あるタカムラーの墓碑銘

高村薫さんの作品とキャラクターたちをとことん愛し、こよなく愛してくっちゃべります
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何を考えてるの、いやな子 (下巻p330)

2006-03-27 01:37:58 | 晴子情歌 再読日記
2005年9月30日(金)の 『晴子情歌』 は、第四章 青い庭 下巻のp310からラストまで読了。

晴子さんの手紙・・・淳三さんの死の前後の出来事。彰之への最後の手紙。
彰之の回想・・・第二北幸丸に乗船する前、晴子さんと過ごした日々を思い返す。
彰之・・・行方不明になる足立。松田とトシオの諍い。美奈子さんからの手紙。徳三さんへの電話。晴子さんからの最後の手紙。七里長浜へ。

***

登場人物  登場した書籍や雑誌名
どちらもなし。

★☆★本日の名文・名台詞  からなのセレクト★☆★

★かうしてやつて來る死の直觀をくつがへすことを望まなかつた私は、結局薄情だつたのかしら。死にゆく本人より自分のこゝろを救ひたかつただけかしら。いづれだらうと構ひはしませんが、人が死ぬと云ふ行爲とそれを見守ると云ふ行爲は一對の大仕事です。 (中略) 胎児を産み落とすやうに死を産み落とさうとしている人間も。それを見守るしかない人間も恐ろしく不思議な時間のなかに置かれて、しばし現世からは切り離されます。 (p311)

淳三さんがいよいよ危なくなった場面。晴子さんの「死にゆく人」への眼差しは、同様のものが上巻にありました。晴子さんの母・富子さんが亡くなった場面です。

★しかしそれでいゝのです。最後の山へ向かふ險しい道中、この私を含めた全部の人間から解放されて自由になり、ひとりで私たちの知らない土地や人間と出會ふ淳三の時間を、誰が非難できるだらう。私だつて死ぬときは最後に誰のことを思ふのか分からない。それはきつと貴方だらうと思ふけれども、そのときになつてみなければ分からないことだし、實際にそれを知るのはこの私だけで、生きてゐる者の誰も知ることはない、それこそ人生最後の最大の自由、開けてお樂しみの最後の袋と云ふものです。 (p313~314)

晴子さんが今まで巡りあってきた幾多もの死に対する視点というのは、どうしてこうも一筋の光明が差し込むような明るさがあるんでしょうか。
何故だか私はこれを入力していて、幸田さんや島田先生を思ったり、キムや合田さんを感じたりしました。

★ものを見る絵描きの目は徹底的に自由であり、その抽象が何をどう変形させようとも、それを眺める者の目に入り込んでくる限り、傾いた大地も波うつ青も空を穿つ穴もたしかに存在するのだった。否、〈存在した〉というべきだったか。「青い庭」はあり、それを産みだした淳三の目に彰之はいまになってやっと入り込み、母と同じようにそれを見ていたと言っても、曲面を描いて閉じた庭から届くその光は、数十日も数百日も昔に発せられた光だったからだ。 (p327~328)

淳三さんが描いた「青い庭」に、入り込んだかのようなデジャヴを覚えた彰之の心境。直接の血の繋がりはなくても(実際には叔父と甥)、この二人の関係は、晴子さんという存在があってこその「父と子」なのだなあ、思った次第です。『新リア王』 で描かれている「父と子」とは、また違った関係に昇華していく「父と子」も、確かにあるんですね。

★寝巻の上に半纏を引っかけた母は、少しうつむき加減の姿勢で、昼間彰之が耕した畝の間をゆっくりと行き来していたが、その目が足元の苗を見ていたかどうかは定かではなかった。ときどきもたげられる頭は台所裏の藪椿を仰ぎ、東のヒマラヤ杉を仰ぎ、かと思えば北側の海のほうへ振り返り、また足元の土へ落ちていく。月明かりしかない庭は、ほとんど草木のかたちも失われたセピアかモーヴか、コバルト青の闇の濃淡のはずだったが、その姿を眺めていた数分、母はいま「青い庭」を見ているのだと彰之は思い、自分もまたほんの短い間にしろ、その同じ庭の波うつ青を見ていたのは確かだった。そこにいた母は、ここ数日の生身の不安定さから解放された何者か、あるいは「青い庭」のなかに帰った何者かのようであり、そその周りで時空はまたひそやかに曲がり、モーヴの闇がごうと鳴った。 (p332)

一つ前の引用は「青い庭を巡る父と子」の描写でしたが、これは「青い庭を巡る母と子」についての描写です。淳三さんが眺め、描いた絵そのままのような晴子さん。絵の中に永遠に閉じ込められた晴子さんを、彰之は見ています。
一方の晴子さんは、まるで別れを惜しむかのごとく、「青い庭」の存在を確かめているようです。

★これを読んで思うところがあるかどうか知りませんが、考えごとをしていて海に落ちて死ぬなら、死になさい。 (中略)
貴方という人はせっかく外の世界で自由に生きていながら、どこまで福澤の男に似たら気がすむのだろう!
貴方はきっと何も知らないのだとお母さまは貴方を庇いますが、私は晴子お母さまが不憫です。貴方の薄情が悔しくてたまらない私の気持ちが貴方に分かりますか。彰之さん。
 (中略) 米内沢の家には帰って来るな。 (p345~346)

ネタバレ部分は避けて引用しました。不自然な部分があるのはお許し下さい。
しかしこの美奈子さんの手紙は、含むところがたくさんありすぎて・・・。この手紙で、彰之に対して溜飲が下がったという方は、結構多いのではないでしょうか。私もここですっきりとしました。
この再読日記を始めた頃に、「彰之は蹴っ飛ばしたい」と私は意見表明(?)しましたが、この手紙の内容で特に強く思うようになったのです。

ところで、「福澤家の男」の特徴って厄介なものですね~。『晴子情歌』 『新リア王』 と続けて読んでみたら、改めてその厄介さが分かります。


さて、以下は晴子さんの最後の手紙。

★この前、私は淳三の臨終前の数時間について、死を産み落とさんとする最後の險しい登山だと貴方への手紙に書いたと思ふのですが、夢のなかで淳三がそれは少し違ふよと云ふのです。死へ向かふとき種々の苦痛はあるのだけれども、幸ひなことに身體の徑の全部がそれに關はり集中するために、自分の意識のはうはもはや餘計なことは何一つ考へずに濟むのだ、と。人生の最後に許されたその心身の輕さは何かと比べるやうなものでもないが、少なくともぼくは最後に、生命とは何と狡猾でうまく出來てゐるものかと思つたよ、と。 (p348~349)

★それからまた私は夜明けまでざわざわひうひう鳴りわたる風音を聞き續けましたが、そのときの私の半睡の身體も、あるいは淳三が云ふ生命の集中に一寸近いものだつたか。何一つ思ひ巡らさない生命の輕いと云ふよりは茫洋とした薄明るさが私に教へるのは、細胞一つの營みの單純さ、規則正さ、緩慢さと云ふものです。またこゝに横たはる私のなかで、生命は私がわざわざ時計を持ちだしてその時間を計ることもない、この意識で知る必要もない或る集中、或る無限や極限、或る靜止と云つた豫感だけ呼び覺まし續けるのですが、生命がさう云ふものであるなら、この私の意識や感情も同じやうに無限定で無明であってもいゝ。 (p349)

★最後に、さうして草木も槌も空氣も鮮やかに新しい庭に立つてゐたとき、この私を捉へてゐた心地は或る歡喜だつたと云つておきませう。貴方がときどきこの家や庭や、この母の周りに殘していく、壯健な男子の聲と眼差しと匂ひの歡喜です。 (p350)

「女の一生」という、平凡だけど単純な言葉では到底片付けられない、晴子さんの生き様。「歓喜」と言い切り、生きている喜びを淡々と綴る晴子さんの想い。澄んだ空のような清々しさと明るさが、ひしひしと感じ取れる最後の手紙。時が経つにつれ、じんわりと沁み込んでいくような静かな静かな感動を、私は覚えたのでした・・・。


いよいよラスト、七里長浜の彰之です。「七里長浜を見た時に、これを書きたいと思った」 という高村さんの声が思い出します。
しかし取り上げるのは今回は見送らせて下さい。読み手それぞれに心に残る描写があるでしょうし、高村さんの肉声を耳にした以上、「全て取り上げるか、あるいは取り上げないか」のどちらかしかないと思うので。(全て取り上げたら、私は死ぬ思いを味わうでしょう・・・)

★――――そうだ、これはおまえに尋ねても無益な話だ。母はなぜ歓喜するのか、母はひとりでどこへ行こうというのか。俺はいまは、観音力に頼もうとは思わないのだ。 (p354)

これほどはっきりした、しかも否定的で強く明確な意思を表明した彰之は、初めてではなかろうか。

★俺はひとりだ。母もひとりだ。――――お母さん。 (p356)

この一文を取り上げるのをさんざん迷いましたが、これははずせないな、と思い直しました。『晴子情歌』 を締めくくるにふさわしい一文であることは、論をまたないでしょう。

母も自分も「ひとり」だと認識することが、どれほど悲しくて寂しいことか・・・。彰之が万感の思いを込めた「お母さん」という呟きは、「母」という存在から誕生した誰もが、(母を亡くした人ならば)かつて懐いた思いであり、(母が健在である人ならば)これから懐くだろう思いだろうと推測されます。
(私の母は健在ですので、推測の域を出ないんです)

高村作品の最後は、「これ以外にない」と断言できるほど、締めくくりの文章の描写が秀逸です。この最後の部分で、じわじわと静かな感動の波が打ち寄せてくる感覚と、いつまでも続く余韻の両方を、私は読むたびに味わっています。多分、これからもそうあるでしょう。

***

・・・終わりました。もう永遠に終わらないかと思いましたよ~。
残り2つの引用を取り上げたら終わり、という時に、入力がパーになってしまって真っ青になりました。幸い、メモ帳にそれ以前の分をコピペしたのが残っていたので、再入力はほとんど免れたんですが・・・。

今の心境は感無量と言うべきか、脱力感と安堵のため息が混ざったような感覚と言うべきか・・・。
昨秋から延ばしに延ばして引きずっていた宿題がまた一つ、片付いたのでホッとしていることは確かです。

愚痴を兼ねた(苦笑)総括記事は、いつかやりますが、ここまでお読みいただいた皆様、お付き合いいただいた皆様、お疲れ様でした。
そして、ありがとうございました。

***

※原文では、晴子さんの手紙は旧字体・旧仮名遣いを使用しています。どうしても変換できないものは、現代の字体・仮名遣いを使用しております。またOSやブラウザによっては、文字化けしていることもあります。その場合はお手数ですが、コメント欄を利用して申し添えて下さい。出来るだけ善処します。



17 コメント

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晴子の旅2、筒木坂の退屈 (晴子好き)
2011-01-09 13:39:29
からな様、皆様、
新年おめでとうございます。お元気ですか?

日本海側や北日本からの雪の便りを見聞きするにつけ、晴子が過ごした冬を連想します。
東京生まれ東京育ちの10代初めの晴子が青森から筒木坂に着いたのが3月下旬。記雪が解け、そこから始まった北国の春は、新鮮で魅力だったでしょう。
ところが、その魅力を語る相手がいなかった。弟妹は幼い上、昼間は学校へ行って不在、野口本家の人々には珍しくもない景色。晴子は康夫や東京の友人たちに手紙を書いたことでしょう。
しかし、東京の友人たちは津軽の景色を実体験していないので、感激を共有することはできない。『嵐が丘』『アンナ・カレーニナ』の感想なら共有できたでしょうが。康夫は忙しく、漁場への手紙の往復にも時間がかかる。それでも、晴子の手紙は康夫を喜ばせたことでしょう。
康夫が帰ってきた冬。晴子は長い夜を康夫と話して過ごし、康夫は雪に閉ざされて新聞も届かない昼を持て余していた。

土場は冬になる前に引き払いましたが、野辺地の冬は何度も過ごしたはず。人の多い福沢本家は退屈する時間も無かったでしょうが、淳三と二人だけの冬はどうだったか?
息詰まると八戸や本家へ逃げたか?
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野口康夫の旅3,リベラルな教師? (晴子好き)
2010-11-21 11:25:48
からな様
風邪、お大事になさってください。

晴子の手紙に描かれる野口康夫は、相手が子供であっても、自分で考え、自分で体験して、自分で判断することを奨励していますね。
子供たちを筒木坂や土場へ連れて行ったのも、彼らに東京以外の生活も体験させて見聞を広めさせ、彼らの選択肢を増やすことも目的だったのでしょう。農漁村での生活を押し付けたわけではなく。
康夫自身も私小説に綴ったように、自身のリベラリズムが、社会主義運動の中でも、農漁村生活の中でも、浮き上がるかも知れないと予感しつつ、まずは実体験を志したのでしょう。まだ40歳で、体力にも自信があったでしょうから。

若い晴子が初山別行きを言い出したり、康夫の死後、帰京復学ではなく、女中を志願したのも、康夫譲りの実験精神でしょう。谷川巌への恋心だけではなく。
というか、晴子の巌への恋心そのものが、実験精神の産物ではないかと見ています。

康夫のようなインテリ・リベラルは、戦前でも今でも多いのですが、一人の人間の中で家父長専制とリベラリズムが同居しているので厄介です。
康夫の専制は、岡本の舅姑の意向を無視したところにしか描かれていませんが、同様なインテリ・リベラルである榮や彰之の専制は、物語の重要なテーマになっていますね。
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野口康夫の旅2、 洋行? ソ連? (晴子好き)
2010-10-28 15:43:44
康夫が洋行したという記述はありませんね。しなかったのでしょうね。
官立の東京外国語学校の英語教諭なら、普通は順番で洋行できたでしょうから、社会主義的言動がたたったということでしょうか。
洋行していない英語教師では出世にも影響したでしょう。第二の旅への動機はここにもあったか。

岡田嘉子さんと杉本良吉さんが樺太国境を越えてソ連へ逃げたのは昭和12年暮れでしたが、高村さんは当然この事件も意識しておられるでしょうね。

晴子の筒木坂への旅、康夫の北の海への旅は昭和9年の3月となっていますが、この時期、社会主義国ソ連への関心は、インテリの間では強かったことでしょう。康夫は楽しみにしてカムチャッカへ出かけたと思います。そこで何があったか?
当時は工場だけでなく、農村や漁場でも争議をおそれて特高のSも入り込んでいたとか。まして国境地帯ですからね。高村ファンとしては、勝手にそういうことも推理します。

戦後の高度成長の後で生まれて、社会主義の崩壊を見た私達には、ソ連は恐怖の帝国でしかないのですか。
返信する
野口康夫の旅1 (晴子好き)
2010-10-11 14:59:12
昼のニュースで恐山の秋詣りを伝えていました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20101011/t10014510871000.html


本郷の岡本家から、筒木坂の野口家までは、晴子にとっては「宇宙船の旅の始まり」でしたが、康夫にとっては、二高進学以来の20年余の「長い旅の終わり」だったと思います。
東京を引き払うにあたっての様々な身辺整理の総仕上げが、子供たちを筒木坂に預けることであって、身軽になった康夫は、第2の旅、北の海へと、勇躍でかけていったと観ます。

高村さんが『李歐』『神の火 新版』で描く、人生の転換を決めた主人公のイソイソした身辺整理描写が、私は好きです。作品全体では、初出の『我が手に拳銃を』『神の火 旧版』のコントラストの大きい勢いのある文体の方が好きなのですが、改稿で挿入されることが多い身辺整理描写の、淡々ながらテンポよく、主人公の心のはずみが伝わるような描写が、好きです。

康夫や筒木坂の野口家の人々が、晴子たちを土場ではなく筒木坂においたのは、康夫の20余年の旅の目に見える成果が、都会色の子供4人であったからか、と推理します。
康夫本人や家族の内心とは別に、筒木坂の近隣では、康夫に何がしかの「立身出世」を期待したでしょうから、中途退職して漁夫になるでは、さぞかし喧しかったでしょう。
その噂を封じるためには、富子の水色のコートを着た晴子たちが必要であり、祖母キトが彼女たちを田圃へ入れなかったのも、武志との接触機会を減らしたいという意図以外に、晴子たちの都会色を近隣に見せつけたい思惑もあったことでしょう。

今回は、このあたりで失礼します。
返信する
七里長浜まで、晴子の旅1 (晴子好き)
2010-10-09 13:41:46
♪ 上野発の夜行列車、降りた時から~、青森駅は雪の中~、♪

http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=31536

この大跳躍は、阿久悠論では必ず出てくるのですが、高村さんは更に上を行って、本郷から筒木坂まで一気に。まさしく「宇宙船」です。

書かれていない晴子の宇宙船旅を、推理してみます。

寝台利用だったでしょう。4人の子連れで、康夫にはそのくらいの金はあり、筒木坂での今後の子供たちの生活のためにも、康夫自身の体面のためにも、みすぼらしく疲れた風体は避けたかったでしょう。

壁とカーテンの狭く揺れる空間で、晴子は、「嵐が丘」筒木坂を想像し、宇宙船の船長として弟妹を守る覚悟を固めたでしょう。

早朝、青森駅に到着。先を急ぐ連絡船乗継
客をやり過ごして、父子5人は駅で朝食を摂ったでしょうか。
3月半ばでは、乗り換えたローカル線や馬車から見える景色も、鉛色の曇天に、煙塵や馬糞で灰色に汚れた雪が残るだけだったでしょう。土地の人々は、地味な着物を厚く重ね着し、寒さ防ぎに顔や頭を覆って、聞きなれない言葉でボソボソ話していたでしょう。

筒木坂に着き、挨拶もそこそこに康夫は初山別へ出かけてしまう。晴子たちは、夕食と風呂を与えられ、早く眠るように、翌朝はゆっくり寝ているようにと、促されたでしょうか。

宇宙船を操縦するつもりだった晴子にとって、為す術も無く、風に流されるだけだった1日が過ぎ、翌朝、気を取り直して操縦桿を握って着いた先が、七里長浜でしたと。

今回は、このあたりで失礼します。
返信する
都会の色々3、筒木坂の人々 (晴子好き)
2010-10-03 19:27:57
からな様

ご返信ありがとうございます。
お気遣い無くとは申したものの、ご返信いただけるとやはり嬉しく、刺激になります。とはいえ、『新冷血』メインで、お忙しいことは承知しておりますので、ご無理なさらずに。

>初稿
これは「初出」と書くべきでした。読者である私が最初に読んだ文章という意味です。

>小林旭
ファンでも詳しいわけでもないのですが、たまたまラジオで嵐山光三郎氏が小林旭について語っていたのが面白く、そこで「北帰行」「熱き心に」を聞いて、これは野口康夫だなと思いました。


筒木坂の野口忠夫の妻タエについて、晴子の手紙では、驚くほど純朴な人に書かれています。富子の水色のコートで東京から乗り込んだ晴子たちも、モスリンを着て弘前から来た三谷の次男の嫁も、区別なく「都会の色」として好奇心と憧憬の対象になっています。
一方、祖母のキトは少し警戒心があり、「康夫も晴子も農家に向かない」とはっきり言います。

都会者に対する地方人の好奇心と警戒心の混ざった気持ちは、戦争中の疎開で多くの人達が経験したことで、戦後生まれの私達も多くの回顧談で知らされています。
高村さんはこの2つの感情を、いろいろに描き分けています。
晴子の手紙では、若い晴子が感じた新しい刺激の1つとして描き、
しかし、冬に漁場から帰郷した康夫は、晴子よりも確かに不穏さを感じて、子供たちを土場に移動させ、
彰之の地の文では、一寸チクチクと刺激臭を高め、
『新リア王』では、榮が相当にザラザラした違和感として感じています。
主題を展開し、変調させ、深めていくような、高村さんの筆致は、ゾクゾクするほど魅力があります。

野口の兄弟はいずれ華やかな女性を妻にしていますね。筒木坂の長兄忠夫からして「いなせ」で鳴らし、隣村の格上の家のタエが惚れて嫁いで来たと。次兄の昭夫は「江差一の芸妓」を妻にし、康夫は富子と結婚して東京に居ついた。
忠夫とタエの長男の武志が、1年間滞在して退屈まぎれに色々と粉をかけたであろう晴子になびかなかったのは、タエやキトから厳しく釘を刺されていたのだろうなと、ココでも書かれていないことを推理して楽しんでいます。

今回は、このあたりで失礼します。
返信する
お言葉に甘えてます。 (からな)
2010-09-26 23:41:41
晴子好きさん、こんばんは。

>彰之への手紙では、オクテであったと書いていますが、
>見巧者という設定ではあると思います。

現代の言葉を借りると、「小悪魔」でしょうか。でも手を変え品を変えではなく、無意識ではある。自分はモテる、という自覚は、晴子さんのにはないでしょう。

>上野からの長い汽車の旅が書かれていない

1.疲れて眠りこけていた
2.七里長浜の海の美しさで記憶が吹っ飛んだ

上記のいずれか、あるいは両方かも、と私は思ってます。

>初稿における書かれたことと、
>書かれなかったこととのコントラスト

「初稿」を書籍にする前、と解釈する場合。
女性を主人公にした初めての作品ですから、「書けなかった」ご苦労は並々ならぬものだったと推察されますし、言葉も習慣も土地も時代も、今までの作品とは異なりますしね。

「初稿」を単行本と解釈する場合。
単行本でも「完璧」あるいはそれに近い完成度の高さを誇っているのに、文庫になると遠慮なく手を加える作家さんですが、『晴子情歌』以降は、時代考証等の部分はともかく(文庫になる前に歴史の新事実が発見されるかもしれませんから)、それほどは手を加えないように思えるんですが、どうなるでしょうか?

>小林旭

某CMの「赤いトラクター」(というタイトルでよいのだろうか)の歌や、「昔の名前で出ています」の曲、「熱き心に」くらいしかはっきりと分かりませんので、コメントしづらいんですが・・・申し訳ない。

小林旭さんは、そんなイメージの歌が多いんでしょうか?

返信する
野口靖夫に関する推理3 (晴子好き)
2010-09-26 15:26:58
からな様

連投はご迷惑と思い、避けたいのですが、昨日「北帰行」について書いた後で気づいたこと、1点だけ。

http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/01/post_3959.html

「北帰行」は、康夫ですね。晴子は、宇宙船の船長でした。
当時の康夫は、満40歳になるかならないか。「北帰行」の作者よりは老ねていますが、そこは中年ジャン・クリストフ。時代背景を考えると、小林旭ではなく原曲でしょう。
小林旭なら「熱き心に」で、カムチャッカの康夫を連想します。

http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=31567


からな様は、お忙しいでしょうから、ご返信はお気になさらずに。
お手すきで、お気が向かれたときだけ、時々いただければ十分ですし、私も気兼ねなく書けます。
返信する
「都会の色」色々2、見巧者の晴子と北帰行 (晴子好き)
2010-09-25 20:56:26
>ろくでもない「父親」

たしかに、子供の立場からは「許せない」人物が多いですね。この切り口でも、そのうち書いてみます。

今回は、晴子の「都会の色」について続き。

晴子は、康夫に似て長身で、観察力があり思索的で読書好き、美人?
富子に似て、オシャレで華やかで、知的好奇心が旺盛で、行動的。
音痴は、どちらに似たのか?

東京府立第一高女に通い、陸上競技部。人見絹枝に憧れた一人ですね。

ここまでなら、向田邦子が描く山の手の勤め人の娘と同じようなキャラで、男の子の知り合いは近所か親戚か友達の兄、というところですが、
晴子にはあと二つ特徴がありました。

本郷の下宿屋の娘で、地方から出てくる秀才たちを見慣れていた。また、康夫と富子のところに出入する芸術家の卵たちも見慣れていた。積極的な富子と彼らとのやりとりを見て、女性の様々な言動に、男たちがどう反応するかも見知っていた。あるいは晴子自身、2,3の実験も行っていたかも知れない。
彰之への手紙では、オクテであったと書いていますが、見巧者という設定ではあると思います。

こういう晴子が筒木坂へ乗り込む時の、上野からの長い汽車の旅が書かれていないのが気になります。「北帰行」でも歌えば良いのかな?

私は、高村さんの初稿における書かれたことと、書かれなかったこととのコントラストが好きで、改稿によってコントラストが薄まると、平板になったと感じることが多いです。

青森への長い列車の旅は、『新リア王』で、彰之と初江の道行や、榮と優との永田町往還で描かれています。
晴子の旅は、土場への青函連絡船と、初山別への留萌線が描かれています。晴子の最初の北帰行が描かれなかったのは、新しい刺激への晴子の期待と不安の大きさの象徴かなと、今のところはありきたりな推理をしています。
返信する
作品を語るということは読み手自身も語るということ (からな)
2010-09-25 00:11:31
晴子好きさん、こんばんは。お気遣いありがとうございます。

>前回のコメントにはタイトルを付けませんでした。

タイトルは気になさらないで結構ですよ~。入れずにコメントされる方もおられますから。

>富子の色に惹かれて、帰郷を忘れた浦島太郎の康夫は、
>富子の死による色替りに我に返って

富子さんの生まれもった明るい色は、康夫さんには無いものですしね。

>長年おさえこんでいた望郷と流離の欲求

帰れる場所がある、というのは、ある意味幸せなんですね。

余談ながら私には俗に言う「田舎」というものがありません。元から大阪府に住んでいる人間なので。
だから小学生の頃「田舎はどこ?」とクラスメートに訊かれて、返答に困りました。

>富子の形見としてそばに置いておきたかった、
>父親としての中途半端な責任感と見栄

『晴子情歌』のキーワードのひとつ、「放浪する半身」になってしまった康夫さんは、新たな半身を見つけることはなかったし、失った空っぽの部分を埋めるかのように、残された子供たちを養うために労働せざるを得ない。

この時代、学業を諦めて働いていた人はごまんといたし、情勢も情勢ですし、康夫さんには申し訳ないけど、お気の毒としか言えません。

でも、拙いまでも「父親」として子供たちを慈しみ育てたのは、事故死で終わってしまったとはいえ、今の世と比べても「父親」としては立派なほうではないでしょうか。
ろくでもない「父親」が晴子さんや彰之の人生に、この後で登場することを思えば(苦笑)

返信する
「都会の色」色々1 または 野口靖夫に関する推理2 (晴子好き)
2010-09-23 12:57:44
からな様

何年も前のエントリーへの突然のコメントにもかかわらず、ご返信いただき、ありがとうございます。
新エントリーも拝見しています。そちらへも、お邪魔させてください。
晴子関係は私の好みなので、からな様のご多忙を増やさないように、頻度と量を考えて書きますが、ご返信はご負担のない範囲でご無理なさらないでください。アンケートに惹起された、アンケートの追加記入とでもご理解下さい。

こちらのシステムに不慣れだったので、前回のコメントにはタイトルを付けませんでした。付けるとすれば「野口康夫に関する推理1」and/or「晴子が手紙を書いた動機推理1」でしょうか。

からな様ご指摘の晴子の「都会の色」はKey概念だと、私も思います。
後年の彰之の福澤公子への感情にもつながると思うのですが、これは別の機会にします。

高村さんは「都会の色」の出し手と受け手にも色々あると描き分けておられるように思います。
まず、同じ本郷の岡本家に生まれ育った姉妹でも、富子と姉の民子の違いが、晴子の手紙に書かれています。子供の晴子が感じたくらいですから、康夫はもっと痛切に感じただろうと推理します。富子の色に惹かれて、帰郷を忘れた浦島太郎の康夫は、富子の死による色替りに我に返って、子連れ狼ならぬ、子連れのジャン・クリストフになったかと。

合理的に考えると、康夫の退職は職場の肩たたきでしょう。しかし、富子健在ならば、売れない作家 兼 下宿の親父として、東京で文化人稼業もできなくは無かったでしょうが、富子亡き後の岡本家も東京も康夫には魅力がなく、長年おさえこんでいた望郷と流離の欲求が吹き出してしまったかと、推理します。

子供たちを岡本家へ残さずに連れていった理由ですが、晴子(おそらく哲史にも)に一応希望は尋ねた、富子の形見としてそばに置いておきたかった、父親としての中途半端な責任感と見栄、こんなところでしょうか。『北の国から』の五郎ほど確信犯専横な父親ではないですね。

長くなるとご迷惑でしょうから、今回はここで止めます。流浪にともなう晴子の色の変化や、筒木坂、土場、野辺地の各所での受け手の違いは、次の機会に書いてみます。
返信する
いらっしゃいませ! (からな)
2010-09-20 16:00:35
晴子好きさん、はじめまして。ご訪問とコメント、ありがとうございます。
アンケートも届いております。重ねてお礼を申し上げます。

長文の、しかも内容の非常に濃いコメントですので、吟味してから返信したいと思い、一日の時間をおきました。

現在の私では、到底思い至らない「ものの見方」ですので、なかなか刺激的でした。
例えば「被支配者と、支配者の末端の対比」。唸ってしまいました。

このコメントを拝読して思ったことは、晴子さんの知らないところで、福澤家は晴子さんの周辺を調査していたのか? という想像。
物事は、ほとんど晴子さん視点の手紙で語られてますから、このような可能性もないではない、と。
調査内容を、もしかしたら淳三氏が立ち聞きして知るとかで、榮パパを出し抜こうとして晴子さんを得ようとしたのかも、という想像。

また、晴子さんに惹かれる男性が多いのは、「都会の色」をまとっているからではないか、とも思えるのです。
時代はともかく、物語の舞台は未だに封建制を引きずっていていそうな土地柄ですから、「田舎」にはない雰囲気を持っている晴子さんに、新鮮なものを感じたのではないか、と。

晴子好きさんのコメントを吟味すると、晴子さんは本人の意思にかかわらず、被支配者から支配者側(分家とはいえ)へとポジションを移した人間ですから、双方が良く見えるんでしょうね。

>こうした伝説が彰之の人格や人生を自縄することを危惧

そうであっても、やっぱり周囲は「福澤家の人間」と見なしてしまう。それが彰之の不幸というか、因縁というか、業というか・・・。

返信する
Unknown (晴子好き)
2010-09-19 16:30:16
からな様(この呼称でいいですか?)

はじめまして。
『新冷血』のブログ梯子からコチラにたどり着き、アンケートに回答しているうちに、コメントも書きたくなりました。

高村作品は『我が手に拳銃を』から読み始めて、ほとんど全てを読んでいます。『新リア王』と『晴子情歌』が最も好きです。感想は一度には語れないでの、何度かに分けて少しづつ書かせてください。

晴子→新リア王→太陽は、福澤彰之伝ですが、康夫→晴子→彰之→秋道という被支配者と、支配者の末端に連なる福澤中枢や大寺中枢や警察(合田)との対比、という面もあると観ます。

康夫と秋道の主観は全く語られていなくて、読者にとって康夫は、晴子の手紙の中でしか出てきません。
晴子の手紙で語られる康夫の経歴と、彰之の回想として出てくる地の文から、読者は、福澤一族や野口一族が康夫という存在をどう評価したか、それを彰之にどう語ったかを、推理します。その推理を書かせてください。

武者小路実篤の新しき村とか、社会主義弾圧や昭和恐慌のリストラで、インテリの帰農が多い時代でした。津軽の秀才で、東京外語学校の教師というインテリ官吏であった康夫が、退職して漁夫になってカムチャッカで死んだということに、福澤も野口も相当の訳ありと感じたでしょう。
野口は康夫の身内で生前の本人も知っているので詮索せず受け入れましたが、政治家福澤はそれなりに調査し、政治色は無い夢想家(淳三タイプ)と見極めたから、晴子を受け入れたのでしょう。福澤の男たちにとっても女たちにとっても、登場前から晴子への関心はあったわけです。
登場した晴子は、地味にお仕着せを纏っていても、長身でオシャレで知性的な顔と運動神経の良い身ごなし(音痴だけれど)、ジャーンと効果音が高まるところです。

晴子が淳三と結婚し、榮との間に彰之をもうけると、福澤を超えて野辺地や上十三にも晴子や康夫の伝説が広がり、彰之はもちろん、津軽の野口家へも影響を与えたでしょう。
体調不良から死を予感した晴子が、彰之に宛てて、富子や康夫から始まる長い手紙を書き綴ったのは、こうした伝説が彰之の人格や人生を自縄することを危惧して、努めて明るく牧歌的に富子や康夫や晴子自身の人生を記した、こういう設定と観ます。

長くなったので、今回はここで失礼します。おさしつかえなければ、また時々、書かせていただけるとありがたいです。
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お疲れさまでした (からな)
2010-02-18 23:11:03
みもざさん、こんばんは。読了、お疲れさまでした。
高村さんの作品を読み終えた後ほど、「お疲れさま」という言葉がふさわしい小説は滅多にありませんよね。

>しばらくの航海を終えた旅人気分です(笑)

そうですね、明治から昭和という時間の航海、晴子さんという一人の女の航海、実際に漁へ出ている彰之の航海、などなど。
読んでいる私たちも、旅を終えたような、さまよっていたような、そんな気分を味わいますね。

>どこかで自分と彰之を重ねて読んでいた

そうなんですか。それはそれで読みやすかったのかもしれませんね。

>康夫さん、そして淳三さんという芸術家と暮らせた晴子さんは、なかなかいない素敵なお方だと感じております。

康夫さんはともかく、淳三さんの相手は本当に大変で、苦労の連続だったと思います~。
だけど愚痴も文句も言わず・・・言いたかったと思うけど、言ってもしょうがないと悟っていたと思いますが、淡々と働いて福澤家の生活を支えてきた晴子さんには、頭が下がる思いです。

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清清しさと潮の香り (みもざ)
2010-02-18 16:50:59
からな様

この再読日記を頼りに、また”太陽を曳く馬”へ道しるべの小さな達成へ向けて、母のラブレターと繊細な息子の心象で綴られた物語をやっと本日読み終えました。苦しい上巻でしたが、下巻は、海上生活や、福澤の人間たちの生活になじみを感じながら読みすすめられました。しばらくの航海を終えた旅人気分です(笑)。なぜならば、美奈子さんからの手紙により、まるで私自身の胸倉をつかまれたような・・ショックもあり、どこかで自分と彰之を重ねて読んでいた感があるようです。それにしても父、康夫さん、そして淳三さんという芸術家と暮らせた晴子さんは、なかなかいない素敵なお方だと感じております。
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こちらこそ、ありがとうございます。 (からな)
2006-03-30 23:55:59
marimoさん、こんばんは。お読みいただきまして、ありがとうございます。



>正直読むのが苦痛でした。



私もそうでした(笑) 初めて読んだ時は一度中断して、しばらく期間をおいてから再挑戦して、読了しましたから。



でもクライマックス近くの、畳み掛けるように次から次へと謎が解きほぐされてゆく様は、marimoさんも書いてらっしゃるように、「ああ、高村さんだなあ」・・・と、感じることが出来ますよね!



読み手それぞれに、名文や名場面は違うと思いますので、私が挙げたもの以外でもあるはずです。

いつかmarimoさんが再読なさった時に、教えて下さいね。



ところで、『リヴィエラを撃て』も再読なさるとか。一緒に読んでいる方がいるということを知るのは、何だか楽しい気分です♪

今はジャックのIRA時代を読んでいる最中です。このあたりはすっかり忘れてる・・・(苦笑)



もうちょっと仕事がヒマになったら、更新速度も上がると思います・・・。

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お疲れ様でした。 (marimo)
2006-03-29 20:11:18
 再読日記お疲れ様でした。そして、ありがとうございました。春子情歌は、今までの作品と雰囲気が違いすぎて、正直読むのが苦痛でした。でも、からなさんの、日記の本日の名文を読むと言葉が立ち上がってくるような気がして、ああやっぱり高村さんなんだ、繋がっているんだと思いました。終わり方も、神の火の終わり方を少し思わせますよね。いつか、わたしも再読したいです。でも次回が楽しみ!わたしは、文庫本しかもっていないけど、一緒に再読します。ちょっと頭がごちゃごちゃするので整理したいです。CDを聴きながらコンサートシーンだけは何度も読んできました。(笑)
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