よりみち文化財

ちょっと寄り道して出会える、遺跡や石仏、史跡や鹿児島の田の神さぁを紹介

熊野古道 中辺路 不寝王子跡

2011年09月24日 | 熊野古道

不寝王子(ねず おうじ)社跡は、滝尻王子から斜面の石段を登り続けてようやく勾配のゆるやかになった尾根道の入口あたりにあります。
急な斜面を登ってきて、ようやくひと息つけるという場所ですので、ここに王子社があったというのも不思議に納得できます。

中世には記録が見えず、江戸時代・元禄年間に書かれた「紀南郷導記」にその名が見られますが、この頃すでに社はなく跡地となっていたようです。

この不寝王子社跡に着く少し手前に、胎内くぐり、という大岩があって、もともとその大岩の下のすきまをくぐり抜けてくるはずでしたが、間隙がとてもせまく子供でもなかなか通れそうにないほどでしたので断念せざるを得ませんでした。昔に比べて、狭くなってきているのでしょうか。胎内くぐりというのはたいてい、狭いところをくぐってくるようになっているものですが、ここについては「さあ、くぐって下さい」という感じにもなっておらず、ちょっと岩穴のなかをのぞいてみるだけで十分というところでした。

また、乳岩、とうのがそのすぐそばにあって、現地の案内板によるとここは昔、奥州の藤原秀衡が夫人とともに熊野詣でをした際、この場所にて夫人が急に産気づき、岩屋で出産したとの伝説があるそうです。そのとき夫妻は赤子をこの岩の下に残し、熊野への参詣を続けたということですが、この子供は秀衡夫妻が熊野詣でを終えて再びここを通るときまで狼に守られ、岩からしたたり落ちる乳を飲んでいたので無事であったと、書かれています。「その子供が、秀衡の三男、出水三郎忠衡になったという話まである」との説明があります。

岩からしたたり落ちる水と、子供といえば、そういえば鹿児島の霧島市あたりにも似た話がありました。
「赤水岩堂磨崖仏」のすぐ近くにある巨大な岩の下からわずかに水がしたたり落ちているのを飲むことで子供を授かることができる、という伝説です。今では水もほとんどなくなってしまったようですが、大きな岩から一滴ずつしたたり落ちる水というのは、量もわずかなだけに御利益のあるものと考えられたのでしょうか、あるいは磐座のような、巨石に宿る力に対する何らかの信仰もあったのかもしれません。

乳岩

滝尻王子社跡から不寝王子社跡までは、ほんの20分程度の道のりとはいえ途中の斜面はなかなか大変です。しかし、急峻な斜面、胎内くぐりや乳岩といった巨 石、登り着いたところにある不寝王子社の存在は、ここがやはり熊野への信仰の道であることを思い出させ、がえって面白みもあります。

この先は尾根道が続くところで、しばらくはゆっくり歩けます。

尾根を辿る古道

・「赤水岩堂磨崖仏」(鹿児島県霧島市横川町下ノ赤水梅ノ木迫・鹿児島県指定史跡)

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熊野古道 中辺路 滝尻王子社跡

2011年09月21日 | 熊野古道

 

この滝尻王子社は、熊野古道(熊野参詣道 紀伊路・中辺路)を辿ってきた参詣者が、本格的に熊野山中へ入る、玄関口とされる場所であったそうです。

すぐそばを流れるに富田川は当時、「岩田川」と呼ばれ、熊野に入る人々が垢離(こり)をしたところと言われています。

垢離というのは海や川の水を浴びて穢れを清めるという儀式のようなものです。

ちょうど滝尻王子社に向かって左に富田川、右に岩舟川(いしぶりがわ)と、二つの川が合流する場所にあたりますので、
参詣者は必ず川を渡ることになり、還ってこういった自然の環境が、ここに王子社を鎮座するきっかけになったのかもしれません。
それにしても、ここから王子社の背後に聳える山塊を眺めると、「歩き始めていいものか…」と、二の足を踏みそうにもなります。

熊野山中への入り口、というだけに社殿の脇を富田川に沿って数百メートルも歩くと、たしかに岩壁が立ちはだかり、
それに張り付いた急な石段を一段ずつ登っていくことになります。


鎌倉時代の初め頃から京の貴族達の間に広まったとされる熊野詣では、やがて上皇が御幸するところとなり、
白河上皇をはじめ鳥羽上皇が二十一度、、後白河上皇が二十八度等々熱心に熊野へと御幸した記録が残ります。
この時代、神仏にすがる、という意識が人々にとって現代よりはるかに大きかったということになるでしょうか。
ところで今回は、というと、尾根道を歩き、急峻な斜面を登り下りするこの古道を歩く旅がとてつもない苦行に感じられてしまい、
それこそ道中で神仏にすがりたくなる思いをすることが多かった、というところでしょうか。

さすがに上皇達の一行も粛々と道を辿っていったのではなく、途中で歌会を開いたり、奉幣(寺社に供物を捧げること)や読経といった儀式、
神楽や舞を楽しんだりという様々な催しの開かれたことが記録に残っています。

現地の案内板によると、御幸の一行は京から熊野までの往復に20日から1ヶ月、人数は最も多い時で814人、少ないときでも49人という記録があるそうです。「蟻の熊野詣で」とうことばがあったそうですが、一行にはその従者や僧侶、女院といった随行する人々もまた多かったようですから、大変な行列となることも多かったのかもしれません。

 


滝尻王子社は当時「五体王子」という、九十九王子のなかでも特に格式が高いとされる社の一つに数えられ、建仁元年の秋には鳥羽上皇がこの付近の御所に宿泊していますが、ここで藤原定家を講師として歌会が開かれています。
藤原定家、といえば小倉百人一首の選者として有名で、それは優れた歌人であったそうですが、上皇がこの時の御幸で歌会を開くごとに定家に題を賜り、
御所に招かれたところをみると、道中でもやはり歌を楽しみながら、ということもあったようです。

ところでこの、「王子」というのは熊野権現の御子神(みこがみ)であるとされ、その御子神を祀るところが王子社であるとされます。
昔から熊野に向かう参詣者はこの王子を祀る王子社に、道中の安全を祈願したと言われています。
王子社は「九十九王子」と呼ばれるくらい数が多かったそうですが、中世頃には京の貴族に限らず多くの参詣者が訪れた熊野詣での道も、時代によってルートが変わったりしたことから、その場所が分からなくなったものもあるようです。
いま、熊野古道を歩いてみると、王子社跡をたどる旅となります。王子社跡とされる場所には当時からの社殿が残っているというわけではなく、
鎌倉から室町時代頃のものと考えられる石造の笠塔婆が残されていたり、所在地不明となった王子の跡を江戸時代になって探し求めた際に建てられたという緑泥片岩の石碑があったりと、往事を偲ぶてがかりのみ、といった王子跡も少なくありません。
別の神社に合祀されていった王子社もあったものと思われます。

宝筐印塔と笠塔婆

 

笠塔婆

王子跡に宝筐印塔とならんで建つ笠塔婆は、ここから1キロメートルほど参詣道を歩いたところにある剣ノ山の山頂にあったとされるもので、梵字キリークが刻まれています。キリークは阿弥陀如来を表すものと思われますが、この石造物は参詣道の一町ごとに置かれたる町石のひとつとされています。

熊野御幸の記録としては藤原実資による日記『小右記』、藤原宗忠の残した『中右記』などの文献が有名ですが、建仁元年(1201年)、後鳥羽上皇の御幸に随行した藤原定家(1162~1241年。後鳥羽上皇の勅撰による『新古今和歌集』及び 『新勅撰和歌集』の選者)が自身の日記『明月記』に残した「熊野御幸記」には、道の険しさや宿泊場所の荒れようといった、道中の大変さがリアルに書かれていて印象に残ります。
位の高い公卿達や上皇はそれほどの悪条件でもなかったようですが、定家にとっては安眠できるような宿泊場所を確保することすら困難なことであったことが日記として記されています。
さらにこの時の定家は歌会の講師としてだけではなく、上皇達一行が執り行う各種の行事が滞りなく行われる様、常に先回りして下準備等をする役目であったようです。
しかし全行程を歩いて、と言うわけではなく、輿に乗っての道のりも多くあったでしょうから、どちらかというと京を出発する前の定家の想像や期待を覆すような旅となってしまったということなのかもしれません。

尾根を辿る古道

 

引用・参考

『国宝熊野御幸記』三井記念美術館 2009.3
『本宮町史』通史編 本宮町史編纂委員会 2004

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