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乳ガンの妻と共に歩んだ15年間

2018-09-30 19:49:12 | 親父の部屋
妻が乳ガンに罹り、共に向かい合って生きた夫の手記です。

妻の乳癌発見後の経過
15年前、年齢60歳
肩の痛みを訴え、前橋中央病院で乳ガンとの診断を受けました。右乳房全摘手術を勧められました。
群馬大学附属病院でセカンドオピニオン。細胞診検査の結果、乳ガンであることが再確認されました。
乳房温存手術を前提として、乳ガン縮小を目的とした術前抗ガン剤を投与しました。当時としては最先端のガン治療であったようです。
手足の指が膨れ上がると言う抗ガン剤の副作用に悩まされましたが、期待した効果は少なかったようです。
右乳房温存手術。
乳房周囲のリンパ節への多数の転移が認められ、その大部分は切除したものの、再発は不可避、時間の問題と言う状況でした。
再発リスクを下げるため、術後抗ガン剤を投与しました。
その副作用に苦しみ、日常生活にも支障が出ました。
抗ガン剤は生活の質を下げることが明らかになり、主治医と相談し、抗ガン剤の使用は止めて、ホルモン剤による治療に切り替えました。
治療方針は生存率を高めることを優先せず、日常生活の質を落とさないQOLを重視しました。

その後、主治医が高崎総合医療センターに転勤になり、妻も転院しました。
ホルモン剤は色々試したようです。経過は順調でした。
乳ガン再発リスクが減ると思われる術後10年直前になって、右胸胸膜に転移が見つかりました。
やはり出てしまったか、がっかり感は強かった。
その後、ホルモン剤治療を続け、日常生活は何不自由もありませんでした。

乳ガンになる前から、地元サッカーチームのザスパ草津の応援をしていたようです。
乳ガン手術後はその応援にもより一層の力が入り、アウエイ応援では北は札幌、南は熊本まで一人で出掛けました。
4年前、体重の異常増加があり、検査したところ、右肺内に体液が多量に溜まっていることが分かリました。
その体液を週一のペースで抜き、輸血もしました。
自宅には固定式酸素供給装置を置き、外出時には携帯酸素ボンベを持ち歩く生活になリました。
要介護2判定。
もう死期が近いとの思いも強くなりましたが、奇跡的に体液の流出が自然に止まりなした。
しかし、右肺機能はほとんど失いました。

その後、ホルモン療法と抗ガン剤の併用効果もあり、乳ガンの進行は一時的に抑えられたようでした。
日常生活には酸素補給の必要はなくなりました。
飛行機は使えなくなりましたが、国内旅行にはよく出かけました。

主治医の図らいでホテルには固定式酸素供給装置・酸素ボンベを用意してもらいました。
体力は次第に落ち、松葉杖(登山用ストック)は手放せなくなりました。
この間、奈良、京都、松本、金沢、岩手、日本一周駆け足旅行もしました。
昨年秋、弟夫婦の全面協力で実現した北海道旅行、東北旅行が妻との最後の旅になってしまいました。

昨年はザスパ草津の応援に一度も行けませんでした。心残りになったかもしれません。

検査過程で脳への転移が疑われましたが、症状として出ておらず、放っておくことにしました。
今年、1月、胸の苦しみを訴えることが多くなりました。
従来の痛み止めが効かなくなりました。
ホルモン剤新薬の治験に参加しました。
残念ながら腫瘍マーカーの上昇は止まらず、効果はなかったようです。
痛み止めに麻薬系の貼り薬の使用を開始しました。
治験終了後、何度か転倒しました。原因は当初不明。一人歩きが難しくなりました。要介護4判定。
その後、右大腿骨折と診断され、約1ヶ月の入院となりました。
この頃より、食欲減退が顕著となり、カロリー・栄養不足が深刻となりました。
夫として、不慣れな料理に挑戦するものの、食欲は改善しませんでした。
病状が進み、体が要求しなくなったものと思われます。

四月になり、腫瘍マーカーは跳ね上がり、これまで正常と思われていた左胸に影が認められるようになりました。
こうなると、ガン細胞は幾何級数的に増えるようです。
死期は遠くないものと覚悟せざるを得なくなりました。
延命治療はしないことを再確認しました。
体に負担が掛かるガン治療は一切やめて、痛み止めだけにしました。

療養は自宅でした。週2回の訪問看護、週1回の医師の往診でした。
最後は自宅で看取るつもりでした。本人と家族の希望でした。
次第に、ベッドにいる期間が長くなりました。
自分で寝返りができない。オムツは離せない状況になりました。
一番の心配は床づれでした。

自宅介護が本人・家族にとって最良の方法なのか、自問の日々が続きました。
妻と相談の上、緩和病棟入院を検討することしました。

折も折、ガン友からの情報で、渋川医療センターの緩和病棟を知りました。
自宅からは車で20分と近いのも利点です。
早速、妻と一緒に見にいくことにしました。

妻も一週間ほどなら試験的に入院しても良いと言うことになりました。
個室なので、家族は24時間出入り自由。仮眠用のソファーベッドもあります。
自分は食事の介助役として、午前7時半から午後7時頃まで、毎日、病院で過ごすことにしました。
自宅の寝室の延長と言う気分です。より快適に過ごせるよう環境づくりもしました。
専門医による朝の回診、看護師による手厚い介護、専門職によるリハビリと体制は万全です。
屋外には専用の緑の周遊路が見え、車椅子で散策が出来る。暗いイメージは全くありません。

24時間の看護体制は自宅では無理です。
妻はここで最後を迎える覚悟を決めたようです。

毎日のリンパマッサージ、一週間に一度の入浴。介助は万全。
食事の量は次第に減り、体力の衰えは隠しようがありませんでした。
栄養補給にはカロリーメート・アップルゼリー、ハーゲンダッツの抹茶アイスクリーム。

最後は家族に見守られ、格別の痛みを訴えることもなく、静かに逝きました。

死は思うほど怖いものではないようです。

今でもガンは不治の病と言うイメージが強い。
発見が早ければ完治します。
治療期間が長くなれば、その間に医療技術は進み、生存確率は高まります。

妻の場合、乳ガンの発見が遅かった。
その悪条件の中で、生存期間15年。再発してから7年はかなり長い例のようです。
最長不倒距離を伸ばし続けました。
ガンとは敢えて戦わず、共存を目指したのが良かったのかもしれません。

「良い子でいてね。静かにしていてね。」といつも言っていました。

副作用に悩まされる期間は短く、自由に動ける時間は長かった。

信頼できる主治医と出会えたことが良かった。

いつまで生きられるか分からない。
いつまで動けるか分からない。
後で後悔がないようにする。
体力の衰えを実感しながら、日々、選択肢が狭まる中、その時に出来ることをしてきました。

最後の外出は、緩和病棟からザスパ草津発祥の地・草津温泉への日帰り旅行となりました。
最後に口にしたのは、足利「あまから家」の大好きな「あんみつ」でした。

ああすれば良かったはないようにと家族の一員として心掛けてきました。

家族として後悔は全くないとは言いません。
今は爽やかな一陣の風が過ぎ去った後のような気分です。
心の中には大きな空洞が残りました。

残された家族の立ち直りには暫く時間が掛かるでしょう。
無理せずに自然に任せます。

               2018.07.22 夫  記


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