マルコ16・1~8/イエスの生涯(30)
ピリポ・カイザリアの地で、初めてご自分のエルサレムにおける受難と三日目の復活を予告された(マコ8・31~33)主は、十字架の上に人間を救う御業を完成された。アリマタヤのヨセフは許可を得て「イエスを取り降ろして亜麻布で包み、岩に掘って造った墓に納め、墓の入口には石をころがしかけた」(15・46)。それは「安息日の前日(金曜日)」の「すっかり夕方になった」(15・42)日没直前の頃であった。イエスの遺体(なきがら)の「納められた所を良く見ていた」(15・47)女性たちは「安息日(土曜日)が終わったので、イエスに塗る香料を買った」。そして「週の初めの日(日曜日)の早朝」「墓の入口のあの石をころがしてくれる人がいるでしょうか」と案じながら墓へと急いだ。そして「日が上(のぼ)ったとき、墓に着いた」彼女たちが「目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石はすでにころがしてあった」。それで女性たちが墓の中にはいると、「真白な長い衣をまとった青年(天使/マタ28・2~3)」がいた。驚く女性たちに、青年は「あなた方は十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です」とイエスの復活を告げ、「ですから行ってお弟子たちとペテロに『イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と伝えなさい」と告げた。
それより三年後(33年頃)十字架に懸けられて死んだイエスは復活したと宣べ伝え、神キリストであると信じるクリスチャンたちを迫害し、ダマスコまでも出かけたパウロは、そこで復活の主イエスの顕現に会い、劇的な回心をし、キリストにより福音の宣教者とされた(使徒9章)。当代随一のギリシャ文化の町、キリキアのタルソ出身の、知性と学識に富み、熱心なパリサイ人でキリスト教の迫害者パウロの回心と福音宣教の人生は、この復活のキリストとの出会いが歴史的事実であることなしには説明できない。それより20余年後(55年頃)パウロはコリント教会宛に手紙を書き送り、その15章に「キリストは聖書の示すとおりに、私たちのために死なれたこと、また葬られたこと、また聖書に従って三日目によみがえられたこと」(15・3~4)こそ、私たちが救われる福音の核心であると記している。端的に言えば、復活がなければ十字架はその意味を失うのです。それゆえパウロは「もしキリストが甦らなかったら、あなたがたの信仰は空(むな)しく、今もなお、自分の罪の中にいるのです」(15・17)と言うのです。
しかし、事実キリストは甦り、シモン(・ペテロ=ケパ)にお姿を現わされ、十二弟子に、五百人以上の人々に現われて下さった(ルカ24・24、Ⅰコリ15・5~6)。この人々は約束のようにガリラヤで復活の主イエスにお会いした(照マタ28・16)。ガリラヤは主イエスが「神の国の福音を宣べ」始められた所であった(マコ1・14~15)。またイエスの生前、キリストを信じていなかったヤコブ(イエスの弟)とパウロは、復活した主イエスに出会ってイエスはキリストであると信じた(Ⅰコリ15・7~8/考ガラ1・18~19=使徒9・26~27)。そして、福音のために生きた。主イエスの十字架により救われた私たちも、復活の主と共に堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みましょう(Ⅰコリ15・58)。
ピリポ・カイザリアの地で、初めてご自分のエルサレムにおける受難と三日目の復活を予告された(マコ8・31~33)主は、十字架の上に人間を救う御業を完成された。アリマタヤのヨセフは許可を得て「イエスを取り降ろして亜麻布で包み、岩に掘って造った墓に納め、墓の入口には石をころがしかけた」(15・46)。それは「安息日の前日(金曜日)」の「すっかり夕方になった」(15・42)日没直前の頃であった。イエスの遺体(なきがら)の「納められた所を良く見ていた」(15・47)女性たちは「安息日(土曜日)が終わったので、イエスに塗る香料を買った」。そして「週の初めの日(日曜日)の早朝」「墓の入口のあの石をころがしてくれる人がいるでしょうか」と案じながら墓へと急いだ。そして「日が上(のぼ)ったとき、墓に着いた」彼女たちが「目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石はすでにころがしてあった」。それで女性たちが墓の中にはいると、「真白な長い衣をまとった青年(天使/マタ28・2~3)」がいた。驚く女性たちに、青年は「あなた方は十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です」とイエスの復活を告げ、「ですから行ってお弟子たちとペテロに『イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と伝えなさい」と告げた。
それより三年後(33年頃)十字架に懸けられて死んだイエスは復活したと宣べ伝え、神キリストであると信じるクリスチャンたちを迫害し、ダマスコまでも出かけたパウロは、そこで復活の主イエスの顕現に会い、劇的な回心をし、キリストにより福音の宣教者とされた(使徒9章)。当代随一のギリシャ文化の町、キリキアのタルソ出身の、知性と学識に富み、熱心なパリサイ人でキリスト教の迫害者パウロの回心と福音宣教の人生は、この復活のキリストとの出会いが歴史的事実であることなしには説明できない。それより20余年後(55年頃)パウロはコリント教会宛に手紙を書き送り、その15章に「キリストは聖書の示すとおりに、私たちのために死なれたこと、また葬られたこと、また聖書に従って三日目によみがえられたこと」(15・3~4)こそ、私たちが救われる福音の核心であると記している。端的に言えば、復活がなければ十字架はその意味を失うのです。それゆえパウロは「もしキリストが甦らなかったら、あなたがたの信仰は空(むな)しく、今もなお、自分の罪の中にいるのです」(15・17)と言うのです。
しかし、事実キリストは甦り、シモン(・ペテロ=ケパ)にお姿を現わされ、十二弟子に、五百人以上の人々に現われて下さった(ルカ24・24、Ⅰコリ15・5~6)。この人々は約束のようにガリラヤで復活の主イエスにお会いした(照マタ28・16)。ガリラヤは主イエスが「神の国の福音を宣べ」始められた所であった(マコ1・14~15)。またイエスの生前、キリストを信じていなかったヤコブ(イエスの弟)とパウロは、復活した主イエスに出会ってイエスはキリストであると信じた(Ⅰコリ15・7~8/考ガラ1・18~19=使徒9・26~27)。そして、福音のために生きた。主イエスの十字架により救われた私たちも、復活の主と共に堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みましょう(Ⅰコリ15・58)。