さわやか易

人生も歴史もドラマとして描いております。易の法則とともに考えると現代がかかえる難問題の解決法が見えてきます。(猶興)

姐さんの憲法論(34)~ベアテ草案~

2021-02-16 | 姐さんの憲法論

姐さん、GHQが一週間で作り上げた憲法草案ですけど、この一週間にも凄いドラマがあったんですよ。今回はその一つとして、ベアテ草案についてお話します。

GHQの中に22歳の女性がいたと言っていたよね。そのベアテさんのことかしら。

 

 

 

 

 

 

 

そうです。ベアテ・シロタ・ゴードンといいます。彼女の父は優れたピアニストでウィーンで活躍していました。作曲家の山田耕筰の招きで東京音楽学校(現東京芸術大学)の教授になった人なんです。ベテアさんはウィーンで生まれ、5歳から15歳まで東京で生活したんです。子供時代の体験で、日本の女性たちがいつも男性の陰に隠れて、男性の言いなりになっている姿を見ていたんです。好きな人と自由に結婚も出来ない、離婚も出来ない、財産権も相続権も選挙権もなく、社会的な役割を与えられていないことが、悲しい思い出として心に深く刻み付けられていたんですよ。

確かに、女は男より一歩下がって歩けという時代があったんだよね。

ベアテさんはアメリカの大学を卒業後、タイム誌に就職したけれど、1945年の12月にGHQの民間人要員として来日することになったんですよ。ところが、翌年の2月4日、ホイットニー民生局長から局員全員に、「今日から1週間で日本の憲法草案を作れ。」と命じられたんです。ベアテさんは男性2人と人権条項の担当でした。まさか自分が憲法の草案作りをするなんてと、びっくりしたのですが、図書館から憲法の本を集めることから始まって夢中で取り組んだんです。

1週間で憲法作りだからね。考えられないよね。

ベアテさんは子供の頃の体験を思い出し、日本女性の為に精一杯女性と子供の権利を盛り込もうとしたんですよ。夜も殆ど寝ないような状態で、必死で書き上げたのが、「ベアテ草案」というもので、そこには男女平等、結婚は男女の合意による、妊婦と幼児は国から保護される、児童の医療は無償、財産権、相続権など女性と子供の権利がしっかり書かれていたんですよ。

ベアテさんにしてみれば、千載一遇のチャンスだと必死だったんだろうね。

そうなんです。ところが、最終段階では次長のケーディスたちによって男女平等以外は殆どが削られてしまうんです。ベアテさんは悔しくて泣いてしまったそうです。3月になり、GHQと日本政府との協議では、日本政府代表がその男女平等条項にも反対したんです。その席での通訳をしていたのが、ベアテさんでした。彼女の通訳は人柄とともに日本側の評判がとても良かったんですね。そこでGHQ側が、「この条項を作ったのはここにいるベアテさんですよ。」と言うと、日本側が折れて認めてくれたんだというのです。

あらまあ、ベアテさんは日本女性のために働いてくれたんだね。感謝しなくちゃね。

男女平等を謳った第24条はそうして出来たんですよ。他にもリチャード・A・プール少尉は当時26歳でしたけど、父親が商社マンで横浜勤務の時に生まれているんです。6歳まで住んでいた日本に愛着を持っていたんですね。愛する日本の為に最大限知恵を絞ったと言っているんです。だから、この憲法は単なるGHQの押し付けというだけじゃなく、それぞれ日本の為に良い憲法を作ろうと努力した結晶として出来上がったものなんですよ。そういう意味で、僕が画期的な素晴らしい憲法と言ったんですよ。

GHQの人たちもにわか勉強で大変だっただろうけど、良く作ったものね。

だから、憲法というのは、憲法学者が長い時間をかけて作るものじゃなくて、時代の要請で、たまたまその時、その場所にいた少数の人たちによって、出来てしまうものじゃないでしょうか。運命的なところもありますよね。ベアテさんの場合なんか運命としか言いようがありませんよ。

不思議なものだよね。その結果、いったん出来ちゃうと、何十年もの間、改憲だとか、護憲だとかで、時代が過ぎて行くんだからね。吉野作造の民主主義運動みたいに長い歳月が費やされ、大勢の犠牲者を出しながら中々実現しないことも、時代の変わり目にはあっという間に実現することもあるんだね。

次ページ:「憲法について、いま私が考えること」から(1)

 


姐さんの憲法論(33)~軍部大臣現役武官制~

2021-02-15 | 姐さんの憲法論

姐さん、今回の憲法談義は元GHQの一員だったユダヤ人のモーゼさんが著した「日本人に謝りたい」を読んで、姐さんの目から鱗が落ちたという話から始まりましたよね。

そうだったわね。この憲法は地球を一つにしようとするユダヤ思想が大本にあって、君主制を倒して民主制に変えていくという道の一環だということよ。簡単に言えば、日本の天皇制も君主制とみなして、どうしても排除しなければいけない標的だから、戦争に巻き込み、潰したところで民主憲法を押し付けたという話よ。

ところが、モーゼさんによれば、日本の天皇制は君主制とは違って、君民共治の理想的体制だったことに気が付いて、戦後精神的に荒廃していく日本を見て、「申し訳ないことをした」と謝る話ですよね。確かにマッカーサーの前に進み出て、「全責任は私にある。」と言った昭和天皇を思うと、ヨーロッパの王様とは全く違い、日本国民の父親のような存在だということを知って、手を合わせたくもなります。でも姐さん、戦前の旧憲法の元にあった日本を考えると、今の憲法になってつくづく良かったと思わずにはいられませんよ。

旧憲法の一番の問題は何だと思う?

憲法にどう書いてあるかは知りませんが、「軍部大臣現役武官制」というのが最も問題だったと思います。陸軍大臣には現役の大将か中将が指名されることになっていたため、陸軍が気に入らなければ大臣を降りると言えば、内閣が成り立たなくなってしまうんですよ。結局、陸軍の言いなりに成るしかなくなってしまい、戦争に突き進んで行くんです。それを誰も止めることが出来なかったと言えるんじゃないでしょうか。

確かにそうだよね。

吉野作造(よしの さくぞう)

 

 

 

 

 

最近知ったことなんですけど、大正時代の吉野作造が「二重政府と帷幄上奏」という本を刊行したんですよ。帷幄上奏(いあくじょうそう)というのは、閣議を通さずに天皇に意見を申し出ることなんです。陸軍の上層部はこれが出来たというんですね。このことを重大事として批判したのが吉野作造なんですよ。ところがこの本をアメリカのコールグローブという学者が読んで日本の軍部大臣現役武官制の仕組みを知るんです。彼はGHQの憲法問題担当政治顧問にもなっているんですね。ということは、GHQは戦前の日本や旧憲法の問題点をすべて熟知していたってことなんです。

だから、GHQは日本を軍国主義だというのね。確かに見方によれば、その一面はあるよね。でも、追い詰められたら、窮鼠猫を嚙むだよ。経済封鎖してきたのは向こうだからね。ところで、吉野作造の影響は凄いもんなんだね。吉野作造の教え子たちが東大で新人会を作ったんだよね。その新人会から政界や法曹界にいろんな人が出て行ったんだよね。

そうなんですよ。吉野作造の民主主義が「憲法研究会」を立ち上げた高野岩三郎や森戸辰男に繋がっているんですよ。鈴木安蔵は京大ですけど、生前の吉野作造に最後に会って、後を託されたような人ですからね。考えて見ると、全部吉野作造に繋がるんです。

つまりは、今の憲法はGHQの押し付けだけじゃなくて、吉野作造の思想が受け継がれているってことなのね。私は戦前に治安維持法で捕まったりした人は天皇制に反対する共産主義者で非国民とばかり思っていたけど、むしろそういう人たちが日本の民主主義を作って来た人なんだよね。ちょっと、目が覚めたわよ。

それに、大正デモクラシーというけど戦前の日本の民主主義はまだまだで、どちらかと言えば封建主義の方が強かったと思いますよ。日本の封建主義は社会の隅々、一般の家庭までしみついていて、とても先進国とは言えなかったと思いますよ。

そう、じゃあ今度はその話にしようか。

次ページ:ベアテ草案

 

 


姐さんの憲法論(32)~日本国憲法公布~

2021-02-07 | 姐さんの憲法論

姐さん、今回は新憲法公布と天皇の詔勅についてお話します。

お願いします。そもそも昭和天皇は新憲法にかかわっていたのかしら。

昭和天皇は戦前から戦争には反対でした。最後の最後まで外交による解決を望んでいたんですからね。しかし結果は最高責任者として、言い訳はせずに全責任は自分にあると、マッカーサーの前に立ったんですよ。終戦の詔勅は有名な「耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び~」ですよね。その後、9月4日には国民に向けて、平和国家を目指して立ち上がろうという詔勅を出しているんですよ。

知らなかったわ。どういう詔勅なの?

今ではあまり知られていませんが、「朕は終戦に伴ふ幾多の艱苦を克服し、国体の精華を発揮して、信義を世界に布き平和国家を確立して、人類の文化に寄与せしむることを冀(こいねが)ひ、日夜しん念おかず、此の大業を成就せむと欲せば冷静沈着隠忍自重、外は名約を守り、和親を敦くし、内は力を建設に傾け、挙国一心自彊息まず、以て国本を培養せざるべからず。」です。

要するにみんなで平和国家を目指そうということなのね。

そうです。国民総出で平和国家にまい進しようということです。平和の力で国際社会に貢献しようということです。だから、新憲法も平和を第一にと呼びかけたと言っていいんじゃないでしょうか。だから、新憲法が公布された1946年11月3日、昭和天皇は詔勅を読み上げました。

「本日、日本国憲法を公布せしめた。この憲法は帝国憲法を全面的に改正したものであって、国家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、自由に表明された国民の総意によって確立されたのである。即ち日本国民はみずから進んで戦争を放棄し全世界に正義と秩序とを基調とする永遠の平和が実現することを念願し、常に基本的人権を尊重し、民主主義に基いて国政を運営することを、ここに明らかに定めたのである。朕は国民と共に全力をあげ、相携えてこの憲法を正しく運用し、節度と責任を重んじ、自由と平和とを愛する文化国家を建設するように努めたいと思う。」

いいわねえ、この詔勅は。この詔勅に基づいた憲法の前書きにすれば良かったのにね。

憲法公布は一大イベントとして日本国民が祝福したんです。憲法の修正にもかかわった厚生大臣の芦田均は式典に参加した印象を日記にこう記しています。「今日は生まれてから始めての最も感激した日だ。」

あら、そうなの。マッカーサーは何か言ってるの?

マッカーサーも祝辞を述べています。「新日本建設の確固たる礎石となるものである。いわゆる人間の努力の成果と同じく新憲法もまた多少の欠点を免れないが、大局から見れば終戦以来われわれの辿った跡がいかに遠く、かつはるかなものであったかを如実に示している。~」というものです。マッカーサーにとっても、生涯最大の仕事を成し遂げた感慨があったことでしょうね。こうして、新憲法は半年後の1947年5月3日に施行されたんですよ。殆どの日本人が歓迎していたんです。

そうでしょうね。マッカーサー・ノートにあった、天皇を守り、戦争を放棄し、民主制を敷くというのが、マッカーサーの3原則だからね。憲法の原作者は第一がマッカーサーだと言えるよね。でも、良く解ったわよ。この憲法がGHQの押し付けとばかりは言えないってことが。時代の要請もあれば、国際的な流れもあったんだよね。

そうですよ。戦前の日本は本当の民主主義とはまだまだ言えなかったと思いますよ。軍国主義は別としても、男女平等とは言えなかったし、家族制度にしても問題があったと思いますよ。確かに、アインシュタインやチャップリンが評価した良い部分もあったとは思いますけどね。

そうだね。今の憲法にも良い部分は認めるけど、9条にしても、このままで良い訳はないよ。次からもっと別の角度から考えてみようじゃないの。

次ページ:軍部大臣現役武官制

 


姐さんの憲法論(31)~憲法公布に向けて~

2021-02-05 | 姐さんの憲法論

姐さん、新憲法の大枠は決まりました。その後は表現の修正や付け足し作業ですね。

そうね、天皇制を放棄したくない日本側としては、GHQ草案を受け入れざるを得ないよね。それにしても、GHQのやり方は強引だと思うね。民主主義憲法にするならば、もっと日本側の話を丁寧に聞くやり方はなかったのかしらね。それが、民主主義のやり方じゃないの。これじゃあ、GHQの押し付け憲法と言われても仕方ないじゃない。

確かにそうですけど、GHQにしてみれば、極東委員会との交渉が控えていましたから、短期間に決着をつけたかったのでしょうね。それに、天皇制の問題は長時間話し合えば、折り合いがつくということでもないですからね。押しつけと言われても、これしかないのなら、大鉈を振るうしかなかったでしょう。

確かにそうかも知れないけど、ちょっと悔しいよね。それで、その後はどうなったの?

3月7日に「憲法改正草案要綱」として、各新聞が発表しました。日本国民にとっても青天の霹靂だったと思います。でも、大方の国民は歓迎したようです。各政党も天皇制の廃止を唱える共産党を除いては殆どが賛成でした。反発したのは極東委員会の代表たちです。特にソ連、中国、オーストラリアですね。彼らは天皇の処刑と、日本が2度と戦争が出来ない憲法を望んでいましたから、簡単には引き下がらなかったようです。

防波堤になってくれたのはマッカーサー?

そうですよ。天皇が象徴として安泰だったのは、ひとえにマッカーサーのお陰ですよ。天皇を守るというのはマッカーサーの信念でしたから、極東委員会の圧力にもうまく対処しました。GHQの人たちもマッカーサーに随いました。極東委員会の要求で貴族院と枢密院の廃止を決めたり、「主権在民」を明記することで、どうにか切り抜けたようです。その為に、GHQのケーディスと法制局の佐藤達夫が何度も徹夜でやり取りを繰り返しました。例えば、「国民の総意が至高なものであることを宣言し」という「至高」が解りにくいから、「主権が国民に存することを宣言し」にしろとか、とにかく細部に渡って詰めに詰めているんですよ。

成程ね。9条の戦争放棄なんかは言い回しが大変だったでしょうね。

NGO estetica のブログ

 

 

 

 

 

 

その通りです。僕にはどっちでも同じじゃないかと思うくらい細部の表現にこだわった文書で出来ているんですね。後は、衆議院議員による草案修正でもかなり議論されているんですよ。始めに話した「憲法研究会」で活躍した森戸辰男が4月の総選挙で広島から議員になっていたんですよ。森戸はGHQ草案に自分が訴えた「生存権」が消えていたので、追加するよう提起したんです。それが、第25条の「すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」になったんです。森戸はドイツで学んだ時、ワイマール憲法に出会い、日本の将来に福祉国家を求めたんですね。その願いが込められているんです。(画:森戸辰男)

あらそう。この憲法には日本人も加わっているんだね。

前年の暮れにGHQに提出された民間人による「憲法研究会」の草案はかなり参考にされていると思いますよ。その他にも義務教育のところで、「初等教育を受けさせる義務を負う」というところを、中学までを義務教育にしたのも全国の青年学校の教師たちが運動を起こした結果なんですよ。こうして、日本国憲法はアジア、太平洋諸国が注視する中で産声を上げることになったんですよ。

短期間だったけれど、日本人も改正には相当関わっていたんだっていうことが解ったよ。まあ、その段階では精一杯な新憲法が作られたと言ってもいいんじゃない。私もあんたの話を聞いて、もう一つの目から鱗が落ちたよ。私はユダヤ人のモーゼさんが書いた「日本人に謝りたい」だけしか読んでいなかったからね。ワイマール憲法だって、ドイツ人が反発した憲法とばかり思っていたところがあったわよ。もっと、別の視点で見ることも大事だよね。

そうですよね。僕こそ目から鱗が落ちましたよ。でも、このままで良いという話じゃありませんよね。

もう一つ疑問があるんだけど、肝心の天皇陛下はこの憲法に関して何と言ったのかしらね。

解りました。この次にお話させて頂きます。

次ページ:日本国憲法公布


姐さんの憲法論(30)~憲法受胎の日~

2021-02-02 | 姐さんの憲法論

姐さん、今回はGHQが作成した憲法草案について、お話します。

いよいよ、核心に迫ってくるんだね。早速お願いします。

GHQの中でも、憲法にかかわったのは、民主化政策を進めるために設置した民政局というところなんです。局長はマッカーサーの懐刀であるホイットニーで、その下にケーディス大佐以下21人の体制です。おそらく「日本人に謝りたい」を書いたモーゼさんもその中にいたんでしょうね。マッカーサーはホイットニーに民政局を挙げて、新憲法の草案作りを命じた。ホイットニーは2月4日、民生局員全員を集めて厳命した。「これから1週間、民政局は憲法制定会議と化することになる。マッカーサー元帥は日本国民のために新しい憲法を起草するという歴史的意義のある任務を民政局に委ねられた。この憲法を日本人の作ったものとして認め、全世界に公表するであろう。」

それにしても、たった1週間で作れっていうのはすごいね。みんな憲法学者じゃないんでしょう。

そうです。大学で法律を勉強した人はいましたけど、憲法学者は一人もいません。それぞれ役割を分担したようですけど、天皇に関する小委員会には26歳のプール少尉がいましたし、人権を担当した中には22歳のベアテという女性もいました。みんな憲法に関する本や各国の憲法を読むことから始めたんです。

ちょっと、待ってよ。そんな若い人も入ってたの?日本国の憲法だよ。それはないんじゃない?

でも、彼らは寝ずの勉強で、集中して取り組んだんです。女性のベアテは父親がピアニストで日本音楽学校の教授だったので、5歳から15歳まで日本にいましたから、とくに日本女性のために良い憲法を作りたいと心血を注ぎました。男女平等、女性の保護、無償の義務教育、児童労働の禁止、最低の生活保護、「新しいデモクラシーを作る」という思いで執筆しました。かなりの部分はケーディスによって、削除されたんですが、男女平等なんかは第24条に活かされるんです。

肝心の第9条はどうして出来たの?

戦争の放棄はマッカーサー・ノートにありますから、発案はマッカーサーのようです。そもそも「戦争を放棄」という言葉は1928年の「パリ不戦条約」が最初なんです。不戦の規定を憲法に取り入れたのは、1931年のスペイン、1935年のフィリピンがあり、マッカーサーはフィリピンの軍事顧問になっています。ただ、マッカーサーは自衛の戦争まで否定したんですけど、ケーディスは「国連憲法」で認められた自衛権は認めるべきだと改めたんです。ケーディスの書き換えにマッカーサーもホイットニーも同意したそうです。全体に責任を持って草案をつくったのは、このケーディスです。

じゃあ、天皇の象徴はどうなのよ?

これも、マッカーサーは元首という言葉をつかっているんですが、「象徴」という言葉に改めたのはケーディスのようですね。ケーディス以下民政局の21人は不眠不休の頑張りで、どうにか新しい憲法草案を期限の1週間で作り上げたんです。一方の政府による新憲法草案は、2月8日に「憲法改正要綱」として、GHQに提出されたんです。そして、2月13日に麻布の外務大臣官邸で、松本国務大臣、吉田外相が通訳と共に待っていると、終戦連絡事務局参与の白洲次郎に案内されたホイットニー、ケーディス、他2人が現れたんです。

いよいよ、決戦の始まりね。

挨拶がすむと、ホイットニーが切り出しました。「先日、あなた方が提出した憲法草案は、自由と民主主義の文書として最高司令官が受け入れることのまったく不可能なものです。」「最高司令官はここに持参した文書をあなた方に手交するよう命じました。私たちはここで退席し、あなた方が自由にこの文書を検討し、討議できるようにしたいと思います。」そう言うと、GHQ側は部屋を出ました。水と油ほど違うGHQの草案を見て、日本側は言葉もなかったでしょうね。

日本側の案は明治憲法とそんなに違っていないんだからね。

30分位経って、ホイットニーたちが再び入ってきました。松本が、「持ち帰って総理と相談させて下さい。」と言った。ホイットニーは念を押すように、「最高司令官は天皇を戦犯として取り調べるべきだという他国からの圧力から天皇を守ろうという決意を固く保持しています。しかし、最高司令官といえども万能ではありません。この新憲法の諸規定が受け入れられるならば、天皇は安泰になると考えています。」完全に勝負はついていました。国務省法制局第一部長だった佐藤達夫によれば、この日が「憲法受胎」の日だと言っています。

次ページ:憲法公布に向けて