よりみち文化財

ちょっと寄り道して出会える、遺跡や石仏、史跡や鹿児島の田の神さぁを紹介

700年のまなざし ~赤水の岩堂磨崖仏

2007年08月31日 | 石仏
鹿児島県 霧島市 横川町 下ノ 赤水 梅ノ木迫

赤水の岩堂は、不思議な場所です。
長い下りの階段を下りていくと、小さな谷川の向こうに巨大な岩壁を背にした小さな陸地が見え、まるで彼岸のイメージを実現してみせたかのように思われます。
こんな山奥にあるからなのでしょうか、橋を渡ってたどり着いた阿弥陀如来の眼前の陸地は、特別に新鮮な空気につつまれているような気がします。
磨崖仏の彫り出されている岩壁と、ここにかつてあったはずのお堂から、「岩堂」と呼ばれるようになったのかもしれません。

岩壁に彫られた「龕」と呼ばれる四角い空間に三尊が浮き彫りされています。
中尊・阿弥陀如来の像高は140㎝、上品上生の弥陀定印を結び(現地の案内板には上品中生の定印を結ぶとありますが、上品上生の弥陀定印とするのが正しいと思います。)、鎌倉時代の仏像の特徴をよく残す、県内で3番目に古いものだそうです。





鹿児島は明治の初めに廃仏毀釈が激しかったところですが、保存状態は極めて良いようです。
右脇侍との間には「建武弐年十二月十五日」の記年銘と、「奉建立岩堂 大施主法信 沙弥観阿弥陀仏 成円  沙弥西善 二郎大夫 敬白」等の文字が刻まれています。
建武弐年は西暦の1335年です。
足利尊氏が入京し、後醍醐天皇が建武元年(1334)に始めた建武新政が崩壊しつつある時期で南北朝時代が始まる直前にあたります。
また、尊氏は建武2年に九州へ落ち延びていましたが、この近くの湧水町にある般若寺に滞在していたといわれます。

右脇侍は勢至菩薩、左脇侍は観音菩薩で、三尊とも像高140㎝です。台座として蓮華座が線刻で龕の下に彫られています。
龕の両脇には幅4㎝、高さ10㎝ほどの四角い孔が空けられており、もともとは龕の前に覆い屋のような建物があったと思われます。また磨崖仏の右側に岩壁が続き、その前面の地面には岩盤を加工して整地したような痕跡が見られるので、ここにお堂が建っていた可能性もあると思います。





阿弥陀如来は700年もの間、ここへ参拝に来た人々を見続けてきました。いったいどれくらいの人々がここを訪れたのか、いまは知ることが出来ませんが、綺麗に周りが掃き清められ、川にはしっかりした橋も架けられていることから、現在も変わらず人々の信仰を集めているようです。
巨大な岩壁に比べると、大きさでは非常に小さいという印象を受けますが、三尊の穏やかなまなざしに思わず手を合わせてしまいます。
そうすると参道の途中であれほど響いていたセミの声が、ほんの一瞬だけ消えて静寂となったようにも感じられました。

赤水の岩堂磨崖仏はかなり山奥にありますが、車で行くことができます。階段が始まる場所にも駐車できますが、途中の林道上に鳥居がありその手前にやや広くなった場所があるので、そこに車を停めるのがいいと思います。
数百mの長い階段を下っていかなければなりませんし、雨の多い季節は足元が滑りやすくなるので、訪れる方は気を付けてください。

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2つの王子跡 ~熊野古道 奈久智王子跡

2007年08月30日 | 遺跡・遺構
和歌山市奥須佐

藤原定家や藤原頼資が日記に記した奈久智王子ですが、その跡がどこであるかははっきりと判っておらず、その所在地としてはここ和歌山市奥須佐と、南へ1.5㎞ほど離れたところにある和歌山市薬勝寺の2箇所があげられています。

写真は奥須佐の奈久智王子跡です。
伊太祁曽神社の前を通る県道9号線沿いに「奈久智王子社跡」の案内板が立てられており、それに比定される場所はそこから20mほど西側の山中で、みかん畑の脇にある狭い坂道を登ったところであるとされています。

「奈久智」という名前は、ここがちょうど名草郷(ここから南の、現在の海南市あたりを中心とした地域であると考えられています)への入り口にあたることから、「名草への口」の意味で付けられたものであると言われます。

また、日前宮への奉幣使が通った道筋から検討して、奈久智王子が奥須佐にあったとする説もあります。(※)

つまり、日前宮へ行くには熊野古道を外れなければなりませんが、1202年の後鳥羽上皇の熊野参詣に随行した藤原定家がやはり日前宮にも参拝しており、その日記には「遠路山々の道を凌いでなくちの王子に参る」の記述があることから、当時定家が奉幣使と同じ道をたどって日前宮に参拝したとするならば、山を越えてすぐのところであるここ奥須佐の地が奈久智王子である可能性が高い、ということでしょうか。
薬勝寺の比定地へ至る道のほうは、(現在の状況ですが)緩やかな上り下りがあるだけで殆どが平坦な道となっています。

熊野古道はさらに南へ向かい、次の松阪王子、松代王子、菩提房王子、祓戸王子、それから藤代王子へと続きます。現在はアスファルトやコンクリートで舗装された道となっていますが、藤代王子(現在の藤白神社)から先は未舗装の山道も多くなり、古道らしい旧跡も多くあります。

熊野古道の王子跡についてはまた、現地の写真とともに少しずつ掲載していきたいと思います。

※熊野古道ガイドマップ「熊野への道」藤白神社 平成10年10月


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阿倍寺跡

2007年08月28日 | 遺跡・遺構
大阪市阿倍野区松崎町

近鉄南大阪線、大阪阿倍野橋駅の松崎町口から出てそのまま庚申街道を南へ向かうと、道はゆるやかな下りの坂道になり、壱番館というビルの先でやや右にカーブします。
その辺りでは道路の北側が少し高くなっており、カーブの出前で右に入る狭い道路がありますが、そこがほんの少し坂道になっています。
それからすぐ、20mほど行ったところに松長神社があります。

この松長神社のある場所が、古代の阿倍氏の氏寺跡、阿倍寺跡と伝えられるところです。
戦後すぐの頃には、このあたりに建物の基壇の跡であろうと思われる高まりが残っていたそうですが、現在は住宅や開発によって消滅してしまったそうです。

松長神社にある案内板によると、やはりこの付近から複弁八葉蓮華文軒丸瓦や、重弧文軒平瓦など、白鳳時代の瓦が出土したことがあるそうです。
かつては阿倍寺千軒と呼ばれるくらい多くの建物からなる大伽藍だったそうですが、今それを伝えるものは少なく、以前ここにあったと言われる塔心礎だけのようです。

写真はその塔心礎ですが、現在は西成区の天下茶屋公園に移されています。花壇の草木に殆ど埋もれてしまってはいますが、円形の柱穴と舎利孔があるのですぐにそれとわかります。

柱穴の直径は61㎝、深さ13.5㎝、舎利孔の直径は10.1cm、深さ8.2cmです。花崗岩製で、塔心礎自体は長さ207㎝、幅150㎝、厚さ20㎝です。

舎利孔というのは、仏舎利(仏陀・釈迦の骨)を納める孔のことで、塔の基壇や礎石には必ずと言っていいほど作られているものです。仏舎利は舎利容器という器に入れて納められます。とはいっても、仏舎利はそんなに沢山あるものではないので、殆どが宝物など代わりとなるもののようです。

実際に仏舎利であるとされるものが発見された例では、中国の西安近郊にある法門寺・真身塔の下から出土したものがあります。多くの貴重な宝物と共に発見された豪華な舎利容器の中に、幾つかの小さな仏舎利が納められていたそうです。
西安といえば、養老元年に吉備真備や玄らと共に遣唐使として唐に渡った阿倍仲麻呂は、この阿倍寺を氏寺とした阿倍氏の一族と言われます。阿倍仲麻呂はその後日本に帰る途中で船が難破し、そのまま唐に戻って玄宗のもとで王朝の高官として活躍しました。
現在、西安には記念碑が建てられています。

この松長神社に来る道が少し坂道になっている、と書きましたが、この高まり自体が寺院の痕跡であるかもしれません。
阿倍寺は既にありませんが、阿倍野には高層マンションがいくつも並び立ち、やはり人々で賑わうところに変わりないようです。






ハヤトの記憶  ~隼人塚 (2)

2007年08月27日 | 遺跡・遺構
鹿児島県霧島市国分止上

「隼人塚」と伝承されるもうひとつの場所は、霧島市国分止上にある止上神社の南方、数百メートルほどの水田の中です。

現在、霧島市教育委員会によって石碑が建てられていますが、そこには
「止上神社の西南三百十六間の、真板田(まないただ)と呼ばれる水田の中に小さい森があり、そこは隼人の首塚である」という伝承を紹介しています。また、ここでは毎年正月の14日を初猟として、この日捕れた猪の肉を切って33本の串にさして地面に立てるという、隼人の霊を鎮めるための祭りを行っていたそうです。

前回紹介した隼人塚の性格がよくわかっていないので、どちらが本当の隼人塚であるか、ということは判断できませんが、或いはこのあたり一帯に住んだ子孫の隼人達や、他の地域から新たに入ってきた人々が、戦に斃れた人々の供養としてそれぞれ各々の場所でに祀っていたのかもしれません。



写真は、隼人が抗戦した際、最後まで残って抵抗した「姫城」であるとされる場所です。このあたりには「姫城」の地名が残ります。
下の写真は、止上神社です。







ハヤトの記憶  ~隼人塚 (1)

2007年08月24日 | 石塔
鹿児島県霧島市隼人町

以前の日本史の教科書には、埋もれた武人像と家型の石塔の写真でよく登場していた隼人塚ですが、現在は発掘調査もされ創建当初に近い姿が現地に復元されています。

石塔が3つ並んで建ち、それを囲んで四天王像が立つ、塚というよりは供養塔のような印象です。



「隼人塚」と呼ばれるのは昔、この地方に住む隼人が大和の政権に反抗したのを武力で平定した際に、その霊を慰めるためにつくられたものであるとされる伝承がもとになっています。
しかし、ここはもともと「正国寺」という寺院の跡であるという説もあり、詳細はよく判っていません。

「続日本紀」によると、養老4年(720)に、隼人が反乱を起こしたので大伴旅人を征隼人時節大将軍に任命してこの地に派遣したという記述があります。
もちろん「反乱」というのは当時の政権からみた表現で、隼人にとっては、それまでの自分たちの生活や土地や文化を守るための戦いであったのかもしれません。
隼人は7箇所の砦を拠点として戦い、「反乱」は1年以上も続いたようです。隼人の1400人以上が斃れ、或いは捕虜となりました。


この隼人塚がいつ創建されたのかは不明ですが、この層塔によく似た石塔が大隅国分寺跡にあり、それには康治元年(1142)の銘があることから、この隼人塚もまたそれに近い時代、平安時代の後期につくられたものと考えられています。
文献に残る隼人の戦いは8世紀頃ですから、それからずっと後の時代のものである、ということになります。

地図で見ると、この隼人塚は大隅国分寺のほぼ真西にあり、四天王も国分寺のほうを向いています。
ただこの国分のあたりは今でも条里制(奈良時代以降の土地区分で、その地割りの方向がほぼ東西南北になっています)の痕跡があり、その影響もあるのかもしれませんが、やはり大隅国分寺と関係の深い遺跡であるように思えます。




実は、隼人塚として伝承される場所はここだけではなく、他にもあります。
霧島市内国分の重久にある、隼人の霊を祀る神社として創建された止上神社(とがみじんじゃ)の近くです。
そこではかつて隼人の霊を祀る神事があったといわれ、隼人が拠点とした7箇所の砦のひとつで、最後まで抗戦した「姫城(ひめぎ)」(比売之城 ひめのき)の近くでもあります。











故郷への入り口~山田の凱旋門

2007年08月21日 | 遺跡・遺構
鹿児島県 姶良郡姶良町山田

凱旋門といえば、フランス・パリのシャルル・ド・ゴール広場にあるエトワール凱旋門(1836年完成)が世界的に有名ですが、日本にも凱旋門があります。

写真は、鹿児島県姶良郡姶良町にある、「山田の凱旋門」です。
日露戦争が終結した頃、日本でも凱旋門の建設が盛んに行われました。東京・新宿、浅草、新橋などに大規模なものが建設され、盛大な記念行事が催されたそうです。

凱旋門というのは古代ローマが起源であるといわれ、戦地に赴いた兵が無事に帰還したのを迎えるために建設されたといわれます。特にローマでは西暦315年に完成したコンスタンティヌス帝の凱旋門がよく知られています。
パリの凱旋門も、この古代ローマの習慣に習ってナポレオンがつくらせたものです。  

現在、日本に凱旋門は2箇所残されています。ひとつは静岡県引佐町渋川の凱旋記念門と、もうひとつはこの姶良町にある山田の凱旋門です。



山田の凱旋門は、高さが44.71m、柱を含めた全幅は4.88m、門柱の間隔は3.08mです。
地元の池平産凝灰岩が使われており、門の天井部分は石組みのアーチとなっています。石の間はコンクリート或いはモルタルが詰められていると思われますが、詳しくは判りません。建築後に一度、補修がなされているようです。

アーチの上部中央には、大久保利貞の筆による、「凱旋門」の文字と共に、「明治三十九年三月陸軍中将正五位勲二等大久保利貞□(落款)」と書かれた石がはめ込まれ、右側の門柱に「明治三七八年日露戦役記念」、左側の門柱には「明治三九年建設 山田村兵事会」と刻まれています。



この山田の凱旋門の後ろに階段が見えますが、この階段を上って右側にある更に長い階段を上った山の頂上には慰霊碑があります。
また、この凱旋門からまっすぐに延びた道が見えます。戦地から帰還した人々は、この道を通って凱旋門をくぐったのでしょうか。

現地の案内板によると、鹿児島にはもう一つ、天文館のいづろ通りにも凱旋門があったそうですが、現存していません。
当時日本で作られた凱旋門のほとんどは、戦地から帰ってきた人々を迎える記念行事の後に取り壊されたそうです。しかし、凱旋門というのは、本来、ずっとそこに残すべきものであるのかもしれません。

文化庁登録有形文化財






http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E130.37.0.169N31.46.13.254&ZM=10


恨みを晴らした古戦場 ~八つ溝古戦場

2007年08月18日 | 遺跡・遺構
八つ溝古戦場 (佐賀市久保泉町川久保)

ある水田の一角に、「八つ溝古戦場跡」、という標柱が立てられています。しかしどのような戦があったのか、実はよく分かりません。今山古戦場(佐賀市大和町)などは有名ですが、この標柱には「神代家 八つ溝古戦場跡」という遺跡名と、その横の面に「龍造寺に欺かれ恨みを晴らした戦場跡」という一文があるだけです。
いったいどういった戦がここで行われたのでしょうか?
「欺かれたことの恨みを晴らした」ということから、神代氏が、龍造寺氏と戦って勝った場所であり、それも何らかの恨みを晴らすこととなった戦であったらしい、ということだけしかわかりません。

それで、「肥前叢書」に記述されている「九州治乱記」を読んでみると、どうやらそれらしい戦のことが書かれていました。

永禄8年、神代勝利の死後家督を継いだ神代長良は、伝染病で11歳の息子、長寿丸と10歳の娘、初菊の2人の子供を亡くしました。
今の佐賀市千布あたりにあった土生島城で、長良は悲しみに暮れていました。
娘の初菊と龍造寺家の跡継ぎとの間にはその時婚姻の約束が既に交わされており、長良は龍造寺隆信に使いを出して事の仔細を伝えたようです。
しかし龍造寺隆信は、長良が悲しみに沈んでいるこの時こそ神代氏を討つ好機と考え、龍造寺氏と神代氏の親密な関係がこれ以後も変わらないことを伝える書面を納富但馬守に持たせ、神代氏一族を安心させておきながら翌日早朝には土生島城を攻めました。
長良は土生島城落城の際、自害するところを家来に説得され、一族と共に筑後に落ち延びました。

それから翌年の永禄9年になって、長良は、折しも旱魃となっていた佐賀で川の水を川久保付近で堰きとめ、そこに伏兵を置いて待ち構えるという戦法で、下流から異変を調べに来た納富但馬守の兵を討つことに成功しました。また、それに乗じて更に佐賀中心部まで攻め込み、そのほとんどを領土としたそうです。



いま、この八つ溝古戦場跡とされる場所には、南北に川が流れており、この川は納富但馬守が本居としていた下徳永というところも通っていて、この戦の舞台として記述と一致するようです。



ここ久保泉町川久保は、後に神代氏が本拠とした場所ですから、地元の方がその記念にと最近になってこの標柱を立てたのかもしれません。また、もしこの「九州治乱記」に記されていることが史実であるなら、下克上の戦国時代とはいえやはり私も龍造寺隆信のこの計略は許しがたいという、長良の気持ちがわかるような気がします。









水攻めの堤 ~太田城

2007年08月16日 | 遺跡・遺構
和歌山市 出水

豊臣秀吉(羽柴秀吉)は太田左近率いる根来寺や雑賀衆の残党が立て籠もる太田城を水攻めにしました。そのときに秀吉が築いた堤防がほんの少し、和歌山市内に今も残っています。

元正13年(1583年)秀吉は根来寺と雑賀(さいか)衆を討つために大阪から兵を進めました。根来寺を焼き討ちし雑賀衆を攻めた後に太田城を攻撃しますが、城も守りは堅く、秀吉は一度敗北します。
そこで計画を変更して水攻めを行ったわけですが、時期は旧暦4月頃のことで今の太陽暦の5月頃となり、梅雨の大雨もあって計画は成功し、堤の内側は満水となりました。

その水攻めにより太田城は1ヶ月ほど篭城した後に、和議を結びました。その際、太田左近が自らの命と引き換えに城内の多くの者を救ったと伝えられています。

堤は太田城を囲むように、出水(でみず)、黒田からJR和歌山駅付近を通り、日前宮の北側から音浦山あたりまで5㎞も続き、高さは13m程もあったそうです。
太田城は平城でしたから、満水の時には城内の殆どの建物が水没したと思われます。

ただ、太田城の場所については、現在のJR和歌山駅のすぐ東にある来迎寺のあたりが本丸とされていますがそこから700m北東の、出水辺りであったという説もあります。
城の広さは東西270m、南北270mであったと記録にありますが、もしかすると現在本丸があったといわれる場所を中心にして其処彼処に出丸のようなものがいくつも築かれていたのかもしれません。

長さ5㎞の堤のうち現在残っている部分はほんのわずかで、長さが30m、高さは3.5m程度です。法面を見る限りでは、この付近の自然の地形によく見られるような岩盤の露出はなく畑の土に似た微細な粒子の土肌が腐葉土の間に見えて、いかにも人工的に盛り上げたもののように見えます。
断面は台形で基底部の幅は10m程度ですが南側は段になっており、もともとはもう少し幅があったのかもしれません。よほど幅の広い堤であったようです。
ただ、土のみを積み上げているらしく、もともとの高さが13mというのは高すぎるような気がします。
秀吉の勢力は、土木工事を得意とする集団にも支えられたものだったのでしょうか、ほかに備中高松城や武蔵忍城でも水攻めを行っています。

堤の上は畑になっているらしく、私有地のようですので、立ち入りは遠慮したほうがよさそうです。
標高は太田城のあったとされる方向にゆるやかに下っているように見え、堤はすぐに途切れますが、東に向かっては堤のあったと思われる方向に沿って比較的標高の高い地形が続くようです。



JR和歌山駅から出水橋に向かってすぐで、道沿いの南側にあります。きのくに信用金庫の駐車場の東から、レンタルビデオTSUTAYA出水店付近まで続いていますが、案内板などはありません。

交通量の多い道路に沿って有り、側面は一部コンクリートの補強がしてあるので、一見それとは分かりませんが、細長い林が道に沿ってあるので、周りの景観からすると多少違和感がありすぐに何かの遺構であると判るかもしれません。
堤の上の樹木は、柿の木のようですので、冬場は形状が見やすいと思います。








不思議な凹み~四つ石地蔵

2007年08月14日 | Weblog
和歌山県海南市

熊野古道、奈久智王子跡から松阪王子跡に至る途中に、四つ石地蔵というお地蔵様がまつられています。小さなお堂の回りにだいたい1.5メートル程の、平たい4つの大きな石が置かれており、案内板によると、かつてここにあった三上院千光寺の礎石を集めたとあります。また、江戸時代の終わり頃には既にこうして4つの石が置かれていたそうです。

この石が礎石であるということは別に不思議なことではないのですが、気になるのは、その表面にある、小さな凹みです。丸い形で、深さは3〓程ですが列をなしており、それがほぼ直角に曲がる「く」の字を描いているのです。
これが何なのか、いま手元にある資料には、何処にも説明がありません。

もしかすると、これは、雨垂れによってできたものではないでしょうか。
ちょうど、建物の四隅にこの礎石が置かれたとすると、その屋根から雨が滴り落ちればこういう感じになりそうです。

もしそうであれば、非常に長い時間をかけてできたもので、建物自体も長くそこにあったというけとになります。柱を支える部材を据えるためのものとも考えられますが、断面がほぼ半円形であることから、木材を据えるには安定するものではないように思われます。また、この石には柱を置いた痕跡は確認できるのですが、石には特に加工は施していないようです。

瓦ぶきの建物の場合、普通は、雨落ち溝や玉砂利といった雨垂れ対策の設備があり、しかも柱が載る礎石に雨があたることは考えにくいのですが、いまのところそれ以外に思いあたるものもなく、また以前からよく通る道で、十数年前からずっと気になっていたのですが、いまだに正体不明の穴です。

15日まで帰省します

2007年08月11日 | Weblog
15日まで帰省のため、更新を携帯電話から行いますので、写真を掲載できない可能性があります。
帰省途中によりみちした分については、後ほど改めて掲載いたします。

ところで、今日、明日の夜はペルセウス流星群が極大日で、今年はいつもの年よりも多く観測できるとのことです。
私は高校生の頃、地学部に所属していましたので、当時は一晩中眺めていました。以来、毎年観測していますが、今年は特に楽しみにしています。
輻射点のペルセウス座のあたり、東南の方向に注目です

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