姐さん、GHQが一週間で作り上げた憲法草案ですけど、この一週間にも凄いドラマがあったんですよ。今回はその一つとして、ベアテ草案についてお話します。
GHQの中に22歳の女性がいたと言っていたよね。そのベアテさんのことかしら。
そうです。ベアテ・シロタ・ゴードンといいます。彼女の父は優れたピアニストでウィーンで活躍していました。作曲家の山田耕筰の招きで東京音楽学校(現東京芸術大学)の教授になった人なんです。ベテアさんはウィーンで生まれ、5歳から15歳まで東京で生活したんです。子供時代の体験で、日本の女性たちがいつも男性の陰に隠れて、男性の言いなりになっている姿を見ていたんです。好きな人と自由に結婚も出来ない、離婚も出来ない、財産権も相続権も選挙権もなく、社会的な役割を与えられていないことが、悲しい思い出として心に深く刻み付けられていたんですよ。
確かに、女は男より一歩下がって歩けという時代があったんだよね。
ベアテさんはアメリカの大学を卒業後、タイム誌に就職したけれど、1945年の12月にGHQの民間人要員として来日することになったんですよ。ところが、翌年の2月4日、ホイットニー民生局長から局員全員に、「今日から1週間で日本の憲法草案を作れ。」と命じられたんです。ベアテさんは男性2人と人権条項の担当でした。まさか自分が憲法の草案作りをするなんてと、びっくりしたのですが、図書館から憲法の本を集めることから始まって夢中で取り組んだんです。
1週間で憲法作りだからね。考えられないよね。
ベアテさんは子供の頃の体験を思い出し、日本女性の為に精一杯女性と子供の権利を盛り込もうとしたんですよ。夜も殆ど寝ないような状態で、必死で書き上げたのが、「ベアテ草案」というもので、そこには男女平等、結婚は男女の合意による、妊婦と幼児は国から保護される、児童の医療は無償、財産権、相続権など女性と子供の権利がしっかり書かれていたんですよ。
ベアテさんにしてみれば、千載一遇のチャンスだと必死だったんだろうね。
そうなんです。ところが、最終段階では次長のケーディスたちによって男女平等以外は殆どが削られてしまうんです。ベアテさんは悔しくて泣いてしまったそうです。3月になり、GHQと日本政府との協議では、日本政府代表がその男女平等条項にも反対したんです。その席での通訳をしていたのが、ベアテさんでした。彼女の通訳は人柄とともに日本側の評判がとても良かったんですね。そこでGHQ側が、「この条項を作ったのはここにいるベアテさんですよ。」と言うと、日本側が折れて認めてくれたんだというのです。
あらまあ、ベアテさんは日本女性のために働いてくれたんだね。感謝しなくちゃね。
男女平等を謳った第24条はそうして出来たんですよ。他にもリチャード・A・プール少尉は当時26歳でしたけど、父親が商社マンで横浜勤務の時に生まれているんです。6歳まで住んでいた日本に愛着を持っていたんですね。愛する日本の為に最大限知恵を絞ったと言っているんです。だから、この憲法は単なるGHQの押し付けというだけじゃなく、それぞれ日本の為に良い憲法を作ろうと努力した結晶として出来上がったものなんですよ。そういう意味で、僕が画期的な素晴らしい憲法と言ったんですよ。
GHQの人たちもにわか勉強で大変だっただろうけど、良く作ったものね。
だから、憲法というのは、憲法学者が長い時間をかけて作るものじゃなくて、時代の要請で、たまたまその時、その場所にいた少数の人たちによって、出来てしまうものじゃないでしょうか。運命的なところもありますよね。ベアテさんの場合なんか運命としか言いようがありませんよ。
不思議なものだよね。その結果、いったん出来ちゃうと、何十年もの間、改憲だとか、護憲だとかで、時代が過ぎて行くんだからね。吉野作造の民主主義運動みたいに長い歳月が費やされ、大勢の犠牲者を出しながら中々実現しないことも、時代の変わり目にはあっという間に実現することもあるんだね。