さわやか易

人生も歴史もドラマとして描いております。易の法則とともに考えると現代がかかえる難問題の解決法が見えてきます。(猶興)

(29)ヨーロッパの恥、ゲットー

2021-08-11 | ユダヤ人の旅

ヴェネツィア・ゲットー跡

十字軍、そしてスペインの異端審問所の話を照会したが、もう一つカトリック教会が行った恥ずべき行為を照会しなければならない。それが中世ヨーロッパの都市に儲けられたユダヤ人に対する強制隔離「ゲットー」である。ローマ教皇が発した一連の法令によって16世紀以降暗黒の時代が始まり、19世紀までヨーロッパの各地に当たり前のように行われていた。ユダヤ人は高い塀で囲んだ狭い場所にユダヤ人というだけで、まるで囚人のように閉じ込められたのである。

ゲットーの起源はヴェネツィア共和国にあったユダヤ人居住区が鋳造所跡にあったことからヴェネツィア語の鋳造所(ゲットー)から呼ばれるようになった。十字軍が始まったことにより、イスラム圏との交易が盛んになる。その拠点になったのがヴェネツィア共和国だった。ユダヤ人たちの外交力、商売力が役に立ったのだろう。居住区の人口も500人程度だったが、16世紀には5000人にもなっている。スペインの異端審問所から逃れてきたユダヤ人も多かった。ゲットー住民たちは商業、金融、医師、船員、通訳として活躍した。またゲットーにはシナゴーグ(集会所)が作られ、ラビの指導のもと律法に随い、タルムードを学び、習慣を守った。ここでのユダヤ人たちはまだ人間的な生活を送れていたが、次第にヨーロッパの各地に広がるゲットーではそうは行かなかった。

 

パウルス4世

パウルス4世

ローマ教皇パウルス4世は異端審問を重視する恐怖政治で知られるが、教皇は強烈な反ユダヤ主義者でもあった。彼にとってユダヤ人は神から見捨てられた存在であり、キリスト者の愛を受けるに値しない民族だと言った。1555年にはヴェネツィアのゲットーを真似てローマ・ゲットーを創設した。これを機に、ヨーロッパの各地の教会領にゲットーが作られるようになり、1562年には「ゲットー」の名称が公式に法文化される。ユダヤ人がゲットーから外に出るときは、黄色の帽子をかぶることと、「ユダヤ人バッチ」を着用することを強制された。守らない者には重い罪が課せられた。

イタリア各地での祭りの季節では、笑いものにするために太ったユダヤ人を裸にして大通りを競争させた。それを町の女たちは大喜びで見物していた。この度を過ぎた屈辱は1668年に廃止されたが、その代わりに貢ぎ物を課すことにして、19世紀まで続いた。カトリック教会の本山であるローマ教皇が始めたことであり、一般の市民にとっては罪悪感もなければ、そうしたものだと思っていたのだろう。

 

ナポレオンの戴冠式

ゲットーは18世紀の啓蒙思想の中では愚かな習慣として開放するよう学者たちは訴えている。しかし、ユダヤ人がゲットーにいるのは一般市民には当然のように受け取っており、誰も違和感を持つ者さえいなかった。これもカトリック教会が認めたことであるので、市民が疑う余地もない。ここに宗教指導者が政治をすることの大きな過ちがあり、ヨーロッパの文明がイスラム圏に後れを取っていたことの原因がある。人権宣言と国民議会の議決によってユダヤ人が市民としての権利を認められたのはフランス革命を待たなければならなかった。フランス革命後、ナポレオンの登場でようやくゲットーは解放されていった。

 

~~~さわやか易の見方~~~

「沢水困」の卦。困という字は木が囲いの中にある。伸びようとしても伸びられず、苦しみ悩む状態を表している。何も罪を犯したことのない人が突然牢屋に入れられたらいかがなものだろうか。まさに試練の時、逆境の時である。臥薪嘗胆、困苦の中にも信念を貫き通してこそ、真の君子である。

フランス革命の前まではヨーロッパの教会は広大な土地を所有し、僧侶は貴族並みの権益をもっていた。ナポレオンは戴冠式でローマ教皇の目の前で、皇帝の冠を自ら頭に載せた。教皇の力は既に何もないという現実を世界に示した。神聖ローマ帝国に意味がないことをはっきりさせた。ナポレオンはその後10年で権力を失ったが教皇の権力は元には戻らない。時代は逆戻りすることはない。本来、宗教指導者が権力を持つとろくなことはない。パウルス4世が、「ユダヤ人は神から見捨てられた存在であり、キリスト者の愛を受けるに値しない民族」と言ったということだが、自分のことではないのか。政治を宗教家に任せてはいけない。国民のために政治をする真の政治家に任せることである。

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