マラキ4・1~6/小預言書(12)マラキ書
ペルシャの王クロスの勅令(前539年)により祖国に帰還したイスラエルの民は、ハガイとゼカリヤの奨励により第二神殿を完成した(前515年)。マラキ(〝わたしの使者〟 の意)は、エズラ、ネヘミヤの改革(前445年)に僅かに先立つ、前460年頃に預言したと思われる。神殿再建より半世紀も過ぎていた。しかし、栄光の王メシアは到来せず、神の民の究極的な勝利は未だ実現していなかった。日照りと蝗は飢饉をもたらし、民は生きるのに疲れ果てた。
神の正義が行なわれていないと神不信に陥った民は、主は本当に自分たちを愛しているのかと疑い、主を告訴した。主が「わたしはあなたがたを愛した。そして今もなお愛している」と言われると、民は「どのような形で、あなたは私たちを愛してくださったのですか」と反問した(1・2)。民は打ち続く苦難の中で、神の約束・言葉を確信して生きることができなくなり、神に、民を現在愛していることの証拠を求めたのである。それに対し、神を愛し、その契約に留まるように(2章)、そして、変わることのない神に信頼して待つよう(3章)に勧めたマラキは「見よ、その日が来る」と「主の大いなる恐ろしい日」を預言する(4章)。
到来するその日「義の太陽が昇る。その翼には癒しがある」。「義」とは、神と人との関係が正しいことを言う。それゆえ「義の太陽」とは神と人との関係を正しくする太陽である。「その翼には癒しがある」とは、自在に働く義の陽光は温かく、病人を癒し、悲しむ者を慰め、救うことを象徴する。マタイは「暗闇の中に座っていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰に座っていた人々に、光が昇った」と主イエスの到来を記している(4・16/照ヨハネ1・9)。主イエスは変貌の山頂より下るとき、ご自分の受難に言及し、主の到来に先駆けて来るエリヤはバプテスマのヨハネであると言われた(照マタイ11・10~15、17・1~13)。ヨハネは「神は、実にその独子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と記している(3・16/照Ⅰヨハネ4・9~10)。十字架のキリストにおいて、神はどのように私たちを愛したか、今も愛しているかを明言しておられるのである。キリストの十字架の死による贖いを信じる人は、すべての罪が赦され、癒される。決して裁かれることはない。
この神の愛を無視し、神に逆らう人は焼き尽くされるもう一つの「その日が来る」。しかし、その日、義の太陽が再び昇るキリスト再臨のその朝、主キリストを信じる 〝あなたがたは牛舎から出た子牛のように飛び跳ねる〟 (照マタイ5・10~12)。救いの完成の日である。
旧約聖書最後のマラキ書は、「それは、わたしが来て、呪いをもって地を打ち滅ぼさないためだ」との主の愛の訴えをもって閉じられる。キリストの再臨と終末を記した新約聖書最後のヨハネの黙示録は「アーメン。主イエスよ、来てください。主イエスの恵みがすべての者と共にあるように。アーメン」とのマラキによる主の訴えの成就を願う祈りで結ばれている。

ペルシャの王クロスの勅令(前539年)により祖国に帰還したイスラエルの民は、ハガイとゼカリヤの奨励により第二神殿を完成した(前515年)。マラキ(〝わたしの使者〟 の意)は、エズラ、ネヘミヤの改革(前445年)に僅かに先立つ、前460年頃に預言したと思われる。神殿再建より半世紀も過ぎていた。しかし、栄光の王メシアは到来せず、神の民の究極的な勝利は未だ実現していなかった。日照りと蝗は飢饉をもたらし、民は生きるのに疲れ果てた。
神の正義が行なわれていないと神不信に陥った民は、主は本当に自分たちを愛しているのかと疑い、主を告訴した。主が「わたしはあなたがたを愛した。そして今もなお愛している」と言われると、民は「どのような形で、あなたは私たちを愛してくださったのですか」と反問した(1・2)。民は打ち続く苦難の中で、神の約束・言葉を確信して生きることができなくなり、神に、民を現在愛していることの証拠を求めたのである。それに対し、神を愛し、その契約に留まるように(2章)、そして、変わることのない神に信頼して待つよう(3章)に勧めたマラキは「見よ、その日が来る」と「主の大いなる恐ろしい日」を預言する(4章)。
到来するその日「義の太陽が昇る。その翼には癒しがある」。「義」とは、神と人との関係が正しいことを言う。それゆえ「義の太陽」とは神と人との関係を正しくする太陽である。「その翼には癒しがある」とは、自在に働く義の陽光は温かく、病人を癒し、悲しむ者を慰め、救うことを象徴する。マタイは「暗闇の中に座っていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰に座っていた人々に、光が昇った」と主イエスの到来を記している(4・16/照ヨハネ1・9)。主イエスは変貌の山頂より下るとき、ご自分の受難に言及し、主の到来に先駆けて来るエリヤはバプテスマのヨハネであると言われた(照マタイ11・10~15、17・1~13)。ヨハネは「神は、実にその独子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と記している(3・16/照Ⅰヨハネ4・9~10)。十字架のキリストにおいて、神はどのように私たちを愛したか、今も愛しているかを明言しておられるのである。キリストの十字架の死による贖いを信じる人は、すべての罪が赦され、癒される。決して裁かれることはない。
この神の愛を無視し、神に逆らう人は焼き尽くされるもう一つの「その日が来る」。しかし、その日、義の太陽が再び昇るキリスト再臨のその朝、主キリストを信じる 〝あなたがたは牛舎から出た子牛のように飛び跳ねる〟 (照マタイ5・10~12)。救いの完成の日である。
旧約聖書最後のマラキ書は、「それは、わたしが来て、呪いをもって地を打ち滅ぼさないためだ」との主の愛の訴えをもって閉じられる。キリストの再臨と終末を記した新約聖書最後のヨハネの黙示録は「アーメン。主イエスよ、来てください。主イエスの恵みがすべての者と共にあるように。アーメン」とのマラキによる主の訴えの成就を願う祈りで結ばれている。
