よりみち文化財

ちょっと寄り道して出会える、遺跡や石仏、史跡や鹿児島の田の神さぁを紹介

吹屋小学校

2008年05月29日 | Weblog
吹屋小学校本館:明治42年(1909)建築の木造二階建、寄棟造です。

100年以上の歴史があり小学校校舎としてはかなり古いもので、現在校舎として使われている建築のなかでは最古級のものだそうです。(岡山県指定重要文化財)



夜9時まで校舎のライトアップがあると聞きましたので8時過ぎになって、このときは少し雨が降っていたのですが、歩いて行ってみました。

玄関の明かり取り窓がこの建物における特徴のひとつであるようです。全体的に窓が大きく、外から光が多く入るようになっているのはこの建物が校舎であるからでしょうか。

ライトアップされているとはいえ、さすがに内部までは暗くてよく見えません。しかし、正面に取り付けられた時計はきちんと時間通りで、また掲示板にはいろいろ貼られているという、そういったものに建築物としての校舎ではなく、学校という「場所」の活動的な雰囲気を観ることができて何故かほっとしました。


写真には中央に本館一棟のみ写っていますが、この両脇に明治32年(1900)建築の切妻平屋建て2棟があります。



アクセス等詳しい情報は
「高梁市ホームページ」
http://www.city.takahashi.okayama.jp/
に掲載されています。(トップページへのリンクです。「高梁市観光ガイド」ページにて紹介されています)








ベンガラの紅い町並み

2008年05月28日 | Weblog
岡山県高梁市成羽町吹屋

その日は米子から明智峠を越えて国道181号をずっと南に向かったのですが、岡山県の新見市内に入ったところで国道180号をたどることにしました。高梁市成羽町にある「吹屋」という町に寄るためです。

この、「吹屋」という町は、古くから(平安時代の大同2年・西暦807年の発見と伝えられています)銅の産出で知られる吉岡銅山のそばに栄えた町です。
吉岡銅山は戦国時代、尼子氏と毛利氏によってその争奪が繰り広げられ、また江戸時代には天領として(江戸時代初期の一時期は成羽藩が管轄)、その後明治から昭和47年までは三菱金属の経営によって日本三大鉱山のひとつに数えられるほどの繁栄を続けました。
銅を精錬する場所などを指して、「吹所」と言うことがありますから、この「吹屋」の町名はそこから来たものなのでしょうか。

標高約550mの山間にありながら、銅の産地であるほかベンガラの生産地としても知られ、銅やベンガラ(弁柄)を扱う商家が並び幕末から明治時代にかけては大いに賑わったところであったそうです。

「吹屋の町を訪れてみたい、」と思ったのは、実はこのベンガラを壁に塗りこんだ紅い壁の商家が通りを挟んで続く町並みの写真を見たことがきっかけでした。
日本の古い町並みの、モノトーンのなかで輝く白壁の美しさにも惹かれますが、その石州瓦で葺かれた紅い屋根と、ベンガラの紅い壁が続く風景には、
「山を越えてでも行ってみたい…」
という思いがしたのです。


景色を眺める際「色をしっかりと見たければ朝を避けて、太陽を背に観る」ことにしているのですが、このときは早朝で、しかも逆光になってしまいました。


町屋に見られるのは、弁柄を塗りこめることによって紅い色をつけた壁ですが、明治時代頃吹屋に4ヶ所あったとされるベンガラ工場においては、製造工程中における弁柄材料の粉塵で自然と壁が紅くなったそうです。
屋根に葺かれた石州瓦の色合いも一枚一枚が微妙に違っていて、なんとなく紅葉の紅さ、に似ているように思われます。土の色に馴染んで自然な色合いに長い時間の流れも封じ込められているような、気がします。

「ベンガラ」というのは、酸化鉄のことで、インドのベンガル地方で産出したところからそう呼ばれるようになったそうです。
縄文時代には水銀朱とともに土器の彩色として、また古墳時代には古墳の装飾文様にも使われています。
しかし、工業的に生産されたところとしては、吹屋が日本で唯一の産地として200年以上の歴史を持ちます。(江戸時代に一時、大阪で生産されたことがあったそうですが。)
生産されたベンガラは、磁器(九谷焼、伊万里など)や漆器、染織の顔料としての需要がありました。酸化鉄ですから化学的に大量に作り出すことは出来るのですが、そういったものでは、多くの工程を経た手作りの、吹屋のベンガラの色は出せないそうです。
ここで初めてベンガラが生産されたのは宝永4年(1707)のことだといわれ、製造は昭和49年に終了しているのですが、現在、当時のベンガラ工場を改修、復元した「ベンガラ館」にて製造工程などが展示されています。


「吹屋郵便局」
郵便局といえば昔から赤い色と決まっていますが、そういうわけで赤いのではなくやはりベンガラの町ならではの紅さのようです。古い商家と旧来の局舎を復元した建物であるということで、「特に用事が無くても、自由にお入り下さい」との看板があるのは「郵便局への用事がなくても、建物を自由に見学できます」という意味でしょう。

吹屋の商家にはときおり、軒の下に小さな丸い金属製の輪が取り付けられているそうですが、これは当時ここに馬を繋ぐために取り付けられたものとのことです。
(通りは自転車を押して歩いたのですが、なかなか見つけられませんでした)
弁柄を荷とする馬が数多くこの道に並んだのでしょうか、吹屋のメインストリートは現在でも観光バスがそのまま通ることができるほど広いのは、道の両側に並ぶ商家の軒に馬を繋いでもなお通行ができるようにとつくられたからだそうです。
郷土館として当時の商家が内部まで公開されていますが、通りに並ぶ古い建物を観るというよりは、往時の繁栄をそれぞれに感じながら歩くことができるところが、この通りの魅力であるように思います。


町は「吹屋ふるさと村」として整備されており、ホテルや食事処、土産物店があってゆっくりと観光を楽しむことができます。
新見市街からは国道180号沿い、道33号の入り口に「吹屋ふるさと村」の案内標識が立てられていますので、そこから吹屋を目指すのがいいと思います。
今回は自転車でしたので、荻尾の集落を経由する地図上での近道を選んだところ、山越えの道で結局到着までの十数キロに2時間半もかけることになりました。(マウンテンバイクは山越えの舗装道を登るための自転車ではないのですが…。)

引用・参考:「岡山県 吹屋ふるさと村」(案内パンフレット)吹屋観光協会
      現地案内板
また、ベンガラ館の方には吹屋について詳しい説明をしていただきました。

アクセス等詳しい情報は
「高梁市ホームページ」
http://www.city.takahashi.okayama.jp/
に掲載されています。(トップページへのリンクです。「高梁市観光ガイド」ページにて紹介されています)






訂正です

2008年05月21日 | Weblog
「明治時代のステーション」について、訂正です。
道標が建てられたのが、「明治十二年」とありますが、正しくは「明治十四年」です。
また文字は、
「従是住吉ステーション迄九丁四十五間」とあります。
場所は神戸市東灘区です。

明治時代のステーション

2008年05月21日 | Weblog
石の風化の具合からして
「古そうだな・・・」
と、思ったのですが、カタカナで書かれた「ステーション」の文字を見れば、まさか明治時代のものとは気付かないところでした。

傍に立てられた案内板によると、その頃このあたりに鉄道が敷設されて、近くに住吉駅ができたため、その場所を知らせる目的で建てられたものだそうです。
確かに、側面には「明治十二年六月建之」の文字がありました。

播磨国分寺の塔跡

2008年05月21日 | Weblog
中国山地をようやく越え、姫路市内まで来ました。

写真は播磨国分寺の塔心礎です。
国分寺跡というと、たいていは基壇跡のみの整備された公園や広場なのですが、やはり礎石が残っているとかつて栄えた寺院の雰囲気が感じとれます。

すぐ南側を新幹線が通っていますが、スピードが速すぎるからでしょうか、車内からこの遺跡に気付くことがありませんでした。

ここからは大阪府南部まで、交通量の多い道となりますのでそれほど進めないと思いますが、明日には和歌山市内に入りたいと思います。

出雲大社の本殿特別拝観に行ってみました

2008年05月21日 | Weblog
18日まで出雲大社の本殿特別拝観があったので、行ってみました。
本殿は今、60年に一度の遷宮で、今年から修理が始められ、平成25年には完成するらしいのですが、それに伴う公開で本殿内部を見ることができるという事でした。

早朝キャンプサイトを出発したところが現地到着は11時前だったので、もう拝観受付のために長い列ができ、
「4時間待ち」とのことだったのですが
せっかくですので、(実際の待ち時間は3時間だったのですが)ひたすら列のなかで待って、あの巨大な本殿に上がりました。

その本殿の天井に、「八雲の図」というのが描かれているのですが、実は雲は七つしか描かれていない、というところがこの本殿の謎であるらしく、「完成するということはそれで終わりということと同じであると考え、それを避ける精神が活かされている」、という説明がありましたが・・・実際のところはどういう理由からなのでしょうか

出雲大社からは一畑電車に乗れば(一畑電車は300円の追加料金で車内に自転車の持ち込みができます。)たとえ拝観に時間がかかってもそのまま楽に松江まで行くことができます。

大社町へはちょっと遠回りでしたが、予定通り米子市まで、その日にたどり着くことができました。本殿の特別拝観は8月にも予定されているそうです

しばらく更新できませんでしたので、以前の記事から掲載します。

薦神社・呉橋

2008年05月15日 | Weblog
呉橋は非常に珍しい建築であるらしく、全国的にも例が少ないそうですが、薦神社にもこの、「呉橋」がありました。
橋の下には、現在は水の流れこそありませんが、ちゃんと小さな川がありました。

宇佐神宮・呉橋

2008年05月15日 | Weblog
宇佐神宮の呉橋(くれはし)です。
中国の、呉の国の人が造ったと言われる建築ですが、いつ建てられたのかは不明だそうです。
この呉橋から西に向かって、ずっとまっすぐな道が延びており、以前はここが神宮の正門だったそうです。(まっすぐな道は「勅使道」と呼ばれる道で、昔神宮への勅使が通った道とのことです)

薦神社「神門」

2008年05月15日 | Weblog
大分県の中津市にある薦神社(こもじんじゃ)で「神門」という、珍しい建築を見かけました。
重要文化財となっています。
案内板によると、建てられたのは建物に残る墨書から、元和7年(1621)頃、細川忠興による造営とあります。

薦神社の創建は承和年間(834~848)だそうですからかなり古くからあることになります。
名前に「薦」、と付くぐらいですから、なにか薦に関わる言われがあるのだろうと考える方が多いと思いますが、やはりこの神社の御神体である、境内の「三角池」の真薦(まこも)で作った「枕」が宇佐神宮行幸会の神輿の、霊代(みたましろ)として納められるという習わしがあるのだそうです。


北九州市の門司から萩市まで、かなりスピードアップしての行程でしたので、今日は史跡といえば檀之浦古戦場近くを通ったことぐらいでしょうか。
昨日の分をアップすることになってしまいました。
山口市の瑠璃光寺五重塔は是非見たかったのですが、また改めて訪れることにしました。

想いを馳せて観た景色は・・・

2008年05月14日 | Weblog
写真は宇佐神宮の弥勒寺跡に残る、礎石の列です。

現地の案内板には、西暦725に八幡神を現在の小椋山に移した際、その東方に弥勒禅院を建てた記録が残るとあり、それがこの場所にあたりますので、これらの礎石がその弥勒禅院(弥勒寺)のものと考えられています。

また、738年には金堂と講堂が建てられ、弥勒寺は薬師寺式の伽藍を持つ寺院であったそうです。

既に発掘調査もなされていますが、いまここにあるのはいくつかの礎石のみです。
それでも、整然と列べられそこに柱が立てられたであろう様子が解ります。

以前この弥勒寺跡を訪れたときは、先生に説明して頂きながら歩いてまわったのですが、その折り、
「敢えて建物の復元をしなくても、ここを訪れて古代に想いを馳せる人各々がみな、想像のなかで当時の様子はこうであっただろうか、と考えると思う。そこに観る弥勒寺の姿は人それぞれであるだろうから、ただ礎石だけをこうして見られるようにして、ここでそれぞれに当時の姿を想い描いて頂くのも、また一つの展示方法と言える。」と、おっしゃったのを思い出しました。

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