コルドバの大モスク
スペインのあるイベリア半島は紀元前には北アフリカのカルタゴが植民都市を建設していた。その後ギリシャ人も進出し、以後ローマ対カルタゴの両雄はポエニ戦争として何度も戦った末、ローマ軍が勝利した。約600年間ローマ時代が続いたが、ゲルマン民族の大移動により、西ゴート王国が出来る。7世紀、ムハンマドの出現により、北アフリカを制圧したイスラム教徒のウマイヤ朝が進出してきた。
750年、シリアで政変が起こり、ウマイヤ朝はアッパース朝に滅ぼされた。ただ一人生き残った王族のアブド・アッラフマーン1世はモロッコ経由でイベリア半島に逃れる。ウマイヤ朝を再興し、後ウマイヤ朝としてイベリア半島を支配する。東方から文化人たちが移住し、首都コルドバはバクダット、カイロと並びイスラム文化の栄華を極めた。約300年間続いた後ウマイヤ朝だが、11世紀には衰退して約30の小国に分裂する。
フェルナンド2世とイサベル1世
300年間、じっと息をひそめていた西ゴート王国の生き残り家臣の末裔がキリスト教を奉じて建国、イスラム教徒の国にレコンキスタ(再征服)を開始した。イエス・キリストの弟子であるヤコブの墓があることから、ローマ、エルサレムと並ぶキリスト教の巡礼地としてレコンキスタの熱はイスラム国を追いつめる。イスラム国は北アフリカのムラービト朝、次にムワッヒト朝に援軍を求め応戦する。レコンキスタの戦いは一進一退を繰り返し400年間位続いた後、ついに1479年、スペイン王国が誕生し、最後に残ったイスラム国のグラナダ城ではムハンマド11世が1492年無血開城する。約800年間続いたイスラム勢力はイベリア半島から姿を消した。
さて、イベリア半島のユダヤ人であるが、ローマ帝国から離散にあったユダヤ人の一部はエジプト、モロッコを経由してイベリア半島に移住していた。イスラム教徒はユダヤ教徒を「啓展の民」として寛容であったので、有能なユダヤ人たちは重要視され高官にも着いて繁栄を支えていた。レコンキスタが始まったても、スペインの前身であるカスティーリャ王国でもアラゴン王国でも多くのユダヤ人が宮廷で働いていた。そもそもカスティーリャ王国のフェルナンドとアラゴン王国のイサベル1世の結婚を斡旋したのがユダヤ人家臣だと言われる。
異端審問所
しかし、十字軍、ペストの大流行、経済的困窮が続くと民衆は裕福なユダヤ人への妬みが募り、1391年には大規模なユダヤ人虐殺があった。スペイン国家が成立してもユダヤ人への風当たりはますます激しくなった。スペイン国王に着いたフェルナンド2世は自らの権力を示すためにもユダヤ教徒とイスラム教徒に国外追放又はカトリック教への改宗を命じた。改宗したユダヤ教徒をコンベルソ、改宗したイスラム教徒をモリスコという。フェルナンド2世は彼らが本当に回収したかを確かめる機関としてローマ教皇に特別な許可をもらって「異端審問所」を設置した。
本来、異端審問はキリスト教徒に対して行われるもので、ローマ教皇は許可を与えなかったが、フェルナンド2世は莫大な賄賂を提供し、教皇人事にも介入した。当時のローマ教皇は戦国時代を生き抜く王たちの支援で成り立ち、台頭するオスマン帝国の脅威にも立ち向かう権力を維持するためには非常手段もとっている。ユダヤ人への根強い妬みから民衆は支持、約2000人のユダヤ人が火あぶりによって処刑された。異端審問で処刑されれば、財産は国が没収するので、それが目的であった場合もあったという。
~~~さわやか易の見方~~~
「天沢履」の卦。履(り)は踏む、実行することである。虎の尾を踏むような危険を恐れず実行するという意味である。人生には様々な危険が待っている。しかし危険を恐れていては何も出来ない。かと言って、危険を忘れてしまうのは最も危険である。特に成功者には「妬み」という危険もある。着実に、しかも用心深く進んで行くことが大事である。
ユダヤ人たちはどこの国でも、その国のために精一杯努力を尽くしている。財政に強く外交もうまいユダヤ人を重要な職に着けて、働いてもらった国は全て繁栄している。ユダヤ人にとってみれば、職につけて貰って有難いので期待に応えようと一生懸命働いた。威張るつもりはさらさらないのだが、それでも妬まれるとは、「いったいどうすりゃいいのさ。」と言いたい所だろう。民衆のレベルはいつもそんなものなのか。許せないのは権力者がそれを利用することだ。運と徳に恵まれた権力のある者は、民衆をより高いレベルに導くべきではないのか。宗教指導者の立場を忘れ権力の座にしがみつくローマ教皇、そのローマ教皇を利用しようとする国王たち。十字軍以降、イエス・キリストの教えは政治の具と化してしまった。
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