さわやか易

人生も歴史もドラマとして描いております。易の法則とともに考えると現代がかかえる難問題の解決法が見えてきます。(猶興)

(24)十字軍からの大混乱

2021-06-24 | ユダヤ人の旅

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ウルバヌス2世

アッパース朝のイスラム帝国は発展を続けて行くが、元来アラブ民族は小さな部族の集団で成り立っており、周辺国もそれぞれ独自の文化がある。広大な地域を支配するには軍隊が必要である。その軍隊はアラブ人だけでは成り立たず、周辺支配国から傭兵を募っていた。トルコ周辺から中央アジアの民族は遊牧の騎馬民族であり、戦争にはめっぽう強く傭兵には最適だった。

11世紀になると、傭兵だったトルコのセルジューク族がアッパース朝のカリフに任命される形でスルタン(君主)となり、事実上王朝を乗っ取ってしまう。領土拡張に野心を膨らましたセルジューク朝はアナトリア半島を占領し、ビザンツ帝国に迫る勢いだった。ビザンツ帝国の皇帝アレクシオス1世は危機を感じて、犬猿の仲ではあるがローマ教皇ウルバヌス2世に傭兵の提供を願い出た。

ウルバヌス2世は「エルサレム奪回」を大義名分としてフランスの騎士に呼びかけた。参加するものは罪の償いの免除が与えられると宣言した。フランスの諸侯たちは領土的野心を抱いて、十字軍を結成すると、コンスタンティノープルに集結した。ビザンツ帝国から旧帝国領を奪還した土地はビザンツ帝国の宗主下に置く限り新国家を樹立することを許した。かくしてエルサレム奪還を旗印にイスラム教徒の都市を攻略しながらエルサレムに向かった。

 

アイユーブ朝サラディン

エルサレムは638年以来、イスラムの支配下ではあったが、キリスト教徒とユダヤ教徒にも巡礼は認められており、400年間以上もの間住み分けが出来ていた。当初エルサレムの住民は十字軍を巡礼者と思って、無防備だった。しかし十字軍はエルサレムに到着するや暴力集団と化し、老若男女問わずの大虐殺を始めた。1099年、この第1回十字軍はシリアからパレスチナにかけて、エルサレム王国、エデッサ伯国、トリポリ伯国、アンティオキア公国を始めいくつかの十字軍国家をつくってしまった。

この出来事はヨーロッパ中を刺激することになり、イングランド、フランス、ドイツ、イタリア、ノルウェーの王たちが遅れてならじと立ち上がった。その頃、イスラム帝国が3つに分裂を起こしており、王たちは火事場泥棒のように領土の争奪合戦を演じた。しかし、ようやくイスラム帝国を立て直し、アイユーブ朝を起こしたサラディンはジハード(聖戦)を誓い88年ぶりにエルサレムを取り返した。キリスト教国家も一層火が付いたように十字軍を繰り出した。第3回目十字軍はローマ教皇、イングランドの獅子王リチャード1世、フランスのフィリッププ2世、イタリアのフリードリヒ1世たちが入り乱れて戦争に明け暮れ、イスラム軍と一進一退の戦争劇を演じた。

 

1291年、アッコン包囲戦

こうして十字軍は次から次と戦争を繰り返し、キリスト教徒とイスラム教徒との分断、ヨーロッパ人とアラブ民族との対立が進んだ。経済の損失、人心の荒廃、自暴自棄と化した兵隊を作った。エルサレム奪還の大義名分もどこへやら、ユダヤ人コロニーを見ると略奪に走り、エジプトを襲い、挙句の果てにはビザンツ帝国のコンスタンティノープルでも略奪をしたという。ローマ教皇の一声で始まった十字軍時代は約200年間も続き、計8回も遠征した。イスラム帝国も混乱し、次々王朝は変わり、奴隷戦士からスルタンになる下剋上世界にもなった。結局、キリスト教国は全てを失い元の木阿弥となる。

 

~~~さわやか易の見方~~~

「天地否」の卦。上に天、下に地であるから一見自然に思える。しかし易では天は上を目指すもの、地は下にあるものとして上下が背きあい意思の疎通を欠くと考える。否であるから否定。最も良くない、閉塞状態である。小人の道が横行し、君子の道は断たれる。こんな時代にあったとしたら、じっと耐え忍ぶしか方法はない。

十字軍の兵士たちは武器も食料も充分ではなかった。だから行く先々にユダヤ人の村があれば容赦なく略奪に走った。それが、ローマ教皇に先導された兵士なのだ。当時の民衆は聖書を知らない。ローマ教皇の言うことなら神の道だと信じていた。「戦争に参加するものは罪が償える、天国に行ける。」そう言ってローマ教皇は兵士たちを送り出した。それがイエス・キリストの教えなのか。イエスは「許しなさい。愛しなさい。」そう教えたのではないか。異教徒への憎しみ、迫害、分断の世界を広げたのはキリスト教徒の本山、ローマ教皇にほかならない。その後も延々と続く宗教戦争、ユダヤ人への根深い迫害、その根源はここにある。戦争を止めさせるのが宗教指導者ではないのか。教会の役割ではないのか。神父のすべきことではないのか。

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(23)イスラム帝国の繁栄とユダヤ人

2021-06-24 | ユダヤ人の旅

千夜一夜物語

イスラムの帝国・ウマイヤ朝は一時はインドやイベリア半島にまで進出しイスラムの世界を拡大した。しかし、このウマイヤ朝はアラブ人による帝国であり、とくにササン朝ペルシャで栄えていたペルシャ人たちには反発されていた。750年、カリフの継承争いで遅れをとったムハンマドの出身ハーシム家の一族であるアッパース家は非アラブ諸国を味方につけウマイヤ朝を倒し、アッパース朝を起こした。アッパース朝ではイスラム教のムスリム(信者)は皆平等という理念を実現、イスラムの大帝国を築くことに成功した。

交通の要所であるバクダードは東西貿易の拠点として「世界一」と言われる程発展し、人口は100万人にもなった。「千夜一夜物語」を代表とするイスラム文化が一気に花開く。各分野で働く学者たちは挙ってバクダードに集結した。バクダードには「知恵の館」が建てられ、ギリシャ語文献やインドの学問がアラビア語に翻訳された。医学、数学、化学、天文学、地理学、あらゆる分野で世界の最先端をいく文化都市になった。今日のアラビア数字はインドからその頃伝わったものである。

 

エルサレムの岩のドーム

ムハンマドを始祖とするイスラム教によって生み出されたイスラム文化は、それまであったオリエント文化、ヘレニズム文化、キリスト文化の良いところを全て吸収して、さらに大きなものにしたところに特徴がある。製紙法、綿織物、砂糖などは中国から伝わった文化である。当時の世界文明の中心地は現在の中東であったのである。一方の西洋ではローマ帝国時代は終焉し、ビザンツ帝国も衰退していた。イタリアでルネサンスが起き、スペインの大航海時代が始まるのは15、6世紀であるから、それまでのおよそ1000年間は中世の暗黒時代と言われる。まさに文明の中心はイスラム教の世界だったと言える。いかにムハンマドの出現が偉大であったかを物語る。

 

ハーシム家もアッパース家も出身はアラビアのメッカである。どうしてこれほどの大帝国を築き、世界中から一流の学者たちが集まったのだろうか。そこにはユダヤ人たちの存在があると考えられる。何故か。それはエルサレムを追われたユダヤ人たちが世界中に散らされ、コロニー(集団)を作りユダヤ人どうしのネットワークが形成されていたからである。ユダヤ人たちは生存するためにアラビア語、ペルシャ語、ギリシャ語、インド語などを自由に使いこなす国際人になっていた。貿易業や翻訳業は得意の分野だったからである。

ムスリムにとってユダヤ人は敵ではない。アブラハムの子孫としては一族であるという教えを守っていた。ユダヤ人にとってはアブラハムと妻サラの子イサクを自分らの先祖とするが、アラビア人はアブラハムとハガルの子イシュマエルを自分らの先祖としている。(旧約聖書ではハガルはサラの女奴隷であり、サラが子を作るためにハガルをアブラハムに床入れさせたという。)お互いに自分らの先祖がアブラハムの正妻の子であると信じている。ムスリムたちはユダヤ教徒とキリスト教徒を「啓展の民」として尊重している。同じ神と同じ敬典を信じる同胞として敬意を払っている。そういう思想がイスラムの発展に寄与するこになったのだろう。

 

~~~さわやか易の見方~~~

「天火同人」の卦。同人とは志を同じくする人たちの集まりをいう。同人雑誌の語源である。広い世界(天)の下に文化(火)がある象とみる。一つの文化のもとに人々が集まり、広い世界に羽ばたいていくとも言える。その文化は多くの人を照らすものでなければならない。太陽のように普遍的な価値あるものならば、世界を幸福にすることにもなるだろう。

イスラム教の考え方である「啓展の民」はキリスト教にはないのだろうか。このユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三つの宗教が同じ啓展の民としてお互いを尊重したならば、無駄な戦争はしなくて済むのではないだろうか。どうしても許しがたいのはこの後に起こる十字軍遠征である。この戦争を指導したのがローマ教皇なのだ。十字軍遠征こそ人類歴史の恥であり、愚の骨頂であった。何も良いことはなかった。ローマ教皇も自ら信頼を失い衰退する。キリスト教徒とイスラム教徒とユダヤ教徒が激しく憎みあうことになった。宗教指導者たるものは他のどんな職業より人々に影響を及ぼす存在なのだから、権力には走ってもらいたくない。政治には口出ししないでもらいたい。ひたすら人間を学んで欲しい。心の世界を開拓してもらいたい。

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