よりみち文化財

ちょっと寄り道して出会える、遺跡や石仏、史跡や鹿児島の田の神さぁを紹介

日本最古の木造園舎

2007年10月31日 | 建築
大阪まで行かなければならない用事が続いたのですが、折りよく中央区付近を通りましたので、文化財を眺めながら一息つくことができました。

「月刊文化財」6月号に、今年6月に新しく指定された重要文化財として、大阪市中央区にある愛珠幼稚園の園舎が紹介されていましたので、立ち寄って見ることにしました。
幼稚園の園舎が重要文化財に指定されるのは初めてのことで、もうひとつは岡山市にある「旧旭東幼稚園園舎」です。

ちょうど日曜日でもあり、また平日でもおそらく中に入ることはできないと思いますが、正面にあたる南側と、西側が道路に面しており「御殿造」とよばれる壮大で豪華な和風建築は充分に眺めることができました。
この愛珠幼稚園の園舎は、明治34年の竣工です。
もともとこの幼稚園は明治13年に創立された、日本で3番目に古い幼稚園だそうで、現在ある建物は3代目となるわけですが、木造の幼稚園舎としては日本最古だそうです。


南側の正面から。やはり大都市という理由からなのでしょうか、隣に高層ビルがあります。このすぐ近くに「適塾跡」もあるのですが、文化財に対する景観はあまり考慮されていないように感じられ、少し残念な気がします。


「月刊文化財」に、園舎の平面図が掲載されていました。玄関を入ってすぐ遊戯室があり、その先の園庭には滑り台があるようです。また、西側に「保育室」が並んでいます。
東からの採光を考慮した設計なのでしょうか、図面を見ているだけでは良く分かりませんが、園舎内に配置される部屋や園庭は、朝の光を受けて明るい環境を得られるようにと考えられているような気もします。幼稚園、という場所のイメージがそう思わせるのでしょうか。
南側の玄関から、北側の裏手まで、70mほどもある、大きな建物です。
確かに古い建物であり、すぐ近くには高層ビルも建っていますが、それよりはるかに存在感のある建物です。





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熊野古道 阿倍野王子社

2007年10月28日 | 熊野古道
大阪市 阿倍野区阿倍野元町

「熊野の二の王子」と呼ばれ、熊野街道の起点とされる八軒家浜にある、窪津王子社に次いで2番目にある王子社が「阿倍野王子社」であり、その場所に今も残るのが阿倍王子神社です。
ここから更に、九十九王子と言われる王子社が熊野まで続きます。
ただ、「2番目」という順番は時代によって異なるようで、桃山時代にはここが2番目の王子社であったことは文献の記載から確かなようですが、もともとは4番目にある王子社らしいことが、平安時代の貴族の日記から分かります。戦乱によって王子社が消失したり、合祀されることもあったのでしょうか。

この神社の縁起絵巻に伝えられるという、仁徳天皇による創建は単なる伝説であるとは思いますが、ここから南に少し離れた堺市に大仙陵(仁徳天皇陵とされる古墳)を含む百舌鳥古墳群があり、北には阿倍寺跡があることから、古くから多くの人々が住むところであったようです。

天王寺駅前から南に延びる阿倍野筋を歩いていくと、松虫の交差点にでます。阿倍野筋が松虫塚のある松虫通と交差する場所ですが、まっすぐ延びる阿倍野筋の少し右手(西側)に細い路地があるのを見つけました。熊野街道(熊野古道)のようです。入り口に「熊野街道」の標識がありました。今は熊野街道も案内板や標識などが整備されて、特に和歌山県内は街道をたどる人が歩きやすいようにと、整備が進んでいます。

以前、熊野街道の起点とされる八軒屋浜から熊野街道に沿って天王寺まで歩いたことがあります、結局2時間半もかかりました。天王寺からこの阿倍野神社まで歩いて30分ほどですから、八軒家浜からここまで歩くとなると3時間ほどかかることになります。

熊野街道で多くの王子社が、伝承や小さな祠のみが残る場所となっているなかで、今も参詣の人々が訪れる神社として残っているのは珍しい例です。



松虫通りから南へ延びる熊野街道

ところで、この阿倍王子社の北数十mのところに「阿倍晴明神社」があります。こじんまりとした神社で、街道に面して立てられている鳥居からまっすぐ20~30m歩くとすぐに本殿があります。


祭神はもちろん阿倍晴明で、もともと寛弘4年(1007)に花山上皇によって創建されたと伝えられる神社です。京都には、晴明の屋敷跡とされる場所にやはり晴明神社がありますが、ここは生誕地と伝えられる場所だそうです。立ち寄ったときはちょうど、若い女性が社務所でお守りを買い求めているところでしたが、やはり阿倍晴明は女性に人気が有るようです。






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針持の田の神さぁ

2007年10月19日 | 田の神さぁ
鹿児島県 大口市針持


以前はJR宮之城線がすぐ近くを通っていたようです。この路線は1987年に廃止になっており、ここから少し東に歩いたところに「針持駅跡」という公園があります。

山間部ですが広々とした田園を眺めるようにして、針持の田の神さぁは立っておられました。

シキをかぶっていますが、衣装はどちらかというと神職像に似ています。右手には何か持物があったのでしょうか、やや上に上げてポーズをとっています。
銘文が無いのでいつ頃に造立された田の神さぁであるのかわかりません。ただ、風化の具合からすると江戸時代まで遡るかもしれません。
鹿児島ではもう、刈り入れもほとんど済んでいるでしょうか。この季節に田の神さぁを訪れると田圃では刈り入れ作業をされる農家の方々も多く、田の神さぁの周りが急に賑やかになったような気がして、何故か嬉しい気持ちになります。




刈り入れ時の田圃を眺める田の神さぁ


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水郷に建つ石幢

2007年10月17日 | 遺跡・遺構
中国 蘇州市

中国、江蘇省を移動中、蘇州の近くに古い村がありました。
水路の発達した村で、いわゆる「水郷古鎮」というところです。名前は日本語にない漢字ですが、「用」の上に点がひとつ付いた字と「直」の2文字で「ルーチー」と発音します。
観光地として整備されてはいますが、観光バスが何台も駐車場に並んでいるような場所ではなく、こじんまりとした集落です。また、水郷ですので舟が集落内の水路を行き交う景色は、とても風情がありました。

この集落にある「保聖寺」という寺院に、日本でいう「石幢」に似た石像物があったので紹介します。


寺院内の建物(本殿)堂内の奥壁に塑像が見えます。

石幢といえば日本では、六地蔵や仏像のみが刻まれた身(竿)の上に笠が載っている、そういう石像物ですが、宗教的なものである点も良く似ています。
六角柱であることも共通点ですが、その上部にある彫刻は、中国のものは非常に華やかな印象を受けます。
現地の案内には「経幢とは古代宗教性石刻柱のひとつである。当幢は唐代大中八年(854)に建てられ、宋代に再建したものである。石刻の書体は崔漁氏の楷書で、高さ4.8m、計17層である。尊勝陀羅尼経文はじめ蓮、雲、竜、菩薩、飛天が刻まれている。造形優美であり、彫刻至極細工で盛唐時代の芸術風格をあますところなく表している。幢の柱台は保聖寺大殿の遺物で、蓮花模様の地面と童子牡丹は宋代石刻芸術の逸品である。」
と・・・なぜか日本語で書かれています。やはり日本人観光客が多いのでしょうか?


再建とはいえ西暦854年というと、かなり古いものです。小さな集落のようですが、意外にも歴史が古い土地でした。
この「保聖寺」には、優れた彫刻(塑像)として有名な羅漢像があります。壁面一枚に造形された大きなもので、前面に立つとその迫力に圧倒されますが、そのつくりはまた非常に緻密です。

長らく更新が滞ってしまいました。また、続けてアップしていきますので、宜しくお願いいたします。


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帯隈山神籠石

2007年10月16日 | 遺跡・遺構
佐賀県 佐賀市久保泉町

帯隈山(おぶくまやま)神籠石は、佐賀市の北部、久保泉町川久保の帯隈山周辺にあります。


帯隈山 この山を中心とした地域に列石があります。

「神籠石(こうごいし)」、というのは、西暦663年、日本の軍勢が白村江で唐・新羅に敗れ、朝鮮半島で百済が滅亡するという事態にあって、大陸の軍勢による攻撃に備えるため築かれた古代の山城であるとされています。

築造には、百済から来た人々の指導があったと「日本書紀」に伝えられており、佐賀のほかには福岡、山口、岡山、香川など、瀬戸内海沿いに築かれています。
九州から大和へ向かう、当時のメインルート沿いになります。

「神籠石」と言う名前は、福岡県高良山にあるものが、ちょうどその山にある神社を囲むように築かれているように見えることから、付けられた名前だそうです。「神域を囲む石」という意味になるでしょうか。


この帯隈山神籠石にも、現在わずかですが列石が見られる箇所がありました。
地上に出ている部分は高さ約20cmほどですが、7割は地下に埋もれているそうで、ひとつの石はかなりの大きさになります。こういった石が2400mもの長さに連なって帯隈山を中心とした一帯を囲んでいます。


帯隈山神籠石に向かう道には、詳しい案内板が立てられています。列石が見られる場所(地上から確認できる場所)は2箇所あり、地図にも「見学地」と記されています)


何のために並べられているのか、というと、これは土塁の基礎部分だそうです。
発掘調査により、この石列の上に、版築によって築かれた土塁が発見されたそうです。更に列石の前面には柵の痕跡と見られる柱穴が確認されました。
土塁や柵の発見は、ここが防御を固めた城砦のような場所であることを示しています。

現地の案内板には、「攻めてくる敵から住民の生命を守るため、この囲いの中に逃れさせた朝鮮式山城のあとであろう」とあります。
「神籠石」が具体的にどう利用されるはずのものであったのかは、現在分かっていませんが、おそらくここにあるように、敵の攻撃に備えた防備のための施設であったものと考えられています。(ただ、「朝鮮式山城」と「神籠石」は同じ時期のものとされてはいますが、その構造上に違いがみられることから、両者は区別されています。)
遺跡の範囲は非常に広大で、当時もしここに立て籠もることがあったなら、守るには非常に多くの人数が必要であったと考えられます。多くの住民を避難させるためでもあったのでしょうか。

北側に門跡1箇所、南側に水門跡(推定地)3箇所があるとされていますが、どのあたりなのか、現地ではよくわかりませんでした。特に、西側の神籠池沿いにある列石は、たどるのが非常に困難でした。



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更新は10日以降になります

2007年10月06日 | Weblog
研修旅行で中国に行くことになりましたので、ホームページの更新は帰国してからの10月10日以降になります。

今回は、肥薩線嘉例川駅の駅舎とホームの画像を掲載いたします。


駅舎全体、駐車場側から


ホームから横川駅方面をみた風景




駅舎の待合室には、昔ながらの椅子があります。ここを訪れたときはまだ残暑の厳しいときではあったのですが、ホームへ向けて風がとおり、意外と涼しく感じました。列車を待つより、一休みという気分です。




地上に輝く願い  ~七夕神社

2007年10月01日 | 伝統文化
福岡県 小郡市

七夕神社、という神社があります。
正式には媛社(ひめこそ)神社といい、今から1300年ほど前の記録である肥前風土記にその名が見えるので、かなり古い神社であることは確かです。
祭神は姫社神と織姫神で、七夕神社と呼ばれるのはここに祀られている織姫神が関わっているからのようです。以前は7月7日の祭日に、遠くから参詣の人々が列をなして訪れたと言われます。

七夕伝説は、大陸から伝えられたものとされています。
天上界に住む織姫と地上の彦星の二人が、許されるはずのない結婚を天帝に願い出て、その結果天の川によって離れ離れにならざるを得なくなってしまう。ただし二人は1年に一度だけ会うことを認められる。そういう伝説を子供のころ絵本で見たことを覚えています。

織姫や彦星というのはあくまでも伝説上の人物で、物語事態は中国大陸から伝えられたものとされていますが、日本でこの物語が広まって現在まで伝えられていることには理由があるようです。
この七夕神社の前にある案内板には、日本の「棚機津女(たなばたつめ)」という機織りの女神に対する信仰と、織姫・彦星の物語が混然同化した結果、七夕伝説になったとあります。平安時代には、7月7日の行事として技芸の上達を願う乞巧奠(きっこうでん)があり(今でもこの祭りの残る地域があるそうです。)いま短冊に願い事を書くのは、こういった行事の影響が考えられています。

また、今から1000年以上前の書物である「延喜式」に、小郡は織物を献上する土地であるとの記録があり、織物の生産が盛んに行われていたとも案内板に書かれています。
『続日本紀』など当時の記録によると、実は織物を献上品としている地域はこの地域だけではなく意外と多くあります。ただしこのことは、機織をする女性が全国的に多かったことをも示すもので、いつかは立派な織物を織りたいと願いながら機を織る若い女性と、豊作を祈って牛で一生懸命に田を耕す男性の恋愛は、当時の日本人にとって身近でイメージしやすいものであったのかもしれません。
そういった理由から七夕の祭りが広まっていったようにも思われます。


天の河と同じく南北に流れる宝満川


牽牛社が合祀されている老松宮。人形注連で有名な老松神社から南へ数百mの場所にあります。


おもしろいことに、この七夕神社から宝満川を隔ててちょうど反対側の場所に牽牛社(現在は老松宮に合祀)が祀られています。つまり、天を南北に流れる天の川を挟んで輝く、織女星(こと座ベガ)と牽牛星(わし座アルタイル)の位置関係と同じになっています。
牽牛社がいつ頃宝満川の川岸に祭られたのか分かりません。大正12年に老松宮と合祀されていますのでそれ以前ではあるとは思いますが、あえてこういった配置にしてあるというのも何か事情があるのかもしれません。
七夕伝説との関連から、恋愛成就、縁結びの神様としても信仰されているようです。

 

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