よりみち文化財

ちょっと寄り道して出会える、遺跡や石仏、史跡や鹿児島の田の神さぁを紹介

水軒堤防

2008年10月11日 | 遺跡・遺構
和歌山県 和歌山市 西浜

今日は午後1時半から、現在和歌山県埋蔵文化財センターが調査中の「水軒堤防」について現地説明会があると聞いたので、ちょっと出かけてみることにしました。

「水軒堤防」というのは、和歌山市の海岸近くに延々とある防波堤で、江戸時代に築かれたものだそうです。和歌浦の北にある養翠園(国指定名勝)からずっと北に向かって石堤が1キロメートルほども続いています。

Google地図でこの「水軒堤防」のある場所を探してみると、写真では南北に細く森林のラインが見えるので、堤防らしきものがあるのが分かります。
時代や目的はまったく違うものですが、福岡県にある「水城」がこういった雰囲気でした。

現地説明会の参加者は60人ほどでしょうか、かなり多くの方が来られていました。


堤防の裏側、海に対する面とは反対側から見た様子です。
奥に見えるのが石堤、手前の左側にある土盛りが土堤の一部です。

このように石堤と、土堤の2つが並んでいますが、現地での説明によると、この二つの堤のうち、どちらが先に築かれたものであるのか、それとも同時に築かれたものであるのかは、文献など詳しい資料が無いため、不明であるとこのことです。



この2つで1セットの「水軒堤防」なのか、どちらかが既に有ったところへ、もうひとつ新しく作ったのか、というのは非常に気になるところです。

土堤はほとんどが砂を積み上げて築かれたものであることが、断面から分かります。ちょっと石堤との接点あたりを見てみると、土や砂が層をなしているのが見えますが、それらの層が水平に石の際まで続いていますから、少なくとも順番としては、石堤のほうが先に築かれたように見えます。

当時、石堤が築かれて後に、悪天候や津波などの災害による決壊でもあったのでしょうか。土堤は石堤の補強として築かれたもののようにも感じられます。
そうすると、土堤のほうが若干高くなっているのは、石堤だけでは心もとないという心境からのようにも思えてきますが、実際はどうなのでしょうか。

足元の石に、石を切り出した際の「矢痕」がありました(写真の中央から少し上にある、逆台形の窪み部分)。石に矢(楔状の工具)を打ち込んで切り出した痕跡です。
石堤のほとんどを覆う石の種類は砂岩で、和泉砂岩であるということでした。
一番上の写真は海に対するほうの面を撮影したもので、その砂岩の切石が綺麗に詰まれています。
石堤はこの下にまだ1mほど埋まっているそうで、この場所での全高は4mほどになるとのことでした。



石堤は全て石積みではなく、礫交じりの砂に積んだ上を石で覆う構造となっています。
ただし石の積み方は、単に表面を覆っているというのではなく、城の石垣を積むような工法で、強固に積み上げられています。








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罐子塚古墳と、たま駅長

2008年10月04日 | 遺跡・遺構
ちょっと紀の川市に出かける機会がありましたので、たま駅長のいる和歌山電鉄貴志駅で降り、帰りは罐子塚古墳に寄ってきました。



写真は貴志駅の北北西やく200mほどの場所にある罐子塚古墳です。
現地の案内板には、「周囲に幅約10mの水田が円形に取り巻いていることから、周濠を持つ古墳と考えられ、濠の一部も残されています・・・」とあります。
ちょうどこの案内板のすぐそばに幅4mほどの濠があるので、これが周濠の一部のようです。
Google地図で改めて見てみると、確かにその東半分では水田が墳丘の円形に沿って取り巻いています。

墳丘の直径は約40m、高さは6mだそうで、出土品と、粘土かくと思われる埋葬主体部のつくりから、古墳時代中期、丸山古墳と同時期か、やや古い時代の築造と考えられています。

三昧塚古墳では墳丘の裾で形象埴輪片を拾うことができましたが、ここは地表面が竹の葉に覆われていて地面がよく見えません。

墳丘に上ってみると数箇所に崩落があり、墳丘の土を見ることができました。
さすがに移植ごてで壁面を削るわけにはいきませんでしたが、崩落した場所にのぞくでは5~7cm程度の小さな礫が土中に確認できました。
この辺りでは山腹に自然に見られる石はわりあい特徴的なので、すぐに地山か盛り土かどうかは見分けがつきます。
川原にあるような石がほぼ均等に混ざっているような印象です。墳丘の強度を高める等という様な効能でもあるのでしょうか。




今日は土曜日ということもあって貴志駅では、多くの観光客が訪れていました。これだけ多くの人に囲まれても、定位置にぴたりと座っているたま駅長は感心です。
ただ猫が駅長になっているというより、駅長のような猫とも思えます。

和歌山電鉄にはいちご電車やおもちゃ電車など、列車自体にも話題を呼ぶものがありますが、やはりたま駅長に会いに来る方が非常に多く、貴志駅は駅長勤務終了時間の17:00過ぎでも、あいかわらず賑やかでした。



たま駅長 招福1年11億円 経済波及効果試算(産経新聞) - goo ニュース




いちご電車  木製の床など、内装もこの列車独自のデザインがなされています


おもちゃ電車

この貴志駅近辺に古墳時代、集落が営まれ、古墳が次々とつくられたのは、紀ノ川と貴志川が合流する地点として治水や水運に利があったことから、各地から物や人が集まったという理由も考えられると思いますが、これは今、和歌山電鉄という多くの人を運ぶ交通機関の駅のひとつに人気の猫がいるのは、
「行き易い、」
場所であるということもあるのではないかなあと考えながら、和歌山駅までの30分を列車に揺られました。



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東山の祇園閣へ

2008年10月02日 | Weblog
京都市 東山区祇園町南側

先日、京都で試験を受けてきた帰りに時間に余裕があったので、ちょうど特別公開中の「大雲院」に寄ってみました。

受付で配布していたパンフレットによると、
大雲院は織田信長・信忠の父子を弔うため、正親町天皇の勅命によって天正15年(1587年)から御池御所(烏丸二条南)において追善供養をしたのが始まりで、後に寺町四条に伽藍が移ってから、更に昭和48年になって現在の場所に移転したのだそうです。



もともとここには大倉喜八郎氏によって昭和3年に建てられた祇園閣があり、現在その祇園閣を含むかたちでその周辺が大雲院の境内となっています。
大雲院は普段拝観することができないそうですが、7月から2ヶ月間ほど期間限定で本堂のほか、境内にある祇園閣等が一般に公開されていました。

八坂神社前から続く車道を途中で東へ入り、坂を上って行くと町屋の路地に祇園祭の鉾のような建築が突然に現れます。
頂上に飾られているのは鶴で、羽を広げた姿が象られているのが見えますが、建立者である大倉喜八郎氏が幼名に鶴の字があったことから、鶴を好んでデザインに取り入れたのだそうです。(設計は建築家:伊東忠太氏)





入り口扉にも鶴が描かれていました

見たところ、建物の石材は花崗岩が使われているようです。
内壁にはあの敦煌漠高窟の壁画の模写が飾られているのですが、なにしろ階段は建物内をつづら折りに上る急な階段で、絵を見ながらでは眼がまわりそうです。

最上階からは市内を一望できます。
高さは36mだそうですが、八坂神社から高台寺付近の高台にあるので、建物自体の高さも加わって東山から京都タワー、比叡山あたりまでぐるりと眺めることができました。


最上階より眺めた景色です。

八坂の塔 方面


京都駅の方向


知恩院の方角を望む

清水寺から高台寺前の道(ねねの道)を通って八坂神社の方向へ歩くコースが人気のようです。
街角に詳しい案内地図が立てられ、沿道にはカフェもあり、道は大勢の観光客で賑わっていました。






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