JRきのくに線から阪和線を利用して大阪まで出掛けることがよくありますが、その途中の黒江駅、紀三井寺駅間あたりではかすかにですが名草山を見ることができます。
列車の右側に見えますので、早朝であれば日差しが車内に入る右側の席は空いていることが多いこともあって、たいていはそちら側に座るのですが、名草山を見るというよりはそのふもとの広い谷と、そのすぐあとに見える神社が気になっていた、というのが理由です。
それで先日、そこまで行ってみたところ、その神社が「内原神社」であることがわかりました。
名草彦之命、名草姫之命、大國主命の三神をまつる、あの内原神社です。
境内にはいると、神楽殿の奥に拝殿があり、本殿はよく見えません。
しかし、三柱の祭神の名が拝殿の正面に書かれていました。
以前の記事で、名草と名草姫は後に名草に来た神武側の者であり、大國主命が実は名草戸畔に代表されるような在地勢力の首長ではないか、名草と名草姫が名草戸畔に比べていかに優勢な集団の一員であったとしても、名草を治めていくにはやはり名草戸畔の力を必要としたのではないか、と書きましたが、これを見てもやはり名草彦と名草姫のふたりは名草戸畔の存在を必要としていたような気がします。
それから、内原神社の東にある「広い谷」は、南向きの極めて緩やかな斜面となっている場所で、弥生時代の遺跡として指定されているところでした。
縄文時代や旧石器時代の遺跡は、例えば大分県の早水台遺跡など、高台にある傾斜の緩やかな斜面で日当たりがいいというような、たいてい誰が見ても人が住処として条件の良い立地をしていることも多いのですが、そういったところが、「何かありそうな気がする」と思わせていたのかもしれません。
名草山(東側)遠景と、南側の谷
江戸時代に建てられた石碑
また、ここには緑泥片岩の石碑が建っていました。
「南無阿弥陀仏」と刻まれていて、延宝三年の銘がありましたので、江戸時代のものです。
このあたりには寺院が有ったとの伝承も伝わるそうですが、詳しいことはよくわかりません。
さらにここから少し東へ行くと、「岡村遺跡」に指定されている場所があります。平地の遺跡ですので、一帯は住宅や水田しか見えませんが、岡田八幡神社のふもとに広がる弥生時代の遺跡です。
岡田八幡神社
本殿背後の山には古墳群が確認されています。
名草山周辺に伝わる名草戸畔の伝説によると、小野田の宇賀部神社に名草戸畔の頭を埋め、祀ったということですが、その宇賀部神社近辺から名草山のふもとあたりへは亀ノ川が西流します。
それほど大きな河川ではありませんが、江戸時代においても治水には大変苦労したという話を聞きますので、かなりの流量となる時があったのかもしれません。
岡村遺跡は水田を耕作するためとみられる木製品も多量に出土していますので、この亀ノ川流域に連なるわずかな平野部に遺跡や古墳が点々と連なっていることからも、亀ノ川の存在、つまり亀ノ川が供給する水の重要性は見逃せないものがあるような気がします。
琴の浦の夕景。海からの軍勢が停泊する場所としては、やはり湾になったこのあたりの浅い海かな、と。
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