香柏だより

福岡市東区の香椎バプテスト教会です。
聖書の言葉には、ひとを生かす力があります。
礼拝では手話通訳もあります。

渾身の説教

2016年05月23日 | パンくず (礼拝余録)
22日の礼拝説教は、ルカ18章、
森山牧師のモットーとも言える箇所から。
幾度も説教に登場するエピソードですが、
それを真正面から取り上げなければならない、
いまという時を見据えてのことでした。

パリサイ人は、「心の中で」他を見下すような祈りをしました。
「心の中で」は「自分自身に向かって」のような表現です。
あるいは、「自分自身の利益のために」のニュアンスも強い語です。
自分を目的としているようすが窺えます。

祈りが、自分のためというものではないことを
この譬えは同時に描いているとも言えるでしょう。

隠れた神に祈ること。
ことば数の多少が問題ではないこと。
もちろん、流暢であるかどうかも含めて。

一方、罪人と自他共に認める取税人という立場の人は、
他人を見たり他人と比較したりせず、
まして他人を悪く言うことなどせずに、
ただ神に祈るのでした。
「あわれみたまえ」と。

「取税人」と口にした瞬間、
私たちはそれを「他人」と見なしてしまいます。
この世で「小さくされた」人々、とある人たちは呼びます。
社会的に虐げられた人々、権利を無視される人々、
弱い立場の人々、病気の人々、障碍のある人々、
貧困の中にある人々、「このような者たち」が、
イエスの注目した人々でした。
そして、イエスは「このような者たち」になったのです。





自分を目的としての考え・発言・行動は、
最も神の心から遠く離れたものだ、と説教は結びました。
神が主体であって、神が人を義とするということが語られました。

森山牧師の、渾身のメッセージであるとして受け止めました。
心に深く刻まれました。
私の信仰と、たがわないメッセージに、
司会者としては、感無量でした。
感謝でいっぱいです。

説教

2016年05月18日 | パンくず (礼拝余録)
講壇から語られることばは、
飾られた白百合のように聖い、
すなわち罪や世の原理から分かたれた、
上よりのことばです。

説教に良いも悪いもありません。
良いか悪いかは、
語る者の反省のうちにのみあります。
聴く側は、評論家になどなってはいけません。

問題は、そこから何を聴くか、
聴こうとするか、にあります。
人格の核心を掴み揺すぶるはたらきを以て、
神のことばは働きます。

その働きを、
私たちはえてして止めてしまっています。
ことばを通じて与えられようとするいのちを、
私たちのほうが拒んでしまっています。





15日、鞭木由行師をお招きしての、
ペンテコステ礼拝でした。
私たちはそこから、何を聴いたでしょう。

教会は、仲良しグループの親睦会ではないし、
組織の論理で構築される団体でもありません。

頭では、そんなことは分かっている、と言いながらも、
いつも、つい、そしていつの間にか、
そうなってしまっているのではないでしょうか。

咄嗟のとき、いざというとき、
私たちは自分の中のそんな傾向と、
闘わなければ、キリストの弟子のはたらきができません。
またそれは、
自分を信じて自分の力によってなどでは、
できないことです。

それができるように、
聖霊を私たちは求めて待ちます。
私たちは自分が死んでいる確信の上に、
聖霊に生かされるしもべとされていくのです。

結婚式

2016年05月16日 | パンくず (礼拝余録)
14日、
田伝道師が結婚式を挙げました。
すでに婚約中であった彩夏さんと、
香椎バプテスト教会で挙式となりました。

祝福の会場を飾ったのは、
白い百合を中心とした花々でした。
15日の礼拝にも、
その花が会堂の各所を飾っていました。

もちろん、講壇の花もそうです。





キリストのひとつの象徴である、白百合。
気品の高い、純白のその花は、
様々な形で教会で用いられてきました。

全身全霊がぶつかることで
二人は夫婦になります。
神が結ぶ絆は、
互いの棘が次第に無力になっていくことで
聖められ、神に用いられるようになります。

とはいえ、これは上より戴く幸福です。
二人なら、倒れない。
三つ撚りの糸ならば、切れません。
キリストがいつも、そこにいますように。

開かれない巻き物

2016年05月03日 | パンくず (礼拝余録)
サタンという告発者は巧みに罠を仕掛け、
なんとか信徒の魂を
神の救いから遠ざけようと躍起になります。
自分の罪に戦く者は、
これでは救われないのではないか、と
神の許に行かないかもしれません。

けれども、
イエスが執り成しをしてくださっています。
神の前に出て、
このイエスの祈りの中に安らうならば、
なんの非難があろうとも、
それはもうすでに勝利であるのです。





1日の礼拝説教には
ふだんよくあるような「遊び」がなく、
ひたすらに赦しと義が語られました。

しかし、その巻き物は、
開くことも見ることもできる者がないかのようでした。
その一人である者として、
私は激しく泣いていたのでした。

急いで降りて来なさい

2016年04月26日 | パンくず (礼拝余録)
小さいために木に登って、
イエス見たさに一行を待ち受けたザアカイ。
先回りしたその木の許に、イエスは来ると、
気を見上げて、「ザアカイ」と名を呼びました。

名を呼ぶというのは、
その相手の本質に呼びかけることを意味します。
あなたの本性を知っているから応えてくれ、と。

「急いで降りて来なさい」

これにザアカイは応えることになり、
また悔い改めの行為を誓うことを通じて、
イエスは救いを告げるに至りました。





木の上の高いところから、
イエスを見下ろすようなことはせずに、
低いところに降りなさい。
人は人に相応しい位置に降りて、
その背のように「小さなもの」でありなさい。

しかも、それを「急いで」しなさい。

必要なことを、先延ばしにしてはなりません。
「きょう」の出会いを大切にしたイエスでしたから。
だから、回心を告白したザアカイに向けて
イエスは言ったのでした。

「きょう」救いがこのザアカイのところに来た、と。

きょう

2016年04月25日 | パンくず (礼拝余録)
「きょう」とはいつでしょう。
さらに言えば、「いま」とはいつでしょう。
「い・ま」と口にしているその間にも、
指し示したかった「いま」は過去になってしまいます。

「きょう」には、いくらかゆとりがあります。
まだもうしばらく、「きょう」ではないか、と。
しかし、エリコでザアカイと出会ったとき、
イエスにとり「きょう」は
貴重なひとつの時でありました。

眼差しはしっかりとエルサレムに向かっています。
すぐにエルサレムに入ります。
そこで待ち受けていたものが何であるか、
もちろんイエスには分かっています。
エルサレムに入ったら、立て続けに事が運び、
十字架が待ち受けていることになります。

ほんのしばし、
自由に対応ができるのが「きょう」でした。
その「きょう」に、
イエスは、ザアカイの家を選んだのです。





「あすなろ」のごとく、
明日こそは、と思う気持ちが
すべて空しいわけではないにしろ、
「あすこそヒノキになろう」と思ったところで、
なれるわけもなく、
「あすこそこれをしよう」と思っても、
結局することなく過ぎ去ることになるのがオチでしょう。

もはや「今でしょ」とは誰も言わなくなりましたが、
聖書の「きょう」の言葉は、
「いま」も生きて働いています。
「きょう」御声を聞くこと、
そして「きょう」従うこと、
そこに恵みと喜びがあるのだと、あなたに伝えます。

古い家こそ

2016年04月20日 | パンくず (礼拝余録)
同じ17日の礼拝報告時、
身近な方の被災などありましたら、
差し支えなければお知らせくださいと司会者が促すと、
もうひとかた、お話がありました。

はプライバシーにも関わりますので
つまびらかにすることはできませんが、
一点、そこで心に残った点だけお伝えします。

それは、揺れの激しかった地域に、
かつての実家があったという方の証しです。
周囲の家々が損壊している中で、
その家は無事であったということでした。





実はその残った家というのが、
百年ほどの歴史を数える古い木造の建物だというのです。

周囲の家々のほうがよほど新しいのに、
この古い木造は、倒れませんでした。
よほどつくりがしっかりしていたのか、
建て方が違ったのか、理由は分かりません。

けれども、
二千年の歴史をもつキリスト教会とその信仰が、
だてに古いだけではないのだということを、
改めて思い描いた私でした。

紙コップ

2016年04月19日 | パンくず (礼拝余録)
昨日ご紹介した、現地へ飛んだ人は、
当地で手伝いをして、一泊しました。
親類がいたのです。
そこへ、16日未明のあの大規模地震。
立っていられないあの揺れを体験しました。

その後、
被災地へ届けられる救援物資を目の当たりにしました。
ペットボトルの水が供給されます。
が、気づきます。

コップがない……。

コップがなければ、
せっかくの水を、人々に分けることができません。
一人で一本のボトルと決まっていればよいのでしょうが、
多くの人に分けるためには、注ぐコップが必要です。





その話を聞きながら、私の頭にすぐに思い浮かんだのは、
自分がその紙コップになるべきだという幻でした。

聖書で人は、土の器ともたとえられます。
中身のない、粗末な器。
しかし、その中には神のいのちがたたえられている、と。

ここでは、神の水がふんだんにそこにあるけれども、
それを注ぐ紙コップがなければ、
多くの人に神のいのちを分けることができない。
神のことば、いのちのことばは確かにここにあるけども、
それを届ける器がなければ、
人々にそのいのちのことばがもたらされないのです。

歪み、形もいびつな紙コップであることでしょう。
しかし、底さえあれば、水を届けられます。
罪の悔い改めというベースがあれば、水は漏れません。
神が豊かに水を注いでくださいます。
もしも、ひとつの紙コップで横から漏れそうならば、
いくつもの紙コップが、集まればよいのです。

被災地へ

2016年04月18日 | パンくず (礼拝余録)
17日の礼拝最後の報告時に、
熊本へ馳せ参じた方が、
その時の様子を話してくれました。

報道でも伝えられていた救出劇でしたが、
そのときの細かな様子を、
現場にいた方からも聞いたそうです。

救出を待つ間、薄れていく脳裏では、
詩篇をもって祈り続けていたとのこと、
私たちの励みとなりました。





熊本のいくつかの教会では、
メンバーが共に集まり、
福音を伝えるためにできることを
祈り実践してきた長い歴史がありました。

そこでずいぶん親しく指導された牧師の被災でした。
心だけはすぐに現地へ向かいましたが、
実際に行動を起こすのも早く、
祈りと知恵とで現地へ向かいました。
バイクで、他の救援交通を妨げないようにしました。

現地の様子がよく分かりました。
教会が損壊しているので、
グループの同じ教会まで出向いて、
17日は神を礼拝しているそうです。

私たちも祈るとき、
その様子を思い描きやすくなります。
神の助けを待つとき、
神よ、どうぞここへ……と求めます。

イエスは箱舟

2016年04月12日 | パンくず (礼拝余録)
10日の礼拝説教では、
ノアの箱舟の物語を振り返りました。
よく知られた物語ではありますが、
新たな視点、改めて見えてくる視界があるから、
説教で養われることは私たちにとり大切です。

そしてそこから、
自分なりに受けとめる旅が始まります。

この箱舟とイエスの救いとを重ねてみる。
10日は、そうした試みの中で
創世記を読むことになりました。

しかもそれは、
人が悪であることを受け容れた上での
神の招きでした。
ただ、人間の力では
この舟に勝手に乗り込むことができません。
イエスという舟には、乗り方があったのです。





さて、こうした話を聞きながら、私は、
私がこの物語の、どこにいるだろうか、と自問していました。

ともすれば、自分は信じている、信仰がある、
だからノアその人だ、
そうだ、まわりから迫害を受けてもいるぞ、
でもちゃんと教会に行っているんだ……
そんなふうに考えがちであるかもしれません。

でもそんなふうには、私には思えませんでした。
義人とされたノアと、あわれみのうちに誘われたその家族。
その中に、自分がいるようには思えないのではないか、と。
何か物好きな建築をしているぞ、と傍から見ていた、
群衆の一人になっていたのだろう、と思ったのです。

とくに福島にいた人々は、
この5年間、言い難い苦痛や生活の破壊を経験し続けていますが、
私たちはそれを遠くから見守っているばかりだとすれば、
おまえには愛などと説く資格があるのか、と責められます。

自分が義人だと称する人々を、
イエスは激しく非難しました。
私たちは、ノアではないのです。
自分の罪をどこまで痛感しているか、
自分にある罪をどのくらい悔い改めているか、
そのどん底の感覚を経験することなしには、
イエスの救いの舟に、
乗せて戴けることはありません。

おまえは自分がその罪の最先端にいることが分かっているのか。
そういう問いかけに自分が小さくされたとき、
初めて、救いという恵みに包まれます。

「人の悪」ではなく、
「私の悪」として受け取ること、
それが、聖書がいのちのことばとなる瞬間です。
そういう思いの中で、私は神を礼拝していました。

契約とコデマリ

2016年04月04日 | パンくず (礼拝余録)
4月3日の礼拝説教は、
毎月初めの聖餐式に合わせてではあるのですが、
ずばり「新しい契約」と題して、
聖餐式で読まれる聖書の箇所(第一コリント書)から
説き明かされました。

旧約時代の契約と、
新訳時代の契約との対比を私たちは理解しました。
とくに、モーセの十戒を中心とするシナイ契約は、
律法という意味でもたいへん大きなものでした。

けれどもまた、旧約聖書をよく見ると、
ノアとの契約やアブラハムとの契約、
モーセの後にはヨシュアによる契約なども数え上げられ、
ダビデ契約はキリストのためにも重要なものでした。

私たちもまた、契約社会を形成しています。
法的なものもさることながら、
それを広く「約束」と理解すると、
社会というものはたしかに、
約束なしには成立しないものであることが分かります。





牧師は講壇で、
花瓶の花の中の「コデマリ」に注目しました。

可憐な花は、ユキヤナギにも似ていますが、
それよりやや遅く開化し、
小さい花々でありながら優雅さを感じさせ、
花言葉はまさに「優雅」「品位」といったものであるとか。

とくに、そのつぼみのところがいい、と
牧師がお気に入りの花であるとのこと。

バラ科であるところは、
ソメイヨシノなでのサクラと同じ仲間でもあり、
もちろんバラともそうであるとなると、
見かけでは分からないつながりというものがあると分かります。

約束は、文書や証拠により交わされることもあります。
血判と呼ばれるものは、
まさに命を懸けた契約であると言えるでしょう。

キリストは、それ以上の契約を与えてくださいました。
命懸けどころではない、
命を棄てたことによる、流血の契約でした。
新約聖書の契約は、
神と人との間の契約の、究極のものでありました。

さらにそれは、
キリストが私たちの友になってくださったこと、
友のために命を与えたことでもありました。

コデマリの花言葉には、ほかにも、
「友情」というものがあることを知りました。

私はまむし

2016年03月14日 | パンくず (礼拝余録)
「まむしのすえたち」と呼んだ相手は、
ここではパリサイ人たちであるように見えます。
そして、良い宝を取り出すことは彼らはできず、
悪い宝を出してしまうのです。
内から出ることばがそれを表してしまいます。

良い人・悪い人。
ここで出されているこの対比が、
果たして誰と誰を示しているのか、
それは明らかにされていません。

よいと呼ばれるべき方はただひとり、
そのような言葉も頭を過ぎります。





「まむし」が私たちのイメージと違うかもしれませんが、
ヘビであることは確かで、
だから創世記の、エバを唆したヘビの仕業を受けた
その末裔であるというのならば、
「まむしのすえたち」と呼ばれ得ない人間は
一人もいないでしょう。

少なくとも私は、
自分が呼ばれているように痛感していました。

だとすれば、私は「良い人」ではなくなります。
「パリサイ人」が出てきた瞬間、
クリスチャンの自分はそれとは違う、と思いがちですが、
私はそうは思いませんでした。

では、私は「悪い人」なのでしょうか。
悪い宝を出す者でしかないのでしょうか。
いいえ、違います。
この土の器の中に、宝があります。
イエス・キリストです。

キリストが内にいてくださることにより、
信じる私たちは良い宝を出すことができます。
それは、私の中には本来なかったものです。
私のもの、私自身などではありません。

まむしの私の中に、
まむしの性質をもはや釘付けにしてくださった、
イエスの死と復活によりもたらされた宝があります。
このイエスを称えます。

そんなことを考えながら、
礼拝説教を聴いていたのでした。

生かしてくださった

2016年03月09日 | パンくず (礼拝余録)
プライバシーに配慮しつつ、
貴重な証しを皆さまと分かち合いたいと願います。

ある方が、
自宅で突如倒れ、頭部を打ったことにより、
意識を失いました。

その方が、6日の礼拝報告時、
その時の様子をお話ししてくださったのです。

時折、家族の声やその様子が記憶にあるそうです。
救急車で運ばれましたが、
結局回復し、
さしたる問題を残さず
こうして教会の礼拝に再び来ることができました。





家の中でも寒暖の差が大きいと、
こうした危険を増すことになります、と
その方は注意を喚起していました。

とくにお歳を召した方は、
まだまだ季節的に用心が必要です。

まだ神が必要としてくださるから
生かしてくださったのだ、というその言葉に、
私たちは心からの拍手を贈ることでお応えするばかりでした。

罪はゆるされている

2016年03月07日 | パンくず (礼拝余録)
屋根を剥がして穴を開け、
病気の人を吊り降ろした友だちの姿。
その友だちの思いやりにも、よく焦点が当てられます。

6日の礼拝説教でも、
もちろんその行為の大胆さや、
日本の家屋との違いについては説明が加えられました。
しかし、
より注目したいことは、
イエスの問いかけでした。

罪は赦された、と言うことと、
起きて歩け、と言うことと、
果たしてどちらが易しいことだろうか?

どちらなのでしょう。
答えは、3月6日の説教要旨をご覧ください。





背景には、
病気が罪の結果だという通念がありました。
いや、この病気は罪のゆえではない、となれば、
起きて歩くことに支障はないはずでした。

新改訳聖書では、
「あなたの罪は赦されました」と訳されていますが、
たいへん曖昧で、勘違いを招きかねないと思いました。
原文では、現在形です。
過去ではないし、完了でもありません。
まさに「いま」であるか、「永遠の真理」であるかです。

あなたには何故だか理解できないかもしれないが、
もうあなたの罪の証書は無効になった。
私が十字架につけてしまうからだ。
あなたはそれを見て必ずそれを信じるだろう。

イエスがそんなことを思ったのかどうか、
人間には定かではありませんが、
あなたの罪はもう思い出されもしないのだから、
ここから歩き出しなさい、
そんなふうに言われているように思えました。

イエスだからこそ、
「あなたの罪は赦されている」と言えました。
人間には、そんなことは言えません。
また、人の罪を責めることもできません。
イエス・キリストだからこそ、言えました。
十字架で、あなたの代わりに
酷い殺され方をしたイエスであるからこそ。

「あなたの罪は赦されている」ということばを、
自分へのことばとして、受けとめることができるでしょうか。
受け容れて、いるでしょうか。

この後、聖餐式を迎えました。

礼拝後の恵み

2016年03月04日 | パンくず (礼拝余録)
実は28日の朝の礼拝においても、
ふだんに比べて
ずいぶん早くプログラムが終わりました。

それで、少し証しをする時間としたらいい、
そういう提案がありました。

ある方が、皆さんに見て戴こうとして、
一枚のDVDを持ってきていたので、
それをその場で見ることになりました。

今から90年ほど前に、
ヘレン・ケラーが話をしたときの映像でした。





ヘレン・ケラーは
皆さんご存じのとおり、
見る・聞く・話すがどれもできませんでした。
しかし、サリバン先生の口の中に指を入れ、
その下の形を真似ることで、
他人に伝わる話をすることができたのです。

その様子を録画した貴重な映像でした。
「闇を切り開く盲人の騎士になれ」と呼びかけるその声は、
英語として驚くほどきちんとしたものでした。

実はこの映像は、YouTubeで公開されています。
このヘレン・ケラー ライオンズクラブ国際大会スピーチを見て、
私たちは恵みを分かち合ったのでした。