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よりみち文化財

ちょっと寄り道して出会える、遺跡や石仏、史跡や鹿児島の田の神さぁを紹介

小さな守り神 ~肥前狛犬

2008年02月22日 | 石仏
佐賀県内と福岡の一部の神社ではよく、
「肥前狛犬」
と呼ばれる小さな狛犬を見かけます。
その大きさや形態からすぐにそれとわかり、全国的に見られる狛犬像からすると明らかに異なる一群の狛犬像です。

神社の鳥居をくぐり、賽銭を投げ入れてから手を合わせる…ところで、
「こんなところに」と本殿の前に見つけてしまうこともあります。


本殿の前の肥前狛犬。(神埼市内で)
気が付けばこんなところに座っていました。

像高はたいてい30~35cmほどで、ほとんどが古い時代のものであるらしく、また風化による摩滅もあってそれほど目立ちませんが、しかしすぐにこのかわいらしい犬の視線に気が付きます。中国では獅子を表現していた像が、日本においては犬と表現されたのも、昔から日本人にとっては、時として番犬などのように生活を助ける犬がとても身近な存在であったのかもしれません。
神社の神様の、小さな守り神というのが似合いそうに思えます。

トップに貼った写真と、以下の写真は長崎街道沿いの神社(道祖神社-佐賀市道祖元町(さやのもとまち))で見つけた肥前狛犬です。


こちらは右側にすわっているほうで、位置から言えば「阿形」ということになります

像の小ささからか、参道の両脇ではなくより本殿の近く、本殿入り口の両脇に座っているのをよく見かけます。
参拝者からみると、足元に見下ろす形になるからだとも考えられますが、その表情は特に上面に表現されることが多いようです。一般的な狛犬よりも、前方上方を意識した彫刻となっているような気がします。





直立した両前脚の表現は、日本で最古とされる東大寺南大門の狛犬に似ています。
足元がコンクリート埋もれているのは、しっかりと固定しすぎのような気がしますが…。

肥前狛犬に記銘があるものは非常に少なく、制作年代は特定できない例がほとんどです。
佐賀は長崎が近く長崎街道沿いであるせいか、狛犬はいわゆる”唐獅子”も多いのですが、肥前狛犬はそういった狛犬よりも古くからあるとされています。
全国的に、神社を守る石像狛犬が多く作られ始めるのは江戸時代の中頃からと言われますので、
肥前狛犬の多くは、その制作時期が江戸時代の初めから中頃までと推定される、ということになります。



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地蔵前の地蔵さん

2008年02月20日 | 石仏
佐賀市八戸


地蔵前の地蔵さん

佐賀市内に「地蔵前」という場所があり、おそらく名前の由来は、昔このあたりに地蔵さんが奉られていたことによる地名なのだろうと想像していたのですが、つい先日その地蔵さんをやっと見つけることができました。

佐賀市街から伊勢町、長瀬町を経てこの八戸のあたりは、近世にちょうど長崎街道が通っていたところで、街道沿いには当時の武家屋敷門や商家の並ぶ古い町並みが見られます。



それで、自転車でこのあたりまで来るときはサイクリング感覚で、寄り道してでも走ってみることにしているのですが、この「地蔵前」というところは何度も通りかかりながら、今までその由来となったであろう地蔵様を見つけられないでいたのです。バスの停留所名を見ながら、「果たして“地蔵前の地蔵さん”はどこに居られるのだろう?」と気になっていました。
ところがこの日、道路にかかる橋の北側にちょっと見えている、昭和に入ってから造立された地蔵さんがそれであることがわかりました。
古そうな石仏が道端に奉られているのを見ると、自転車を停めてすぐに調べてみたくなるのですが、新しい造立に見える場合は、ちょっと頭を下げて通り過ぎるくらいで、それほど調べてみることはしないのです。
実はそのすぐ前に案内板が建てられあり、それによるとこの地蔵さんは当初、宝暦6年(1756年)に、ここからすぐ近くの長瀬町に住む鋳物師、谷口安左衛門兼品により鋳造された銅製の像であったそうです。しかし昭和19年に供出され、現在の地蔵さんはその後昭和29年に有志によって再建されたものであるということで、石像ですが色は銅に近く表現されています。

ところで、地名と言えば最近名前が変わった交差点があり、これもまた気になっています。
唐津市内の、名護屋城跡付近にある交差点ですが、「伊達政宗陣前」と交差点名の表示が信号機に取り付けられており、いつからかはよく覚えてはいませんが、ごく最近になってこれに変わったように思います。
おそらくこの北側にある林の中が、文禄・慶長の役当時の伊達政宗陣跡と思いますが、機会があればまた寄ってみたいと思います。



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二本の腕の千手観音 ~立石観音

2008年02月19日 | 石仏
唐津市相知町に千手観音、阿弥陀如来、薬師如来の三尊からなる磨崖仏があり、
「立石観音」
と呼ばれています。

相知町には有名な鵜殿磨崖石仏がありますが、それ以前の、さらに古い時代の作と考えられています。
県道259号線からの途中にこの「立石観音」へ続く崖伝いの細い道があり、ここの入り口には奈良朝以前の作との説明が書かれていますが、鵜殿磨崖石仏よりは遡るものの、やはり制作は平安時代後期(藤原時代)と思われます。

階段を上ったところは巨大な岩壁の前にある小さな平坦地で、もともとここは大きな洞窟があったのが崩れてしまって、その奥壁のみが残っているものたらしく磨崖仏の刻まれている部分は大きく傾斜しています。

ここに千手観音が刻まれているのですが、不思議なことに合掌する二本の腕のほかに腕は表現されていません。



光背の部分に彩色で描かれていたのかもしれませんが、その痕跡は確認できませんでした。
この像が千手観音とされるのは、十一面あると思われる頭上の仏面と、合掌手が表現されていることからだと思われます。
千手観音像は、十一面の仏面が頭上に表されることが多く、京都の妙法院(三十三間堂)や法性寺、奈良の唐招提寺の例が代表的なものですが、やはり数多くの手が表現されています。千本とまではいきませんが、たいていは左右あわせて42本(42臂)が作られます。



中央に位置する阿弥陀如来は、弥陀定印をむすぶ姿の坐像です。
蓮華の台座(蓮台)も下に彫り出されているのですが、この蓮台の蓮弁が葺寄式で古式であるということが制作時代を推定する根拠となっているようです。葺寄式、というのは蓮弁の並び方による呼称で上下に揃えて蓮弁が表現される、ちょうど屋根瓦を葺いたのと同じ具合に並ぶものを指し、平安時代後期にこの作例が多いとされています。



三尊のうち向かって左側は薬師如来です。
像の手や足元がややディフォルメされて描かれているのは、壁面の傾斜が理由のひとつでしょうか。
「案内板には、バランスのとれた像とはいいがたい」とありますが、現在の地面よりもう少し低い位置から見上げるようにして眺めると、それほど違和感を覚えないのかもしれません。
他の二尊像よる少し後の時代に制作された、と現地の案内板にはありますが、確かに雰囲気はちょっと違って見えます。やや顔つきがふっくらとしていて、却ってこちらのほうが京都の寺院でよく見られる平安時代後期の仏像に似ているような気もします。


「相知町史」には、長い間人知れず草木に埋もれていた、とありますが今は訪れる人もあるようで、多くの石仏が回りに奉られていて、岩壁には覆い屋までかけられています。


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聖地を守る憤怒の形相 ~鵜殿磨崖石仏群

2007年09月04日 | 石仏
佐賀県唐津市相知町

鵜殿磨崖石仏群(うどのまがいせきぶつぐん)の案内板には、まずこの磨崖仏が彫られた時のエピソードが紹介されています。

それによると、「唐に留学した空海が日本に戻ったときに、この近くの松浦で上陸し当地に立ち寄った。空海はすぐにここが中国の聖地にも劣らない霊場であると感じ、観音、弥陀、釈迦の三尊を岩に彫刻したところ、たちまち異様の人が現れ岩壁ごとに一切の菩薩や諸天(天部)をそこに刻み足して消え去った」とあります。

また、「唐に渡って仏教を学んだ一人である小栗栖常暁(おぐるすじょうぎょう)が、天長年間(830年代)にこの洞窟内に鵜殿山平等寺を建立し、その後835年には常暁の門弟が空海作の日光、月光菩薩を安置した。」ともあり、現在は巨大な岩壁が露天となっていますが、ここは以前大きな洞窟だったようです。

「天文年間(1540年代)に龍造寺氏との戦いの際に灰燼と帰し、」とあるのは、天文13年に龍造寺氏がこのあたりを攻めた時のことを指しているのでしょうか、激しい戦いがあったらしく、近くの厳木町内に山城跡が残る獅子ヶ城はこのとき落城しています。

元亀年間に地頭の久我印旛守が再建して明王院と号した後は、明治の初めまで寺があり、いま本尊は別の寺(妙香寺)に移されているそうです。



多聞天像

まず目に付くのは岩場の右手にある多聞天と持国天です。この二尊の間に本尊が安置されていたのでしょうか、中央が洞窟状に窪んだ岩壁に刻まれています。
向かって右側が多聞天、左側が持国天です。
二尊とも、動きのある足元と憤怒相は、像を見上げる参拝者にとって強烈なインパクトがあります。四天王像といえば、興福寺や東大寺戒壇院、教王護国寺の像が有名で、芸術的な美しさと安定感、リアルな表情などに歴史の重量感が加わって非常に印象的ですが、仏教を守護する四天王の威圧感を感じるのはこちらのほうでしょうか。鵜殿磨崖仏群の像は特に、「表情」を強く主張しているように思います。
もと天井の一部であったと思われる崩れた岩には不動明王も彫られており、まっすぐ持国天や多聞天のところへ行くと気が付かないのですが、参拝を終えてさあ帰ろうというところで振り返るといきなり睨み付けられます。坐像のようで、かなりディフォルメされていますが、表情はかなりリアルで、視線はまっすぐこちらを見ているようにみえます。


持国天像

また、岩壁にはところどころ、柱を固定したと思われる直径10㎝程の孔が穿たれており、岩に寄りかかるようにして建物が建てられていたことがわかります。
造立年代は研究者の間でも意見が定まらずはっきりとはわからないそうですが、平安時代から室町時代にかけてのもののようです。ほかに大日如来像、十一面観音像があり、
一度に全てが彫られたのではなく、時代と共に諸仏が彫り加えられていったようです。
佐賀は石仏が多いところですがこの時期のものは珍しく、像を見た印象では大分県内の磨崖仏(安心院町・楢本磨崖仏など)とよく似ているように思います。。

墨書の残る像もありますが、石の風化の具合からしても、どれもかなり長い年月がたっているように思われます。堂宇は既にありませんが、持国天、多聞天の二尊はいまも聖地を守り続けています

現地は天徳の丘公園内からすぐのところにあり、階段の上り下りが続きますが公園内の「天徳の湯」という温泉施設の駐車場から徒歩5分程度です。



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700年のまなざし ~赤水の岩堂磨崖仏

2007年08月31日 | 石仏
鹿児島県 霧島市 横川町 下ノ 赤水 梅ノ木迫

赤水の岩堂は、不思議な場所です。
長い下りの階段を下りていくと、小さな谷川の向こうに巨大な岩壁を背にした小さな陸地が見え、まるで彼岸のイメージを実現してみせたかのように思われます。
こんな山奥にあるからなのでしょうか、橋を渡ってたどり着いた阿弥陀如来の眼前の陸地は、特別に新鮮な空気につつまれているような気がします。
磨崖仏の彫り出されている岩壁と、ここにかつてあったはずのお堂から、「岩堂」と呼ばれるようになったのかもしれません。

岩壁に彫られた「龕」と呼ばれる四角い空間に三尊が浮き彫りされています。
中尊・阿弥陀如来の像高は140㎝、上品上生の弥陀定印を結び(現地の案内板には上品中生の定印を結ぶとありますが、上品上生の弥陀定印とするのが正しいと思います。)、鎌倉時代の仏像の特徴をよく残す、県内で3番目に古いものだそうです。





鹿児島は明治の初めに廃仏毀釈が激しかったところですが、保存状態は極めて良いようです。
右脇侍との間には「建武弐年十二月十五日」の記年銘と、「奉建立岩堂 大施主法信 沙弥観阿弥陀仏 成円  沙弥西善 二郎大夫 敬白」等の文字が刻まれています。
建武弐年は西暦の1335年です。
足利尊氏が入京し、後醍醐天皇が建武元年(1334)に始めた建武新政が崩壊しつつある時期で南北朝時代が始まる直前にあたります。
また、尊氏は建武2年に九州へ落ち延びていましたが、この近くの湧水町にある般若寺に滞在していたといわれます。

右脇侍は勢至菩薩、左脇侍は観音菩薩で、三尊とも像高140㎝です。台座として蓮華座が線刻で龕の下に彫られています。
龕の両脇には幅4㎝、高さ10㎝ほどの四角い孔が空けられており、もともとは龕の前に覆い屋のような建物があったと思われます。また磨崖仏の右側に岩壁が続き、その前面の地面には岩盤を加工して整地したような痕跡が見られるので、ここにお堂が建っていた可能性もあると思います。





阿弥陀如来は700年もの間、ここへ参拝に来た人々を見続けてきました。いったいどれくらいの人々がここを訪れたのか、いまは知ることが出来ませんが、綺麗に周りが掃き清められ、川にはしっかりした橋も架けられていることから、現在も変わらず人々の信仰を集めているようです。
巨大な岩壁に比べると、大きさでは非常に小さいという印象を受けますが、三尊の穏やかなまなざしに思わず手を合わせてしまいます。
そうすると参道の途中であれほど響いていたセミの声が、ほんの一瞬だけ消えて静寂となったようにも感じられました。

赤水の岩堂磨崖仏はかなり山奥にありますが、車で行くことができます。階段が始まる場所にも駐車できますが、途中の林道上に鳥居がありその手前にやや広くなった場所があるので、そこに車を停めるのがいいと思います。
数百mの長い階段を下っていかなければなりませんし、雨の多い季節は足元が滑りやすくなるので、訪れる方は気を付けてください。

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倉野磨崖仏

2007年07月19日 | 石仏
「釣り上げえびす」 のところで「月輪」のことを書きましたので、月輪のある石塔の写真を探してみたたところ、ひとつありました。
鹿児島県薩摩川内市樋脇町の、倉野磨崖仏にあるものです。梵字を囲むこの円形が「月輪」です。

ところで、もともと月輪の一例を紹介しようと思い、アップロードしかけたのですが、この石塔自体が実は大変なものでした。

現地の案内板によると、この月輪の中に描かれているこの梵字は、「オーンク」と読み、非常に珍しい文字だそうです。

この文字はいったい何を示すものなのか?というと、
案内板にはこう書かれています。

「梵字を刻むことは仏像を彫ることと同じ意味で、全国いたるところにあるが、この「オーンク」の文字だけは日本に(全世界にも)ただひとつしかない、珍しい文字である。当時、金剛界・胎蔵界両部不二の大日如来を表す文字として、密教の最高尊を表現せんとして創意工夫されたまことに貴重な文字である。
この「オーンク」一字だけでも、鎌倉末期という早い時代に、倉野地方に如何に高級深淵な仏教哲学の研究が行われていたか、中央に劣らぬ高度な文化があったか、うかがい知ることができる」

つまり、もともと、密教で信仰される金剛界大日如来、胎蔵界大日如来を表現するのに、金剛界大日如来は「バン」・「バーンク」、胎蔵界大日如来は「ア」・「アーンク」というように、それぞれ違った梵字を用いており、一つの文字で両方いっぺんに表現することはもともと不可能であった。そこで、倉野では全ての仏を表す意味の「オン」という文字を基にして、金剛界、胎蔵界両方の大日如来を表す文字、「オーンク」を新たに作った。また、密教は当時最先端の学問であり、その研究が深められた結果として、こういったオリジナルの文字を発明した倉野地方は、当時如何に繁栄していたところであったかが伺える。」ということになります。

金剛界・胎蔵界の大日如来は異なるものでなく本来一つである、という意味が含まれているのでしょうか?

石仏を見ていると、「当時先進的だった中央の文化を真似ていながらも、(地方という遠くはなれた場所であるということもあり)、不完全である」という解釈がなされる場合も多いように思います。
しかし、たとえ都からはなれた場所でも独自の文化を築き上げる、エネルギーにあふれたところもあるようです。


向かって左側に文保2年と書かれていますから西暦1318年、鎌倉時代のものです。







釣り上げえびす

2007年07月18日 | 石仏
佐賀市 唐人2丁目

「釣り上げえびす」と呼ばれ、佐賀では非常に有名なえびす様だそうです。

佐賀のえびす像、として紹介されるときによく登場するえびす様の一体ですが、このえびす様は一風変わっています。

狩衣(かりぎぬ)を着て指貫(さしぬき)の袴を穿き、風折烏帽子(かざおりえぼし)と呼ばれる烏帽子をかぶる姿が一般的ですが、たいていは釣竿を片手に持ち、鯛を抱いて座っているのものが多いのです。
このえびす様は、まさしく鯛を釣り上げているその瞬間です。
笑顔のえびす様の両側には、めでたい印として瑞雲に浮かぶ太陽と月も描かれており、吉祥このうえないところを表現しているといえます。
また、台座に描かれた波の模様が躍動的な動きを想像させ、いかにも活き活きとした元気な鯛が釣れた!という雰囲気を感じさせます。

しかしなぜ円形なのでしょうか、えびす像の光背は舟形光背が多く、円形というのは珍しいように思います。
よく分かりませんが、もしかすると中世(鎌倉・室町時代)頃の石塔によく見られる、「月輪(がちりん)」とよばれるものの影響であるかもしれません。
板碑などの石塔ではときおり、梵字(種子)が円で囲まれている図柄を見かけることがありますが、その円が「月輪」です。
太陽と月も、古くは中世の石塔に見られるものです。
このえびす像は中世のものではなく、もっと新しい時代のものであると思いますが、伝統的なデザインがかえって斬新な印象を与えているように思います。

唐人2丁目、佐賀駅の南口から10分ほど歩いたところ、ちょうど「唐人二丁目」の標識のある三叉路で左に曲がると見える、佐電工の事務所の向かいです。
地元の方の信仰も厚く、定期的にお祭が行われているようです。




佐賀のえびす像

2007年07月17日 | 石仏
佐賀市 伊勢町

にっこり笑ったえびす像です。左手に鯛を抱き、右手には木で作った釣竿を持っていたのでしょうか、小さい穴が開けられています。

佐賀はとてもえびす像の多いところです。
長崎街道が通るところですので、昔は行き交う人々で賑わったのでしょうか。えびす様は中国地方や九州に多く、豊漁の神様として信仰されますが、ここでは街道沿いの商家によって商売繁盛の神様として信仰されたようです。
えびす像は一般的に、江戸末期から盛んに作られるようになりますが、やはり佐賀でもその頃のものが多いようです。

この写真は、佐賀市内の伊勢町、伊勢神社のある辺りで撮影したものですが、この辺りは昔の町並みが少し残っています。ここへ来る途中には「古い町並みが残る」と書かれた案内板を見かけました。神社の前にも当時の長崎街道の道順が描かれた案内板が立てられており、景観の保存に力を入れているようです。