22日の礼拝説教は、ルカ18章、
森山牧師のモットーとも言える箇所から。
幾度も説教に登場するエピソードですが、
それを真正面から取り上げなければならない、
いまという時を見据えてのことでした。
パリサイ人は、「心の中で」他を見下すような祈りをしました。
「心の中で」は「自分自身に向かって」のような表現です。
あるいは、「自分自身の利益のために」のニュアンスも強い語です。
自分を目的としているようすが窺えます。
祈りが、自分のためというものではないことを
この譬えは同時に描いているとも言えるでしょう。
隠れた神に祈ること。
ことば数の多少が問題ではないこと。
もちろん、流暢であるかどうかも含めて。
一方、罪人と自他共に認める取税人という立場の人は、
他人を見たり他人と比較したりせず、
まして他人を悪く言うことなどせずに、
ただ神に祈るのでした。
「あわれみたまえ」と。
「取税人」と口にした瞬間、
私たちはそれを「他人」と見なしてしまいます。
この世で「小さくされた」人々、とある人たちは呼びます。
社会的に虐げられた人々、権利を無視される人々、
弱い立場の人々、病気の人々、障碍のある人々、
貧困の中にある人々、「このような者たち」が、
イエスの注目した人々でした。
そして、イエスは「このような者たち」になったのです。
自分を目的としての考え・発言・行動は、
最も神の心から遠く離れたものだ、と説教は結びました。
神が主体であって、神が人を義とするということが語られました。
森山牧師の、渾身のメッセージであるとして受け止めました。
心に深く刻まれました。
私の信仰と、たがわないメッセージに、
司会者としては、感無量でした。
感謝でいっぱいです。
森山牧師のモットーとも言える箇所から。
幾度も説教に登場するエピソードですが、
それを真正面から取り上げなければならない、
いまという時を見据えてのことでした。
パリサイ人は、「心の中で」他を見下すような祈りをしました。
「心の中で」は「自分自身に向かって」のような表現です。
あるいは、「自分自身の利益のために」のニュアンスも強い語です。
自分を目的としているようすが窺えます。
祈りが、自分のためというものではないことを
この譬えは同時に描いているとも言えるでしょう。
隠れた神に祈ること。
ことば数の多少が問題ではないこと。
もちろん、流暢であるかどうかも含めて。
一方、罪人と自他共に認める取税人という立場の人は、
他人を見たり他人と比較したりせず、
まして他人を悪く言うことなどせずに、
ただ神に祈るのでした。
「あわれみたまえ」と。
「取税人」と口にした瞬間、
私たちはそれを「他人」と見なしてしまいます。
この世で「小さくされた」人々、とある人たちは呼びます。
社会的に虐げられた人々、権利を無視される人々、
弱い立場の人々、病気の人々、障碍のある人々、
貧困の中にある人々、「このような者たち」が、
イエスの注目した人々でした。
そして、イエスは「このような者たち」になったのです。
自分を目的としての考え・発言・行動は、
最も神の心から遠く離れたものだ、と説教は結びました。
神が主体であって、神が人を義とするということが語られました。
森山牧師の、渾身のメッセージであるとして受け止めました。
心に深く刻まれました。
私の信仰と、たがわないメッセージに、
司会者としては、感無量でした。
感謝でいっぱいです。