、
記念日にしか過ぎないものです。
ですから、「受難日」といっても、
キリストが十字架につけられた日を
さしあたりカレンダーに設定した、
それだけだと言われても仕方がありません。
けれどもこの十字架は、
ただの記念日ではありません。
「いま」「ここに」はたらいている出来事です。
ひとの人生を変える力をもっています。

古来、キリスト教徒は、
この日を聖なる日として扱い、
断腸の思いで過ごしたものでした。
今でも重視しての集会や礼拝を行うところがあります。
香椎バプテスト教会では、
金曜日に集まる号令をかけてはおりません。
仕事などのために
金曜日の夕刻まで
静まった時間をもてない方もいらっしゃることでしょう。
でも、やはり、思うのです。
どこかで、祈りませんか、と。
十字架を忘れることは
たしかにクリスチャンにはありえないにしても、
十字架を深く思う機会の日に、
私たちは自らのことを優先する心を、行いを、
神に献げることができる者でありたいと思うのです。
暖かくなり、
福岡では日本で今年最初に、
サクラの開花宣言が出されました。
春の季節は、
別れもありますが、出会いもあります。
新生活への不安と期待が混じった思いの人も、
たくさんいることでしょう。
他方また、
そういう世間のわくわくした気持ちに同調できず、
いっそう寂しい思いを抱く方もいらっしゃるかもしれません。
春は、たしかに華やかなものです。
しかし、この春の季節に、
主イエスは十字架につけられたことは確実です。
つまり、誕生のクリスマスの季節は
便宜上人間が決めたものですが、
十字架の時季は、聖書の記事を見る限り、
たしかにこの春の始まりだということが分かっています。

春分を過ぎ、
ここからは、昼の時間が夜より長くなります。
クリスマスが、当時の時季に選ばれたのは、
そこから確実に光が延びていくことに
気持ちを重ねたわけですが、
十字架と復活は、
昼のほうが夜よりも長くなっていく境目にありました。
はたして、この十字架を受け容れられずに
夜のほうに戻るのか、
たしかに光が勝利する歩みに加えられるのか、
そのボーダーラインだというわけです。
イエスの出来事は、たんなる知識ではありません。
いい話・その教えは好きだ、
そんなレベルで聖書を見ている人も、
世の中にはいらっしゃるかもしれませんが、
十字架の体験・復活の経験によって、
イエスがいのちであることが、
理屈抜きで私たちに迫ってきます。
いえ、私たちは、ぐるりと方向転換をさせられ、
新たに造りかえられました。
悲しい春ではありますが、
十字架は復活を結論としています。
自らの罪を悔い改めて
イエスの十字架を見上げ、
そこに自分の罪の死があると信じたならば、
神は絶大な喜びを与えてくださいます。
今週は、このイエスの十字架と復活が
教会で語られます。
その良いニュースを、
あなたと分かち合いたいと願っています。
福岡では日本で今年最初に、
サクラの開花宣言が出されました。
春の季節は、
別れもありますが、出会いもあります。
新生活への不安と期待が混じった思いの人も、
たくさんいることでしょう。
他方また、
そういう世間のわくわくした気持ちに同調できず、
いっそう寂しい思いを抱く方もいらっしゃるかもしれません。
春は、たしかに華やかなものです。
しかし、この春の季節に、
主イエスは十字架につけられたことは確実です。
つまり、誕生のクリスマスの季節は
便宜上人間が決めたものですが、
十字架の時季は、聖書の記事を見る限り、
たしかにこの春の始まりだということが分かっています。

春分を過ぎ、
ここからは、昼の時間が夜より長くなります。
クリスマスが、当時の時季に選ばれたのは、
そこから確実に光が延びていくことに
気持ちを重ねたわけですが、
十字架と復活は、
昼のほうが夜よりも長くなっていく境目にありました。
はたして、この十字架を受け容れられずに
夜のほうに戻るのか、
たしかに光が勝利する歩みに加えられるのか、
そのボーダーラインだというわけです。
イエスの出来事は、たんなる知識ではありません。
いい話・その教えは好きだ、
そんなレベルで聖書を見ている人も、
世の中にはいらっしゃるかもしれませんが、
十字架の体験・復活の経験によって、
イエスがいのちであることが、
理屈抜きで私たちに迫ってきます。
いえ、私たちは、ぐるりと方向転換をさせられ、
新たに造りかえられました。
悲しい春ではありますが、
十字架は復活を結論としています。
自らの罪を悔い改めて
イエスの十字架を見上げ、
そこに自分の罪の死があると信じたならば、
神は絶大な喜びを与えてくださいます。
今週は、このイエスの十字架と復活が
教会で語られます。
その良いニュースを、
あなたと分かち合いたいと願っています。
ちょっと見ると枯れているようにも見える冬の木々。
しかし、無駄な蒸散を避けるために
よけいな肉ではなく葉を削ぎ落とした木も、
忍耐の冬の間、着実に次の季節の準備をしていました。
冬芽が、ひっそりと育まれていました。
明るい昼が長くなり、
気温環境が一定の温度以上になってくると、
カレンダーももたないのに植物たちは正直に、
適切なありさまでその芽を芽吹かせます。

勇敢な花がまず開き、
やがてすべての、咲くべき花が開いていきます。
こうして草花も木々も、
美しく花咲かせたものを神に向けて披露するのです。
冬の芽を摘まないように。
冬の芽を諦めないように。
きっと、「その時」が来ます。
私の思い・私の感情が事を決めるのではなく、
神の定めた理に適って、世界は動いていきます。
すばらしい神の業を
私たちも見て・聞いて・感じて、楽しみましょう。
その輝きの背後に、
忍耐や努力があったことを覚え、
また、神の抱擁があったことを感謝しつつ。
しかし、無駄な蒸散を避けるために
よけいな肉ではなく葉を削ぎ落とした木も、
忍耐の冬の間、着実に次の季節の準備をしていました。
冬芽が、ひっそりと育まれていました。
明るい昼が長くなり、
気温環境が一定の温度以上になってくると、
カレンダーももたないのに植物たちは正直に、
適切なありさまでその芽を芽吹かせます。

勇敢な花がまず開き、
やがてすべての、咲くべき花が開いていきます。
こうして草花も木々も、
美しく花咲かせたものを神に向けて披露するのです。
冬の芽を摘まないように。
冬の芽を諦めないように。
きっと、「その時」が来ます。
私の思い・私の感情が事を決めるのではなく、
神の定めた理に適って、世界は動いていきます。
すばらしい神の業を
私たちも見て・聞いて・感じて、楽しみましょう。
その輝きの背後に、
忍耐や努力があったことを覚え、
また、神の抱擁があったことを感謝しつつ。
明日で、東日本大震災から5年。
区切りがよいせいか、
今年は特集する報道もいくらか多いように感じます。
九州は現地から遠く、
おいそれと訪問ができません。
阪神淡路大震災のときには、
私はそこに比較的近いところに住んでいましたので、
少しでもそこで買い物をする、など
直接何かできることもありました。
放射能のゆえに生活不安が増し、
とくに子どもたちへの影響は
分からないだけに心配でしょう。
外で遊ぶというだけのことが、
こんなにも非日常的なことになるということに、
私たちも少しでも共感すべきだと考えています。
指一本手助けすることもせず、
安全だから安心しなさい、などと無責任に告げることは、
ヤコブ書からしても
聖書を読む者として言えるものではありません。

教会は、祈ることはできます。
祈ることしかできませんが、
祈ることができます。
何をどう祈れば、力になれるでしょうか。
また、具体的にこうしたことに声を挙げれば力になる、
そうしたものはあるでしょうか。
政治的な形になると教会としては難しい場合もありますが、
そういうものがあれば、知りたいと思います。
教会単位でできなくても、
示された個人が、何かできるかもしれません。
区切りがよいせいか、
今年は特集する報道もいくらか多いように感じます。
九州は現地から遠く、
おいそれと訪問ができません。
阪神淡路大震災のときには、
私はそこに比較的近いところに住んでいましたので、
少しでもそこで買い物をする、など
直接何かできることもありました。
放射能のゆえに生活不安が増し、
とくに子どもたちへの影響は
分からないだけに心配でしょう。
外で遊ぶというだけのことが、
こんなにも非日常的なことになるということに、
私たちも少しでも共感すべきだと考えています。
指一本手助けすることもせず、
安全だから安心しなさい、などと無責任に告げることは、
ヤコブ書からしても
聖書を読む者として言えるものではありません。

教会は、祈ることはできます。
祈ることしかできませんが、
祈ることができます。
何をどう祈れば、力になれるでしょうか。
また、具体的にこうしたことに声を挙げれば力になる、
そうしたものはあるでしょうか。
政治的な形になると教会としては難しい場合もありますが、
そういうものがあれば、知りたいと思います。
教会単位でできなくても、
示された個人が、何かできるかもしれません。
暦の上ではもう春ですが、
まさに、春は名のみ。
しかし、被造物は、ちゃんと分かっています。
新しく芽吹いた木が、
春の準備をととのえています。
この春が、沈黙の春となりませんように。
そう願いつつも、
現実的な不安や、
見すてられたような寂しさを抱いているかもしれない、
東の、北の、
被災地のことを思います。

間もなく東日本大震災から5年。
放射線のデータの数字が
政治問題にもなっている昨今ですが、
いわば安全なところに身を置いている福岡の私たちが、
さも知識があるような顔をして、
放射能の影響などないですよ、などという言葉を
果たして、かけることが、できるでしょうか。
少なくとも、福音書を見るかぎり、
そんな態度が取れたのは、
イエスの反対の側に立つグループでした。
汚れるという律法的な危険も気にせず、
感染という実害的な危険も問題とせず、
イエスは患者に近づき、手を取り、顔にも触れました。
キリスト者とは、
このキリストに従おうとする者たちのことだと思うのです。
まさに、春は名のみ。
しかし、被造物は、ちゃんと分かっています。
新しく芽吹いた木が、
春の準備をととのえています。
この春が、沈黙の春となりませんように。
そう願いつつも、
現実的な不安や、
見すてられたような寂しさを抱いているかもしれない、
東の、北の、
被災地のことを思います。

間もなく東日本大震災から5年。
放射線のデータの数字が
政治問題にもなっている昨今ですが、
いわば安全なところに身を置いている福岡の私たちが、
さも知識があるような顔をして、
放射能の影響などないですよ、などという言葉を
果たして、かけることが、できるでしょうか。
少なくとも、福音書を見るかぎり、
そんな態度が取れたのは、
イエスの反対の側に立つグループでした。
汚れるという律法的な危険も気にせず、
感染という実害的な危険も問題とせず、
イエスは患者に近づき、手を取り、顔にも触れました。
キリスト者とは、
このキリストに従おうとする者たちのことだと思うのです。
今日は長嶋茂雄さんの誕生日。
80歳だそうです。
お若い方には分かりにくいでしょうが、
日本のプロ野球界の最高のスター選手だったと言えましょう。
その長嶋選手は引退式のとき、
自分がずっと過ごしてきたそのチームは
「永遠に不滅です」と宣言し、
名言として人々の心に残りました。

14日の午後の学び会で、
中国出身の方が、儒教とともに、
中国人のものの考え方について
分かりやすくお話しくださいました。
その原稿の中で、こんな逸話がありました。
王貞治さんは、この長嶋さんと
同じチームで選手生活をともに過ごし、
ホームランの世界記録を立てるなど、
野球界の双璧として名を馳せた方ですが、
この方は台湾出身です。
王さんは、引退のときに、こう口にしました。
「全て栄光あるものには終わりがある」と。
これは、中国的な考え方なのだそうです。
それは、現実を見つめそこに留まるからです。
王さんは、終わりがある、と物事を歴史的に見ていました。
しかし長嶋さんは、不滅です、と神話的に見ていました。
歴史というものさしによらず、神話の中の英雄となったのです。
また、王さんについては、
ホームランを打つことでインタビューを受けたとき、
「僕にとって神様は二つある。
一つは努力の神様、もう一つは怠けの神様」
そう答えた話もありました。
物事には必ず両面があって、
ひとつのものの味方に囚われない、
これも中国人のものの考え方なのだそうです。
「もうこれしかない」と他の道を塞ぐと、
もしそれがダメなら破滅しかありません。
現実は、必ずしもその一つが通るとは限らないのです。
聖書は、その「一つ」だけのように見えるかもしれませんが、
私は、いろいろな面をもつものだと感じています。
それは、聖書が、
確かに「歴史」に根差したものであるからです。
空想や思弁で精神的世界を語ったものではなく、
現実の歴史の中に生き、働いた信仰の記録です。
神の真実は一つでしょうが、
人間の営みは単純に一つにはなりません。
現に、ひとは、天に国籍をもちながら、
地上を旅する存在でもあります。
いろいろな文化の違いを知ることで、
それでこそ、自分というものを認識する道が拓ける。
そんなふうに、学んでいきたいと思いました。
80歳だそうです。
お若い方には分かりにくいでしょうが、
日本のプロ野球界の最高のスター選手だったと言えましょう。
その長嶋選手は引退式のとき、
自分がずっと過ごしてきたそのチームは
「永遠に不滅です」と宣言し、
名言として人々の心に残りました。

14日の午後の学び会で、
中国出身の方が、儒教とともに、
中国人のものの考え方について
分かりやすくお話しくださいました。
その原稿の中で、こんな逸話がありました。
王貞治さんは、この長嶋さんと
同じチームで選手生活をともに過ごし、
ホームランの世界記録を立てるなど、
野球界の双璧として名を馳せた方ですが、
この方は台湾出身です。
王さんは、引退のときに、こう口にしました。
「全て栄光あるものには終わりがある」と。
これは、中国的な考え方なのだそうです。
それは、現実を見つめそこに留まるからです。
王さんは、終わりがある、と物事を歴史的に見ていました。
しかし長嶋さんは、不滅です、と神話的に見ていました。
歴史というものさしによらず、神話の中の英雄となったのです。
また、王さんについては、
ホームランを打つことでインタビューを受けたとき、
「僕にとって神様は二つある。
一つは努力の神様、もう一つは怠けの神様」
そう答えた話もありました。
物事には必ず両面があって、
ひとつのものの味方に囚われない、
これも中国人のものの考え方なのだそうです。
「もうこれしかない」と他の道を塞ぐと、
もしそれがダメなら破滅しかありません。
現実は、必ずしもその一つが通るとは限らないのです。
聖書は、その「一つ」だけのように見えるかもしれませんが、
私は、いろいろな面をもつものだと感じています。
それは、聖書が、
確かに「歴史」に根差したものであるからです。
空想や思弁で精神的世界を語ったものではなく、
現実の歴史の中に生き、働いた信仰の記録です。
神の真実は一つでしょうが、
人間の営みは単純に一つにはなりません。
現に、ひとは、天に国籍をもちながら、
地上を旅する存在でもあります。
いろいろな文化の違いを知ることで、
それでこそ、自分というものを認識する道が拓ける。
そんなふうに、学んでいきたいと思いました。