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さわやか易

人生も歴史もドラマとして描いております。易の法則とともに考えると現代がかかえる難問題の解決法が見えてきます。(猶興)

姐さんの憲法論(30)~憲法受胎の日~

2021-02-02 | 姐さんの憲法論

姐さん、今回はGHQが作成した憲法草案について、お話します。

いよいよ、核心に迫ってくるんだね。早速お願いします。

GHQの中でも、憲法にかかわったのは、民主化政策を進めるために設置した民政局というところなんです。局長はマッカーサーの懐刀であるホイットニーで、その下にケーディス大佐以下21人の体制です。おそらく「日本人に謝りたい」を書いたモーゼさんもその中にいたんでしょうね。マッカーサーはホイットニーに民政局を挙げて、新憲法の草案作りを命じた。ホイットニーは2月4日、民生局員全員を集めて厳命した。「これから1週間、民政局は憲法制定会議と化することになる。マッカーサー元帥は日本国民のために新しい憲法を起草するという歴史的意義のある任務を民政局に委ねられた。この憲法を日本人の作ったものとして認め、全世界に公表するであろう。」

それにしても、たった1週間で作れっていうのはすごいね。みんな憲法学者じゃないんでしょう。

そうです。大学で法律を勉強した人はいましたけど、憲法学者は一人もいません。それぞれ役割を分担したようですけど、天皇に関する小委員会には26歳のプール少尉がいましたし、人権を担当した中には22歳のベアテという女性もいました。みんな憲法に関する本や各国の憲法を読むことから始めたんです。

ちょっと、待ってよ。そんな若い人も入ってたの?日本国の憲法だよ。それはないんじゃない?

でも、彼らは寝ずの勉強で、集中して取り組んだんです。女性のベアテは父親がピアニストで日本音楽学校の教授だったので、5歳から15歳まで日本にいましたから、とくに日本女性のために良い憲法を作りたいと心血を注ぎました。男女平等、女性の保護、無償の義務教育、児童労働の禁止、最低の生活保護、「新しいデモクラシーを作る」という思いで執筆しました。かなりの部分はケーディスによって、削除されたんですが、男女平等なんかは第24条に活かされるんです。

肝心の第9条はどうして出来たの?

戦争の放棄はマッカーサー・ノートにありますから、発案はマッカーサーのようです。そもそも「戦争を放棄」という言葉は1928年の「パリ不戦条約」が最初なんです。不戦の規定を憲法に取り入れたのは、1931年のスペイン、1935年のフィリピンがあり、マッカーサーはフィリピンの軍事顧問になっています。ただ、マッカーサーは自衛の戦争まで否定したんですけど、ケーディスは「国連憲法」で認められた自衛権は認めるべきだと改めたんです。ケーディスの書き換えにマッカーサーもホイットニーも同意したそうです。全体に責任を持って草案をつくったのは、このケーディスです。

じゃあ、天皇の象徴はどうなのよ?

これも、マッカーサーは元首という言葉をつかっているんですが、「象徴」という言葉に改めたのはケーディスのようですね。ケーディス以下民政局の21人は不眠不休の頑張りで、どうにか新しい憲法草案を期限の1週間で作り上げたんです。一方の政府による新憲法草案は、2月8日に「憲法改正要綱」として、GHQに提出されたんです。そして、2月13日に麻布の外務大臣官邸で、松本国務大臣、吉田外相が通訳と共に待っていると、終戦連絡事務局参与の白洲次郎に案内されたホイットニー、ケーディス、他2人が現れたんです。

いよいよ、決戦の始まりね。

挨拶がすむと、ホイットニーが切り出しました。「先日、あなた方が提出した憲法草案は、自由と民主主義の文書として最高司令官が受け入れることのまったく不可能なものです。」「最高司令官はここに持参した文書をあなた方に手交するよう命じました。私たちはここで退席し、あなた方が自由にこの文書を検討し、討議できるようにしたいと思います。」そう言うと、GHQ側は部屋を出ました。水と油ほど違うGHQの草案を見て、日本側は言葉もなかったでしょうね。

日本側の案は明治憲法とそんなに違っていないんだからね。

30分位経って、ホイットニーたちが再び入ってきました。松本が、「持ち帰って総理と相談させて下さい。」と言った。ホイットニーは念を押すように、「最高司令官は天皇を戦犯として取り調べるべきだという他国からの圧力から天皇を守ろうという決意を固く保持しています。しかし、最高司令官といえども万能ではありません。この新憲法の諸規定が受け入れられるならば、天皇は安泰になると考えています。」完全に勝負はついていました。国務省法制局第一部長だった佐藤達夫によれば、この日が「憲法受胎」の日だと言っています。

次ページ:憲法公布に向けて


姐さんの憲法論(29)~政府の憲法草案~

2021-02-01 | 姐さんの憲法論

姐さん、今回は日本政府の憲法草案について、お話します。

お願いします。

敗戦直後に成立したのは、東久邇宮内閣ですよね。東久邇宮稔彦首相なんですけど、皇族でもあり、天皇制の改革には反対していました。「国体護持というのは、理屈や感情を超越した堅い我々の信仰である。」とも言っているんです。例の天皇とマッカーサーとの会見がありましたよね。その時の写真をめぐって、「皇室の尊厳を傷つける。」と内相の山崎巌が新聞を発禁処分にしようとしたんです。その時、GHQが激怒しているんです。結局、東久邇宮内閣は54日という最短記録で総辞職してしまいました。

あら、そうなの。やはり皇族内閣じゃ何も変えられはしないよね。

次に抜擢された総理が幣原喜重郎ですよ。1872年生まれですから、その時は73歳ですね。第一次世界大戦の後に、外務大臣として、軍縮政策を積極的に推進し、幣原外交と呼ばれていたんですよね。しかし、英米に受けは良かったんですが、軍部に反対され、失脚していたんです。戦後になって久しぶりに返り咲いた訳ですね。GHQは幣原内閣に思い切った民主化政策を期待したんです。憲法についても、明治憲法を解体し、非武装化を含めた新憲法の草案作成を求めたんです。

軍縮を積極的に推進した人なら、民主化憲法を作れたんじゃないの?

幣原内閣は「憲法問題調査委員会」というのを設置して、検討に入ったんです。ところが、委員長の国務大臣である松本丞治(68歳)は改正に消極的だったんです。幣原総理はあまり統率力が無かったんでしょう。やはり、問題は天皇の扱いですよ。例えば、明治憲法の第3条、「天皇は神聖にして侵すべからず。」の「神聖にして」を「至尊にして」に改める位で、中々改正は進まなかったんです。GHQが求めたものとは、遠くかけ離れたものしか出来なかったんです。

それ程、日本人には天皇制がしみこんでいたんだよね。幣原外交と謳われた人でも天皇制の変更は出来なかったんだ。

そうなんですよ。GHQにも事情があったんです。GHQは占領軍ですよね。日本の改革には世界が注目していたんですね。具体的にはソ連やイギリス、オーストラリアなどの連合国ですが、日本の占領政策のために、「極東委員会」というのを設置していたんですね。つまり、GHQの上にもっと権限の強い「極東委員会」があるので、GHQは「極東委員会」が納得してくれる民主化の実効を上げなければいけないんですよ。

そうか、GHQだって、極東委員会に文句を言われないためには、憲法改正くらいは成し遂げたいよね。

マッカーサーにしてみれば、何とか天皇をそのまま据え置きたいとは思っているけど、アメリカ本国も、連合国も、天皇を裁判にかけろという空気があったんですよ。何しろ、天皇は元首であるとともに、軍隊の大元帥だったからです。大元帥と言えば軍事の最高責任者ですから、裁判をかけるなら真っ先にかける立場にありますよね。

そうだよね。マッカーサーも間に挟まれて大変だったんだね。

そうなんです。アメリカ陸軍参謀総長のアイゼンハワーから、昭和天皇の戦犯とする証拠収集を求められていたんです。それに対して、「過去10年間、明白確実な証拠は何も発見されていない。もし、天皇を告発するならば、日本国民の間に大騒乱が起こる。占領軍の大幅増強が不可欠となり、100万の軍隊が必要となり、無制限に続くだろう。」と回答を送って、何とか解決策を探っていたんですね。

そうなんだ。GHQの中はどうだったの?

GHQの民政局スタッフの一人エスマンによれば、「私を含む多くのスタッフは天皇は戦争犯罪者であり、戦犯として裁判にかけられるべきだと考えていた。」と言っています。

それじゃあ、天皇は絶体絶命の大ピンチ状態じゃないの。

だから、せめて日本政府には本格的な主権在民の民主的憲法を作って欲しかったんです。ところが、年が明けた1946年の2月1日、毎日新聞のスクープによれば、政府の新憲法の草案は明治憲法とそれ程変わっていなかったことが判明したんです。しかも、極東委員会から、2月26日に委員会を開くと言ってきたんです。もう時間はない。幣原内閣には期待出来ない。追い詰められたマッカーサーは、「こうなれば、自分たちの手で草案を作るしかない。」と大決断をしたんです。

マッカーサーには何か秘策があったんじゃないの。それは次回に聞くことにしようか。

次ページ:憲法受胎の日


姐さんの憲法論(28)~天皇制をどうするか~

2021-01-27 | 姐さんの憲法論

姐さん、今回は憲法研究会でどんなやりとりがあったかをお話します。

面白そうね。お願いします。

鈴木安蔵は岩淵辰雄の印象を、「熱心にやって来られて、あまり発言はなさらない方でありましたが、私なんかの知らない内閣、政党ということについて、大変適切なアドバイスをポツリポツリと言われたことは草案を起草するのに大変参考になった。」と言っています。この岩淵と室伏は政治記者として政治家を相手にしてきただけあって、時局を知っていて機を見るに敏なところはあったんでしょうね。

学者だけの集まりじゃなかったことが良かったんじゃないの。

そうですね。憲法研究会で最初の大問題は天皇制をどうするかということでした。岩淵が、「天皇から一切の権力を取ってしまおう。明治憲法で規定された天皇制から、それに付随した制度を全部取ってしまおう。」と発言すると、高野岩三郎と杉森孝次郎から、「一体そんな天皇ってものがあるか?」「そういう天皇を憲法に何て書くんだ。」と言われた。岩淵は、「何を書くかは俺には分からん。とにかくここで憲法を改めるなら、これに手をつけなきゃ意味がない。」こんなやりとりから始まったんですよ。

そうだろうね。それまでの日本じゃ天皇は絶対的な存在だからね。天皇の下に国民があることは日本人には当たり前で、何の疑いもないし、誰も不思議に思っていないんだからね。ここを変えるのは容易なことじゃないよね。

そうなんですよ。今とは全く違いますからね。でも、このメンバーたちはこれを変えようとしたんです。それも日本人自ら変えようとしたのが画期的だと思うんですよ。共通の信念は、「主権在民」をどう形にするかということ。その為には天皇の大権を剥奪し、議会の権限を強化すること。何回目かの会合で、室伏高信か杉森孝次郎の発案で天皇を「シンボル」、「象徴」という言葉が出てきたというんです。しかし、まとめ役の鈴木安蔵は国民的感情から見て天皇制は形体的にでも残すのが妥当だと反対した。

今では天皇の象徴は当たり前なんだけど、「象徴」を憲法に明記するのは大変だったんだね。

むしろ年配の高野岩三郎の方が天皇制の廃止、大統領制にしようと主張した。高野は、「今の内に共和制にしておかないと、その内にまた第二の楠木正成のような者が現れて天皇制にするかもしれんぞ。」と述べている。高野の死後、追悼会で森戸は、「一番老人の高野先生が一番ラディカルで、一番若い鈴木君が穏健だったのは面白いなあ。」と語っている。

新憲法を作ろうというのは、大変なんだねえ。

結局、天皇の項では、「天皇は国民の委任により国の元首として内外に対し国を代表す。」と「天皇は栄誉の淵源にして国家的儀礼を司る。」という草案になった。国民的儀礼という役割に限定するという発想は今の象徴性につながる画期的なものだったと言えるんじゃないでしょうか。

成程ね。天皇以外のところはどうなの?戦争放棄も書いたのかしら?

流石に戦争放棄までは考えられなかったようです。言論の自由や平和主義については、彼らの殆どが言論弾圧を経験した人たちだからしっかり盛り込んだようです。特に森戸は東大の助教授時代に、「クロポトキンの思想の研究」で大学を追われたことがあったし、馬場恒吾も2度憲兵に引っ張られているそうです。こうして彼らの憲法草案は推敲に推敲を重ねて、終戦の年1945年の12月26日に鈴木、杉森、室伏の3人が首相官邸とGHQに届けたそうです。

今の憲法はGHQの押し付けとばかり思っていたけど、こんな動きもあったのね。

鈴木は新聞に憲法草案について、「フランス憲法」、「アメリカ合衆国憲法」、「ソ連憲法」、「ワイマール憲法」、「プロイセン憲法」等とともに自由民権運動で書かれた民間草案を参考にしたと語っています。ですから、「日本人に謝りたい」のモーゼさんが言っていた「ワイマール憲法の丸写し」だけではなかったと思いますよ。実際には翌年1946年の2月にGHQが草案作りを始めるんですが、この憲法研究会の作った草案は重要な叩き台になっていることは事実のようなんです。

そうなんだ。よく調べたわね。じゃあ、次は日本政府の動きも知りたいよね。

解りました。

次ページ:政府の憲法草案


姐さんの憲法論(27)~憲法研究会~

2021-01-25 | 姐さんの憲法論

姐さん、今回は日本人による新憲法作りへの動きをお話いたします。

お願いします。何だか、あんたが先生で私が生徒になったみたいね。でも、あんたの勉強ぶりが聞けるのは嬉しいわ。

先ずは失敗に終わった話なんですけど、戦争の直前まで総理大臣だった近衛文麿が新憲法を作ろうとしたんですよ。マッカーサーとも会見して、新憲法作成の要請を受けているんです。近衛は新生日本のリーダーたらんとしたんでしょうが、その後アメリカ本国からの指示で戦犯容疑で逮捕されることになってしまうんです。あまりの急転直下にショックを受けた近衛文麿は服毒自殺してしまうんです。完成していた憲法草案はそのままお蔵入りです。

いかにも戦争に負けた日本の現実だよね。

戦後、主に東京大学出身の学者や元新聞記者たちの間で、新憲法を作ろうという動きが出てくるんですよ。これが、「憲法研究会」という集まりになるんです。きっかけは終戦の年1945年の10月に「日本文化人連盟」の創立準備会というのが、日比谷で開かれたんです。そこで、元東大教授の高野岩三郎が若手の憲法学者である鈴木安蔵に声をかけたんです。「民主的な憲法を作ろうじゃないか。君のような若い人が先頭に立ってやってくれよ。」鈴木はその日の日記に、「老先生の意気、壮とすべし。」と書いたそうです。そこから、民間による新憲法草案作りが出発したんですよ。

あらそうなの。その高野岩三郎と鈴木安蔵ってどんな人なの?

 

 

 

 

高野岩三郎は1871年生まれですから、その時74歳。東大の法学部から経済学部を独立させるなどしたらしいです。「大原社会問題研究所」を設立したり、社会運動家として鳴らした人みたいですね。弟子も沢山いたんでしょうね。晩年には社会党の顧問やNHKの会長もやったそうです。鈴木安蔵は1904年生まれですから、その時は41歳ですね。京都大学の学生時代に治安維持法で2年間も服役したというから、相当のマルクス主義者だったんでしょうね。吉野作造が亡くなる直前に面会に来た鈴木に後を託すように熱心に語ったという話があります。

二人とも社会主義の人なんだね。私は今まで、左よりの人は愛国者じゃないと思っていたけど、そうでもないんだね。

そうなんですよ。僕にも言えることなんですけど、右寄りでも左寄りでも愛国者は両方にいるんですね。この二人の提案にもう二人の元新聞記者が名乗りを上げるんです。元読売新聞記者の岩淵辰雄(53歳)と元朝日新聞記者の室伏高信(53歳)です。岩淵は近衛文麿とも吉田茂とも親しく、近衛の新憲法作成を勧めた人でもあるんです。室伏は戦前、雑誌「日本評論」の主筆を勤めていたんですが、軍部を批判し主筆を下ろされ、特高から監視されていたそうです。その二人が終戦後に再会し、憲法改正で意気投合したそうです。

そう、じゃあ、その4人が手を結んだ訳?

はい、そこに高野岩三郎が教え子で経済学者の森戸辰男(64歳)を呼び寄せます。室伏はその後に読売新聞の社長になる馬場恒吾(70歳)と英語に堪能な早稲田大学の英文学者・杉森孝次郎(64歳)を呼び寄せるんです。この7人が集まって、「憲法研究会」を結成するんです。

「7人の侍」ね。

右もいれば、左もいるという、イデオロギーを超えた7人の知識人が、室伏が提供した「新生社」の会議室に毎週水曜日に会合を持つことになったんです。ここで作成された新憲法の草案がGHQが作る草案の叩き台になるんですよ。

あらそうなの。私は憲法の叩き台はワイマール憲法だと思っていたわよ。モーゼさんがワイマール憲法の丸写しだといっていたから、そう信じていたけど、そんなもんじゃないってことかしら。

 

森戸辰男がドイツにいた時、ワイマール憲法を勉強していますから、その影響はあったと思いますよ。でも姐さん、丸写しなんてことは決してないですよ。この七人の侍たちはもっと真剣に旧憲法を大改造して全く新しい憲法を作ろうという情熱を持った人たちでした。約二か月でしたが、彼らの激論が新憲法の叩き台を作ったんですよ。

 

そうだったの。GHQが一週間で作った草案だとばかり思っていたけど、その前に出来ていた草案があったということなんだ。

 

僕が思うのは、憲法研究会の二か月の激論と、GHQの一週間の激論が合わさったのが新憲法の草案だったんじゃないかということです。

 

次ページ:天皇制をどうする

 


姐さんの憲法論(26)~民主化運動~

2021-01-25 | 姐さんの憲法論

姐さん、今日は僕が勉強した中から、意外に思った話をさせて頂きます。

待ってました。興味あるわよ。是非、聞かせて。

確かにこの憲法はGHQの主導で出来たことは間違いないんですが、日本人の中からも新憲法を作ろうという動きはその前からあったんですよね。その辺から話をしてみたいんです。

成程、おもしろそうね。

明治時代に、西郷さんが征韓論に敗れて、薩摩に帰りますよね。その時西郷側に板垣退助がいましたよね。

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知ってるよ。土佐出身で自由民権運動を起こした板垣退助だよね。

そうなんです。その板垣退助は西郷さんとは別の道を開いたんですよ。それが自由民権運動で、日本に国会を創って議会制民主主義を実現させるんです。フランスに行った時に、フランスの人種差別を見て、「これは本当の民主主義ではない。」と感じて、日本に本当の民主主義の実現を目指した人なんですよ。

あら、そうなの。そこまでは知らなかったわ。

だから、民主主義というのは日本が外国の真似をした訳じゃないんですよね。日本独自の民主主義が板垣たちによって、育っていたんですよ。そして、大正時代に吉野作造が出て、一気に大正デモクラシーと言われる程盛んになるんですね。吉野たちの運動によって、普通選挙なんかも実現するんですよ。当時は男尊女卑がまだまだ根強かったものですから、25歳以上の男子に限るんですけど、徐々に民主主義が定着し始めるんです。

やっぱり、日本人は偉いのよね。

日本の民主主義は欧米のとは違って、勤皇主義と一緒になっているんですよ。だから、君主や天皇を否定する共産主義とはまったく別のものなんですよね。厳密には「民本主義」といって、民が主となるのではなく、民が本となるという思想なんです。男女平等だって、結構早い段階から叫ばれてはいたんですよ。吉野作造の影響を受けた東大生の集まりが、「新人会」で人道主義、理想主義、社会主義の啓蒙活動が行われ、労働運動、農民運動に発展するんですね。新人会のメンバーはやがて弁護士や代議士、大学教授になっていったんです。

成程、優秀な若者たちが育ったんだね。

ところが、昭和に入る頃から、関東大震災やら世界大恐慌なんかが起きて、民主化運動どころじゃなくなってしまうんです。

そうだよね。その頃から日本では軍部が強くなってくるんだよね。とくに満州事変なんかが起こってからは、ますます陸軍の力が手が付けられないようになってしまうんだよね。

そうなんですよ。民主化運動なんかしようものなら、治安維持法に引っかかったりしちゃうようになってしまうんですよ。共産主義者じゃなくても捕まっちゃうんです。そんな中で民主主義を勉強して、実現を目指す人たちは正に命がけだったんですね。

治安維持法と言えば、赤狩りと言って、共産主義者がターゲットだと思っていたけど、そうじゃない人も捕まったりしたんだね。

ロシア革命後には共産主義者が入ってきて、民主主義も共産主義も紙一重で見分けがつかなかったんでしょうね。新人会も分裂しちゃうんです。そんな混沌とした時代にも本当の民主主義を目指した人たちはいたんですよ。

あら、そうなの。そういう人たちが戦後の憲法にかかわることになった訳?面白そうじゃないの。じゃあ、続きは今度聞かせてよ。

次ページ:憲法研究会