よりみち文化財

ちょっと寄り道して出会える、遺跡や石仏、史跡や鹿児島の田の神さぁを紹介

田の神さぁの後ろ姿

2008年08月28日 | 田の神さぁ
鹿児島県 薩摩川内市祁答院町 馬頃尾

自転車で走っていて、あるとき田の神さぁの傍を通ったとしても、それと気付かないことがあります。
それは、田の神さぁがたいてい田圃の方向を眺めておられるからで、
道から見えるのは後ろ姿、ということになるからです。
特に自然石に彫り込まれた田の神さぁとなると、
石表面の風化も手伝っていっそう判り難く、そろそろ今頃は背の高くなった稲穂のなかで人知れずどすんと腰を下ろしています。




このときは祁答院の、たしか馬頃尾「まごろび」という場所だったと思いますが、通りがかりにそういった風化した石が田圃のそばにぽつんとあるのを見て、ひょっとしたらと思い石の反対側に回ってみると、やはり田の神さぁでした。

完全に田圃の方向を正面にしているのではないので、おそらくこの道を反対方向から走ってきたなら、遠くからでもすぐに分かったかもしれません。
それに、田の神さぁはこの祁答院あたりに多く見られるように、綺麗な化粧がなされていました。
昔は顔料を使ったと思われる塗料も、
現在田の神さぁに塗られているのは耐水性の、ちょっと光沢のあるペンキのような塗料です。
しかし、たとえ昔からこのような化粧でこうして立っておられたと言われても、不思議と違和感はありません。



内容の訂正
(2009年1月5日 「馬頃尾」の地名の読み仮名を訂正)








山頂の石室

2008年08月25日 | 遺跡・遺構
和歌山県 海南市黒江


岡田八幡神社に御参りしてから、帰りに参道の階段を下りていると、正面にその山が見えました。
大山(おやま)という、それほど高くはない山なのですが、
そのときに、

「そういえば、」
と思い出すことがあったのです。

3ヶ月ほど前、まだ和歌山に来たばかりの頃ちょうどこの八幡神社の横を通る県道を車で移動中に、同乗していた友人から、
「あのピラミッド形をした山が、ここを通るときにいつも気になるのだけど、遺跡か何かが有るのだろうか?」
と、尋ねられたことがあって、その時は
「あそこにあんな山が、有ったかな・・・?」
と、何年も地元を離れていたせいか、子供の頃から見ているはずの景色ながら思い出すことができず、
ましてや遺跡があったか、或いは信仰の対象にでもなっているのかと聞かれると答えようがなくて、
「いちおう調べてみる。」と言ったままになっていたのでした。



大山は確かにピラミッド形をしているように見えますが、それはこの岡田近辺からの見たときだけで、実際は複雑な形をしていて、三角錐をした山ではありません。
ほかの場所からは、まったく違った形見えます。

しかし、そんな目立つ形に見えたものですから、
「まさか、何とか富士という名前が付いているわけでもないだろうし、」とそんなことを話しはしたものの、不思議と気になっていて、
今日になって

「そういえばたしか、頂上に古墳があったかもしれない。」
と、思い出したのです。

ずいぶん前に本で読んだだけだったのですが、そのままそれを確かめに、自転車で大山まで行ってみることにしました。



やはり古墳がありました。
大山の麓の住宅街に「室山(むろやま)古墳群」の案内板があります。
「室山」の地名も、この山に古墳の石室があることから来たものなのでしょうか。
こうやって案内板まできちんと整備されているのは、意外でした。
そこから山頂へは、10分ほどでした。

1号墳 墳丘


1号墳 石室

尾根に古墳の墳丘があるのが、はっきりと分かります。
登っていくとまず尾根筋に1号墳が見え、山頂には2号墳があります。墳丘はどちらもしっかり残っていてすぐに分かります。
2号墳のすぐ隣に、3号墳もあるそうですが、どれがそうなのか、よく分かりません。
すぐ近くに送電線の鉄塔が建てられており、その時にまわりを造成しているのでしょうか。


2号墳 墳丘


2号墳 石室


1、2号墳とも、石室内は崩落の危険があるとのことで、立ち入り禁止となっていますが、外からカメラを向けてみました。
デジタルカメラでフラッシュを使って撮影すれば、真っ暗で何も見えない玄室内も、その構造をその場で見ることができます。懐中電灯があればよかったのですが、ここへ来るのは思いつきでしたので、まったく準備不足でした。

トップの写真は2号墳の石室です。石室入り口から撮影した2枚を合成しました。

どちらも石室は紀伊風土記の丘(岩橋千塚)に見られる例と同じ構造のもので、緑泥片岩の小さな石を丁寧に積み上げたものです。
石棚のある横穴式石室は和歌山県内に多く、ほかには熊本県に例がありますが県内で横穴式石室というとたいていはこのような構造だそうです。
このあいだ、ちょっと和歌山市内の伊太祁曽神社にある古墳を覗いてみたときは、内部が暗くてよく分かりませんでしたが、石の積み方は同じでした。

頂上付近には今、樹木が生茂っていて、周りの景色を眺めることはできません。
しかし、この位置からすると、見通しがよければ西は海まで眺められるかもしれません。
また山の東側には古墳時代の集落遺構も確認されている岡村遺跡がありますが、この山頂の石室に眠る人物は、ここから何処を眺めているのでしょうか。


どうやら、周辺の開発や宅地造成で、このあたりの景色もいくぶん変わっているようです。新しい道ができたりして、もう何十年も前から知っている風景ですが、新しい景色も見えてきそうです。


室山古墳群 1・2号墳概要
(現地の案内板より。遺物名はそのまま掲載)

1号墳(県指定史跡)
円墳
直径:20m
墳丘高さ:4m
内部主体:横穴式石室(前室封鎖石-前室-通廊扉石-通廊-玄室)
     岩橋千塚と同じ。緑泥片岩を積み、石棚、石梁を持つ。
出土遺物:須恵器(坏身・坏蓋・壷蓋・首坩)・鉄鏃

2号墳(県指定史跡)
円墳
直径:15m
墳丘高さ:3m
内部主体:横穴式石室(羨道-通廊-玄室)
     岩橋千塚と同じ。緑泥片岩を積み、石棚、石梁を持つ。
出土遺物:須恵器台付き壷 碧玉製管玉







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木とステンドグラスの色合い

2008年08月22日 | 建築
「田尻歴史館」(愛らんどハウス・大阪府指定有形文化財)
大阪府泉南郡田尻町大字吉見1101-1



洋館と和館が棟続きに建てられた珍しい建築が、大阪府の田尻町内に文化財として保存されています。
ステンドグラスが綺麗な建物でした。



実はこの日、JR阪和線で大阪まで行くところだったのですが、何か事故があったようで、ほとんどの列車が運転を見合わせているとの車内アナウンスが入りました。
それで慌ててJR和歌山駅からバスで南海和歌山市駅まで行き、南海電車に乗り換えて大阪に向かうことになったのですが、結局、時間には間に合わないことが分かったので、普通電車に乗り換え、吉見ノ里駅で途中下車してこの「田尻歴史館」に寄ってみることにしました。
以前からこの建物のことは話に聞いて知ってはいたのですが、残念ながら今まで、なかなか来る機会がが無かったのです。

駅の西側にある春日神社のすぐ北側、町立公民館の向かいにあたり、駅からは徒歩10分程度というところです。




田尻歴史館の敷地に入ってすぐのところに、この建物の説明板がありますが、そこには、大正11年に大阪合同紡績株式会社の社長であった谷口房蔵氏により、別邸として建てられたもの、とあります。
この館を建てた谷口房蔵氏はこの田尻町の出身で、「綿の国から生まれた綿の王」と呼ばれたほど、明治から大正時代の関西繊維業界において大変な活躍をされた方だそうです。



洋館は煉瓦積みの二階建てで、西側に棟続きで和館が建てられ、その南側の庭には茶室まで造られています。

中に入ると、外観からイメージしていたよりもずっと和風建築に似たような感じがしました。
館内にある説明文には「チーク材をふんだんに使った、・・」とあり、足元や柱、梁などは見たところ全てに木が使われていて、建物の骨組みそのものまで木造ではないでしょうけれども、確かに木造建築のようなやわらかい雰囲気です。

それから、階段を上がる途中や、部屋に使われているステンドグラスが、何ともいえない温かみのある光の演出で、各部屋に飾られたこれらのステンドグラスを見てまわるだけでも、おもしろいものでした。



一階では、普段はカフェが営業していてランチなどもあるそうですが、この日はあいにくの休みでした。
「時間や光の具合によって、ステンドグラスの色合いが変わる、」とパンフレットにあっただけに、カフェでゆっくりできればよかったのですが・・・。
こうやって昔の建築や遺跡を訪れるのは、文化財そのものへの興味ももちろんなのですが、道中に「ちょっと一息ついてから、」と思ってのところも実はあるのです。

関西国際空港からはかなり近い場所のようです。
高速道路からのアクセスについては詳しくは分かりませんが、そういえば昨年は知人の送迎でこの空港まで来ることが何度か有ったので、またそういった機会にでも寄ってみたいと思います。




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金のイヤリングと巨石古墳

2008年08月20日 | 遺跡・遺構
「泣沢女(なきさわめ)の古墳」(天満1号墳)
和歌山県有田川町天満 字泣沢女722-1

藤並神社の境内に、大きな円墳があります。
築造されたのは古墳時代後期(6世紀末から7世紀初頭)のことと考えられていますが、
現地の案内板によると、近年の発掘調査による成果からはこの古墳に埋葬された人物像が推定されていて、それは12歳ぐらいの少女である、ということです。
当時このあたりに住んでいた豪族の娘なのでしょうか。
遺物として金を貼った耳環(イヤリング)やガラス玉も見つかっているそうで、これらは生前身につけていたアクセサリーなのでしょう。
耳環は古墳の副葬品としてよく出土するものですが、このような身に着ける装飾品というのは、不思議と、遙か昔の人の姿を想像させます。




発掘調査の成果から推定される直径は21~24mで、「有田川流域においては最大規模のもの」とあり、そうすると和歌山県内に存在する円墳の中でも、特に大きなものの一つとなります。

現在、墳丘は土を盛って復元されていますが、南向きに横穴式石室が開口しています。
埋葬場所である玄室へと続く通路(羨道)の途中に柵が設けられ、そこに「見学希望の方は、社務所へ」と書いた紙が張られていましたので、早速に藤並神社の社務所で柵の鍵を貸して頂き、石室に入らせて頂きました。



石室も、大きなものでした。広さは部屋にしてみれば三畳程度だと思いますが、意外と天井が高いので、窮屈な岩室という感じでもありません。

しかしよくこれだけの石を持ってきたものだと思います。石を積み上げるにも、相当な力と正確な作業が必要ですから、この古墳を築くのは相当の大工事であったように感じられます。特に奥壁の石材は一枚岩の壁、とも思えるようなもので、そのほか石室のいちばん下に配置された石はどれも巨大なものです。

ただ、もともとの石積みでないような箇所もありますので、墳丘を復元したときに石室も一部修復しているようです。



足元には玉砂利、と言われる小さな石が敷かれています。この上に木の棺を置き、土師器や須恵器といった土器を供えたのでしょう。

ところで、ここの地名である「泣沢女」というのは、古事記や日本書紀に登場する神、「なきさはめ(泣澤女神・啼澤女命)」に通じる、という研究もあるようです。
神話によると、この「なきさはめ」は、妻である伊邪那美命を亡くした伊邪那岐命がその悲しみから流した涙から生まれた神であるとされており、また葬送の際に泣き叫ぶ役割をした女性を「泣沢女」と呼んだ例もあるそうですから、この古墳群において亡き人を偲び、嘆き悲しむ人々の姿が、それらをイメージさせたものかもしれません。

古墳や、横穴式石室の研究といえばたいてい、石室の平面形や構造、石材の積み方から墳丘を含めた構築方法等といったややこしい話になるらしいですが、やはりこうして古墳の前に立ってみると先ず、ここに葬られた人の姿や、石室を作った人々の姿を想像しないではいられません。
現在は住宅街となったこの古墳の周りの様子はすっかり変わってしまっているでしょうが、もっと遠くの、山なみの風景は、当時の人が見たものとぼとんど同じはずです。
-----さすがに、いま山の斜面いちめんに見られるみかん畑はなかったでしょうけれど・・・。


古墳のある藤並神社(拝殿-本殿)

藤並神社境内には他にも古墳(本殿裏に天満3号墳)が現存するということで、是非それも見たかったのですが、空はもう夕立が降り出しそうな雲行きで、ぽつり、ぽつり来たところで車に戻りました。
次回またこのあたりまで出掛けた際に、寄ってみたいと思います。

和歌山県指定史跡

引用・参考:現地案内板



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よさこいと、鐘の音 ~岡山の時鐘堂

2008年08月18日 | 建築
和歌山県 和歌山市吹上1丁目

昨日和歌山市内の図書館に行った折に、「岡山の時鐘堂(じしょうどう)」に寄ってみました。

この「時鐘堂」は、和歌山城の南側にある低い山の上にあるもので、徳川吉宗が第5代紀州藩主であった正徳2年(1712年)に建てられたものです。
当時はこの「時鐘堂」に2人の番人を置き、ここで鐘を撞くことによって藩士の登城時刻や、火災などの非常事態を知らせたりしたそうです。
また、刻限ごとに鳴らされるこの鐘の音によって城下の町民は現在時刻を知ることができたといわれています。



和歌山城の南側の、県立美術館のあるあたりは「三年坂」と呼ばれ、馬の鞍状になった低い丘を越えるようにして東西方向に広い車道が走っています。
「岡山の時鐘堂」へはこの三年坂の頂上付近から更に登ることになりますから、周囲からすればかなりの高所です。これはおそらく、江戸時代、城内或いは城下に住む藩士や民衆に、ひろく鐘の音が聞こえるようにと敢えてこのような高所を選んだものかもしれません。



鐘は高さ2mほどの梵鐘であるそうですから、音は、夕方にお寺で鳴らすような、「ゴオーン」という音であると思われるのですが私は残念ながら、まだ聞いたことはありません。
現地の案内板によると、ここにつるされた梵鐘は、元和元年(1615年)の大阪夏の陣の際に豊臣方が使用していた青銅製の大砲を鋳直して作ったものであるとのことでした。
二階の小さな窓から、紐でつるされた棒が出ているのが見えますが、これが鐘を撞くための撞木です。

周りをぐるっと廻ってみましたが、建物の木材はまだそれほど腐朽しておらず、屋根に葺かれた瓦も新しいものでしたので、最近になって改修、修理がなされているようです。


そのとき、
もう帰ろうかという時に、和歌山城天守閣のちょうど反対側あたりから、低い、太鼓のような音が途切れ途切れに聞こえてきました。

実は、この日は和歌山城の城内を含む市街の何箇所かで「紀州よさこい祭り」が開催されていたのです。
城の北側にまわってみたところ、ちょうど「けやき大通り」をずっと踊りの人々が行列をなして渡る最中でした。



祭りの本部でもらったガイドブックを見てみると、各会場合わせて、参加チームが53チーム、踊り子の総数は2800人となっています。
実際、観客で歩道がいっぱいになるほどでしたから、今日この「けやき大通り」会場を見ただけでも何万人という人出があったように思えます。


”よさこい”といえば、「地方(じかた)車」という、スピーカーを乗せたトラックが大音量で踊りの音楽を鳴らして盛り上がるのですが、それだけの大音量が不思議と、城の南側の時鐘堂付近には、ほとんど聞こえてこなかったのです。
これほどに賑やかな祭り囃子も、その時鐘堂からの帰り際、堂の前の階段を何段か下りたところでようやく、
「何か、聞こえる、」
と感じられた位でした。
しかも太鼓の音といえばそのようにもとれる、何とははっきり分からない音でした。
時鐘堂のある山から自転車で車道まで下り、城の西側に回ったあたりで、その途切れ途切れであった太鼓の音が大きくなり、マイクの声や祭囃子のが加わってきたところで、ようやく祭りの賑わいであることがわかったのです。


和歌山城は山城で、標高49mほどの山上に本丸があって、そこに天守閣が築かれていますから、もしかすると天守のある小山(虎伏山)や石垣、天守を含んだ城の建物群に遮られて、北側の祭りの音が聞こえなかったのでしょうか。


時鐘堂付近より。天守閣をこれほどの高さから見ることができるほどの高所です。

そうすると逆に、当時、城の北側ではここから鳴らされる鐘の音が聞こえなかったのかと疑問にも思われますが、記録によると、城の北側にあたる現在の本町5丁目付近にも、大正時代までは「時鐘屋敷」という鐘を撞く施設が残されていたそうです。

やはりどちらか一方だけでは聞こえにくい、ということが有ったのかもしれません。

ただし、この2つの「時鐘堂」が当時、同じ目的で同時に運用されていたかどうかまでは分かりません。

また当然ながら、現在の市街と当時の城下町では音の伝わり方を左右する建物や建材、自動車等の騒音といった条件の違いがあり、市街における現在の音の伝わり方は昔とまったく同じではありません。
しかし、山を挟んでそれぞれに「時鐘堂」が存在すること、それからこの「岡山の時鐘堂」が建つ小山の南側においては更に、地形からみて城の北側で鳴らされる鐘の音が聞こえにくいであろうことから考えると、本町の「時鐘屋敷」は主に城の北側に向けて、「岡山の時鐘堂」は主に城の南側に向けて、時を告げる役割を担っていたのではないでしょうか。

ところで、本丸や城の東西では両方の音を聞くことができるわけですから、鐘の音が南北でずれたりした場合は、どうなったのでしょう?
時鐘堂が時を知らせていた時代では、現在のように分・秒単位で厳密に時刻を告げる必要などなかったのかも知れません。

今では、毎年8月15日と大晦日にのみ、ここで鐘が鳴らされるそうです。



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神宿る石と山の恵み  ~紀伊岸宮祭祀遺跡・たてり岩

2008年08月11日 | Weblog
和歌山県 紀の川市貴志川町 岸宮

紀の川市貴志川町の貴志川八幡神社(岸宮八幡神社)に行った折り、山頂の「たてり岩」を目指して歩いてみることにしました。
貴志川八幡神社は、もともと山頂付近にあった祭りの場が時代とともに遷り変わり、麓に降りてきた結果、祭祀の場として祭られるようになったものであると言われます。
古記録には、康平6年(西暦1063年)大和国の人が神託を受けたためこの山頂に奥宮を建てたことに始まるとあり、山頂付近は貴志川八幡神社の、「奥宮(一の宮)伝承地」となっています。



実際、麓から「たてり岩」に至る途中の山腹には磐座があり、昭和33年からの三次にわたる発掘調査でも環状配石や敷石遺構が見つかったほか、遺物として瑞花鴛鴦文鏡(鎌倉時代)、鐸形銅製品や土師器が見つかっています。
途中、この磐座があるとされた場所にも行ってみたのですが、背丈の高い草が一面に生い茂っていて、巨石もいまは草むらの中に隠されてしまったようです。
特に、今頃の季節は草の成長も信じられないほど早く、雨水が山からの栄養分をもたらすのでしょう、未舗装の道路などはたちまちのうちに見えなくなってしまいます。


矢印の位置が「たてり岩」のあるところです


途中の道には舗装がありますが、ガードレールも無い細い道路で、自動車で上るのは非常に困難ですが、「学習コース」という立て札が麓からの道の途中にいくつか立てられており、徒歩では歴史を文化財探訪ルートとして景色を眺めながら、標高278.7mの山頂近くまで登ることができます。




山頂まであと標高何mかというところまで登った時、白木の鳥居とその大きな岩が見えてきました。
坂道を登ってくると、空が背景になっているせいか、いかにも聳え立つといった雰囲気があります。
表面がかなり風化しているのは、長い時間が経過しているせいなのでしょう。どれほどの間、ここにこうやって聳えているものかわかりませんが、平安時代末期になってここに奥宮が建てたれるよりずっと昔から、人々の信仰を集めていたもののようにも感じられます。

天気は曇りでしたが相変わらず気温は高く、ここまで来るのはかなり体力が要ったのですが、とりあえず御参りしてから一休みしようと思い、その鳥居の下に立って、手を合わせました。



そうしていると、ふと、いま自分が手を合わせているものは実は、

「山そのもの」

なのではないか、という気がしてきたのです。

振り返ってみると、緑の樹木の向こうに水田の広がりや、川、それに街が見えたからでしょうか。
あるいは今この足もとの地中に、「たてり石」としてほんのちょっと顔をのぞかせているだけの巨大な山塊の存在を感じたからかもしれません。


たてり岩のそばからみた景色

太古、山を棲家としていた人々は縄文時代晩期以降、平地に降り水田を作って生産力を高め、集落を開き人口を増やして、やがて弥生時代に見られるようなクニを形成するほどに栄えていったと考えられています。

しかし、そこにも依然として山からの恩みがあったように、思われます。
雨水として山に降り注いだ水は湧水となって人々を潤して、また川に流れこんだときは水田に注ぎ込まれて稲を育てることになりました。
山の樹木で家を建て、建物を建てる道具にもやはり材料として木が使われたことでしょう。
また、樹木が育てた腐葉土は、麓の作物に栄養を与える役割をしたかもしれません。

伝承によると、山の神というは、春、田の神となって人々の前に現れて稲の成長を見守り、秋の田に豊作にをもたらした後、山に帰って再び山の神になるとも言われています。
秋の山にいろいろな木の実がなるのはまた、山に田の神が帰っていった証拠であるのかもしれません。

山の恵みと里の実りは、もともとかなり密接な関係であるようです。そういった人々の感謝や畏れが、大きな山塊の象徴のひとつとしての「たてり岩」、この磐座と思われる大きな岩に、手を合わせる気持ちを起こさせるようにも思えます。



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竹林に残る石の蓋 ~丸山古墳~

2008年08月08日 | 遺跡・遺構
和歌山県 紀の川市 貴志川町上野山

「丸山古墳、」と呼ばれる小山の竹やぶに、石棺の蓋石が見えています。
この古墳の墳丘の高さは6.3mで、藪の中に踏みしめられた斜面の道を数mほども歩くと、すぐにこの蓋石が目に入ります。

蓋石の下には、同じような板状の石を組み合わせて棺をこしらえてあり、これは「箱式石棺、」と呼ばれる形式の埋葬施設です。

他に埋葬施設が確認されていませんから、ここが墳丘の中央になると思われ、竹やぶの中に立って墳丘の形を把握することは難しいのですが、1996年に墳丘の東南裾部分において行われた発掘調査によると、「周濠」や「周庭帯」等の一部が確認され、そこから推定される墳丘の直径は42mだそうです。



今こうやって蓋石が見える状態にあるのは、埋葬当時に上にかぶせられた土がすっかり流れてしまっているからでしょうか。石室発見の経緯はよく判りませんが、現状は埋葬直後の墳丘よりいくぶん低くなっているようです.



紀の川市の貴志川町といえば、山間部にある貴志川沿いの町というイメージがありますが、実は古墳などの遺跡が多い地域としても知られています。
和歌山市内から和歌山電鉄を利用すると、この丸山古墳への最寄り駅は甘露寺駅か貴志駅となりますが、この日貴志駅ではすっかり有名になった駅長のたまが、改札口で眠りこけていました。





そばに小さな石組みが組まれた「副室」があり、甲冑や直刀等の副葬品を納られめた場所です。現状では蓋石が少し横にずれた状態になっています。見学するにはこうしてあるとちょうどいいのですが・・・。
蓋石の一部が欠けているのは盗掘によるものです。



石棺を中心として同心円状に墳丘をぐるっと廻る「周濠」は幅5.3mほどで、さらにその外側を同じように同心円状に廻る「周庭帯」も、幅が5.3mほどであることが判明したことから、調査報告書では古墳全体の規模を直径63m程度と推定しています。
「周庭帯」というのは墳丘の周囲において、古墳に伴う濠・溝やその堤、または平坦部分から捉えることのできる古墳の領域、と言うことができるでしょうか。
丸山古墳においては濠を二重に作ることを意識しているのか、周濠との間に内堤を設けています。


蓋石は長さ2.8m、幅1.2m、厚さ10㎝の大きな石で、石材は、雲母片岩だそうです。

短辺の一方は一部分が突出していますが、これは「縄掛け突起」と呼ばれるもので、実際ここにに縄をかけて持ち上げた蓋を棺にかぶせたのかどうかは判りませんけれども、同じ時期の古墳の主体部として採用される長持形石棺の石材や、少し遅れて登場する家形石棺の蓋石などの多くにはこの「縄掛け突起」が造り出されているのを見ることができます。

昭和9年にこの石棺が発見された時には、
この石人骨片、
土師器、
勾玉、管玉、ガラス製丸玉、ガラス製小玉当の装飾品、
鉄鉢、
短甲片、
滑石製琴柱形石製品(楽器の琴に使われる”琴柱”に似た形の石製品。)などが出土したそうです。
副葬品から、古墳の築造年代は5世紀中葉から後半と考えられています。



甲冑や、直刀などの武器が大量に発見されているということは、ここに埋葬された人物はやはり、武具をまとい武器を手にした「武人」なのでしょうか。
それとも、この時代のこの時期に「権力」を象徴するものがただ単に「武器・武具」であっただけなのでしょうか。
この古墳に葬られた人物が活躍した時間は、まさに石の蓋によってここに永遠に閉じこめられてしまったかのように感じられて、その姿をなかなかイメージできませんでした。

大量の武器を生産することが必要な時代であったのでしょうか。
この地において当時強大な兵力を掌握した豪族が、貴志川両岸に開けた台地・平野の農業生産力を基盤に、貴志川と紀ノ川が合流する地点にあたる水利を生かしてさらに勢力を伸ばしたもののようにも思われます。


引用:

石棺蓋石、墳丘規模の数値は、次の文献によります。

貴志川町埋蔵文化財調査報告書第1冊「丸山古墳」
貴志川町教育委員会 
貴志川町文化財保護委員会 1996年

「貴志川町史 第一巻」貴志川町
「貴志川町史 第三巻」貴志川町




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暑さに極彩色の涼風

2008年08月05日 | 建築
和歌山県紀の川市

桃山時代の社殿があると聞いて、紀の川市にある三船神社に行ってみました。
蝉の声が響く参道では暑さもいっそうひどく感じられましたが、軒下に整然とならぶ垂木や、本殿を飾る極彩色の色合いには、何故か涼しさが感じられます。



先日、新聞のコラムで「気温の関係で和歌山はアブラゼミが多い」、という内容の記事を読みましたが、少なくとも私が住んでいるあたりは昔から、クマゼミが最も多く、クマゼミよりはわりあい爽やかな声で鳴くアブラゼミは、実は非常に少ないのです。
それで今頃は神社に参拝などしに出掛けると、四方八方から聞こえてくるそのクマゼミの大合唱に、石段を上る足取りもますます重くなってしまうのですが、このような山腹に建てられた社殿の
「ひっそりとした、」
雰囲気がなんとなく涼しげに思えて、自転車を停めてついつい寄り道となってしまいます。




国指定の重要文化財は本殿と、摂社丹生神社本殿、摂社高野明神社本殿の3つで、「附」としてそれぞれの棟札が指定されています。

玉垣にある扉の格子越しに眺めた本殿は三間社の流造で、現地の案内板によるとその棟札から天正18年(1590)の造営であることがわかったそうです。彩色は昭和47年からの解体修理によって塗りなおされたものだけに鮮やかで、重厚な檜皮葺きの屋根を支える丹塗りの柱に見える色彩は壮麗なものです。



三間、というのは柱の間が3つ、ということになります。流造(ながれづくり)の社殿は全国的にも非常に多く見られますが、このように平入りに造られた扉の上あたりから階段の下の「向拝(ごはい)」と呼ばれる部分にまで流れるように屋根が長く延びていることから、この名があるそうです。



摂社のほうは春日造りとなっており、やはり棟札の記銘から慶長4年(1599)に造営されたことが判明しているそうです。

向かって一番右側に本殿、そこから左へ2つの摂社が並んでいるので、本殿から順番に参拝を終えると、高野明神社の脇まで来ますが、この時は玉垣の内側へ入るための扉がちょうど開いていました。中に神社の方がいらっしゃるのでしょう。
本殿の正面からも、扉越しに建物を眺めることはできましたが、そこから見る並んだ社殿の景色には、息を呑む一瞬ではありましたが蝉の声を忘れる時間を過ごしました。




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