さわやか易

人生も歴史もドラマとして描いております。易の法則とともに考えると現代がかかえる難問題の解決法が見えてきます。(猶興)

(31)17世紀のイギリスとユダヤ人

2021-08-25 | ユダヤ人の旅
 
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オリバー・クロムウェル(1599~1658)
 
17世紀のヨーロッパは宗教改革の世紀であった。各地でカトリックとプロテスタントとの激しい争いが繰り広げられたが、イギリスに於いての改革は王制を揺るがす大騒動だった。1588年、アルマダの海戦により世界に君臨していたスペインを倒し、世界の表舞台に登場したイングランドだったが、その後は混乱を極めていた。
カトリックを自国流に再生した「イギリス国教会」を国王側が支援し、新興のプロテスタントを厳格な人、潔癖な人を指す「ピューリタン」と称していた。「王権神授説」を信じる王ジェームス1世とその子チャールズ1世は軍隊を動員して新興のピューリタン(清教徒)を激しく弾圧した。
 
議会派の中心はピューリタンであり、王党派の軍隊に宗教的団結力で対抗する。そのピューリタン軍の「鉄騎隊」を率いたのがオリバー・クロムウェルだった。そしてついに王党派を壊滅させる。捕らえられたチャールズ1世は罪状「暴君、反逆者、殺戮者」として裁判にかけられ、公開処刑になる。それが1649年の「清教徒革命」であり、イングランド共和国が生まれた。政権を担うことになったクロムウェルは一切の妥協を許さず、王党派の壊滅、国民への禁欲的協力を求めた。クロムウェルが直面したのは、オランダとのアジア貿易を巡る対立だった。オランダ商船のイギリスの港への出入りを禁止したことから英蘭戦争が始まった。
 
 
 
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マナセ・ベン・イスラエル
戦争には莫大な費用がかかる。その頃のオランダは経済的にはイギリスを凌駕していた。クロムウェルはオランダの経済を握っているユダヤ・マネーをどうにかして取り込めないかと考えた。しかし、イギリスには360年前にユダヤ人を追放した歴史があり、今更帰って来てくれと謝罪する訳にはいかない。ところが幸いに、オランダのユダヤ人ラビ(ユダヤ教指導者)であるマナセ・ベン・イスラエルがユダヤ民族は世界の果てまで移住するべきだとの信念を持ち、イングランドとも付き合う必要があるとの考えだった。そこでクロムウェルはマナセ・ベン・イスラエルと交渉を始めた。その結果、1655年からユダヤ人はイギリスに再移住することが決まった
 
クロムウェルの死後、王制は復活し、チャージ2世、続いてジェームス2世が王位についた。ジェームス2世はカトリックと絶対王政の復活を試みたが、優位に立った議会派は清教徒のオランダ総督ウィリアムと夫人メアリ(ジェームス2世の娘)を王位に向かえた。すると、ジェームス2世は国外に去ったため、一滴の血を流さず革命が成立したので、1688年の「名誉革命」と呼ばれた。議会は国民の生命や財産の保護を定めた「権利の章典」を制定した。
 
また、オランダの金融界の中心人物であるユダヤ人のソロモン・メディナがイギリスに渡ったことにより、イギリス経済界はユダヤ人共同体が重要な立場を築き、議会派を支えた。ユダヤ人たちには外国人税を課せられ、不動産所有や船の所有も認められなかったが、礼拝は議会で公認され、条件付きではあるが、社会的地位は他のヨーロッパよりも相対的には高くなっていった。
 
~~~さわやか易の見方~~~
 
「地雷復」の卦。復は復活、復帰、復興。再び帰ってくること、新しく生まれ変わることである。失った世界を取り戻すことでもある。いづれにしても、そこには希望があり、喜びがある。あせらず、慎重にことを進めなければいけない。
 
ユダヤ人にとってのイギリス復帰は実に360年ぶりのことであった。一度目は十字軍が遠征していた頃の約200年間のことだった。その間のユダヤ人たちは迫害につぐ迫害で、最後は無一文で追い出されている。そんなイギリスによくも戻ったものだ。しかし、今度はそうはいかない。何しろイギリス経済界を支配する程のパワーがあったからである。やがてイギリスは他に先駆けて「産業革命」を実現することになるが、そこにユダヤマネーがものを言ったことは間違いない。その産業革命が世界を席巻することになると思えば、イギリスにとってユダヤ人は宝のような存在だ。また、イギリスの王制改革はフランス革命より、140年も早いことにも注目したい。議会制民主主義はイギリスから始まった。

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