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よりみち文化財

ちょっと寄り道して出会える、遺跡や石仏、史跡や鹿児島の田の神さぁを紹介

紀三井寺の麓で

2008年12月30日 | 建築
和歌山市 紀三井寺

自転車で和歌山市内へ出掛けたときに、紀三井寺の前を通りかかりました。
紀三井寺といえば正月は初詣の参詣者で賑わうところで、境内には文化財指定を受けた建築がいくつもあります。

室町時代・永正6年(1509年)建立の建築として国指定文化財となっている朱色の楼門から階段を上がっていくのが本来の参拝順路のようですが、今日は残念ながら時間が無くて境内へはよりみちできず、楼門を見ながら前を通り過ぎるだけにしました。

ところが、その楼門を通り過ぎてからすぐ、奇麗な彫刻で飾られた門を見かけました。境内に続く参道の一つの入り口にあたる場所ですから、紀三井寺に関係がある建築のようです。
どうやらもともと、ほかの場所にあったものらしいのですが、いつ頃のものかはよく分りません。
江戸時代以降とは思いますが…。

木鼻や斗供のつくりも面白いのですが、松に鳥、龍や獅子などは非常に精緻で、一部は破損していますが、木の質感もあって、こんな場所にこんな建築が残されているのはちょっと意外なほどです。
現在、参拝の道路はすぐ脇を通っていて、この門をくぐって山に登るようなことはありませんが、道は境内からずっと続いていますから、参拝のおりにちょっと遠回りしてここまで来てみるのもいいかもしれません。






今回はデジタルカメラがなくて携帯電話のカメラにて撮影のため、山門全体の写真は撮ることができませんでした。
新年まであと1日、境内にある文化財の建築物の見学も兼ねて、正月は是非ともここに参拝に訪れたいものです。




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居留地の面影 ~川口基督教会

2008年11月19日 | 建築
大阪市西区川口1-3-8

先日、警察から拾得物の連絡があって、受け取りのため大阪市の西警察署まで出掛けました。
大阪市内は不案内ですので、最寄りの駅までJRと地下鉄で行ってそれから徒歩で、ということにしましたが、大阪市内の文化財をちょっと見て歩くにはやはり徒歩がいちばんでした。いや、あくまでも拾得物の受け取りに出掛けたのですが・・・。



中央公会堂がある中之島はちょうど川の中洲のような場所で文字通り「中之島」ですが、川口というところはその中州状の中の島を形成する二つの河、堂島川と土佐堀川が合流して安治川となるあたりです。
最近は京阪電鉄中之島線が開通したこともあってか、堂島川の南岸はきれいな歩道が整備されています。中之島線は地下を走っていますので、一駅ぶんくらいであればこの堂島川沿いを歩いてみてから電車に乗ってもいいような気がします。

この川口に教会があることは知らなかったのですが、「橋を渡って左に曲がると煉瓦造りの教会が見えますから、そちらの方向に…、それが近道でしょう、」と途中で道を教えて頂いたときに聞いたその「煉瓦造りの教会」が気になって寄ってみることにしたのです。
煉瓦造りの教会といえば長崎で多く見かけた記憶があって、ほとんどは明治時代の建築でした。よもや大阪に、とは思いましたがその場所が川口という、昔の居留地付近であるとすれば、ひょっとしたらその時代からのものか、という期待が湧きました。
遠くから眺めると、どうしても壁面の煉瓦は新しいものに見えるのですが、全体の外観にはいわゆるレトロな雰囲気があります。
しかし、建物の入り口とその上に作られている、格子で飾られたアーチの窓が印象的です。頂上部分が尖ったこのアーチは縁の煉瓦積みも美しく、非常に丁寧に造られたという雰囲気があります。

ただ壁面の煉瓦は、何故か旧いものと新しいものが複雑に入り組んでいます。そこからは建物の何箇所かを単純に修復してきた、というのではなく、旧い建物をどうしても残そうとした、というふうに見えます。




教会を見学に行くと、たいていは「中にどうぞ、」と声を掛けてくれます。ただ礼拝の場所ですからいつでも遠慮なく見て回るというわけにもいかず、礼拝堂内もなるべく写真撮影も控えることにしていますが、扉には小さな窓が作られていますから、堂内の構造はそこから伺うことができます。
入り口正面で見たアーチの曲線が建物はを的な

建物には案内板が設置されていて、そこには、
1871(明治4)年に大阪開港場が開かれて外国人の居留地となった川口一帯に建つこの教会は、1870年に米国聖公会宣教師のウィリアムスによって創設されたもので、建物はイングリッシュ・ゴシック様式というものとのことです。
ドアの飾り格子と、塔の上にある飾りが特徴的でしたが、阪神・淡路大震災のときにその塔が傾いたので、2年をかけて復旧工事を行ったそうです。
新旧の煉瓦の複雑な入り組みようは、その復旧工事の結果でしょうか。

ところで、実はその「拾得物」というのは、先日車上荒らしに遭い「おそらくは盗まれた、」と思っていたものでした。それには私の連絡先がメモされていたので、警察から電話が有ったのです。
大阪市内では今、至るところにコインパーキングが出来て、駐車場を探す不便さはかなり少なくなりましたが、どうやらこういったパーキングを巡回して狙う車上荒らしが横行しているようです。車内で荒らされた形跡のあった場所としては助手席のグローブボックスと、シート間にあるコンソールボックスのみでした。
特にコンソールボックスはその構造上、物品の隠し場所としても使えるようなことがたしかカタログに書いてあったとのですが、盗むほうは各車の構造を把握した上で貴重品の置かれていそうなところのみを探すようです。
もし、一夜ずっと駐車しておくのであれば、車内に荷物をまったく置かないようにするか、市営駐車場など24時間利用可能なところでも管理事務所に管理人が常駐しているところもあるようなので、そういったところを利用するという対策が必要なようです。

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道を支えるアーチ  ~上湯田橋

2008年09月18日 | 建築
鹿児島県 薩摩川内市湯田

薩摩川内市から阿久根市のほうへ移動中に、湯田というところを通ったのですが、石橋が架けられているのを見かけました。
道路の部分は現在、ほとんどがアスファルトで舗装されていますが、石製の古い欄干がすぐに目に付きますから、たいていはすぐに石橋の存在に気が付くかもしれません。
湯田川にかかるこの石橋の名前は「上湯田橋(かみゆだはし)」というそうです。






車を降りて見ると、橋の南側には建設に際して建てられた記念碑が残されていました。
実は、このときにここでとったメモを紛失してしまって、そこに書かれていた内容などは分かりません。確か、建設が大正年間のことであったということと、ほかにはこの橋を架けるのに関わった方々の名前が沢山刻まれていたことを覚えています。

少しはなれて橋を眺めると、真横からは綺麗なアーチを見ることができます。
石材は少し赤い色をしているように見え、これはどこで採れるの石であるのか、近くに産出するものとは思われますが今のところはわかりません。

ただ、不思議なことに湯田川は端のすぐ西側で、川の流れとしては不自然に思われるほど直角に近い角度で曲がっています。
そのおかげですぐ近くから橋を真横から眺めることができるのですが・・・まるで川を人工的に付け替えているような気もするほどです。
更に150mほど上流で再び曲がっていて、川が増水した時はこれで流れも少しはやわらげられるでしょうから、結果として激流によって橋が流されるのを防ぐようなかたちになっているようです。



橋を渡って、この道を阿久根方面にまっすぐ進めば諏訪神社があり、また橋の南側は小学校や中学校、支所のある集落ですので、ここは古くからの街道でもあったように思われます。

薩摩街道でしょうか。
陽成町からたどって来たはずの薩摩街道(出水筋)は、さきほど峠を越えた辺りでそのルートを見失っていました。




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海に臨む多宝塔 ~海禅院多宝塔

2008年09月17日 | 建築
和歌山県 和歌山市和歌浦

現地の案内板によると、創建は明暦元年(1655年)であることが、肘木に残された墨書から判明したそうです。




承応2年(1653年)に紀州藩初代藩主、徳川頼宣が生母の養珠院(お万の方)を弔うためにこの多宝塔を改建したとありますが、
もともとは慶安2年(1649年)に紀州藩初代藩主、徳川頼宣の生母である養珠院(お万の方)が、夫であった徳川家康の三十三回忌追善供養のために、多数の小石に書き写した法華経題目をここに埋納した際その上に建てた小堂が、その始まりだそうです。




ちょうど和歌浦の南端あたりに位置する小島の上にあり、
江戸時代頃は唐門や拝殿もあったそうですが、現在はこの多宝塔のみとなっています。
ここへ来るには、ちょうど島の反対側にある石橋を渡ってこなければならず、更には島内でも海側に面したところにありますから、通りがかりでは此処にこのような塔があることにたいていは気付きません。


マリーナシティから和歌浦あたりまで海沿いに延びる道路があると聞いて、ちょっと自転車で走ってみようと思い、出掛けました。
海岸線を走ることができたのは浜の宮から紀三井寺付近まででしたが、このときは時間もあったので和歌浦まで足を延ばしてみることにしました。




島にかかる数十mの石橋は車両通行禁止となっていて、由緒ある石橋のようですが見たところ今にも崩壊しそうな部分もあり、コンクリートによる補修が至るところになされている様子には、渡るのにちょっと勇気が要りました。

眺めのいい場所であるとのことでしたので、夕陽が観られるような時刻に到着したかったのですが、空一面の雲で、あいにくの天気でした。
また浜の宮あたりから夕陽の絶景が見られそうなときは、カメラを提げて行きたいと思います。






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木とステンドグラスの色合い

2008年08月22日 | 建築
「田尻歴史館」(愛らんどハウス・大阪府指定有形文化財)
大阪府泉南郡田尻町大字吉見1101-1



洋館と和館が棟続きに建てられた珍しい建築が、大阪府の田尻町内に文化財として保存されています。
ステンドグラスが綺麗な建物でした。



実はこの日、JR阪和線で大阪まで行くところだったのですが、何か事故があったようで、ほとんどの列車が運転を見合わせているとの車内アナウンスが入りました。
それで慌ててJR和歌山駅からバスで南海和歌山市駅まで行き、南海電車に乗り換えて大阪に向かうことになったのですが、結局、時間には間に合わないことが分かったので、普通電車に乗り換え、吉見ノ里駅で途中下車してこの「田尻歴史館」に寄ってみることにしました。
以前からこの建物のことは話に聞いて知ってはいたのですが、残念ながら今まで、なかなか来る機会がが無かったのです。

駅の西側にある春日神社のすぐ北側、町立公民館の向かいにあたり、駅からは徒歩10分程度というところです。




田尻歴史館の敷地に入ってすぐのところに、この建物の説明板がありますが、そこには、大正11年に大阪合同紡績株式会社の社長であった谷口房蔵氏により、別邸として建てられたもの、とあります。
この館を建てた谷口房蔵氏はこの田尻町の出身で、「綿の国から生まれた綿の王」と呼ばれたほど、明治から大正時代の関西繊維業界において大変な活躍をされた方だそうです。



洋館は煉瓦積みの二階建てで、西側に棟続きで和館が建てられ、その南側の庭には茶室まで造られています。

中に入ると、外観からイメージしていたよりもずっと和風建築に似たような感じがしました。
館内にある説明文には「チーク材をふんだんに使った、・・」とあり、足元や柱、梁などは見たところ全てに木が使われていて、建物の骨組みそのものまで木造ではないでしょうけれども、確かに木造建築のようなやわらかい雰囲気です。

それから、階段を上がる途中や、部屋に使われているステンドグラスが、何ともいえない温かみのある光の演出で、各部屋に飾られたこれらのステンドグラスを見てまわるだけでも、おもしろいものでした。



一階では、普段はカフェが営業していてランチなどもあるそうですが、この日はあいにくの休みでした。
「時間や光の具合によって、ステンドグラスの色合いが変わる、」とパンフレットにあっただけに、カフェでゆっくりできればよかったのですが・・・。
こうやって昔の建築や遺跡を訪れるのは、文化財そのものへの興味ももちろんなのですが、道中に「ちょっと一息ついてから、」と思ってのところも実はあるのです。

関西国際空港からはかなり近い場所のようです。
高速道路からのアクセスについては詳しくは分かりませんが、そういえば昨年は知人の送迎でこの空港まで来ることが何度か有ったので、またそういった機会にでも寄ってみたいと思います。




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よさこいと、鐘の音 ~岡山の時鐘堂

2008年08月18日 | 建築
和歌山県 和歌山市吹上1丁目

昨日和歌山市内の図書館に行った折に、「岡山の時鐘堂(じしょうどう)」に寄ってみました。

この「時鐘堂」は、和歌山城の南側にある低い山の上にあるもので、徳川吉宗が第5代紀州藩主であった正徳2年(1712年)に建てられたものです。
当時はこの「時鐘堂」に2人の番人を置き、ここで鐘を撞くことによって藩士の登城時刻や、火災などの非常事態を知らせたりしたそうです。
また、刻限ごとに鳴らされるこの鐘の音によって城下の町民は現在時刻を知ることができたといわれています。



和歌山城の南側の、県立美術館のあるあたりは「三年坂」と呼ばれ、馬の鞍状になった低い丘を越えるようにして東西方向に広い車道が走っています。
「岡山の時鐘堂」へはこの三年坂の頂上付近から更に登ることになりますから、周囲からすればかなりの高所です。これはおそらく、江戸時代、城内或いは城下に住む藩士や民衆に、ひろく鐘の音が聞こえるようにと敢えてこのような高所を選んだものかもしれません。



鐘は高さ2mほどの梵鐘であるそうですから、音は、夕方にお寺で鳴らすような、「ゴオーン」という音であると思われるのですが私は残念ながら、まだ聞いたことはありません。
現地の案内板によると、ここにつるされた梵鐘は、元和元年(1615年)の大阪夏の陣の際に豊臣方が使用していた青銅製の大砲を鋳直して作ったものであるとのことでした。
二階の小さな窓から、紐でつるされた棒が出ているのが見えますが、これが鐘を撞くための撞木です。

周りをぐるっと廻ってみましたが、建物の木材はまだそれほど腐朽しておらず、屋根に葺かれた瓦も新しいものでしたので、最近になって改修、修理がなされているようです。


そのとき、
もう帰ろうかという時に、和歌山城天守閣のちょうど反対側あたりから、低い、太鼓のような音が途切れ途切れに聞こえてきました。

実は、この日は和歌山城の城内を含む市街の何箇所かで「紀州よさこい祭り」が開催されていたのです。
城の北側にまわってみたところ、ちょうど「けやき大通り」をずっと踊りの人々が行列をなして渡る最中でした。



祭りの本部でもらったガイドブックを見てみると、各会場合わせて、参加チームが53チーム、踊り子の総数は2800人となっています。
実際、観客で歩道がいっぱいになるほどでしたから、今日この「けやき大通り」会場を見ただけでも何万人という人出があったように思えます。


”よさこい”といえば、「地方(じかた)車」という、スピーカーを乗せたトラックが大音量で踊りの音楽を鳴らして盛り上がるのですが、それだけの大音量が不思議と、城の南側の時鐘堂付近には、ほとんど聞こえてこなかったのです。
これほどに賑やかな祭り囃子も、その時鐘堂からの帰り際、堂の前の階段を何段か下りたところでようやく、
「何か、聞こえる、」
と感じられた位でした。
しかも太鼓の音といえばそのようにもとれる、何とははっきり分からない音でした。
時鐘堂のある山から自転車で車道まで下り、城の西側に回ったあたりで、その途切れ途切れであった太鼓の音が大きくなり、マイクの声や祭囃子のが加わってきたところで、ようやく祭りの賑わいであることがわかったのです。


和歌山城は山城で、標高49mほどの山上に本丸があって、そこに天守閣が築かれていますから、もしかすると天守のある小山(虎伏山)や石垣、天守を含んだ城の建物群に遮られて、北側の祭りの音が聞こえなかったのでしょうか。


時鐘堂付近より。天守閣をこれほどの高さから見ることができるほどの高所です。

そうすると逆に、当時、城の北側ではここから鳴らされる鐘の音が聞こえなかったのかと疑問にも思われますが、記録によると、城の北側にあたる現在の本町5丁目付近にも、大正時代までは「時鐘屋敷」という鐘を撞く施設が残されていたそうです。

やはりどちらか一方だけでは聞こえにくい、ということが有ったのかもしれません。

ただし、この2つの「時鐘堂」が当時、同じ目的で同時に運用されていたかどうかまでは分かりません。

また当然ながら、現在の市街と当時の城下町では音の伝わり方を左右する建物や建材、自動車等の騒音といった条件の違いがあり、市街における現在の音の伝わり方は昔とまったく同じではありません。
しかし、山を挟んでそれぞれに「時鐘堂」が存在すること、それからこの「岡山の時鐘堂」が建つ小山の南側においては更に、地形からみて城の北側で鳴らされる鐘の音が聞こえにくいであろうことから考えると、本町の「時鐘屋敷」は主に城の北側に向けて、「岡山の時鐘堂」は主に城の南側に向けて、時を告げる役割を担っていたのではないでしょうか。

ところで、本丸や城の東西では両方の音を聞くことができるわけですから、鐘の音が南北でずれたりした場合は、どうなったのでしょう?
時鐘堂が時を知らせていた時代では、現在のように分・秒単位で厳密に時刻を告げる必要などなかったのかも知れません。

今では、毎年8月15日と大晦日にのみ、ここで鐘が鳴らされるそうです。



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暑さに極彩色の涼風

2008年08月05日 | 建築
和歌山県紀の川市

桃山時代の社殿があると聞いて、紀の川市にある三船神社に行ってみました。
蝉の声が響く参道では暑さもいっそうひどく感じられましたが、軒下に整然とならぶ垂木や、本殿を飾る極彩色の色合いには、何故か涼しさが感じられます。



先日、新聞のコラムで「気温の関係で和歌山はアブラゼミが多い」、という内容の記事を読みましたが、少なくとも私が住んでいるあたりは昔から、クマゼミが最も多く、クマゼミよりはわりあい爽やかな声で鳴くアブラゼミは、実は非常に少ないのです。
それで今頃は神社に参拝などしに出掛けると、四方八方から聞こえてくるそのクマゼミの大合唱に、石段を上る足取りもますます重くなってしまうのですが、このような山腹に建てられた社殿の
「ひっそりとした、」
雰囲気がなんとなく涼しげに思えて、自転車を停めてついつい寄り道となってしまいます。




国指定の重要文化財は本殿と、摂社丹生神社本殿、摂社高野明神社本殿の3つで、「附」としてそれぞれの棟札が指定されています。

玉垣にある扉の格子越しに眺めた本殿は三間社の流造で、現地の案内板によるとその棟札から天正18年(1590)の造営であることがわかったそうです。彩色は昭和47年からの解体修理によって塗りなおされたものだけに鮮やかで、重厚な檜皮葺きの屋根を支える丹塗りの柱に見える色彩は壮麗なものです。



三間、というのは柱の間が3つ、ということになります。流造(ながれづくり)の社殿は全国的にも非常に多く見られますが、このように平入りに造られた扉の上あたりから階段の下の「向拝(ごはい)」と呼ばれる部分にまで流れるように屋根が長く延びていることから、この名があるそうです。



摂社のほうは春日造りとなっており、やはり棟札の記銘から慶長4年(1599)に造営されたことが判明しているそうです。

向かって一番右側に本殿、そこから左へ2つの摂社が並んでいるので、本殿から順番に参拝を終えると、高野明神社の脇まで来ますが、この時は玉垣の内側へ入るための扉がちょうど開いていました。中に神社の方がいらっしゃるのでしょう。
本殿の正面からも、扉越しに建物を眺めることはできましたが、そこから見る並んだ社殿の景色には、息を呑む一瞬ではありましたが蝉の声を忘れる時間を過ごしました。




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石積みの壁に ~大野教会、「ド・ロ壁」~

2008年07月16日 | 建築
長崎市下大野町2619

県指定有形文化財となっている長崎市外海町の大野教会です。

「明治26年(1893年)マルコ・マリ・ド・ロ神父による設計、工事監理により大野地区26戸の信者のため建てられた出津教会の巡回教会である、」
との説明が、現地の案内板にあります。

屋根を低くした瓦葺きの建物で、一見民家のようにも思えますが、上半部がアーチとなった窓や、瓦に描かれた十字架から教会であることがわかります。
窓に雨戸が取り付けられていますが、建設当初からのものでしょうか。



建物のほぼ四方を廻る壁は、ド・ロ神父の指導によって築かれた「ド・ロ壁」と呼ばれるものです。
地元産の玄武岩を積み上げてつくられた石積みの壁で、個々の石の大きさはそれほど大きいものではなく、一般的な石壁のイメージからすれば、この壁の厚さは意外なほど薄く感じられます。
軒には屋根を支えるためらしい建築材が見えますが、これは石造りの壁に屋根を付けるという建築方法によるのでしょう。軒に等間隔で並んだ斗共のような部材が、梁の役割をしているようです。
ここは海辺の高台ですから、柱が屋根を持ち上げる木造建築の構造よりは、石で壁を作ったほうが確かに丈夫であるような気がします。




教会建築の多くには、会堂(信徒席)に列柱がありますが、現地の案内板によるとこの建物の内部には、そのような列柱が設けられていないそうです。
あまり規模の大きくない建物ですから、内部のスペースをできる限り広くとれるよう設計しているように思えます。
教会のような、多くの人々が一堂に集まるための場所を小規模な建物内に確保すするためには、柱を多く建てる日本の伝統的な建築よりも、頑丈で薄い壁で築かれた建物のほうが向いているのかもしれません。


雨戸が取り付けられていますが、上部がアーチになった窓の一部分が見えます。


ところで、しばらく休憩をとりながら、なにげなく壁を眺めていると、
一面に積み上げられた壁の表面に、なにやら、石を積んだ際にできた規則的な目地のようなようなものが見えてきました。
・・・どう表現すればいいのか判りませんが・・・石と石の間に規則的なラインが見えるのです。



もしも後の時代にこの壁が積み直されていないのであれば、当時この壁を作ったときの作業手順がここから判るかもしれません。

地上から数十センチ上あたりで、壁の端から端まで水平なラインが通っていますから、まず最初にここまで水平に石を積み上げたと思われます。
それから、壁の両端をまず積み上げ始めたようです。壁の両端は崩れることの無いように、煉瓦を積み上げるのに似た方法で、小口と側面を交互に積んでいるかのように見える部分もあります。石は割り石なのですが、煉瓦積みを意識してか、石はできるだけ四角く成形しているようにも思えます。両側の石は、一定の高さまでくると斜めに内側へ傾斜するように積まれています。


壁の端部の積み方をみることができます。

そうしてからその両端の間に石を積み上げて全体を水平にした後、再び同じように両端を作り始める、という作業が3度ほど繰り返されて、全部で4段となりますがそれでようやくこの壁は積みあがったようです。

石の形が不規則なものであるにもかかわらず、これらの各段の上端は必ず水平で一直線となっています。


(それぞれの段の高さについては、これは或いは作業時の足場の高さによるのかもしれません。足場の高さに応じて、安全に作業できる高さごとに一段ずつ壁を積み上げていったと考えれば、この一定の高さずつ積み上げてあるのが納得できそうな気もします。)


現地でスケッチした絵をもとに、画像に線を加えてみました。
白線のとおり、石の目(隙間)が通っておりラインを描いています。



石の積み方による壁の強度について専門的な事はよく知りませんが、壁の両端を内側に向かって斜めに積み、その間を正確に水平に積むことは、壁自体の重さをまっすぐ下にかけることになるので、崩れにくいようにも思えます。

もしそうでなくても、この壁がただ石を強固に積んだだけのものでないことは判ります。
丁寧に、またしっかりした作業手順によって積まれたような、そういった感じが、石の並びに感じられるのです。

いずれにしても、多くの人々が互いに協力し合って建設した建物に、整然とした作業手順の痕跡が見られることも、やはりド・ロ神父の功績を伝えるもののひとつなのでしょうか。

教会の建物をぐるっと一周してみましたが、どの面も概ね同じ手法のようです。





この教会まで来るには、海沿いの道路から山手のほうに入ってからずっと幅の狭い登り坂となるので、自動車では大変でしょうが歩きではちょうどいい運動になります。
海沿いに延びる国道202号沿線には道の駅があります。「道の駅 夕陽が丘そとめ」という名前のとおり、水平線に眺める夕陽の景色がすばらしい場所です。





案内板には、「石灰モルタルで成形された鬼には中心に十字架が配され・・・」とありますが、「鬼」の造形は存在しません。本来は「鬼瓦」と記すはずだったものと思いますが・・・。建築の一部分として鬼瓦的なものが屋根の隅にあり、確かにそこには十字架があります。
また、機会があれば、この壁がそのまま当初からの状態であるのか、修復された部分があるのかどうかというところも、確認したいと思います。






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欠片(かけら)で築きあげたもの

2008年06月30日 | 建築
先日、保存していたCD-Rのデータに、偶然「博多塀(はかたべい)」の写真を見つけました。
福岡市博多区の櫛田神社境内で撮影したものです。

この時は、丁度博多に行った折に「博多塀」という桃山時代頃に築かれた塀がまだ残されているらしいという話を聞いて、ちょっと探してみたのです。


櫛田神社にある博多塀

「博多塀」、というのは、天正15年(1587)頃から町屋や寺院の塀として築かれ始めたといわれる土塀のことで、戦国時代、度重なる戦乱によって荒廃した博多の町が、その後の復興に際し割れた瓦や石などの瓦礫を、塀の材料の一部として壁に塗りこめて築いたものだそうです。
天正15年というのは豊臣秀吉による博多の町の再建(「町割り」)が始まった頃で、復興に向けてまずは壊された建物に放置されていた瓦礫などを片付ける必要があったと考えられています。

塀の断面を見ることができるようになっています

能楽殿で有名な住吉神社のとなりにある「落水園」はこの博多塀に囲まれていますが、これは最近になって造られたもので、もともとあったものの復元というわけではなく、どちらかというと「博多塀」のイメージを再現したもののようです。
(「落水園」というのは、もとは博多の商人・下澤善右衛門親正(ちかまさ)が造った別荘で、茶室があり、戦後は旅館となっていたそうですが、平成7年に福岡市により整備されて、日本庭園「楽水園」として公開されているものです。「落水」との名称は下澤善右衛門親正の雅号である”落水”に由来するそうです。)

こちらは落水園を囲む博多塀です。

櫛田宮の境内では、本殿の裏側辺りで「博多塀」を見ることができました。
これは博多の商人、島井宗室の屋敷に有った博多塀を移築したもので、移築されるまでの380年間、風雪に耐えた壁であると、現地の案内板にあります。
石や瓦が塗り込められ、また瓦にはいろいろな模様や色のバリエーションがあって面白く、まるで敢えて壁の表面に向けて飾っているようにも見えます。もともとこういった感じに瓦の文様(瓦当文様)を見せるようなものであったのかどうかは分かりませんが、その色の違いや、巴文、草の文様などが、文字通り瓦礫を積み上げた壁を却って趣のあるものとしています。
残されているのはほんの数メートルだけですが、壁面だけでなくその断面も分かるようになっていました。

更に、博多区御供所町にある聖福寺(しょうふくじ・国指定史跡)でもこの「博多塀」を見ることができました。
聖福寺では、正面の総門から続く長い土塀が、小さな通りに沿って続いています。この塀の、通りに面した壁面は綺麗に塗り直されているのですが、その裏側にまわって、境内側の一面を見ると、なかに瓦や石が入っている様子がよく分かります。
瓦も石も、とにかく積み上げて塗りこめていったという感じで、密度も均一ではなく、ところどころ瓦だけが多かったり、土ばかりであったりして、櫛田神社で見たのとはかなり印象が違います。
瓦礫が塗り込められているというより、まさに塀そのものを形作る建築材料の一部となっていますから、どちらかというと、寧ろもともとの「博多塀」というのはこういう感じでななかったか、という気もします。
塗り込められた瓦も、そう新しいものが混じっていないようでしたので、案外古くからこうしてあるものかもしれません。

境内には自由に立ち入れますが、入り口には写真撮影禁止とありましたので、
写真を掲載することが出来ないのが残念です。




いま、TV等では、岩手・宮城内陸地震による被害の様子、それから四川省の大地震についてもずっと報道がなされています。また、これからの復興に向けた活動をなされている、多くの方々の姿も伝えられ、一日も早い復興を願うばかりです。

あの阪神・淡路大震災の時は、九州で就職したばかりの頃で、現地の友人に電話がつながらず、移動中の車内ではいつも関連ニュースが放送されるのを待っていたことを覚えています。

当時、震災被災地への応援歌としてラジオでよくかかっていた、小森まなみさん(ラジオトークジョッキー)の「Yellを君に!」という曲の歌詞に、「瓦礫」という言葉がありました。
一見、ただの瓦礫にすぎないようなかけらが、実は未来への礎となる可能性を秘めている、という意味の歌詞であったと思いますが(もちろん、歌詞にあるのは本物の瓦礫のことではなく、心のなかで掴んだもののことを言っているのですが)、いま改めてこの「博多塀」にある瓦片や石の欠片を見てみると、復興を信じて懸命に築き上げたという、そういった力強さを感じます。




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聖福寺の位置です。櫛田神社、落水園もこの近くにあります


煉瓦造りの天主堂 ~黒島天主堂

2008年06月21日 | 建築
長崎県佐世保市黒島町

長崎県佐世保市の黒島に大きな天主堂があります。
煉瓦造り、ロマネスク様式の建物で、マルマン神父の設計によって明治33年から建設が始まり2年後の明治35年に完成したそうです。

先々月、4月の話ですが、国指定の重要文化財となっているこの黒島天主堂に行ってみました。

場所はフェリーが着く港から坂道を1.6キロメートル上ったあたりでした。黒島の中でも標高のより高いところ、近くに公民館や小学校がありますから島の中心地にあたる場所のようです。



フェリーの待合室に置いてあった「黒島見どころマップ」には、この天主堂の特徴が詳しく紹介されています。
そこには、主な特徴として

1、煉瓦造りであること
2、建物が3層構造であること

それから、床のタイルには有田焼が使われていること、上海製の聖人像があること、フランス製の聖鐘があること、またそれらやステンドグラスが建築当初からのものであることといった説明があります。

3層構造が特徴的である、というのはこの天主堂が建設された当時は建築物を多層構造で建てるのは大変に高い技術が必要とされることからレンガ造りの教会のほとんどが単層構造であったそうです。(3層構造の教会としては他には長崎の大浦天主堂があります)
この後に建てられる教会の規範となったそうですから、当時としてはかなり先駆的な建築物であったと思われます。


建築についての詳しいことはよく判りませんが、確かに正面から見ると屋根が3段になっていますので、3層構造というのがよくわかります。

「黒島見どころマップ」には更に、教会建築によくみられる蝙蝠天井の写真が印刷されていて、「16本の丸柱を組み合わせて林の雰囲気を創りだしている」との説明もあり、長崎県内にある天主堂の中でもかなり大規模なもののようです。
しかしこの日は残念ながら入り口に鍵がかかっており、建物の中を見ることはできませんでした。

それで建物の周りを少し歩いてみたところ、煉瓦の中に、色の違うものがたくさん混じっていることに気がつきました。
これほど大規模な教会ですからレンガの数も相当なもので、中には原料となる土の成分のちょっと違うようなものも混じる可能性もあるでしょうし、この黒島の土を使って作られた煉瓦も部分的に使われたそうですから(道の途中にあった畑で見た黒島の土は、非常に赤い色をしていました)、そういった違いであろうかと思ってよく見てみると、その濃い赤色をした煉瓦の表面には釉薬がかかっていたのです。


赤色の濃い部分は表面がガラス質になっています。

釉薬というのは陶磁器などの焼成時にかけられる「うわぐすり」のことで、焼きあがると器の表面に薄いガラス質の部分ができます。現在家庭で使われている茶碗やコーヒーカップで、この釉薬のかかっていないものはほとんど見かけません。
この釉薬には器を見た目よく装飾するという目的もありますが、表面にこういったガラス質の部分をつくることで、器自体に水分がしみ込むのを防いでいるのです。

もちろん、煉瓦の一面か二面だけに釉薬をかけて焼いたとは考えにくいので、おそらく煉瓦を窯にいれて焼く際に自然にかかった「自然釉」(焼成の際に燃料として入れる薪の灰が表面に付着し溶けることによって釉薬をかけたのと同じ状態になる)だと思いますが、こういった自然釉がかかるのは、高温で焼成することのできる登り窯で焼かれたものである可能性があります。

同じ一つの煉瓦でも、その釉薬のかかっていない部分があるのは、窯内での積み方によるものと思われます。
生産するときには一度に多くの煉瓦が窯に詰められたと思いますが、そのうちの一部の煉瓦だけが偶然に、薪が燃えてできる灰がよくかかる場所に置かれていたからでしょう。



また、表面に木目の痕が残るものもあることから、木製の枠に原料の土を入れて煉瓦の形を作ったことがわかります。
さらに煉瓦の側面(建物の外側に向いている面のうち、小口面ではない方)には、その側面と同じくらいの幅の、色の違う帯状の部分が2本、下駄の歯のように並んでいますから、おそらくは窯の中で(キャンプファイヤーで積み上げる丸太のように)井桁状に積み上げられて焼成されたのかもしれません。

煉瓦に残された、こういった痕跡をを見付けてみると、マルマン神父と黒島の信徒が、長い時間をかけて一つ一つ積み上げ完成させた建物であると伝えられるだけに、わずかでもその実感のようなものが手作りのレンガを通して伝わってくるような思いがします。

それに、こういったレンガの混じった壁の色調…一様でなくところどころ色のちがうレンガの組み合わさっている壁面は、とても温かみのある雰囲気を感じます。

長崎県内に煉瓦造りの教会は16棟もあるそうですから、こういった煉瓦はほかでもよく見られるものなのでしょうか。平戸市の田平天主堂も、確かにこのような感じの煉瓦壁でしたが…。
このような煉瓦を見ることができるというのもまた、この黒島天主堂の特徴のひとつであるのかもしれません。


黒島には、佐世保の相浦(あいのうら)からフェリーが一日3往復ほど出ています。所要時間は50分程で、途中高島を経由します。




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