さわやか易

人生も歴史もドラマとして描いております。易の法則とともに考えると現代がかかえる難問題の解決法が見えてきます。(猶興)

(30)17世紀の経済大国、オランダ

2021-08-22 | ユダヤ人の旅

オランダの風車

日本人はオランダという国名を使っているが、この呼び方をするのは日本だけであり、世界中ではネーデルランドと呼んでいる。何故、日本だけがオランダと呼ぶかというと、1600年頃日本に漂着したネーデルランド人の船乗りに日本の役人が、「お前の国は何処だ?」と聞いたところ、その船乗りが、「オラント」と答えた。オラントとはネーデルランドの主要な州であって、国の名ではなかった。しかし、それ以後、日本ではオランダというのが国名になってしまったという話だ。

ところで、ネーデルランドという国名はネーデル(低い)ランド(国)という名の通り、国土の4分の1が海抜0メートル以下にあるという。そこであの有名な風車は海水を汲み出すためにあるという。現在でも有数な国際都市ではあるが、17世紀頃には世界一の経済大国だったことがある。では何故、日本の九州程の小国が世界一の経済大国になったのか。今回はその謎を紐解いてみたいのである。

 

スペインの異端審問所

16世紀は大航海時代で一躍世界に躍り出たスペインとポルトガルの時代であった。とくに南米からふんだんに持ち込まれた銀によって、ヨーロッパ1の金持ち国家になった。ドイツではハプスブルク家が神聖ローマ帝国の皇帝を世襲する権力をもつようになっていた。そのハプスブルク家とスペインが手を結び、同じ王を抱くようになった。しかもポルトガルをも併合した。完全に天下はハプスブルク家とスペインのものになる。

ところが、前に照会したように、スペインとポルトガルでは異端審問でユダヤ人を国外に追い出してしまう。大勢のユダヤ人が生き場所を求めて、新天地を目指した。このユダヤ人たちにとって、「駆け込み寺」となったのがネーデルランドだったのである。時を同じくして、ヨーロッパでは宗教改革が起こっていた。新教徒はプロテスタント、カルバン、ユグノー、ピューリタンと呼ばれたが、この新教徒たちがフランスやイギリスを逃れてネーデルランドに集まって来た。1581年、スペインから独立を宣言したネーデルランドは信仰の自由を求めるエネルギーで満ちていた。(公式の独立は1648年。)

 

ユダヤの花嫁(レンブラント)

ユダヤ人たちの高い知識、言語能力、手工業の技術、とくにダイヤモンド加工技術は一大産業の始まりとなる。1602年、世界最初の証券取引所アムステルダム証券取引所も設立され、これも世界最初の株式会社であるオランダ東インド会社が設立された。オランダ東インド会社がアジア貿易を独占することになり、スペインやポルトガルを抜いて世界最大の貿易立国になった。造船技術の進歩により、1000隻を超える商船が海外を目指し、アメリカにも進出した。とくに香辛料貿易は巨額の利益をもたらした。1609年にはアムステルダム銀行も設立された。

経済が繁栄すれば、ますます人が集まる。科学者、建築家、芸術家、実業家たちによって、ヨーロッパ1の文化都市となり、様々な分野で黄金時代を築いた。絵画ではレンブラントやフェルメールが活躍する。日本では徳川時代であり、鎖国中ではあったが、唯一オランダだけを例外として貿易を行った。長崎・出島を通して海外の情報源とした。日本では19世紀までは西洋の代表はオランダであり、西洋を学ぶ者は蘭学を学ぶことであり、西洋に夢中になる人のことを蘭癖(らんぺき)と言った。

 

~~さわやか易の見方~~

「天火同人」の卦。同人とは同じ志を持つ人たちが集まること。同人雑誌の語源である。上の天は広い世界を表し、下の火は文化を表している。新しい文化の下に大勢の人が集まるのである。すると、人はますます豊かな才能を発揮し、ますます人が集まるようになる。

17世紀のオランダは明治維新後の日本に似ている気がする。カトリック教会に縛られていたヨーロッパ。士農工商という身分制度に縛られていた徳川時代の日本。どちらも窮屈ながんじがらめから解放され、新しい風が吹いたのだ。国力は一気に盛り上がった。盛り上がり過ぎてバブルが弾けたところまで似ている。日本では土地と株式に向かったが、オランダでは余った金がチューリップの投機に向かったという。そして、どちらもバブルは弾け、大半の投資家が財産を失った。因みにチューリップは15,16世紀頃オスマン帝国の宮廷で人気があった花で、オランダの外交官が母国に持ち込んで流行らせたという。チューリップ・バブルとは、土地のバブルより上品な感じがしないでもない。

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